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巨人の腕  作者: 葉寧
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紅蓮の狂人

「ひでぇもんだ」

 倒れ伏し動かなくなったへクターの骸に向かい、抑揚のない声で男はぼそりと呟いた。

「そいつを助けにきたんじゃないの?」

 大きく紫煙を吐き出すと、ミランダはまだ長い煙草を踏み消す。

「知るかよ、俺は逃げろと助言した。だが助からなかった。要はこいつにツキがなかった、そういう話、それだけの話さ」

「酷い言い草。善良な市民が犯罪者の毒牙にかかって亡くなったのよ? それを運が悪かっただけなんて、とても正義の味方の言葉とは思えないわ」

 まるで他人事のようなミランダの言い草にも、男は気圧される様子はない。ただ“正義の味方”という単語に、男は少しだけ顔をしかめた。

 深く長く吐かれた溜息は、長い尾をひいて空に昇り、溶けて消える。

「正義の味方ね……ガラじゃあないなそういうのは。それにな……」

 そう言うと男は、つま先で無造作にへクターの上着をめくる。仕立てのよさそうなスーツの中から見えたのは、鞘に入ったナイフ、点々と黒い染みがついた荒縄。

「おーおー、最近の商社マンってのは大変らしいな。契約ひとつとるのに刃物と縄がいる。それにこの縄、血の染みだ。相当のやり手だなこいつは」

 あら怖い、と大仰に肩をすくめるミランダ。

 同類だったというわけか。本当に――忌々しい男。

 ツイてないというのならそれはまさに今の私だ。このへクターとかいう男に目をつけられなければ、今頃女のはらわたを焼いていただろうに。

 臓腑の焦げる臭い、苦悶に歪んだ女性の表情がフラッシュバックし、ミランダの背筋にバチバチと燃えるような焦燥がかけのぼる。

 せき立てられるような、誘われているような、抗いがたい焦燥。

 燃やさなければ、あいつらを燃やさなくっちゃいけない。

 思い知らせてやる。思い知らせてやらなければならない。

 あの――ふしだらで傲慢な女たちに、自分たちの罪を贖わせてやる。

 そのためにも私は――。

「満足なんてできないぞ」

 こちらの心を見透かしたような言葉と瞳、はっとなってミランダは目を泳がせる。

「なんの話かしら」

「大方被害者のことでも考えていたんだろう。お前の感じている使命感はただの妄想の産物だ。そして現実は決して妄想に追いつくことはない。いくら殺しても満足なんて出来やしない」

