第1章「鈍色(にびいろ)の空、ひとりぼっちの星」
本日から第1章スタートです。りりあの世界を優しく見守っていただければ幸いです。
4月1日の始業式に向けて、より良い学校生活を送るため、
春休みを短縮して準備をする"事前登校"がこの町の学校では恒例だ。
今日はその初日──
私立煌心女子学院。
平均以下の偏差値に比例するように、地元でも生徒の評判はあまり良い噂を聞かない。
授業料も公立より高く、「入るくらいなら働け」と言われることすらある。
しかし、学校の教育方針は「個を育み、自由に学ぶ」──
生徒自らが未来を切り拓く力を育てるという特色もあり、
風評ほど悪くはないという話もある。
そんな学校に、飛星りりあは通っている。
休み明けの生徒たちが、思い思いに挨拶を交わす朝の風景。
元気よく教室の扉を開け、一人の少女が入ってきた。
「みんな、おっはよ~!」
挨拶をするりりあの愛嬌たっぷりの声量とは裏腹に、
「お…おはよ……飛星さん」「……おはよ……」
どこかよそよそしい空気が教室中を満たしていく中、
鼻歌まじりで席に着く、りりあ。
教室の後ろで微かに陰の匂いを漂わせながら、ひそひそと声を潜め話す女子たち。
「げっ…飛星じゃん…」「…また同じクラスかよ…」
その陰を吐き出すたびに、目を鋭く光らせる女子生徒がいた。
──富嶽 清美 (ふがく きよみ)
スラリと長い脚を組みながら、優雅に座るその姿はまるで、下婢を従わせる女王のようだ。
「……どなたのこと?」
首筋に刃物を突きつけられたような、鋭く冷たい視線が、取り巻きたちを動揺させた。
「あっ、スミマセン、清美さん。あの、大きな声で挨拶してたやつです。飛星って言うんですが…」
「ふぅん……」
長い黒髪をかき上げるその手の動きひとつで、周囲の空気が張りつめていく。
その光景は、場を支配する独裁者そのものだ。
そして、その視線はりりあのある一点に向けられていた。
まるで異質なものでも見るように。
「……あなた、飛星さんって言うの?変わったお名前ね?」
その声に振り向く、りりあの輝く目に相反するように、
陰を宿した漆黒の瞳がりりあを見下ろしていた。
周りの生徒が距離を取るほどの、威圧感が教室全体を覆った。
「うん!飛星りりあだよ!よろしくね。あなたは?」
恐れを知らぬ“光”が、今まさに漆黒の闇に飲まれようとしていた。
「こーらっ!清美さんを存じ上げねえのかっ!」
「こちらは富嶽家のお嬢様だぞっ!」
一斉に声を荒げたのは、取り巻きの亀井 (かめい)と岩谷 (いわや)だ。
「いいのよ、亀井さん、岩谷さん」
ひらりと細い手を差し出し、二人を制した。
「庶民の方にわたくしの名前が届いていないのは当然だわ。
訳あってこの学院に在籍しているだけで、滅多に庶民と話す機会などありませんもの」
「ですよねーっ!」
「さすが清美さんっ!」
それは尊敬か、それとも恐れか、取り巻きたちの言動にも緊張感が見えた。
「わたくしを知っていようと、いまいと……どうでもよいこと。──ただ…」
清美の視線が、りりあの通学バッグの端を捉えていた。
「そのキーホルダー、目障りですの」
「えっ、ルミナちゃんのこと?」
「ルミナちゃん……?」
「うん!プリ☆マジのルミナちゃん!」
大人びた容姿に高貴な佇まいを感じさせる清美にとって、
あまりにも純粋すぎる、りりあの眼差しがひどく幼く執拗に映り、清美の心を鈍く曇らせた。
「……マジかよコイツ……」
「ガキかよ……」
取り巻きたちの、小さく嘲笑う声が教室に響いた。
「あなた、本当に高校生ですの?こんなものをつけて、恥ずかしいとは思いませんの?」
「だって、ルミナちゃんは私の憧れだよ。だからいつも一緒にいようねって……」
──空気が凍りつくような、冷たさを含んだ静寂が教室を包む。
「……ふぅん……そう…ですの。……まぁ、よろしくてよ」
憐れむような侮蔑を滲ませたその眼差しの奥で、
遊び道具を与えられた子供のように、無邪気に笑う清美。
踵を返し去っていくその笑みに光はなく、黒さだけが異様に際立った。
「ルミナちゃん、ごめんね。怖かったよね……」
りりあは小さく呟き、キーホルダーに話しかけるように微笑んだ。
その背中に──
「……うわ……飛星のやつ、富嶽家を敵に回したよ……」
「……もう終わりじゃね……」
その言葉が、教室のあちこちで繰り返されるように響いていた。
* * *
事前登校の一件から、数日後——
橙色から藍色へグラデーションになっていく、山間部の美しい風景が窓越しに見える。
いつもより遅い帰り支度は、一層の寂しさと焦燥感を募らせた。
「居残り補習でもう5時半になっちゃったよ~、
