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巨人の腕  作者: 葉寧
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紅蓮の狂人

 人気のない薄暗がりを、二つの影が進んでいく。

 旧カーソン倉庫街、レンガ造りの無機質な建物が、碁盤目状にズラリと立ち並ぶその地域には、灯かりも少なく人通りもない。

 スラムからほど近い位置にあるこの地域は、その名のとおり元はエッダの倉庫街であった。エッダの主要産業の鉱業から商業への変遷、それに伴う街道の整備により、今は倉庫街は街道にほど近い場所に設けられている。

 スラムに近いことから宅地として人気も期待できず、しかしこれといった使い道見出されず。そのような理由でこのカーソン倉庫街は、今のところ時と風に蝕まれるだけの、街のエアポケットと化している。

 鉄錆と少しのカビの臭いのする空気、冷たい静寂に満ちた空間に、二人の足音だけが規則的に響く。

「あ、あの……本当にこっちなんですか?」

 口を開いたのは後方を行く人物だった。若い女性、歩くたびにゆさゆさと揺れる、文字通り馬の尻尾のようなポニーテールと、丸い大きな眼鏡が印象的な人物だ。オドオドをした様子で肩をすくめているため、ただでさえ小さな体躯が余計に小さく見える。

「あれ? そんなに信用ないですか? ぼく……」

 眉根をひそめながら、おどけたように答えたのは前を歩く人物。

 ウェーブががった黒い短髪、長身痩躯の男。仕立てのよさそうな黒いタイトなスーツにはシワ一つなく、糊のきいたシャツにひかれた赤いタイは、きっちり首元まで固く締められている。上質なマフラー、顔が写りそうなほどピカピカに磨かれた革靴など、いかにも裕福そうな身なりをしている。

「いえ、そういうわけでは……ただ私も巡回の途中ですので……」

「それにしても……あ、いや疑っているってわけじゃないんですけど、ミランダさんって本当に――刑事なんですよね?」

「……見えませんか?」

 しゅんとして自分の格好を見直す。どうやら気にしているらしい。

 黒いロングスカートに、大きめの純白のケープと赤いマフラー。童顔なうえに小さい体躯があいまって、学生と言われても納得してしまいそうだ。ケープの上につけられたエッダの警察バッヂがなければ、誰も彼女を刑事だとは信じないだろう。

「いや、まぁ制服を着てないから余計に、ね」

「明日から制服で巡回しようかしら……」

 それにしても、とやや強引に話を切ると

「警察ってのも大変ですね。紅蓮インフェルノ……でしたっけ? あんな凶悪な犯罪者を相手にしなきゃならないんだから」

「そうですね、へクターさんの仰る手がかりというものが役に立てばいいのですが……」

 はーっと息を手に当てながら、他人事のように呟くミランダ。その手を、へクターの大きな両手が包み込む。

「……あなたが心配だ。私の言っていることの意味、分かりますよね?」

 瞳から瞳へ、射抜くような情熱的な視線、男が女へむける視線。

 それにミランダは――無邪気に微笑み返す。

「心配してくださってありがとうございます。市民の方からこんなに気をかけて頂けるなんて、私もいち警察官として鼻が高いです」

 そしてあっさりとヘクターの手を振りほどいてしまう。

 満面の笑みで固まったまま視線を漂わせると、ごきちない動きで前方へ向き直るへクター。なにやら盛大に肩透かしでもくらったようにも見える所作であった。

「ええ、まぁその……お役に立てれば光栄です。まぁ確認だけですからすぐ済みますよ、ほんの10分程度もあればね」

 ええ、と人懐っこい笑みを浮かべると、ミランダは再び歩き始める。

「やはり――難航しているんですか? あ、いや捜査機密とかそういうものを聞き出そうってわけじゃないんですが……」

 おどけたように取り繕うへクターに、ミランダはくすっと口角を歪める。

「大丈夫、分かってますよ。でもまぁ……正直難航してますね。ここまで大規模な悪魔のスレイヴの事件自体――エッダの警察としても前代未聞なので」

「怖くはないのですか? なんせ相手は人間じゃないんでしょう?」

「そりゃあ怖いですよ。でもまぁ他に任せるってわけにもいかないですしね。それに今は本部――聖都のほうから 神の使者セイントの方も派遣されてきていますし、きっとすぐに解決しちゃいますよ」

