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巨人の腕  作者: 葉寧
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紅蓮の狂人

 私は狂っているのだろうか。

 それとも、世界が狂っているのだろうか。


 それは、幾度目かも分からぬ自らへの問いだった。

 夕闇押し迫るエッダの繁華街、独特のざわざわとした空気の中を、一人の人物がふらふらと歩いている。幽鬼のようなふらりとした足取りとは裏腹に、その眼光は猛禽の鋭さで周囲を伺っている。

 こうして街を徘徊し、獲物を探している間に、こんな詮無き物思いにとりつかれてしまうことは、最近は一度や二度ではない。


 私は狂っているのだろうか。

 それとも、世界が狂っているのだろうか。


 そもそもこの問いに、意味などない。答えがないのは分かっている。

 通りすがりの女性が目に入る。瑞々しい肌、美しいブロンド……が、少し若すぎる。

「合格……」

 それは消え入るような小さな声で、誰の耳にも届かない。

 仮に私が狂っているとするならば、そのことに気付くことは不可能だ。なにせ狂ってしまっているのだから。

 自身の本質というものは、自分では自覚できないからこそ本質なのだ。自身が馬鹿なことを自覚できない者が、真に馬鹿であると言えるように。自身が冷血であることを自覚できない者が、真に冷血であると言えるように。

 狂人が自身を狂人であると自覚できるのならば――それは最早狂人とは言うまい。自身の狂気を自覚できないからこその、狂人なのだ。

 他者との交流の中で自分を知れ、他人は自分を写す鏡などと人は言う。だがそんな安っぽいヒューマニズムに依って立つのはもっと御免だ。

 他者の視点を通した客観性という名の“別の主観”によってしか、己を定義することしかできない以上、やはり人はどこまでいっても主観的な生き物なのだ。貼り付けられた客観性というレッテルに酔って、好きなものを好きなように見て、好きなように感じているに過ぎない。

 そんなものに意味も価値もありはしない。

 少なくとも、私にとっては。


 では世界が狂っているのならば、どうなのだろう。それこそどうしようもない。

 世界、唯一無二にして代替不可能の存在、概念。

 月の満ち欠けを観察すれば、潮の満ち引きが。星の動きを観察すれば地球の自転周期が導き出せる。だが自分の前に横たわる世界を支配する「常識」という概念の正否を確かめる術は、その時代を生きる個人には無い。

 悪、正義、倫理。当然のように使われているその概念すら、時代や地域、民族その他様々な要素によって千差万別だ。どれが正しくてどれが間違っているか、なんて過去を振り返った時に、その時代その時代で好き勝手言っているだけだ。

 あの時代に回帰すべきだ、とか。

 こんな歴史は繰り返してはならない、とか。

 実に下らない。そんなことに何の意味がある。


 だが少なくとも、どちらが狂っていようが私にはどうしようもない。それは確かだ。

 勿論、どちらも正常という可能性も否定しきれなくもない。

 と、そこまで考えたところで気付き、ふと我に返る。

 ならば何故私は、こうして今夜も徘徊している?

 胸の奥に、燻るように燃えている、この気持ちはなんだと言うのだ。

 またもや、通りすがりの女性が目に入る。髪は美しいが、歳がいきすぎている。

「合格……」

 ふと空を見上げる。星空を見つめながら、独り、自らに想いを馳せる。

 人格や性格というものは、あくまで後天的なものであって、生まれつきのものではない。生まれたばかりの人間はあくまで真っ白な状態で、育った環境によって与えられる様々な外的影響から人格を形成していく。それはさながら、純白の生地が様々な方法で染められていくように。

 もっとも、生地を色付けるのは、色鮮やかな染料ばかりではない。様々な染みや汚れ、時には綻びすらも生地につけられることもある。鮮やかな色や模様、綻びや汚れをひっくるめて一つの染物の作品が完成するように、個人の人格が形成されるのだ。

 昔読んだ本に、そんなことが書いてあったと記憶にある。

 ならば――そこに原因があるのだろうか。

 自分が生を受けたのは、良家と呼んで差し支えないレベルの経済力は保有していた。両親は共に地元の名士で、理想的な家庭だったと自負している。

 自慢の親だ、私も両親を愛し、誇りに思っている。

 我ながらひどく素敵で陳腐な表現だと思った。

 通りすがりの女性が目に入る。よく見れば少し痩せすぎていて気味が悪い。

「合格……」

 二人の兄は人格的・能力的に素晴らしい人間だ。家業に甘んじることなく、今では独立して起業し成功を収めている。長男は金融、次男は……なんだったろう、頭の中が霞がかったようで、記憶が判然としない。