今日は夕方からプリ☆マジのすぺしゃる番組があるんだから、急いで帰らなくっちゃ!」
宿題、予定表、保護者に渡すプリント。
いろんな紙を手当たり次第に通学バッグへ押し込んで、
カバンのチャックも閉めきらないまま、勢いよく教室を飛び出した。
ほの暗い廊下を駆けるその背中に、乾いた鋭い声が突き刺さった。
「ちょっと!飛星さん!」
反響したその声に、心臓が跳ねる音が重なる。
そこには清美と取り巻きの亀井、岩谷の姿。
頭の中で本能的に危険を知らせる警戒音がなる。
「…え?…何…?」
「…あなた、今日、掃除当番ではありませんの?」
「ちがうよ、りりあは今日お掃除当番じゃないよ」
窓の外では、先ほどよりも少しずつ藍色が辺りを支配していく。
「嘘よ。だって、ここに書いてありますもの」
不敵な笑みとともに掲げられた紙。
それは、掃除当番の割り振り表、下段にある「本日の掃除当番」の欄。
修正ペンで何かを消した跡があり、その上に雑に“飛星”と書かれていた。
「えっ? おかしいな~。りりあの方には“亀井”って書いてあるよ~?」
「それは、古い方の割り振り表よ」
清美の背後にいる二つの影が、嘲笑し小さく揺れていた。
「え…」
用紙を見ながら考え込むりりあに、
「ハイッ!」
亀井と岩谷がほうきとちりとり、雑巾が入ったバケツまで強引に押し付ける。
「わ、わあっ…お、重い~~っ」
「じゃあ、お掃除がんばってね~♪」
「がんばれ飛星~♪クスクス」
「負けるなりりあ~♪ニヤニヤ」
三人の嘲笑う声がいつまでも耳の奥で鳴っていた。
「…は、早くお掃除して帰らなきゃ……!」
床を掃き、ゴミを片付け、
小さな体のりりあには、相当な重労働だ。
焦りのあまり息が上がる。
「はぁ……はぁ……急がないと……」
夕焼けの名残が、そっと夜の色に溶けていく。
りりあの胸の奥も、ほんの少しずつ、静けさと冷たさに染まりはじめていた。
「あと少し……雑巾でここを拭けば……はぁ、はぁ」
純粋な性格だからこそ、人の期待に応えてしまう、
それがどんなに理不尽だったとしても。
疲れと焦りからか、足元にあったバケツの取っ手に、
りりあの足が引っかかる。
「あっ!!」
アルミの大きな金属音とともに、勢いよく水が広がり、
辺り一面を水浸しにした。
その光景に呆然と立ち尽くす、りりあ。
ふと見上げた黒板の上の時計。
チッ…チッ…チッ…チッ…
いつもは気にもならない時計の針の音が、
りりあには絶望へのカウントダウンに聞こえた。
「……はぁ……はぁ……はぁ……」
床に広がった水を見つめ、りりあの目に涙が滲む。
一人静かに一生懸命、濡れた床を雑巾で拭いていく。
「……もう、間に合わないかも……」
そうつぶやきながら見上げた窓の外には、鈍く沈む空が広がっていた。
すべてが終わったのは、空の装いが、
藍色から漆黒へと移り変わる、そんな頃だった。
* * *
帰り道も足取りは重く、玄関のドアを開けた。
「……ただいまぁ……」
夕飯の支度をする温かい音と、美味しそうな匂いがする台所から、
「随分と遅かったのね。何かあったの?」
振り返った母・美沙の目に制服を汚した、りりあの姿が映る。
「どうしたの?!制服、こんなに汚して……」
「……うん、今日ね、お掃除当番だったの……それで……」
そう言いかけたりりあに、被せるように美沙が言う。
「制服脱いで、先にお風呂に入っちゃいなさい」
「……うん……」
湯船の中で、りりあは静かに目を伏せる。
(……プリ☆マジすペしゃる……見たかったな……)
足を引っかけたところをそっとさすり、湯船に身を沈めながら、
りりあはぼんやりと、すりガラスの向こうを見つめていた。
かすかに揺れる人影——
制服の汚れを確かめているのだろう、美沙の姿がぼやけて映っている。
「……これは……落ちないわね~。明日、クリーニング行けるかしら」
「……ごめんね、ママ……」
湯の中で小さく身を縮めるようにして、申し訳なさそうにつぶやいた。
しばらくして、ふっと、湯気の向こうから柔らかな声が返ってきた。
「明日は日曜日だし、朝に持っていけば大丈夫よ」
その言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなる。
どこかホッとしたように、でもまだ少し涙が残ったように、
りりあは湯の中で小さく頷いたのだった。
最後まで読んでくださってありがとうございます。
ここから物語が動き出していきますので、楽しんでいただけたら嬉しいです。
次回はまた少し雰囲気が変わる展開になる予定ですので、よければお付き合いくださいね。
次回更新は【5月27日(火)18時頃】を予定しています。
よろしくお願いします。
※この作品は第13回ネット小説大賞応募作品です。