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冬の日の君へ

作者: amo

前作で練習していた一人称視点での短編です。

これまでの作品と違い、少し切ないものになってます。

 俺は今、通い慣れた高校の屋上に来ていた。それとなく上を見れば、冬も目前に迫り、毎年嫌という程雪を落としていく雲が、朱に染まった空を覆い隠している。おそらく、今夜にでも雪が振り出すだろう。

 逆に、俺がもたれかかっている屋上の柵の下を、首を後ろへ捻って見てみれば、各々に部活を終えた生徒達が騒ぎながら、校門へ向かっていくのが見える。

 なぜ他の生徒達が帰っている中、校則に則った制服の下にセーターを着込み、マフラーに手袋、ニット帽という完全防具を装着しても尚寒いこの時期に、わざわざ屋上という寒風に晒される場所に俺がいるのかといえば、不良に呼び出されたとかいう物騒な理由ではなく、現在付き合っている彼女に呼び出されたからに他ならない。


「そろそろ来ると思うんだけどなぁ」


 おそらく赤くなっている頬を、ポケットに突っ込んで温めていた両手で労わる様に覆いながら、人混みから離れて一人でいる寂しさを紛らわす為に、誰にともなくそう呟く。

 すると、まるでその一言を待っていたかのように、唯一校舎とこの寂しい空間を繋げている、重厚な鉄の扉がゆっくりと、ぎぎっと軋んだ音を立てながら開かれる。開かれた扉の間からは、俺をここへ呼んだ張本人の顔がひょっこりと覗き、ようやくこの寂しい時間が終わった事を悟らせる。


「遅くなってごめんね、陽平君」


 いつものように明るい口調でそう言うのは、俺の彼女である白川優紀だ。こんな寒い場所に待たしておいて、何をそんなに明るい挨拶をしてやがる、とでも文句を垂れようと、俺は唇を尖らせる。

 だが、声を発しようと口は、若干ずれていた焦点が彼女の顔に合った瞬間に止まり、中途半端に歪な楕円のままになる。この時、なぜ言葉を止めたかと言えば、焦点が合ったそれに見覚えがあったからだ。


「どうかしたのか?」


 その顔がいつ見たものなのか分からず、文句の代わりにそんな平凡な言葉を吐く。優紀はその問いには答えず、やや俯きながら俺の隣に来ると、俺を真似る様に柵にもたれかかる。


「ちょっと話したい事があるの」


 いつものようには目を合わせず、優紀は雲に覆われた空を見上げながら、また明るく言った。彼女が空を見上げた時に、ようやく先程の顔がどこで見たものだったのかを思い出す。


 あれは確か、およそ二か月前だったか。あの時もちょうど、今日のように屋上に呼び出されたのだった。


「岩本君が好きです。私と付き合って下さい」


 まだ夏の最中で日が長く、今日よりもかなり明るかったここで、薄々気付いてはいた彼女の想いを告げられた。その時の彼女の顔は、ちょうど今の俺の如く赤かった気がするが、思い出したのはその顔ではない。告白する直前の、決意を固めるためだったのか、僅かに出来た沈黙が気まずかったからなのか、その真相は分からないが、とにかく告白前に彼女が上を向いた後の顔だった。

 どうして今、あの時の表情と重なったのか気になったが、今度はその声無き問いに答えるかのように、優紀の口が開かれた。


「私と別れてほしいの」

「え?」


 我ながら、体のどこからこんなに素っ頓狂な声が出たのかと思ったが、俺の声の質に関係なく、優紀の顔は思い詰めた顔だった。間抜けな声を出してから、空気の抜けた肺にまた空気が行き渡るまでの僅かな間に、俺は優紀と付き合い出してからの行動を悉く振り返った。

 自分で言うのもなんだが、それなりに女性関係には困っていなかった俺は、そんな俺から見ても綺麗だと思う優紀に告白され、それまでずるずると引き延ばしていたそれらを、ばっさりと切り捨てた。人より少しばかり充実した経験を活かして、出来るだけまめに優紀と連絡は取っていたし、休日には頻繁にデートにも行っていた。勿論、彼女がそれを嫌がる風もなかったし、嫌われるような事も何一つしていない筈だ。まあ、気になっても黙っていた事が彼女にあるのであれば、俺はそれを知らない事になるのだが。