 けらけらと笑うミランダとは対照的に、へクターの顔はぴくりと強張る。

「 神の使者セイント――ですか」

「ええ、どうかしたんですか?」

「いえ……私はあまり好きではないですね。ああいや、決して嫌いというわけではないのですが……なんと言えばいいのか……難しいな」

 自分の感情をうまく言葉に置換できず、むずがるように腕を組むへクター。

「以前、他の土地で派遣された 神の使者セイントの方と話したことがあるのですが――なんというか、どうにも人と話している気がしなかったんですよ」

「特別な力を持った方ですから、そりゃあ違和感くらいはあるんじゃないですかね」

「そんなものですかねぇ。畏れ多いと言えば聞こえはいいのですが……あれはもっとこう……」

 ヘクターの表情がぴくりと強張る。


男が立っていた。


薄暗い路地の片隅、男が壁にもたれかかっていた。

灰に近いぼさぼさの銀髪の、長身の男だ。白く瑞々しい肌、しかしそれはどこか人工物のような違和感を孕み、見る者に男の年齢を不確かなものとしていた。

 誰かを待っているのか、それともこの寒空の下瞑想でもしているのか。目を瞑ったまま微動だにしない。

 人気のない夜の倉庫街でのニアミス、その相手がたとえ身なりの完璧な紳士だったとしても、つめ襟の警官だったとしても、大抵の人間はぎょっとして硬直する。しかし二人に緊張と強張りをもたらしたのは、もっと別のものだった。

 男の身に着ける黒いくたびれたコート、その裾から覗く――剣の柄。

路地裏、不審者、凶器、これらのキーワードから連想されるのは――追いはぎ、強盗、人殺し等々、どれもロクなものではない。

 ヘクターとミランダはお互いの顔を見合わせるばかりで、寂として声も出ない。可能ならば戻りたい、だがそれは銀髪の人物への不信感を行動で表すことに他ならない。係わり合いは御免だ、だが――無闇に刺激をするような真似も避けたい。

 無言の視線の交差、その中に二人はお互いの葛藤を見た。

 

 危機に直面したときどう行動すべきなのか。答えはケースバイケースであり、明確な解答は存在しない。それ故人は迷い、迷いは恐れを生み、恐れは足をすくませる。

 結果――ほとんどの人間は問題に対し明確な指針を打ち出せない。とりあえずの様子見、とりあえずの現状維持、ことなかれ的な保留の精神、この二人もその呪縛の外ではなかった。

お互いに目配せをすると、こくん、と頷く。淀みかけていた歩行のペースをあげる。

 男の挙動に注意を払いつつ、視線は前に。無言で通過しようとという腹づもり。その時だった。

 かっと見開かれる男の瞳に、無意識に二人の視線が滑る。

 鉄火の如く紅い瞳が、切れ長の両眼に映った太陽のさながらにぎらぎらと光を放っていた。その瞳は明確な意思を伴ってこちらを射抜くように見据えてくる。

「今夜の獲物はそいつか?」

 太く張りのある、よく透る声だった。一人ごちるような男の呟きに、反射的に足を止め男へ向き直る。

「……は?」

 怪訝な表情で答えるヘクター、同時にしまったと我に返る。

 知らぬ存ぜぬ聞こえてないフリ、無視して通過してしまえばよかった。まぁ今更どうなるものではない、適当にあしらって切り抜けるしかないのだが。

「御託は抜きだ、早いトコ済ませちまおう。あんたが人ごみから離れるまで、こちとら随分待たされたんだぜ? 暴れられて一般人に被害が出ちゃあこっちも寝覚めが悪いからな」

 こちらに視線は合わせず、男は独白のように続ける。

「……あんたが何を言っているのかは分からないが、まぁとりあえず落ち着け。困っていることなら少しは力になる。物騒なことならやめておいたほうがいい、ぼくは見た目ほどヤワじゃないし、ああ見えて後ろの彼女は警官だ」

おどけたように語るヘクターの後ろで「え、ええ……もちろん」と小さくミランダは威張る。

「気分よかったろう?」

 そんな二人の様子を一瞥すると、男は小さく嘆息して言った。どうやらこちらの言葉に耳を貸す気はさらさらないらしい。

「虫の手足を千切るように易々と人間を屠る。自分は選ばれた特別な人間だという陶酔感。怖いものなし、無敵のスーパーマン、そんなとこだろ?」

 ゆっくりと壁から身を離すと、男は気だるそうに首を鳴らした。

「だが残念、お前は選ばれた存在なんかじゃない。たまたま力を与えられただけ、ちょっとツイてただけの――ただの異常者さ。その趣味の悪いイタズラも今夜限りでお仕舞いだ」

「さっきから何を言っているんでしょうか……あの人」

「まともに相手にしないほうがいい」

 おっかなびっくり背から顔を出すミランダを、ヘクターは背後へ押しやると、懐から数枚の銀貨を差し出す。

「……なにをしている?」

「分かるだろ、ぼくたちだって暇じゃあないんだ。きみが酔っ払いかヤク中のどっちだかは知らないが、ぼくたちに関わらないでくれ、なぁ頼むよ」

 男はなにも答えない。半ば無理やり握らされた手の中の銀貨を、興味なさげに見つめている。

「あ、あの……そういうのは警官としてどうかと……」

 ミランダの抗議に、ヘクターはしーっと沈黙のジェスチャーで返す。

「いい加減にしてくれないか。言ったろ、無関係な人間はできることなら巻き込みたくねぇんだ。でもそれは無関係な人間がいれば決して無茶をしねぇって意味じゃあないんだぜ? サシで話つけよう、そう言ってるんだよ」

