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タトゥーを入れたマーロン・ブランド 世界ミドル級王者 カール・ボボ・オルソン (1928-2002)

作者: 滝 城太郎
掲載日:2026/08/23

オルソンの若い頃はエキゾティックなイケ面として鳴らしたが、過酷な二重生活で精神的なストレスに悩まされたのか、若くして禿げあがってしまい、マーロン・ブランドと容姿を競い合った時期は短かった。

 ハワイが生んだ最強のボクサーであり、一時期はアメリカでも大変な人気者だった。よりによって同時代の同じ階級に、シュガー・レイ・ロビンソンという世界ボクシング史上最も偉大と言われるスーパースターがいたため、その引き立て役になった感は否めないものの、『リング』誌による一九五三年度最優秀ボクサーに選出されているように、実力も本物だった。一九五〇年代のアメリカで“ハワイのハリケーン”の異名をとったオルソンは、ミドル級からライトヘビー級のトップクラスまで、体重差などおかまいなしになぎ倒していったものだ。


 カール・オルソンは、スウェーデン系アメリカ兵の父と、ポルトガル系ハワイ人の母の間に生まれたかなり複雑な混血で、外見はハワイ人らしくない。現地では“The Hawaiian Swede(ハワイのスウェーデン人)”と呼ばれていたのは、体格も顔つきもヨーロッパ人っぽかったからだろう。   

 一方、リングネームにも使われている少年時代からの愛称“ボボ”は、舌足らずの幼い妹が「ブラザー」とはっきり発音できずに周囲には「ボボ」と聞こえたことから、いつしかそう呼ばれるようになったものだが、当のオルソン少年は、そんな可愛らしい愛称からは想像がつかないほどの荒っぽいストリートファイターだった。

 幼少時よりサラブレッドが好きだったことから、中学卒業後は競馬の騎手になったが、身体が大きくなりすぎたからか、騎手は途中で諦め、太平洋戦争中は板金工場で働きながらボクシングに精を出していた。

 ホノルルの下町ではちょっとした顔になっていたオルソンは、偽造身分証で年齢を偽ってプロのライセンスを取得すると、一九四四年八月十九日に十六歳でプロデビューを果たしているが、ボクシングに懸ける情熱と言えば聞こえはいいが、この年頃で免許証の偽造までやってのけるとは穏やかではない。

 入れ知恵をする大人がいたのかもしれないが、後先のことを考えない無軌道な性格はその後も変わらず、ボクシング人生のみならず私生活の足まで引っ張ろうとは、オルソンも予想していなかっただろう。

 ほどなく免許証の偽造がばれ、ライセンスが停止になったため、プロの試合には出場できず、アマチュアでお茶を濁していたところ、ホノルルに米水兵慰問のためにボクシングチームを率いてやってきたシド・フラハーティから「プロになるなら、俺に相談しろよ」と声を掛けられたのがオルソンの人生の大きな転機だった。

 その言葉を真に受けた十七歳のオルソンは、サンフランシスコまでフラハーティを訪ねてゆき、十八歳になってホノルルのリングに立てるまで、しばらく西海岸で武者修行を続けることにした。

 プロ入り当初はJ・ウエルター級だったオルソンも、渡米時には一七九センチ七〇キロ超の立派なミドル級に成長しており、前座の相手などイチコロだった。

 一九四五年十一月から翌年二月までの四ヶ月間で八戦全勝(六KO)と暴れ回ったオルソンは、ホノルルで試合ができる年齢に達したのを見計らってハワイに戻ってくると、ホームグラウンドでも連勝を続け、一九四六年十月七日、ウェイン・パウエルを四ラウンドにKOして十八歳と二ヶ月の若さでハワイ州ミドル級チャンピオンの座についた。

 ハンサムな少年チャンプはあっという間にホノルルの人気者になった。なにしろ後年アメリカで「筋骨逞しいマーロン・ブランド」と言われたほどの容貌である。女性ファンが放っておくはずがない。四歳年上のブランドが銀幕のスターになるのはもう少し先だが、ブランドとは顔つきだけでなく、雰囲気も酷似していた(体格はオルソンの方が一回り大柄である)。

 そもそもブランドはアウトロー的な役柄で人気を博し、ちょっとスレた青少年たちのアイドル的存在になっていたので、本物のストリートファイターだったオルソンとはキャラも重複して見えたことは確かである。しかもこの二人は稀代の女たらしという共通点もあった。

