√Lost
暗い昏い冥い。
水底のような微睡の中、意識がゆらゆらと揺蕩う。
色も音も、ここには何も無い。静寂が支配する精神の底。
自分は何なのか、何をしているのか。全ては忘却の彼方。
ただ、起きなければならないという思いはある。
だけれどそれは叶わない。
二つの闇が身体に纏わりついて雁字搦めにしている。指の一本ですら動かせない。
だから俺の意識はただひたすらに揺蕩う。
どれほど時が経っただろうか。
唐突に、激しい痛みが胸の中心に生まれた。
闇が胎動し、拘束が緩まる。
曖昧だった意識が少しだけ明瞭になっていく。
その時、ラナの悲鳴が聞こえた。
「いやぁぁぁあああああ!」
それだけは看過できない。
ラナに何かが起きているのならば、俺は命を賭けて救いに行く。ソレが唯一の誓いだ。
俺は闇を振り払い、意識の水面を目指した。
雨がポツポツと頬を濡らす。気温がとても寒く、肌に突き刺さる冷気は針のように鋭い。
そんな中、俺の意識は覚醒していく。
「……え? ……なん……で」
すぐ近くからサナの声が聞こえた。その声は酷く震えている。
「ウソ……。そんなことって……」
「……ラナ! どういう事だ!?」
カナタの声も聞こえてきた。酷く焦っているのが伝わってくる。
何か異常事態が起きている事は明白だ。
俺は鉛のように重い瞼を、ゆっくりと持ち上げていく。
すると目の前には大粒の涙を流すサナがいた。
……いや、サナ……なのか?
一瞬だけ疑問に思った。
声も、身にまとう雰囲気も、なにもかもがサナだ。
幼馴染で親友。そんなサナを俺が間違えるはずが無い。
だけど目の前にいるサナは、俺の知っているサナではなかった。
成長している。
そう表現するのが正しいだろうか。まるで時が飛んでしまったかのように感じる。
……何が……起きている?
記憶を辿るが、酷く曖昧だ。
頭の中に靄がかかったように思い出せない。
最後に覚えているのはラナを救い出した後、馬車での帰り道だ。それ以降の記憶がすっぱりと抜け落ちている。
今まで何をしていたのか、何があったのかが全くわからない。
何故、サナは泣いているのかすらわからない。
……どうした? サナ?
そう言ったつもりが、声が出なかった。
代わりにゴポォっと粘り気を帯びた水のような音がした。喉の奥に何かが詰まっている。
数秒もしないうちに呼吸が苦しくなり、俺は咳き込んだ。
そしてサナの顔になにか、アカイモノが付着した。
濃密な鉄の匂いがする。
血だ。
サナが一歩、二歩と後ずさる。信じられない、信じたくないとばかりに首を振りながら。
「私……。私……!」
そのまま顔に手を当てて、地面にへたり込んだ。
激痛のする胸に目を向けると、サナの聖刀フィールエンデが深々と突き刺さっていた。
何が起きているのかわからずに、ひとまず聖刀を抜こう腕を動かす。そこで気がついた。
左腕が消失している。
それだけでは無い。無事な箇所を探す方が難しいぐらいに俺の身体はボロボロだった。
……ん?
そこで少しの違和感がした。
深い裂傷のせいで途切れ途切れになった胸の封印。その模様が変わっている。
より複雑に、より難解に。
六つあった封印は、今やその五倍はある。
……なんだ?
頭が混乱する。
だがそんな事は後だ。
なにより優先すべき事はラナだ。あの叫び声は尋常ではない。ラナに何かが起きている。
そう考えて俺は周囲を見回した。
そこにいたのは勇者パーティの面々。各々が俺の知っているみんなではなかった。サナと同じように成長している。
ラナはアイリスに支えられていた。
二人ともボロボロになりながら、涙を流している。
だけど見た感じ、致命傷は負っていない。出血は多そうだが、おそらくアイリスによって治療済みなのだろう。
……よかった。
安心したら身体の力が抜けてきた。俺は立っていることもできずに膝をつく。
心臓を貫かれているのだ。
すでに限界は近い。
「……レイ!」
ラナが一瞬で駆けてきて、俺を抱き留めた。
「……ラ……ナ。……無事……か?」
「…………うん。……私は大丈夫」
嗚咽を堪えながらラナは言った。
「……なら……よかっ……た」
「ごめんなさい! ……私! 間に合わなかった! レイは私の事を救ってくれたのに、私は……!」
何が起きたのかはいまだにわからない。だけどラナが自分を責めている事は分かった。
だから俺は残った右腕でラナを抱きしめる。
「キミが……無事なら……それで…………いい」
それに致命傷を負っていても俺には回復する術がある。
封印の核。そこを解除すれば、ラナを救い出したあの時のように致命傷でも塞がる。
暴走してみんなには迷惑を掛ける事になるが、助かるにはそれしか方法はない。
「……ラナ。……封印……を」
核の封印はラナにしか解けない。そういう風にできている。
しかし、ラナは首を横に振った。
カナタが絞り出すような声で言う。
「……ダメなんだレイ。……次ソレをしたらお前は世界を滅ぼす。そうなったらお前は自らの手でラナを殺すことになる。親友としてそれだけはさせられない」
