序章
ヤン・ウェンリー。
この名を知る者の殆どは、自分が正しいと信じる彼に関する評価を持っていた。
民主主義の保護者、偉大なる戦略家、良識的軍人。これらが良い評価であり、矛盾の人、失敗した軍事ロマンチスト、大義名分にこだわった戦争屋などは、辛辣でありながらある点では的を得ている評価であろう。
奇跡のヤン、不敗の魔術師。つけられたあだ名は本人の意志に関わらず、彼の業績を端的に表していた。回復不可能な戦況において魔術を使い、奇跡の勝利を掴む。直接戦った者からは称賛をこめてペテン師とも呼ばれていた。
強大な業績をうちたて後世に名を残したこの人物は、帝国の同盟完全併合後に消息が不明となる。
帝国から戦争犯罪人としていされ、今も専用の衛星監獄に囚われている。
旧同盟の地下組織のトップとして人知れずに反帝国活動を営んでいる。
既にオーベルシュタイン元帥の指示で暗殺されている。
様々な噂や憶測が流れるものの、だれも真実には辿り着けていない。結果、不定期に発行される本の印税が、確実に作者と出版社を潤すだけとなっていた。
エンリッヒ・フォン・ルーベンデルトは、宇宙が統一されてから世に出たいわゆる新世代の一人である。戦乱の時期は辺境で過ごす一少年で、しかも貴族でありながら帝国大乱も統一戦争も一族がほとんど出征することなく過ごし、定期または不定期に届く中央からの情報で時世を知るのみであった。
帝国大学に新設された歴史学部は、彼を辺境から中央に飛び立たせる動機となり、無位無官の三男坊を下級とはいえ帝国官吏の職を与える切っ掛けとなった。
新帝国歴十年、国立帝国図書館司書補エンリッヒは今日も書籍を抱えて館長室に訪れていた。
扉を叩く音が三回三度続く。音の主エンリッヒは溜息をつきながら扉を開ける。彼の予想から一ミリも外れない。部屋の正面奥で大柄の男性でも寝転ぶことが可能な執務机の上に足を投げ出し、椅子職人が丹精込めて作成した最高級の椅子に背を預け目を瞑ったままの人物を視界に入れる。
「館長。ヨム館長!ヨム・レーンヴィ館長!!」
「あいた」
エンリッヒの三度目の叫びに近い呼びかけに、館長と呼ばれた男は椅子から転げ落ちてしまった。
「入ってもよろしいでしょうか、館長」
「ああ、エンリッヒ君か、いいよ、入りたまえ」
上司としての言葉といえば普通だが、床から肘を擦りながら立ち上がる姿はこの館の責任者には見えなかった。心の中ですでに百回は超えている感想を押し殺し、エンリッヒは部屋に入ると抱えていた本を執務机の上に置く。
「頼まれていた本をお持ちしました」
「そうか、ありがとう」
既に失態など忘れたかのように、彼が運んできた本を嬉しそうに館長は吟味する。
「噂だけが頼りだったが、まさかこの図書館に秘蔵されていたとは」
エンリッヒは自分が運んだ本の価値をそれほど重要だとは考えていない。どれも日記のたぐいでそれも傍流貴族や貴族に仕えた執事が執筆したものであった。
「それほど貴重なものなのでしょうか」
彼の言葉には否定的なニュアンスが含まれていた。悟った館長が急に真摯な表情で答える。
「もちろん公式記録ではなく、内容も書いた本人の主観によるもので、情報の精度も低い」
このような時だけ知的に見える館長の言葉は、普段の姿からは想像できない熱を帯び始める。
「しかしその時の生の声が記されている可能性が高く、また隠しきれない本音が含まれている場合も多い。歴史の証人として日記の価値は計り知れないよ。これなんかまさにそうだ」
エンリッヒは既に本に夢中になり始めた館長を前にして、四十過ぎとも言われる彼の容貌を改めて眺める。まず最初に四十を超えているとは思えない。若いというより苦労を感じない。おかげで由緒ある帝国図書館の館長と言われても、今だに腑に落ちていない。せいぜい主任司書か、もしくは出世よりも自分の趣味を優先させて専任司書で一生を終えるタイプ。
それが帝国学会の正会員で研究者や大学教授、もしくは貴族でなければつけないポストに、何の肩書も持たずに座っている。一説には学芸尚書のお声かかりとも聞くが、真相は同僚も先輩も知らない。
「ああ、済まなかった。よければ、どうだいお茶でも」
館長が退席を命じるまたは許可しない限り部下は動けない。そんな流儀をまたしても忘れてしまったヨム館長は、彼を労うためにお茶に誘う。
「はい、よろこんで」
本心かと言えば微妙なところだが、高級な茶を飲める機会はエンリッヒにとって貴重で、これまでも館長のお誘いには従うようにしている。
「銀河統一の成果は様々な産地の紅茶を飲めることだな」
開祖ライハルト陛下が聞けば激怒しそうな言葉を平気でする館長に、最近はエンリッヒも慣れた。最初は手伝おうとした紅茶の準備も今は館長に任せている。相変わらず紅茶の淹れる手さばきは普段の三倍は流麗だ。そんな感想を持っているうちに準備が終わり、紅茶のポットとカップが乗せられた銀盆を持った館長は館長室の左側、採光が十分な応接エリアに移動する。
「さて蒸らしはこのくらいか」
ヨン館長が自ら注ぎいれたカップをエンリッヒにすすめる。
「美味しいです」
これはエンリッヒの素直な感想であった。
「それでだ」
紅茶で口を十分湿らせたヨム・レーンヴィ館長は彼に向かって尋ねる。
「どうして実家を嫌って飛び出した三男坊の君が、ルーベンデルト家の家督争いに参加しようとしているのかね」
このひとは!
エンリッヒは危うく口に入った紅茶を吹き出しそうになりながら館長を睨む。温厚であるが愚鈍な館長がときおり見せる鋭い指摘は今まで外れたことが無い。
「他言無用で願います」
「もちろん判っているよ」
少し嬉しそうにみえる館長の顔に腹立たしいものを感じながら、エンリッヒは実家と貴族社会にまつわる話を始めた。