 オルソンはボクシングで生活できるようになってから程なくして幼馴染のヘレンと結婚し、やがて愛児も生まれるが、ジュディ・クラベという美女と知り合ってからというもの、ジュディの方が妻子持ちのオルソンに夢中になってしまう。

 デビューからの連勝が一旦二十一で途絶え、ハワイ州タイトルを獲ったり獲られたりと中弛みの時期ができたのは、ボクシングより女性の方にご執心の日々を送っていたからなのかもしれない。


 やがて州内に敵がいなくなると、本格的に世界を目指してシドニーまで遠征してミドル級世界三位のデーブ・サンズと対戦した(一九五〇年三月二十日)。

 初めての世界ランカー相手ということで少し固くなったのか、試合開始早々、いきなりダウンを奪われたが、そこから立ち直り、八ラウンドには右ストレートでサンズをふらつかせるなど、終盤はオルソンのものだった。アウェイでの接戦だったこともあり、判定はサンズに挙がるが、判定に納得がゆかずオルソンの勝ちを支持してくれる観客も少なくなかったことは、彼とっては、記録上の黒星がついても知名度が向上した、という意味では意義のある試合だったといえる。というのも、オルソンの健闘ぶりを目に留めたプロモーターから、あのシュガー・レイ・ロビンソンの対戦相手として声が掛かったからである。

 四十四勝三敗(二十三KO)と好成績は残していても、まだ世界ランキング入りを果たしていないオルソン相手では、シュガー・レイの防衛戦は成立しない。そのためオルソン対シュガー・レイの一戦(一九五〇年十月二十六日)はペンシルヴェニア州公認世界タイトルマッチという州限定の権威下で開催されるという特殊な世界戦になった。

 いくらオルソンが実力的には世界上位クラスの若きホープといっても、シュガー・レイはボクシング界の超人である。一一四勝一敗という数字だけでも凄いが、世界中を旅行しながら試合を続け、対戦した世界の一流どころが枕を並べて討ち死にしている規格外の強さは、人間離れしているといっても過言ではなかった。パワー、スピード、フットワーク、タフネスの全てが揃い、全く欠点が見当たらないシュガー・レイの唯一の黒星は、一階級上のジェイク・ラモッタに喫した不覚の判定負けだけだった(後に世界戦で倍返ししている)。


 世界戦負けなしのウエルター、ミドルの二冠王に対して、オルソンも終盤まで何とか喰らいついたが、十三ラウンドで人生初のKO負け。それでも終盤までシュガー・レイにKOされなかったことで、商品価値はむしろ上がったのだから、シュガー・レイさまさまである。

 確かに技術には天と地ほどの差があったが、かえって負けず嫌いで自信家のオルソンの闘争心に火が点いた。翌年七月には拠点をホノルルからサンフランシスコに移し、フラハーティの指導の下、打倒シュガー・レイを目指すことになった。

 ところが、ここでオルソンの闘志に水を差す出来事が起こる。妻子をホノルルに残してサンフランシスコに単身赴任中のオルソンを、不倫相手のジュディが追いかけてきたのだ。さらに悪い事に、ジュディと同棲を始めたのも束の間、今度はヘレンが子連れでサンフランシスコに移住することになった。

 追い詰められたオルソンはこともあろうに、ジュディとの愛の巣から数ブロックしか離れていない場所に妻子を迎えると、練習にかこつけて双方の家を行ったり来たりの二重生活を始めたのである。

 恋人が妊娠するとさっさと捨てて他の女に寝返るブランドのプレイボーイぶりも悪辣だが、オルソンの無神経ぶりもブランドに負けてはいない。こんなことで競い合っても仕方がないのだが、まだ両者は女癖の悪さでバッシングされるまでにはなっておらず、皮肉なことに、銀幕とリングというスポットライトを浴びる場所で、さらに輝きを増してゆくのである。

 一九五二年三月十三日、アメリカでも実績を積んだオルソンについに世界戦のチャンスが巡ってくる。

 相手はもちろん無敵のミドル級チャンピオン、シュガー・レイ・ロビンソンである。

 地元サンフランシスコのファンの声援を味方につけたオルソンは、前回の対戦より格段にボクシングが巧くなっており、終盤はむしろシュガー・レイの方が息が上がっていた。マカーティは勝利を確信していたが、判定はシュガー・レイに挙がり、場内は大ブーイングに包まれた。

