静寂の赫
轟々と燃え盛る炎が凄まじい勢いで氷のドームを溶かして行く。
大地に突き立っていた戦旗が耐えきれずに砕け散った。
それだけに留まらず、レオが操っていた炎さえも燃やし尽くす勢いだ。
炎が炎を燃やす。
全くもって理解できないが、そう表現することしかできない現象が目の前で起きていた。
「……ッ!」
突如として北の空に途方もないほどに巨大な魔力反応が現れた。視線を向けるとそこにも同じような火柱が突き立っている。
なにか異常事態が起きているのは明白だ。
……くそっ! サナとアイリスは無事なのか!?
北門には大切な仲間である二人がいる。
今直ぐに走り出したい思いに駆られるが、目の前の火柱から意識を外せない。
一瞬でも隙を見せたら死ぬ。そう思わせるだけの存在感が火柱にはあった。
……なんなんだ……これは……!!!
炎が炎を燃やす。それだけでも訳がわからないのに、この炎には一切の音がない。無音、まさに静寂。
「……まさか」
ゾクリと背筋が粟立つ。思えば、俺はこの感覚を知っている。
息が詰まりそうになる程の重圧。そして濃密な死の気配。
月の遺跡で俺たちの前に現れた正真正銘の化け物。
それは――。
「使徒……!」
俺はラナを守るようにして前に出る。
ここで戦いになったら不味い所ではない。枯死の翠と同規模の攻撃が出来るのであれば一瞬の内に王都は火の海と化すだろう。それだけは何としても阻止しなければならない。
しかしその瞬間、時間切れが訪れた。聖剣、天輪が消失し、因子が匣の中へと戻っていく。
肉体に宿っていた悪魔因子も例外ではない。身体が元に戻っていくのを感じる。
……クソッ! タイミングが悪い。
全身から力が抜けていく。
しかし今、膝を突くのは非常に不味い。使徒相手に隙を見せる訳にはいかない。たとえそれが虚勢だったとしても。
だから俺は気力だけでなんとか立ち続ける。
……いざとなれば。
俺は歯を食いしばり自分の胸に手を当てた。
「レイ。ダメだよ。絶対にダメ」
しかしラナを誤魔化す事はできなかったようだ。
だから俺は気丈に振る舞い、敢えて笑顔を見せる。
「大丈夫」
それは自分に言い聞かせた言葉でもあった。
でもやっぱりラナには通用しない。俺の考えていることなんてお見通しとばかりにトドメの言葉を口にした。
「それをしたらキライになるから。絶対に許さないから」
「……うっ」
俺にとっては一番効く言葉だ。もしラナに嫌われるなんて事になったら千の死を味わうより辛い。
簡単に決意が揺らいでしまう。
「大丈夫。私たちならそんな事しなくても勝てるよ」
「………………そう……だな」
お手上げだ。
恋人がそう言うのだから、男なら応えない訳にはいかないだろう。
「ラナ。刀を。大太刀で頼む」
「うん!」
手を差し出すと、すぐにひんやりとした感覚が手の中に現れた。
力の抜けていく身体を叱咤して、氷で出来た大太刀を握りしめる。
……何がなんでも守る。
そう決意を込めて、俺は構えを取った。
『――失敗したようだな』
炎から、厳かな声が響いた。
「はい。申し訳ございません」
レオが地面に膝を突き、首を垂れる。
そして数秒の沈黙を経て、再び言葉が響いた。
『まあ良い。一位を貴様しか投入できなかった以上、仕方のない事だ。だが、わかっているな?』
「はい」
『ならば早々に退くぞ。気付かれた』
その瞬間、遥か東の地で絶大なる気配が立ち昇った。俺は弾かれたようにそちらへと視線を向ける。
気を抜けば押しつぶされそうになる程の重圧。それは禍々しくも厳かな王者の気配。
この気配も俺は既に知っている。
……龍王……アルスター!
殺意とも威嚇とも取れる濃密な圧が遥か彼方からこの地へ向かって放たれている。
使徒と魔法使い。
双方が放つ強烈な重圧に空気が重くなっていく。
『忌々しい龍王め。……命拾いしたなヒトよ』
炎に目はない。しかし俺に意識を向けたのが手に取るように分かった。
『……ヤツらが居なければお前は既にこの世から消えている』
忌々しげに吐き捨てられた使徒の言葉。
しかし俺は使徒の言葉に違和感を感じ取った。
……なんでコイツは今すぐに俺を殺さない?