「私のなにを知っているっていうの」

「お前みたいのはごまんと見てきた、だから分かるのさ。お前は坂を転がり続ける火のついた車輪だ。草木をなぎ倒し、人を傷つけ、自分自身では決して止まることができない」

「女性を車輪呼ばわりなんて随分失礼じゃない?」

「だが事実だ。お前自身がどう思っていようが、お前はもう止まれない。止まる方法は二つに一つ、自首して捕まるか――首をくくるかだ」

 灼熱の怒気を孕んだ男の声は、底冷えの空気すらものともせず、ミランダの背筋にじっとりと汗をにじませる。

「分かったわ、自首する」

 途端、男の纏う威圧感がふっと和らぐ。だが眼光の鋭さはいささかも衰えない。

「信じろと?」

「死ぬのは嫌だし、逮捕されたほうがまだマシじゃない? それに……ここまでバレちゃってるなら抵抗しても損かなーって」

 人畜無害を絵に描いたような笑顔をにっこりと浮かべるミランダ。

 もちろん、自首するつもりなど毛頭ない。

 女には強く凛々しく、男には弱く女々しく。それが彼女が人を騙すときの常套手段だった。

「ですがいくつか質問に答えてくれませんか」

「質問?」

「ええ、これからしばらく塀の中でしょう? こう見えて私って几帳面な性質でしてね、気になることをそのままにしておくのって我慢ならないの」

 幾ばくかの逡巡の後、男は首を縦に振った。

「ありがとう。じゃあまずは自己紹介と参りましょう。私の名前はミランダ・ブラウン、ご存知のことかと思いますが――この街の刑事です」

「……ヴィンセントだ」

「ファーストネームだけ?」

「一夜限りの逢瀬だ、呼び名に困らなきゃそれでいいだろ」

 つれないのね、とミランダ。さきほど奪ったシガーケースから煙草を取り出すしくわえると、指先で火をつける。

「単刀直入に聞くけど――あなた警官じゃないわよね? なら騎士団の人間?」

 ミランダはこの街の警察官の顔と巡回ルートは全て記憶している。極端に目撃証言の少ない犯行は、彼女が警察官であるが故に成し得た所業でもあった。

「ああいう服は趣味じゃないな。白地に青だなんて、まさに“正義の味方”だ。ガラじゃあないんだよ、ああいうのは」

「ふざけているの?」

「さぁな。だがこの話は不毛だぜ? 悪魔のスレイヴが悪魔の証明だなんて笑えもしない。信じろよ、それとも俺が本気で騎士団の連中に見えるのか?」

 ひらひらと薄汚れたコートを見せつけるように、ヴィンセントは口角を歪めた。

 嘘をついているようには見えない。

 明らかに騎士団員ではない身なりをしておいて実は騎士団員という、私服警官のようなパターンも考えたのだけれど……私見ではあるが、どうも規律に身を置く人物には見えない。

九分九厘、騎士団とは無関係の人物。そこは間違いなかろう。

そこまで考え、ミランダは内心胸を撫で下ろす。

捜査において最も重要なのは、捜査員同士の連携だ。犯罪者を追う者である以上、それは騎士団の人間とて例外ではないはずだ。

手持ちの情報を共有し、精査し検証することで犯人像や犯行状況をつまびらかにしていく、それが犯罪捜査というものだ。互いに情報を共有し、足跡を確かめ合う者が殺されれば、必然的にその死者の足跡が他の捜査員にとって大きな道しるべとなる。“犯人に殺された”ということは“犯人へ近づいた”という何よりの証左なのだから。

そうなれば時間の問題、必ず尻尾を掴まれる。追っ手は殺せる、逃げ切る自信もある。だがそれは到底安息と呼べるもののない世界だろう。

そういう切羽詰まった事態だけは避けたかった。

つまりこいつは――殺しても構わない。ひとまず安心ね。

「分かりました、信じましょう」

 騎士団でも、警察の人間でもない。

 となると――この男、何故こんなことをしているのかしら?

 この手のことにすすんで首を突っ込みたがるのは、雇われた探偵か、はたまた――物好きの馬鹿か……いや、探偵ならば私の前に姿を現す意味がない。なら後者か?

 いずれにせよ、この浮世離れした雰囲気。一所に居を落ち着けているタイプではない。旅人かはたまた放浪者ワンダラーか……どの道消えたところで大した騒ぎにもならないタイプの人間。

 ミランダはたっぷり30秒かけてぐるりと周囲を見渡すと、耳をそばだてる。

 聞こえるのは倉庫街の鉄臭い空気がうねる音ばかりで、人の足音はおろか鳥の鳴き声すら聞こえない。

 よし、こいつはここで始末しよう。骨まで残さず灰にしてしまえば誰も気づくまい。

 唯一気になる点があるとすれば――。

「最期にひとついいかしら?」

「言ってみな、言うだけならタダだ」

「さっきも言いましたが私って几帳面な性格でね。ハンカチは端まできっちりアイロンがけするし、帰ったら三度は扉のロックを確かめるの。なんでかしらね、そうしないと不安で不安で……眠れないの」

