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何も知らないままでいたい【瀬川陸2】




「リッ君」

呼ばれて振り返る。

「何ですか?」

自分の事を「リッ君」と呼ぶ人間はこの世に一人しかいない。バイト先の店長だ。

僕は学校で授業を終えて店へやって来たところだった。引き戸を開けるといつも通り店長がカウンターに座っていて、その脇をすり抜けて奥の自室へ向かおうとしたところを呼び止められた。

ちなみに、この店には一応裏口もあるが、従業員はそれを使わず表の引き戸から堂々と入るのが普通だ。裏口は「店長の家の玄関」という感じがして使いにくいというのが理由である。実際に裏口には店長の靴しか置かれていない。

「今日雅美ちゃんちょっと遅れるらしいからさ、それまで店番しててくれない?」

そういう事は店に入った時点で言ってほしい。とは言わずに「わかりました」とだけ答える。僕はすでに歩いてしまった数歩分戻ると、店長の代わりにカウンターに座った。

「じゃあお願いねー」

そう言ってさっさと外に出て言ってしまう店長。いつものことだ。僕は鞄から文庫本を取り出して読みはじめた。

文庫本を広げた次の瞬間、「店長はどこへ行ったのだろう」という疑問は掻き消えた。自分にとって店長の行き先なんてその程度だったらしい。

客が来る気配もなく、黙々と本を読み続ける。そこで、ふと思った。荒木さんが遅れる理由はなんだろう。

普通に考えれば、学校が長引いているのだろう。荒木さんは大学生だし、課題もそれなりに多いようだ。荒木さんは芸大なので手伝えることはあまり無いのだが。

だが、もし学校以外の用事だったら?そう考えてみたが、他の可能性が思い浮かばなかった。結局、僕は荒木さんの事をその程度にしか知らない。

誕生日や住所なんて調べればいくらでも分かる。そうではなく、荒木さんという人間を、僕は結局その程度にしか知らないのだ。

その時、目の前の引き戸が開いた。ぼうっとしていたので、つい過剰に反応してしまう。

「あ、瀬川君。また店番させられてたの?」

時計を確認すると、荒木さんの出勤はいつもより一時間遅れだった。荒木さんは僕の返事を聞かないうちに店の奥へ消え、しばらくして鞄の代わりにエプロンを巻いて出てきた。

「ごめんね、代わるよ」

僕は素直にカウンターから出た。荒木さんは本棚から数冊のファイルを抜き取ってからカウンターに座った。僕はそのまま自室へ行こうとしたが、思い止まって振り返った。さりげなさを装って聞いてみる。

「そういえば、今日は何の用事だったの?」

そう尋ねると、振り向いた荒木さんは少し驚いたようだった。思えば、僕から踏み込んで行くなんて初めてかもしれない。

「今日提出の課題やってたの。絵の具使わなくちゃいけなかったから」

僕は「そっか」と返して、今度こそ自室へ向かった。鞄を置いてパソコンを立ち上げる。

荒木さんの用事は予想通り学校の課題だった。予想通りではなかったら、僕はどういう反応をしただろう。同じように「そっか」と返しただろうか。

二時間前に出て行った店長を思い出す。あの人はどこまで気づいているのだろう。あの人の事だから、全てお見通しなのかもしれない。

荒木さんの答えがどうであれ、おそらく僕は「そっか」と返しただろう。さっきと同じ声の高さで、抑揚で、「そっか」と言っただろう。

店長が気づいているかいないかなんてどうでもよかった。ただ、現状の維持に努めた。そのくせ、新しい一歩を踏み出したがった。今を捨てて賭けに出るか、賭けに出ずに今を捨てるか。選ぶことなど到底出来ない。

結局僕は、臆病だった。





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