お空を憎んで御覧なさい【相楽花音1】
「はぁ……」
思わずため息をつくと、後ろで資料を確認していた兄が聞き流せばいいものをわざわざ反応した。目の前にある窓ガラスに顔を上げた兄が映る。
今この店長室には私と兄の二人しかいない。もともと私以外の部下は入らない場所だし、この部屋は兄が静かに仕事をしたい時に使う部屋なのだ。静かなので互いの声がよく聞こえる。
「どうした?」
「別に何でもないですわ。ただ、雨は憂鬱になりますわね」
窓ガラスの向こう側には、六月らしい梅雨の雨がしとしとと降っている。もう五日間も雨で、気分はだんだん落ち込んでゆく。
「そういや昨日は蓮太郎のとこ行けなかったからな。それで落ち込んでんだろ」
「……お兄様が役に立たないから」
「だったら電車でも使って行けばいいだろ」
兄は「何でもかんでも俺のせいにしやがって」と呟きながら仕事に戻った。
昨日は一週間も前から朱雀店に遊びに行く──兄いわく仕事らしいが──ことになっていたのに、雨でバイクが使えないからと無しになってしまった。バイクがダメなら車を出せばいいと言ったら、俺は車の運転は苦手だと返された。本当になんて役に立たない兄なのだろう。
そりゃあ私だって電車に乗ってでも会いに行きたいところだ。でも駅に行くまでに濡れてしまってはいけない。そんな服もメイクも崩れた姿なんて蓮太郎さんに見られたくないし、やっぱり兄が車を出してくれるのが一番なのだ。
それを兄はわかっていない!乙女心というものが!好きな人にはいつでも会いたいと思うものでしょう。この気持ちがわかるのなら、可愛い妹のために車の一つや二つ出せるはずである。まったく、無能!無能な兄ですわ!
「おい、お前今すげー失礼なこと考えてんだろ」
「人の頭の中を覗かないでいただけます?無能な上に変態なんですわね」
「兄妹だからって言っていい事と悪い事があるぞ」
ここでようやく私は兄の方を振り向いた。窓ガラス越しに話すのも疲れた。
「お兄様、今からでも蓮太郎さんの所へ行きましょう」
「雨降ってんだろ」
「お兄様も仕事で用事があるって言ってたじゃありませんの」
「別に出向くほどの事でもねぇし。今朝電話で済ましたよ」
私はぷぅと頬を膨らました。この不機嫌に気づいてほしいとかろだ。
「わざわざ俺と行かなくてもいいだろ。来夢とか暇そうにしてんじゃねぇか」
「来夢はノリが良くないですもの」
暇を持て余している私は、膝を抱えてイスをくるくると回した。兄は相変わらず、パソコンの画面と手元の資料の間で視線を行ったり来たりさせている。
今日は日曜日で、明日はまた学校がある。学校の後は会う時間があまり取れないので、なるべく今日のうちに蓮太郎さんの所に行きたい。そりゃあ兄は休日も平日も関係ないけれど、少しはこちらの事も考えてほしい。
と、机の上に置きっぱなしになっていた兄のスマートフォンが鳴った。兄は資料の代わりにスマホを掴んで耳にあてた。「もしもし」と言った直後に顔がにやける。まったく、気持ちの悪い顔ですわ。
おそらく電話の相手は茜さんなのでしょう、兄はへらへらとしながら会話をしている。茜さんという存在がいて、なぜ私の気持ちがわからないんですの!
通話を終えた兄は、携帯をジーンズのポケットにスマホを入れると財布を持って立ち上がった。ドアノブに手をかけてからこちらを振り返って、ムカつくことにこう言い放った。
「あ、俺ちょっと出かけてくるから」
私が何も言い返せない間にさっさと出て行く兄。静かな部屋に、ドアがバタンと閉まる音だけが響く。
しばらくして怒りがふつふつと沸いて来て、私はイスの背に置いてあったクッションをボカボカと殴った。
「ムカつく━━!ムカつきますわ━━っ!」
あんなの、どうせ茜さんに会いに行ったに決まっているのだ。新作のケーキが出来たとか、味見してとか、ついでに買い出しに付き合ってとか!私が蓮太郎さんの所に行きたいと言った時は「どうでもいい」って顔してたくせに!
私はクッションを殴るのを止めると、立ち上がって兄のパソコンに近づいた。馬鹿なお兄様、せっかく整理した資料を保存されていないじゃありませんの。
私はマウスをちょちょっと操作して、兄がついさっきまで作っていたファイルを消去してしまった。
「彼女に惚気ているからこうなるんですわ」
帰ってきてからせいぜい慌てればいいのだ。まだ怒りの収まらない私は、仮眠室でふて寝を決め込むことにした。もちろん、手作りの蓮太郎さん人形を抱き枕に。