 ならば、なぜこんな別れ話を切り出されたのか。その心の問いにも、やはり優紀は答えをくれた。


「私、引っ越す事になったの。陽平君はモテるから、きっと私よりいい女の子と出会えるよ」


 彼女が話すのは重要な内容なのに、なぜか頭が上手く回らず、言葉が冷えた耳を素通りして行くような気分だった。


「じゃあね」


 そんな俺の様子に気付いているのかいないのか、優紀は用件だけ端的に述べると、逃げるように屋上を後にした。優紀が出て行った扉が閉まる拍子に、また鳴った不協和音を耳にしながら、俺はしばらくの間、降り出した雪を見つめる事しか出来ずにいた。







 翌日は、昨日降った雪が少し積もったくらいで、生活には何の支障もない程度にしか積もっていなかった。それでも、空にはどんよりとした暗雲が立ち込めて、俺に気分をブルーにするのに一役買っていた。


「えー、白川が今日を以って、学校を辞める事になった。急な事ではあるが、家庭の事情だそうだから、あまり深く詮索はするなよ」


 朝のホームルームで、担任の教師がそう言ったのを皮切りに、それまで割かし静かだった教室が、一気に騒然とした雰囲気となる。それだけ騒がしくなった原因は多分、中途半端な時期に転校と言う事以上に、優紀がクラスのマドンナ的存在だった事に起因するのだろう。担任もある程度こうなる事を予想していたのか、無理にその騒ぎを止めようとはせず、あまり騒ぎ過ぎるなよ、とだけ言って教室を出て行った。無責任な担任もいたものだ。

 だが、この時の俺に、そんな呑気な事を考えている余裕はなかった。担任が大々的に発表した事が、昨日の優紀の言葉が冗談ではなかったという証拠に他ならない。

 あの後、どの道をどう通ったかはっきりと覚えていないが、何にしても無事家へと辿り着いた俺は、まだ優紀の言葉が信じられずに、未練がましく電話を掛けたり、メールを打ったりした。だが、その全てが無視され、まるで連絡のつく様子がない。もしかしたら、もう寝てしまったのかもしれない等と、自分でも呆れる様な言い訳で自身を騙し、希望を捨てずに今日の学校へ来たのだが、まさか担任の第一声で、完全に止めを刺されるとは予想もしていなかった。


「よう!朝から湿気た面してると思ったら、これが原因か?」


 俺が絶望の淵から正に転がり落ちようとした時、後頭部に聞き慣れた、それでいて馴れ馴れしい声と、軽い衝撃がぶつけられる。


「うっせえよ。お前には関係ないだろ?」


 俺に軽い口調と、おまけの張り手を送ってきたのは、俺の一番の友人である倉橋吾朗だ。無二の親友であるこいつは、俺以上の遊び人であり、今最も声を掛けられたくない人間だった。


「おうおう、言ってくれるじゃん。そこまで不機嫌な所を見ると、図星みたいだな」


 こいつに今話しかけられたくなかった最大の理由は、言葉の端々に表れる軽さだ。元々遊び人同士という事もあって、女の伝手から知り合い、そのまま仲が良くなった俺達は、俺が優紀と付き合い出すまでは、大方女性に褒められるような事はしていなかったし、吾朗に至っては未だに現役だ。俺が優紀と付き合う事になり、女遊びを止めると言った時、当時遊んでいた女以上に煩かったのがこいつであり、まだ俺をナンパに平気で誘ってくるような、口が裂けても気の遣えるとは言えない奴なのだ。


「まさか、昨日屋上に呼び出されたのは、この事か?」


 その話題が出るまでは、鬱陶しげに吾朗の方を振り返っていたが、地雷を踏まれて心をもやもやとした何かが覆い隠すのを感じて、何も聞こえない振りをして机に突っ伏す。これ以上落ちる事がないと思っていた気分が、ますます降下していった。