 当然、ファンはラバーマッチを期待したが、その前にシュガー・レイはライトヘビー級チャンピオン、ジョーイ・マキシムに敗れて三階級制覇に失敗すると、そのまま引退を表明したため、ミドル級タイトルは一旦宙に浮いてしまう。

 オルソンはシュガー・レイとのリターンマッチでさらに株を上げると、ウォルター・カルティエ、ローベール・ヴィルマン、ジーン・ヘアストン、パディ・ヤングといった世界ランカーたちを軒並み打ち破り、一九五三年十月二十一日、MSGで開催される元世界ミドル級チャンピオン(世界一位)ランディ・ターピンと争う世界ミドル級王座決定戦出場の切符を手に入れた。

 ターピンはシュガー・レイの連勝を八十九でストップした“時の人”だったが、オルソンの勢いは止められなかった。中盤まではターピンの変則的な動きと射程距離の長い右に前進を阻まれ、苦戦を強いられていたオルソンだったが、十ラウンドに懐に潜りこむようなアッパーでダウンを奪ってからは形勢逆転し、続く十一ラウンドにもダウンを追加して逆転勝利。二十五歳のオルソンはついに世界の頂点に立ち、『リング』誌から一九五三年度最優秀選手に選ばれた。

 一九五四年四月二日の初防衛戦の相手は、シュガー・レイをてこずらせた現役ウエルター級チャンピオンのキッド・ギャビランだった。“キューバの鷹”の異名を取るMSGの人気者で、ウエルター級王をすでに七度防衛しているギャビランは、減量苦から現役王者のまま二階級制覇を目指してオルソンに挑んできたのだ。

 身長一七七センチで下肢が長くスタイリッシュなボクサーファイターであるギャビランは、シュガー・レイ以来の強敵だったが、オルソンを倒しにきたのが裏目に出た。身長、リーチ差はほとんどないとはいえ、オルソンは骨太で生来のミドル級である。両者共に意地の張り合いのようにショートレンジで激しいパンチの交換を続け、観客は大いに盛り上がったが、オルソンの執拗なボディ攻撃で、回を追うごとにギャビランの動きが鈍っていった。

 ギャビラン得意のボーロパンチがクリーンヒットしたところで、オルソンにとってそれは一階級下のパンチに過ぎず、合い打ちでもダメージが深刻なのは明らかにギャビランの方だった。技術的にはギャビランが上でもパワーとタフネスの差だけはいかんともしがたかった。

 ウエルター級史上の名王者を撃退(十五ラウンド判定)したのを皮切りに、三度の防衛戦にしたオルソンは、映画『乱暴者』(一九五三)で大ブレイク後、『波止場』(一九五四)でアカデミー主演男優賞に輝いたマーロン・ブランドと併走しているかのように、ボクシング界のスター街道を驀進し続けた。

 かつてホノルルで“カリヒキッド”と呼ばれていた少年ボクサーも、今や“ハワイのハリケーン“のキャッチフレーズで売り出し中の中量級きっての強打者である。マーロン・ブランド似のマスクと、当時のボクサーにしては珍しい両腕のタトゥーも注目を浴び、シュガー・レイのいないリングで破壊の嵐を巻き起こしたオルソンの次なる目標は、“シュガー・レイ超え“であった。

 シュガー・レイのマキシム戦の敗北の実態は、灼熱の屋外リングでペース配分を誤り、ポイントで一方的にリードしながら、熱中症のため十三ラウンド終了後に試合を放棄せざるを得なかったというもので、いわば独り相撲のような敗戦だった。それでも誇り高きシュガー・レイは、記録上のTKO負けという事実を恥じ、再びリングに上がることをためらったのである。

 それでもマキシムに負け、ライトヘビー級制覇に失敗したという事実は変わらない。自信家のオルソンはまず、シュガー・レイが敗れた前チャンピオンのマキシムを倒してから、ライトヘビー級タイトルに挑戦という青写真を描いていた。

