さあ、世界を愛そうか【寿等華深夜1】
「はぁ‥‥‥」
「どうかされました?」
ため息をつくと、一歩後ろを歩いていた部下が間髪入れずに尋ねてきた。
「何でもねーよ。いちいち気にすんな」
「そうですか」
雨のせいだろうか。イライラしている。できるだけ大きな声で後ろの部下に当たり散らして、部屋の隅でこっそり泣きたいような、そんな気分だ。
しかし今は仕事中。今日の夜行う仕事のために下調べをしに行く最中だ。深夜は心の中でもう一度だけため息をついて、歩みを早めた。
「本降りになりそうですね」
「仕事に影響すっから天気予報は見とけ、って前にばぁちゃんが言ってたな」
「そうですか。すみません、見て来ませんでした」
「いや、アタシも見てねーよ」
後ろの部下が、天気予報どころか流行りのドラマも見ないことを知っている。それは普通の人がテレビを見ながらダラダラ過ごしている時間を、少しでも強くなるために鍛練に費やしているからだ。だからこの部下が強いことも知っている。
そして、必死に鍛練を重ねるのは何より自分のためだということも知っている。
それは本当に馬鹿らしいことだと思うし、深夜には理解できないことだ。昔、ある部下に「せめて自分自身のために鍛えたらどうだ」と言ってみたことがある。そしたらその部下はこう答えた。
「いえ、闇鴉様が死ぬことは自分が死ぬことと同じ。例え自分の命を捨てても貴女を守れるように鍛練を重ねるのです」
それを聞いた時は「何の宗教だよ」と少し引いた。だいたい自分達の仕事は一方的に他者を狙うことなので、自分達が危なくなることなどそうそう無いのだ。
しかしその一ヶ月後、名前も知らないような下っ端の部下が一人殺された。依頼を受けてターゲットを殺しに行き、そのターゲットが雇っていた殺し屋と殴り合いになったのだ。
上の者達は「私達の存在がターゲットにばれていたのか」だの「次こそ仕留めなければ信用に響く」だの話していて、その末端の席に深夜も座っていた。
正直、そいつらが何を言っているのか意味がわからなかった。「葬儀は」と尋ねるとその場にいた全員から睨まれた。それ以上何も言えなかった。部下が回収した遺体は、無惨にも両足が折られていた。
深夜は、その名も知らぬ下っ端の部下に飯をよそってもらったことを覚えていた。
「この家ですね」
考え事をしているうちに、今回の仕事のターゲットの家に着いた。部下が少し後ろで、メモで表札を確認している。
「でけー家だな」
「コンピューター会社の社長らしいですね」
「そんなのが死んで大丈夫なのかよ日本」
家の周りをぐるりと回って侵入口などを確認する。家の裏で雨に毛を濡らしているゴールデンレトリバーと目が合った。しかし犬は吠えたりせずに、ただ地面に横たわってジッと深夜達を見ているだけだった。
「家の中に入れないんですかね。広いのに」
「せめて犬小屋くらい作ってやれって感じだよな」
重たい毛に隠れた犬の目が、まるで「助けて」と言っているようで深夜は思わず目を反らした。首輪に繋がれている鎖はひどく重たそうだった。
「だいたい見たしそろそろ帰っか」
相変わらず少し後ろを着いてきている部下は「そうですね」と答えた。
ザアザアと雨の降る街を傘もささずに歩く。天気のせいか、二人の間には重たい沈黙があった。
深夜は静寂が苦手だった。いつも仲間と騒いで笑っていた。どんなに悲しい事も、笑い声で吹き飛ばしてきた。
深夜は静寂が苦手だった。静かな夜が嫌いだった。そして、夜に行う仕事が好きではなかった。仕事に行く前は憂鬱になった。仕事で疲れたら、必ず昔の仲間の所に寄って帰った。
夜中なのに何も言わずに迎えてくれる、そんな仲間が大好きだった。
「あの犬」
「あ?」
「さっきのレトリバーです」
そう言われて、深夜は自分を見つめていた犬の目を思い出した。
「ああ、何か可哀相だったよな」
「隊長、逃がすおつもりではないですか?」
ギクリとした。深夜は心の中で、あの犬を今夜逃がしてやろうと思っていた。しかし迅速さが大事なこの仕事で、あの犬は荷物でしかなかった。
「‥‥あんなの抱えてたらさっさと逃げらんねーよ」
「私が運びます」
振り向いたら、部下は真っすぐに深夜の目を見つめていた。思わず足を止めた。
「お前まで巻き込めねーよ。ただでさえ最少人数でやってんだ。お前はすぐ逃げろ」
「何を言っているんですか。私達は、貴女の手となり足となる為に毎日鍛えているんです。貴女の決めたことならただ従うだけです」
部下は真剣だった。だから深夜も決めた。
「よしっ、なら今夜の仕事は社長の抹殺と犬の持ち逃げだ!ヘマするんじゃねーぞ!」
「はいっ」
「闇鴉様が死ぬことは私が死ぬことと同じ」。ということは、部下が死ぬことは自分が死ぬことと同じはずだ。なら全力で部下達を守ってやろう。それが隊長である自分の勤めだ。
そう思うと、濡れた髪も水を吸った羽織りも、不思議と重たく感じなかった。