「病気だな、そりゃ。けど俺はアンタのメンタルケアまでする気はねーぞ」

いちいち癇に障る……。

 外面は平素のまま、ミランダは心密かに臍を噛む。

「あら冷たい。でもとってもとっても気になることが一つだけあってね。塀の中に入る前に教えてくれないかしら?」

 ヴィンセントはなにも答えない。ただ紅玉色の切れ長の瞳が、こちらの言葉を促すようにじっと睨みつけていた。

「どうして私だと思ったの?」

「言っても信じないさ」

「……このエッダだけで一体何人の住人がいると思います?」

「知らん」

「……約十三万人。正規の市民となると、十一万人になります」

「よく知ってるなぁ、社会科の先生かお前は」

こいつの挑発には無視を決め込むことにしよう。ミランダはそう心の中で誓うと無理矢理表情を固めたまま話を続ける。

「多少なりとも刑事事件を扱った経験のある者なら、犯人像の大体の特定と絞込みは可能よ。それにしたって対象の人数は膨大、けどあなたは明らかに確信をもって私に近づいた。証拠は完璧に隠滅したし、目撃者もいないはずよ。けどあなたはこうして私の前に居る――どうしてかしら?」

「臭いをたどったのさ、犬みたいにな」

「ふざけないで!」

 思わず口をついて出たミランダの罵声に、ヴィンセントはばつの悪そうな表情で頬をかくと「笑うなよ」と前置きした。

「天使に聞いた」

「天使って……あの天使?」

「そう、背中から羽を生やして、頭にドーナツ浮かべてるあの天使さ。もっとも俺の知ってる天使は、羽は生えてないし、ドーナツは嫌いだ。ジョークは通じないし、空気は読めないしで散々だがな」

 馬鹿馬鹿しいことを大真面目に語るヴィンセントに、ぽかんとした表情のまま固まるミランダ。次第にその口角が歪み、くっくっと笑いがこぼれはじめる。

「笑うなって言ったろ」

 無邪気に笑うミランダ。その顔からすっと色が消える。そこに現れたのは、能面のような酷薄な殺人者の表情。

「真面目に聞いた私が馬鹿だったみたい。もういいわ、もう十分――あなたここで死になさい」

「あーあ、やっぱこうなるのかよ……」

忌々しげにそう言い放つと、ヴィンセントは躊躇うこともなく腰を落とし、ミランダを迎え撃つべく構えをとる。

 その表情には落胆も失望もない。ただなるべくしてなったことに対応している、そんな硬質的な表情だった。

「意外じゃないって顔ね。信用されてなかったってことかしら、傷つくわぁ……」

「機会があったら一度鏡で自分の顔見てみな。目玉が殺気でギラついてて嫌でも分かるぜ」

「あらいやだ……次から気をつけなくちゃ」

 そう言い放つと、ミランダは精神を集中させる。燻っていた煙草が一瞬にして燃え上がり、灰と化した煙草は蝶の如く宙を舞って墜落する。そして次の瞬間、ミランダの周囲に鬼火のような火球がふわふわと舞い始める。

「次なんてないさ、お前はここで終わりだ」

「終わりなんてないわ、私は罰し続ける」

 鬼火を指先で弄ぶミランダ。炎に照らされたミランダの頬は、熱からかはたまた興奮からか、徐々に赤みを増していく。

「きれい……炎はどんな宝石よりも、どんな光よりも綺麗。そうは思わない?」

 瞬く間に火球は数を増し、数え切れぬ火球の光が暗闇を貫き、周囲を夕暮れのようにほの明るく染めていく。

「さっき言ったな……お前は火のついた車輪だと。実は止まる方法はもう一つある。この俺にぶち砕かれて止まるって方法がな」

 ゆっくりと燃え広がる炎のように、脳裏が狂気の紅に染まっていく。

 その心地よさにミランダは、とりあえず哂うことにした。

「あははははは! あなたにそれが出来て?」

 竜巻の如く強く強くうねりはじめる炎の舞に、漆黒を纏った銀色の影が独り立ちはだかる。


 紅い狂気の宴が、始まった。

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