 その後の授業中、俺はノートも碌に取らず、まだ午前中の授業が終わってもいないのに、放課後どうしようか考えていた。

 すぐにでも優紀の家へ押し掛けたいのだが、実のところ、俺は優紀の家を知らない。なぜ恋人の家を知らないのかと言われれば、理由はひどく単純で、俺の家には親がいないからだ。正確に言うと、ほとんどいないではあるのだが、そう大きな違いはない。俺の両親は普段どこをほっつき歩いているのか、時々気紛れに帰ってきては、少し多めの生活費だけを置いて、またすぐに出ていってしまうのだ。

 小さい頃は寂しいと感じた事もあったが、今は擬似的に一人暮らしが出来る上、友人やガールフレンドを集めるのに都合が良いので、むしろ感謝しているくらいだ。まあ、そんな訳で、優紀とデートした後は、いつも俺の家で時間を過ごしていたのだ。

 こんな事になるなら、住所くらい聞いておけば良かったと思ったが、まさかこんな事になるとは思いもしなかったので、こればっかりはどうしようもない。

 そんな後悔の念を抱えたままで、授業の内容が頭に入ってくる筈もなく、結局シャーペンを持つだけの状態で、放課後まで過ごしてしまった。若干の罪悪感を胸に抱えながら、部活もサボって帰ろうとすると、軽い口調のあいつに呼び止められる。


「これからちょっといいとこ行くんだけど、お前もついてこいよ」

「はぁ?何で俺が…」


 吾朗の誘いだ、どうせナンパに決まっている。この後、特に予定はないし、やる事もないのだが、吾朗の誘いに乗って街に繰り出すのも癪だし、そもそも気分が乗らない。だが、どうやらこいつには、俺の嫌がっている態度は目に入らないらしい。


「そうかそうか。そんなについてきたいのか。仕方ねえな、連れてってやるよ」

「お、おい!?誰もそんな事…ってて!おい、引っ張るなよ!」


 吾朗は俺の言葉に聞く耳持たず、強引に腕を引っ張って歩き出し、男二人で仲良く、薄らと雪化粧をした校舎を後にする破目になった。

 半ば無理矢理に連れて来られたのは、何の変哲もない一軒家の前だった。吾朗の家は前に行った事があるが、一軒家ではなくアパート住まいだった。まさか高校生がマイホーム購入なんて事はないだろう。第一に、こいつは年から年中女の尻を追っかけているような奴で、そんな男がバイトに勤しんでいる姿など見た事もない上に、想像もできない。

 そんな事を考えている俺に、吾朗は満足げな顔を向けてくる。


「さあ、着いたぜ。我が相棒よ」

「着いたって、ここは何だよ?」


 吾朗が仰々しくそこを指し示して胸を張るのが鬱陶しくて、俺はつい顔をしかめて、語調を荒げてしまう。


「おいおい、怒るなって。お前のスウィートハニーの家にお連れしてやっただろ?」

「は?」


 吾朗にそう言われ、疑いながらも表札に目をやると、そこには確かに白川と刻まれていた。


「な、何でお前が知ってんだよ?」

「はっはっはっ!俺の顔の広さは、お前の想像も出来ない程なんだぜ?」


 相変わらず腹の立つどや顔だが、こういう気の利く所が、こいつもモテる所以なのだろう。そう言えば、俺が吾朗の相棒なんてものをやっているのも、時折見せるこういう所に惹かれたからだった気がする。


「ま、何があったのか知れねえけど、俺が出来るのはここまでだ。後は、ばっちり決めてこいよ」

「おう、ありがとな」


 去り際、気障に背を向けて手を振っている吾朗の背中に、感謝の言葉を投げ掛ける。

 ここまでされては、引き下がるわけにはいかない。幸い、家の中から物音がするので、空き巣でもない限り、家の中に誰かいるだろう。

 一度深呼吸して決意を新たにし、インターフォンに指を掛ける。だが、そのタイミングを見計らったかのように、玄関が開いた。


「優紀、忘れ物はないか?」

「うん。大丈、夫……」


 玄関の中からは、両手に荷物を持った見知らぬ男性と、片手に荷物を持った優紀が出てきた。優紀は男性と会話していたが、俺がインターフォンを押そうとした格好で立っている事に気付くと、言葉が尻すぼみに小さくなっていく。