「…………なにが……あった?」
「正直、俺にもわからない。だけど……」
そして、カナタは信じられない事を口にした。
「……レイ。お前は魔王だ」
みんなの顔を見るが、誰一人として否定する者がいない。
なぜ俺が魔王になっているのか。
殺した時に何かされたのか。はたまた元からそういうものなのか。
疑問は尽きない。
だけど、みんながこんな時に嘘をつく連中じゃないのは分かっている。
共に戦った仲間なのだから。
分かっていることはただ一つ。
俺はもう助からない。
その事実が胸にストンと落ちた。
納得したわけではない。やり残した事も山ほどある。
なにより、ラナと共に居られないことがひどく心残りだ。
「……そう……か。……約束……守れ……なくて……ごめん」
「ううん。私、幸せだったよ。レイが救ってくれて、短い間だったけど幸せだった!」
ラナの腕に力が入った。俺も出せる限りの力を右腕に込める。
「サナ。カナタ……も、迷惑……かけたな」
サナは声を上げて泣いていた。
カナタは目を瞑って首を振る。
「迷惑なんかじゃないさ」
するとその時、一人の男が現れた。
見覚えのある男だ。何故ここにいるのかはわからないが一度会ったことがある。
仮面の男、エト。
勇者パーティのお披露目パーティーにいた男だ。
「……やはり、そうだったか」
仮面で表情は読み取れない。しかし、その言葉には悔しさにも似た感情が篭っていた。
「すまない」
エトが何者なのかはわからない。だけどここにいる以上は仲間なのだろう。きっとみんなに協力してくれたに違いない。
だから俺は首を振り、これだけを口にする。
「……ありが……とう」
俺の言葉にエトは息を呑んだ。
仮面の隙間から覗く瞳は揺れていた。
エトがそれ以降、何かを口にする事はなかった。
俺はただただラナを抱きしめ続けた。
意識が朦朧としていく。そろそろ時間切れらしい。
俺はいま一度、強く、強くラナを抱きしめる。
「……ラ……ナ。愛し……てる」
「……うん。私も! 私もずっと、ずっと愛してる」
それだけ聞ければ満足だった。
俺は霞む視界でカナタとサナを見た。
「あとは……頼ん……だぞ」
「ああ。あとは俺たちが何とかする」
「うん……! うん……!」
そして俺は迫り来る死へと身を任せた。
――その瞬間。
ソラに何かを感じた。
魔力というには重く禍々しい力の塊。
霞む視界ではうまく見えないはずなのに、ソレはハッキリと視える。
……なん……だ!?
穴の空いた心臓が激しく鼓動する。
身体の震えが収まらない。
あの魔王と対峙した時とは比べものにならない程の恐怖が襲いくる。
だが、問題はそこじゃない。
……なんで、誰も気付いていないんだ!
あれだけの存在感を放つナニカ。
しかし、仲間たちは何一つ反応していない。
天に巨大な亀裂が走った。
そしてゆっくりとゆっくりと、開いていく。
……まずい!
これを開かせたらいけない。
直感でそれがわかる。しかし、身体は動かせない。
俺は見ていることしかできなかった。
亀裂は眼だった。
天蓋を覆う巨大な瞳。
縦に裂けた瞳孔はまるで龍のよう。
ソレが俺を見た。
心臓が握り潰されたのかと、そう錯覚した。
文字通り、格が違う。
強さがとかそんな生やさしいものではない。
存在自体の格だ。
あれが神だと言われたら、俺はすんなり信じてしまうだろう。
その瞬間、俺の内に宿る闇が胎動した。そして身体から溢れ出し、抜けていく。
するとその闇が宙を漂い、サナの元へと向かっていった。
そこで俺は悟った。
……そういうシステムか!
俺は残った力を振り絞り、ラナを突き飛ばした。
そして聖刀を胸から引き抜く。
……戻れ!
そう念じるが闇が重い。俺の言うことを全く聞かない。
……クソ! 頼む! 力を貸してくれ!
俺は聖刀を握りしめ、構える。
魔王に対しての特効薬。それが勇者であり聖剣だ。
だから闇も祓える。そう思った。
だが――。
……ダメか!
聖剣は俺に応えない。
当然だ。勇者ではない魔王が聖剣を扱えるわけがない。
「レイ!?」
ラナが慌てるような気配がする。しかし気にしている余裕はない。
これだけは何としても防がなければならない。失敗したら待っているのは悲劇だ。
……頼む! なんでもいい! これで最期だから力を……!
だけど現実は非情だ。
振り絞った力もそう長くは続かない。
俺は地面に倒れ伏した。
宙に漂う闇が酷くゆっくりに視える。
痛みはもはや無い。それほどまでに死が近づいていた。
……頼む! 大切な親友なんだ! 俺はどうなってもいいから!
その瞬間、手の中に暖かい光を感じた。
ソレを刀だと認識した俺は即座に⬛︎⬛︎剣を放つ。
そこで俺の意識は途絶えた。
読んでいただきありがとうございます!
そしてお久しぶりです。平原です!
2章プロローグでした!
本編は今週土曜日から開始予定です!
楽しんでもらえたら嬉しいです!
よろしくお願いします!