 ロビンソンより一回り以上大きく、ヘビー級ボクサーとの対戦経験も豊富なマキシムは、元世界ヘビー級チャンピオンのエザート・チャールスやジョー・ウォルコットと幾度もグローブを交えながら、KO負けは一度もないというタフガイである。しかもウォルコットには一度勝ったこともあるという油断のならない相手だったが、身体負けしないように増量したオルソンのパンチは、マキシムを二度もキャンバスに這わせ、KO寸前まで追いつめた(一九五五年四月十三日)。

 終盤のマキシムはKO負けだけは逃れたい一心からか、見苦しいまでのクリンチを繰り返すだけだったため、これが十回戦でなければKO負け必至の試合内容だった。

 かくして最初の関門を突破したオルソンは、悲願の二階級制覇を目指して世界ライトヘビー級チャンピオン、アーチー・ムーアと対戦することになった(六月二十二日)。

 ムーアは後年ヘビー級チャンピオンのロッキー・マルシアノと戦って、一度はダウンを奪ったほどのこのクラスきっての強打者である。今日でも生涯通算の一四五KO勝利はギネスレコードとなっているほどの“KOマシン”だが、驚くべきことの大方の試合予想は拮抗していて、ほぼ互角という見立てだった。

 ライトヘビー級が主戦場とはいえ、この階級は不人気であるため、金のために数多くのヘビー級ボクサーとも戦ってきたムーアに、ミドル級のオルソンが挑むというのは、常識的に見れば無謀である。

 おそらく全盛時代のムーアにはシュガー・レイも歯が立たなかったはずだ。ただし、ムーアはすでに四十歳である。ムーアが二度戦ってKO出来なかったマキシムを追い詰めたオルソンの強打を買う声は多く、ロッキー・マルシアノの挑戦者候補としても名前が挙がるほどになっていた。

 全盛時代のシュガー・レイといえども、チャールスやウォルコットとの対戦話が話題になったことはない。これだけの高評価を受ければオルソンが少々天狗になってしまうのもやむをえない。

 ムーア戦の一ラウンドは、ほぼ一方的に積極的に攻め続けたオルソンのものだった。

 オルソンはリードブローが少なく、破壊力のある右ストレートを上下に打ち分けて活路を切り開いてゆくタイプである。しかも打たれ強いため、カウンターもおかまいなしで踏み込み、合い打ちを繰り返しているだけでも、相手の戦闘能力が削がれてゆく。ギャビランもマキシムもそれで攻略してきたのだが、百戦錬磨の古狸は一枚も二枚も上手だった。

 二ラウンドから戦法を変えたムーアは、接近戦ではクロスアームブロックでがっちりと防御を固め、離れてはジャブとカウンターの左アッパーで、低い体勢から潜りこもうとするオルソンの突進を阻んだ。

 ムーアのスナップの効いたジャブはミドル級のストレート並みの威力で、打たれ強いはずのオルソンですら何度も顔を仰け反らすほど効いていた。ロングアッパーもギャビランのそれとは段違いの迫力だった。

 攻撃が単調なオルソンは、ムーアのカウンター戦法を崩す術もないまま、いたずらに突進を繰り返した挙句に、左ロングフックを浴びてバランスを崩したところに、顎の先端をかすめるような左ショートで仰向けにひっくり返ってしまった。

 オルソンは立ち上がろうともがくが、顎をかすめるパンチは脳神経を直撃するため、下半身が言うことをきかなくなってしまう。上半身を起こした時は立ち上がりそうな気配だったが、足が突っ張って、そのまま腰砕けになってカウントアウト。ムーアは三度目の防衛に成功した。


 オルソンがミドル級の防衛戦をほったらかしにしてライトヘビー級進出に血道をあげていた頃、シュガー・レイがのこのことリングに戻ってきていた。さすがの拳聖も三十三歳である。二年半のブランクは大きく、格下相手にじれったい試合が続いたが、何とか世界ランキング入りも果たし、一九五五年十二月九日にオルソンに挑戦することが決定した。

 一方のオルソンはと言えば、ライトヘビー級は懲りたのか、ウエイトをミドル級に戻した後は世界ランカークラスに連勝したこともあって、直近の試合で、かつてオルソンに敗れたロッキー・カスティラーニからダウンを食ったシュガー・レイでは勝ち目は薄いと見られ、賭け率は二対一でオルソンが有利と出ていた。