「……よう」


 思わぬ形での再会に、少しの間気まずい沈黙が流れる。優紀の父親と思しき人物など、呆気に取られた表情のまま固まってしまっている。


「そ、それって、引越しの荷物か?」


 取り敢えず何か話をしなくてはと、当たり障りのない話題を切り出してみる。


「……」


 どうやら失敗したらしい。優紀は俺と目を合わせないように俯きながら、何か言わなくてはと、口をぱくぱくしている。その仕草はたまに優紀がするもので、何か誤魔化そうとしている時のそれだ。

 こんな時に、優紀が何を誤魔化そうとしているのか気になった。だが、優紀に声を掛ける前に、彼女の隣で呆けていた男性に声を掛けられる。


「その制服は……もしかして優紀の友人かい?」

「え、と。そんな感じです」


 おそらく優紀の父親である人物に、いきなり昨日別れた彼氏です、と自己紹介するのも気が引けたので、取り敢えず曖昧な返答をする。心の何処かで、優紀がその言葉を否定してくれるかもしれないという期待があったが、俺の勝手な期待を向けられた彼女は、相変わらず俯いたままだった。

 俺が優紀の友人だと名乗ると、その男性は嬉しそうに顔を綻ばせる。


「そうか、優紀の友人か。私は優紀の父親の、白川渡という者だ」

「岩本陽介です」


 差し出された手を、戸惑いながらも握り返す。


「これからも、優紀にたまでいいから会いにきておくれ」

「はぁ……」


 嬉しそうなのに、どこか悲しげな渡さんを見て、俺は少なからず違和感を覚えたが、それ以上に、これから引っ越す優紀に、たまに会いに来て、という言い方が引っ掛かった。普通、こういう場合は引っ越した側がこちらに戻ってくる方が、大勢と会えて都合がいい筈だからだ。だが、そんな俺の疑問は、衝撃とともに解決する。


「実は、今日は誰も病院への見送りには来ないというもんだから、てっきり学校で虐められていたのかと心配していた所なんだよ」

「びょういん?」


 言われてすぐには、その単語の意味が分かりかねた。でも、すぐにそれの意味を、正しく理解した。理解したというのは当然、不可解だった優紀の言動の真意も含めてだ。


「び、病名は……何で、すか?」


 自分でも、声が震えているのが分かった。入院する当人とその家族に、それを聞くなど礼儀知らず甚だしいが、その時の俺は聞かずにはいられなかったし、礼儀に拘っていられるほどに余裕もなかった。


「聞いていないのかい?」

「お父さん、待って!」


 渡さんが怪訝そうな顔をした所で、それまで押し黙っていた優紀が、ようやく声を発する。


「どうしたんだい?」


 渡さんが振り返った先で、優紀はまた思考を巡らせるように俯いていたが、一度空を仰ぐと、今度は目を逸らさずに俺を見る。


「少し、陽介君と話がしたいの。ちょっとだけいいかな?」

「ああ、行ってきなさい」


 渡さんは俺達の表情を見て、何か思い当たる事でもあったのか、優紀の望みをあっさりと容認する。


「じゃあ、行こっか。ちょっと付き合ってね」

「……ああ」


 優紀の言葉に頷いて、先を行く彼女の後に着いて行く。優紀の纏った雰囲気だけで、ちょっとでは済まない事が伺えた。覚悟をしなければと、そう思わされる後ろ姿だった。

 場所は変わって、彼女の家の側の公園に来ていた。雪が積もっていたせいか、いつもはそこら中を駆け回っているだろう子供達は、砂場の周辺の、地面が平らで雪がより多く積もっている場所に集まっていた。そんな子供の群れから離れたベンチに座った優紀の隣に、軽く雪を払った後に座る。


「家、知ってたんだね」

「いや、吾朗に連れてきてもらったんだ。ほら、あいつ知り合いが多いだろ?」


 座ると同時に、優紀はそんな会話を始める。優紀には言いたい事が、俺には聞きたい事があり、それらは多分一致している。勿論、それの内容は今のやり取りとは関係ないのに、そんな事を話されて、どうにももどかしかった。でも、何となく自分からは切り出しにくかった。きっと、あの決意を心の内に秘めた、優紀の表情を見たからだ。