 自慢の兄たちだ、どこに出しても恥ずかしくない。

 空々しい響きのに、ぷっと独り噴き出し、そんな自分に吐き気を覚える。

 そういえば兄の名前はなんと言ったろうか、まぁそのうち思い出すだろう。


 理想的な家庭、恵まれた生活。


 ならば何故私はこんなにも――無様なんだろう。

 何かが――間違っていたのだろうか。

 しかし頭の片隅には、奇妙な確信が張り付いていた。

 分かっている、何も間違っていない。間違っていたことなど、何も無い。

 そう――そうだ。昔から分かっていた、彼らと私の間には、超えがたい壁があった。親兄弟を見下しているわけでも、自身を卑下しているわけでもない。ただ現実として存在していたるのだ。

 厚く、冷たい、無情な壁が。どうしようもなく、存在していたのだ。

 その事実を残念とも、悲しくとも思えない。ただ少しだけ胸を掠める、不思議な寂しさのような感覚がそこにはあった。

 この人物が幼少の頃から感じていた他者との間に存在する壁―――しかし彼はそれを表に出すような愚かな真似をしなかった。それは自己愛や羞恥心だけではなく、むしろ親兄弟に要らぬ心配をかけたくない、良心からの行動であった。

 しかし、結果としてその人物は、隠れた本質を誰にも悟られることなく、心に冷たい闇をかかえたままひたすら孤独になっていった。

 どんなに近づいても、何度触れ合っても、決して消えることのない、厚く、冷たい壁。

 厚いガラス越しに、他人と触れ合っているような、手ごたえのない、人生。

 そしてこれからも――独り。ずっと、ずっと……。

 独りは寒いんだ……とても耐えられそうにない程に。

 次の瞬間、一人の女性に目が留まる。背格好などから察するに、年のころは20歳前後といったところだろうか。少し童顔の可愛らしい女性だ、美しいブロンドを尻尾のように揺らして、人ごみを掻き分けるように、急ぎ足で通りを歩いている。

「不合格……」

 今までより少しだけ強い口調で呟いた。その顔には今までのような、幽鬼の如き暗い表情はない。唇をかみ締め、眼は怒れる獣の如く爛々と輝いている。見る者の背筋を凍らせるような、どす黒い感情の奔流。

 途端今まで霞がかっていたような頭が、一瞬にしてクリアになってゆくのを感じる。

 なにを……悩んでいたんだ私は。

 口元をきゅっと引き結び、目頭をおさえる。

 こんな夜更けに外出だと? 忌々しい女め。

 どうせ男にでも会うつもりだろう。虫も殺さないような顔をしていて、一皮剥けばそこいらの淫売どもとなんら変わりない。産んでくれた親に恥ずかしくないのか?

 生きる価値のないけだものめ。

 いいや、家畜や獣は嘘はつかない。欺瞞にまみれたこいつはけだもの以下――腐った血と精液の詰まった皮袋だ。


 罰してやる。


 そうだ、これは――私の使命なんだ。

 何も悩むようなことはない。この「力」はそのために与えられたものなのだから。

 私はここになにをしに来た? 決まっている、分かっている、予定調和もいいところだ。あの厚顔無恥なな売女どもに思い知らせてやる。己の愚かさを、傲慢さを、罪の深さを。


 罰してやる。

 罰してやる。

 罰してやる。


 問題はどう料理するか――だ。やはり端からじわじわ焼いて、悶え苦しませてやろうか。以前、四肢を焼き切ってやった女が、芋虫みたいに這い回って逃げようと必死にもがく様はなかなか傑作だった。顔面を焼かれて、悲嘆と絶望の嘆きをあげさせてやるのも悪くない。

 ……いけない、まずは舌を焼き切って、喋れなくしないと。

 歩を進めるごとに、胸の奥でどす黒い濁りが増し、反対に頭はクリアになっていく。

 拷問にはどの程度の時間を割こうか、まだ見つかるわけにはいかない。騎士団の連中なぞ怖くもないが……面倒は御免だ。

 この街にはまだまだああいう淫売どもが溢れかえっているのだから。

「あのすいません」

 胸の奥からこみ上げて来る紅く煮えたぎるような感情をかみ殺し、女の背後から声をかける。


 その人物には、二つの名と顔があった。一つは民衆の中に埋没し日々を過ごすために、もう一つは民衆に畏怖されるために。

 もっとも、二つ目のその顔を知る者は、いまのところこの世には存在しない。あの世というものが存在すると仮定するのならば、それを知る者は、「そこ」にしか存在しないだろう。

 死を与える――紅い名前。

 その人物の二つ目の顔は、人々にこう呼ばれていた。


 紅蓮インフェルノ、と。


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