 ところが間が悪いというのか、シュガー・レイとの対戦前に、オルソンの倫理観を疑うような妻と愛人との二重生活が発覚してしまったのである。妻とも愛人との間にも子供がいるため、どちらの子供たちの前でも一家の主人を演じていたというのだから、一体どのように二十四時間を使い分けていたのだろうか。俳優も顔負けの演技力もさることながら、これほど時間と神経を費やす二重生活を続けながら、世界ミドル級の頂点に居座り続けられたことが驚異である。

 スキャンダル発覚後は連日マスコミから追い回されたあげくに、妻から三行半を突きつけられたオルソンにまともなコンディション作りなどできるわけがなかった。

 オルソンは一方的にシュガー・レイから打ちのめされ、わずか二ラウンドでKO負け。妻子に続いて虎の子のタイトルまで失ってしまった。

 離婚慰謝料に加えて追徴課税問題まで抱えていたオルソンは、もはやボクシングに集中できる精神状態ではなく、一旦は引退を決意するが、何とファイトマネーの管理を任せていたフラハーティが投資に失敗していたため、預金はびた一文残っていなかった。

 因果応報とはいえ、悪いことは続くものである。長年の愛人だったジュディとその間の子供たち四人の面倒を見るためには、ボクシングしか残されていなかったオルソンは、また一から出直すことにした。幸い、スキャンダルの影響もあって話題性、知名度ともに高かったので、まだ彼を使ってくれるプロモーターは少なからずいたのだ。


 オルソンは再起戦(一九五六年五月四日)でシュガー・レイに再度KO負け(四ラウンド)を喫したのを機に本格的にライトヘビー級に転向する。

 マキシムとの再戦こそ辛勝したものの、パット・マカーティーにKO負けしたことで自信を喪失して、十月には引退声明まで出すが、前妻への毎月千ドルの養育費の支払いは重く、一年後に再起した。

 シュガー・レイとの四戦目を最後に世界タイトルマッチのお声こそかからなかったものの、ホセ・トーレス(世界ライトヘビー級チャンピオン)やピート・ラデマッハー(ヘルシンキ五輪ヘビー級金メダリスト)といった名だたる選手の相手を務めるなど、衰えたとはいえ、メインエベンターとして長らく世界ランキング上位に居座っていた。

 二十ポンドも重く、体格が全く違うラデマッハーには、ジャブだけであしらわれたが、最後までダウンすることなく戦ったタフネスは大したもので、引退直前の試合ではヨーロッパライトヘビー級チャンピオンのピエロ・デル・パパに判定勝ち、ラストファイトとなったドン・フルマー戦でも世界ミドル級一位を相手にスプリットの判定負けと、ミドルからライトヘビー級の世界ランカークラスでさえ、このオールドタイマーに勝つのは容易なことではなかった。

 結局リングを去ったのは、最初に引退を決意してから十年後の一九六六年で、すでに三十八歳になっていたが、同年末の世界ランキングではまだライトヘビー級の五位にランクされていた。

 まだメインエベンターを務められるにもかかわらず、ここでボクシングから足を洗ったのは、慰謝料と養育費の支払い義務から解放されたからなのだろう。

 奇しくもシュガー・レイも金遣いの荒さが仇となって同年まで現役を務めていたが、こちらは四十五歳ということもあってとっくに世界ランキングからは漏れていた(それでも四十歳まではミドル級ランキング下位に留まっていた)。

 晩年は学校の体育教官などをやっていたが、七十歳を前にアルツハイマーを煩ってからはハワイに戻り、故郷で余世を過ごした。八人の子供と二十人の孫に囲まれ、幸せな晩年だったようだ。

 

  生涯戦績99勝16敗(49KO)

階級が細分化され認定団体が増えた今日のボクシング界では、三冠王や四冠王などさほど珍しくもないが、ミドル級を起点とした三冠以上となるとロイ・ジョーンズ・ジュニア以来、現れていない。軽量級や中量級と違って体重差がありすぎるため、危険度が高すぎるのだ。ゴロフキンやホプキンズのような傑出した重量級でさえ、ヘビー級王座どころかヘビー級の世界ランカーとすらグローブを交えるような冒険心は持たなかったが、オルソンはライトヘビー級は言うに及ばず、ヘビー級のトップクラスにも向かっていった。同じ時代にいたら、ゴロフキンやホプキンズはオルソンに勝てただろうか?

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