「君と二人で話? おいおいおい、夜に男とデートなんて冗談じゃない、。それにね、さっきもいったが暇じゃあないんだ」

 ふー、と一際大きなため息、ぐっと肺に呼気をためると、男は一息にこう言った。

「お前の正体はバレてんだよ。紅蓮インフェルノとか言ったか? くだらねぇ殺人鬼にしちゃあ大層な名だな」

 紅蓮インフェルノ、その名を浴びせられ、ヘクターは思わずたじろぐ。だが――それだけ、顔に浮かんだ驚愕の色は姿を消し、次第に怒りを伴った嘲笑となって口元で爆ぜる。

「はは……私が紅蓮インフェルノだって? 馬鹿も休み休みに言ってくれ」

「いや、その――」

「キミ、勤め先は? こう見えてぼくはヘルメース商社勤めでね。キミでも聞いたことくらいはあるだろう? そう、エッダ1と名高いあのヘルメース商社さ。事と次第によっては、こちらも出るトコに――」

「だーもう! さっきからグチグチうるせぇな! なんなんだよアンタ!」

さきほどまでの落ち着いた雰囲気はどこへやら。男は火のついたように喚く。

「あのなぁ兄さん、何度も言うが、俺は一般人を巻き込むのは好きじゃねぇんだ! 死にたくなかったらさっさと逃げろってんだよ!」

「……は?」

 じっくり14秒、それがヘクターが男の言葉の意味を理解するのに要した時間であった。

 え? いやそんなまさか……。

油の切れた機械にように緩慢な動きで振り返るヘクター。彼が見たものは、数秒前とは別人のように鋭い目つきをしたミランダの姿だった。

 はぁぁぁぁ、といかにも気だるそうな深く長いため息。

「逃げろ」

 有無を言わさぬ男の声。この状況、自分がどうすべきか、いやどうしなければ死なずに済むのか、ヘクターは理解していた。だが意志とは裏腹に足が動かない。足をすくませる殺人者の視線は、どんな証拠よりも雄弁に語っていた。

 彼女が――紅蓮インフェルノだと。

「たばこ」

「え?」恐る恐る聞き返すヘクターに、ぴくとミランダの眉根がひそむ。

「煙草よ、持ってない?」

 さきほどまでの頼りない気配はどこへやら、不遜な態度を隠すこともなく、ミランダはヘクターをじろりと睨みつける。

「え、あ……」

「なにをしてる、早く逃げろ」

「たーばーこ」

 男とミランダの間で、ヘクターの視線は振子のように揺れる。

 数瞬の逡巡の後、恐る恐る懐から煙草を取り出し、ミランダへ差し出す。ここでもやはり、とりあえずの現状維持――保留の精神。

 シガレットケースごとうけとると、ミランダは一本取り出しくわえる。

「ありがと」

 その瞬間、ミランダは右手を素早く薙ぐ。尾を引く蛍火のような紅い光の軌跡が、ヘクターの首元をかすめる。

 そのまま人差し指の先で煙草に触れると、紙巻煙草は紫煙を上げ始める。

「あら、馬鹿な男だったけど――煙草の趣味は悪くないわね」

紫煙を吐き出すミランダの前で、ヘクターは喉元をおさえ崩れ落ちる。表情は苦悶に歪んでいるが、出血もなければ叫び声もない。

「あ……は……!」

 声にならない声とともに、なにかを訴えるようなヘクターに、ミランダはからからと笑って蹴りで返す。

「あはは! 何言ってるか分かんないわよー? ま、声帯ごと焼き切ったから喋れるわけないんだけどねー」

 陽気に笑うジャックランタンの口のように、ぱっくりと空いた暗い穴。それがヘクターの喉に穿たれていた。どうやればこのような傷がつくのかは不明だが、ヘクターの喉は声帯ごと切り取られ――否、抉り取られていた。

 真っ黒に炭化した傷口が、出血のない理由を如実に語っていた。

抑える首元からはひゅうひゅうと吐息が漏れ、呼吸をすれど肺は満たされず。恐怖と混乱は脳内の酸素を浪費を加速させ――酸欠、瞳がぐりんと裏返り、意識がブラックアウトする。

 ヘクター・ブラウンという男の意識はここで途絶え、そして二度と戻ることはなかった。彼が最期に耳にしたのは「気持ち悪」という聞き覚えのある声だった。

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