龍王は遥か東の地。守護天使は姿すら見せない。
もし使徒が本気になれば、魔法使いが此処に辿り着く前に俺を殺せるのではないか。そう思った。
これは賭けだ。もし今、この状況が使徒の気まぐれだったのならば次の一言で俺は殺させる。そう確信があった。
しかし使徒がこの場に現れた以上、今後も安心はできない。だからこそ確認しておくべきだ。
だから俺はその問いを口にした。
「……そう言っている間に殺したらどうだ?」
『………………過保護な事だ』
その言葉は俺に向けた言葉ではなかった。
恐らくレニウスが何らかの保険を俺に残しているのだろう。だから使徒はこの場で俺を攻撃できない。
『――行くぞ』
「はい」
苛立ちを含んだ声音にレオが頷く。
どうやらこの場で戦闘になるような事はないらしい。
そう思ったのも束の間、場違いに甲高い思念が響いた。
『いつも逃げてばかりだナ。静寂の赫』
声がした方向に視線を向ければ、そこにはカノンの肩に乗った漆黒の駒鳥が居た。
カノンもいつもの無表情を崩し、大きく目を見開いている。
使徒の意識が駒鳥に向くのがわかった。
『……貴様。……まさか悪喰鳥か?』
『頭まで悪いのカ? 他に何に見えル?』
『何故……。貴様らの星は既に……。――まさか』
使徒の意識がカノンに向いた。
『……幻鏡眼。それも空想幻界を写すとはな。計画に支障が出る可能性が極めて高い。此処で殺しておくべきか?』
使徒の殺気が増していく。
それは魔法使いの介入を許容してまでも殺しに来るという事に他ならない。
カノンの魔眼はそれほどまでに、使徒にとって厄介な存在らしい。ならば必然的に、俺たちにとっては切り札となるうる存在ということになる。
……いや理由なんてどうでもいいな。
前提としてカノンは大切な仲間だ。みすみす殺させる訳にはいかない。
俺は大きく息を吐き、集中力を高めていく。
身体は万全ではない。戦えるかはわからない。だけどやるしかない。
しかしそんな決意とは裏腹に気楽な声が響く。
『オ? やるのカ? 受けて立つゾ? オマエはマズイけどムカつくからナ』
カノンの肩で軽快にステップを踏みながら挑発する駒鳥。
なんとも締まらない絵面だが、殺意は本物だ。
空気は一触即発。いつ弾けてもおかしくない。
使徒と駒鳥、そして遠方の龍王。三者が殺意を持って睨み合う。
『……』
しかし不意に、使徒がその殺意を霧散させた。
『……退くぞ』
『逃げるんだナ?』
「……少し静かにしてビュート」
『ぐぇ』
カノンの手のひらに包まれ情けない声を上げる悪喰鳥。そこへ使徒の声が響く。
『認めよう。こちらが不利な以上、撤退せざるを得まい。ならばそう思われても仕方がないという物だ』
その言葉に俺は静寂の赫という使徒に対しての警戒心を引き上げる。
挑発されても乗らず、冷静に戦況を見極められる存在。敵対する以上、厄介極まりない。
「はっ」
レオが恭しく頭を下げると、火柱が収束し天へと昇っていく。
カノンの手のひらに包まれている悪喰鳥が何やら喚いているが、よく聞こえない。
思念と言っても声を発しているような物らしい。
そんな事を思っていると頭上へ向けてウォーデンが大声を張り上げた。
「レオ! 次にあった時は俺がお前を必ず殺す!!!」
「つけ上がるなウォーデン。お前に私が殺せるとでも?」
二人の視線が交差する。
「やるさ。シンシアを殺し、ルナを呪ったお前を俺は許さない。絶対にだ」
「……さらばだ」
レオはウォーデンから視線を切ると火柱と共に消えていった。
次の瞬間、東の地で立ち昇っていた気配が何事もなかったかのように霧散する。
俺はほっと胸を撫で下ろした。
ヒヤヒヤしたが、とにかく戦闘にならなくてよかった。ここで使徒に暴れられたら確実に王国は滅びる。
……しかしウォーデンとレオか。
二人の因縁。これはウォーデンが隠している何かの核心に迫るものだ。俺はそう確信していた。
……っと、まずい。
フラッと視界が揺れ、身体から力が抜けていく。
立っていられずに俺は地面に膝を突いた。
「レイ? レイ!!!」
ラナの声がやけに遠くから聞こえる。
なんとか立ち上がろうとするが身体が動かない。目を開けているのも億劫な程の脱力感が押し寄せてくる。
……締まらねぇな。
なんだか毎回、気を失っている様な気がする。
そんなことを思いながら俺は意識を手放した。