「そっか。倉橋君、皆と仲がいいもんね」

「ああ、そうだな」


 だから、焦らせたり、先を促せたりはしない。あくまでも、優紀のペースに合わせる。


「ねえ、陽介君」

「どうした?」


 そう言った後で、俺の今の言い方は、少し酷な気がした。どうしたかなんて知っている、優紀が何を言おうとしているのかも知っている。それでも、彼女の口からちゃんと聞きたかった。


「私ね…………肺癌みたい」

「それって、治るのか?」

「……」

「そうか」


 今までの彼女の言動や態度で、重い病気である事くらい、それとなくは分かっていた。でも、それを他の誰でもない優紀の口から言われるのは、予想以上にショックだった。もし他人にそれを言われたら、俺はきっとそいつに怒りをぶつけていたかもしれない。そうする事も出来ない怒りは、行く当てを失って心の内で暴れ回り、手が付けられない程に大きく膨らんでいく。


「ありがとう、私なんかの為に泣いてくれて」

「え?」


 言われて、やっと自分が涙を流している事に気付いた。内に溜め込んだ怒りが、涙になって溢れたらしい。一番辛い優紀が泣いていないのに、俺が泣いてどうするんだ、と自分を窘め、乱暴に頬を伝っていたそれを拭う。


「ごめんね」

「何で優紀が謝るんだよ?」

「昨日の事。私、酷い事言っちゃったでしょ?」

「気にすんな。大体理由も察しがつくしな」

「あ~あ。せっかく誰にも知られずに入院できると思ったんだけどなぁ」

「クレームなら、吾朗に言ってやれよ」


 こんな他愛もない会話を、渡さんが様子を見に来るまで続けた。その後は、渡さんと病院に持っていく荷物を車に乗せ、入院するのはどこの病院か聞き、この事はあまり他言しない事を約束した。確かに、病院へあまり大勢で押し掛けても邪魔だと思い、それには素直に頷いた。


「じゃあ、明日にでも見舞いに行くからな」

「無理はしないでね?それで陽介君が具合を悪くしたら、元も子もないんだから」

「分かってる。出来るだけ行くって事だよ」


 軽い会話を交わした後、俺は帰路に着いた。家に着くと、今日はたまたまどちらかが帰ってきていたのか、居間の机の上には札束だけが無造作に置かれていた。


「はぁ。渡さんを少しは見習ってほしいもんだ」


 誰もいないのに、愚痴を声にしたのは、久しぶりに味わった寂しさのせいなのかもしれない。愚痴を溢して、深く溜め息を吐いた後は、いつもの様に手慣れた手付きで料理を作り、食事を終えた後は風呂に入り、出ると課題を始める。

 でも、こんな時に課題なんて捗らなかった。どうしても思考の隙間に入り込んでくる、どうして病気になったのが優紀だったんだ、という、酷く独り善がりな我儘。きっと、優紀や渡さん、優紀の母親だってその事を考えただろうし、それで幾度となく悔し涙を流したに違いない。それでも、考えずにはいられなかった。込み上げる無力感に、ただただ拳を固く握りしめるしかなかった。


「ちくしょう……」


 一人の部屋に響いた声が、何だか虚しかった。







 それから、学校と病院を行き来する日々が続いた。優紀ははっきりと言わなかったが、癌はもう延命処置しか手の施しようがない位、体中に転移が進んでいる末期で、それでも入院したのは、他でもない渡さんの希望だそうだ。奥さんも癌で早くに亡くしていて、また悲しい目に遭う事になる渡さんの希望を、優紀は少しでも聞き入れたかったらしい。


「クラスの友達には悪いと思ったんだけどね」


 優紀はそう言って、申し訳なさそうに笑っていた。日々弱っていく中で、どうして笑っていられるのか、どうして他人を思い遣れるのかと聞いた。


「だって、皆のせいじゃないでしょ?それに、私は皆の事、大好きだもん」


 今度は、嬉しそうに笑った彼女を見て、俺は何て浅はかな質問をしたのだろうと、激しく後悔した。そして、優紀が俺の恋人になってくれて、本当に良かったと思った。それと同時に、そんな彼女がもうすぐいなくなると思うと、また寂しくなった。







 それは、雪が膝まで振り積もった日の事だった。抗癌剤の副作用ですっかり髪が抜けてしまった優紀は、温かい病室の中で、そこでは暑そうなニット帽を被っていた。体は弱り、話すのもまま為らない優紀は、震える手でペンを取ると、ゆっくりと、今は随分汚くなってしまった文字を綴り出した。


『今日は雪が積もってるね。外は寒かったでしょ?』

「ああ。ここに来るだけで、耳が真っ赤っかだ」


 そう笑いかけると、弱々しくではあるが、優紀も薄らと笑い返してくれる。そして、また優紀がペンを走らせ始める。最近は筆談での世間話ばかりだったから、その内容を見せられて、少なからず驚きがあった。


『両親とは仲直り出来た?』


 それを見て、俺は驚いた顔をしていただろう。仲違をした覚えはないが、一般家庭の様な団欒もないので、首を横に振っておく。すると、優紀が笑顔で手招きをする。無理に喋らせるのは気が引けたが、その優紀の顔には、有無を言わせない何かがあった。


「どうした?」


 招かれるままに、優紀の口元に耳を寄せると、か細い、本当にか細い声で、優紀はこう言った。


「我儘言ってもいい?」


 久しぶりに出した声だからか、それは幾分か掠れていたけれど、甘えるような子供っぽいあどけなさと、いつもみたいに気を遣っている優紀らしさが滲み出ていた。


「ああ、勿論だ」


 元より遠慮して、俺にもあまり我儘を言わなかった彼女だ。入院してからはそれに輪が掛かり、一切望みを言わなかったのだが、その優紀が我儘を言いたいというのだ。嬉しいと思いこそすれ、迷惑がる訳がない。そういう想いを込めて、そっと手を握ってやると、優紀は嬉しそうに息を漏らす。


「私の事、忘れないでね」


 この時、なぜこんな事を彼女が言ったのか、俺には良く分からなかった。必死に思案している俺を余所に、優紀はそれだけ言い終えると、またいつものように口を閉ざし、筆談で他の話題を書き始めた。何となく、この話題を混ぜ返すのは気が引けて、戸惑いながらも彼女の振る話に乗ってやった。

 そして、それが彼女の最後の言葉となった。







 優紀がいなくなってから、少し時が流れた。相も変わらず、吾朗は女遊びに明け暮れて、俺はそれを離れた所から眺めつつ、心にぽっかりと空いてしまった穴を埋める術を探していた。

 結局、未だに彼女が最後に言った言葉の意味が分からなかった。もしそういう事を言われるなら、残される俺を気遣って、忘れてね、だと思っていたから、その言葉は意外である以上に、印象的だった。

 そんな物思いに耽りながら、気分が乗らない部活を終えて家に帰ると、相変わらず誰もいない居間の机の上には、また少し多めの生活費が乗せられていた。そう言えば、優紀がこの光景をたまたま見た時、両親がいない理由を不思議そうに、それでいて悲しそうに聞いてきた事があった。


「あ……」


 ここで、優紀が言った言葉の意味を、今更ながらに何となく理解した。

 優紀は、俺が寂しがり屋な事を心配して、ああ言ったのではないだろうか。忘れないでというのは、永遠の恋人としてではなく、楽しかった日々の思い出として、寂しくなった時には自分の事を思い出して欲しいという意味だったのではないか。

 そう言った本人がいないのだから、もうそれを確かめる事は出来ないが、世話焼きの優紀の事だ、きっとそうで違いない。


「ったく。最後の最後まであいつは……」


 その時の俺は、きっと笑っていられたと思う。優紀と過ごした思い出が、悲しいものではなくなったから。


「今度、話でもしてみるか」


 たまには、離れ離れの家族で団欒するのも悪くはない。そんな事を思ったのは、一体いつ振りか。心が温かくなった気がして、一人で頬を緩めた。

 もう外は雪が解け始め、新芽が芽吹いていた。

ここまで読んでくださった方、ありがとうございます。

柄にもなく切ない恋愛ものを書いてみました。

ですが、前から書きたかったものだったので、結構満足してます。

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