ヒト
「――驚いた。まさか自力で此処に至るとは」
目を開けると異様な空間が広がっていた。
見渡す限りの凪いだ水面。上を向けば中天で昼と夜が分かれ、太陽と月が同時に存在している。
そして地平線には、遠近感がおかしくなる程に巨大なブラックホールが空間を歪めていた。
異様でありながら、どこか神秘的な美しさを感じる光景だ。
そんな空間に俺は立っていた。水の上に立っているというのに沈む気配が一切ない。
水の中を覗き込んでも、あるのは黒一色。まるで深淵が口を開けているかのようだ。人によっては恐怖を感じる事だろう。
しかし俺は恐怖どころか、この光景を美しいと感じていた。
「久しいね。柊木レイ」
声を掛けてきたのは目の前で静かに佇む天使。
背には純白の三対六翼。見に纏うは純白の法衣。長い金糸のような髪は重力に逆らって浮いている。
「……レニウス…………さま?」
天使であり、【守護】の概念を司る魔法使い。
かつて月で出会った魔法使いがそこに居た。
「様はやめてくれないかい? 私とキミはあくまでも対等であるべきだ。きっと私もそう思っている筈だよ」
違和感のある言い回し。しかし俺はとりあえず頷いておいた。今重要なのはそこではない。
「それで、此処は? ……いや」
俺は首を振る。その答えは既に自分自身の中にあった。
奇妙な感覚だ。自分の知らないはずの情報を知っている。
「……匣、か」
俺は小さな声で呟いた。
そして朝と夜が混在し、混沌の様相を呈している空を見上げる。
「そうか……これがヒトという種か」
自然と理解していた。此処がどこなのか、自分が何者なのかを。
ここは俺の内在世界、匣。
ヒトと言う種が生まれながらにして持つ、器官の様なものだ。それは魔術師が魔力を持つ様に、ヒトならば例外なく持っている。
匣はその名の通り、匣だ。
ヒトという種は匣に因子を取り込むことが出来、それが自らの力となる。
他者の力を譲り受け、戦う。それがヒトと言う種族だ。
……俺はヒトだったからこそ、鎧武者を喰らっても暴走するだけで済んだのか。
普通ならば器が壊れ崩壊している。かつてレニウスはそう言っていた。
俺がこうして生きているのは俺がヒトだったからだ。
それが今、解った。
「匣へ呼んだのはレニウスか?」
幸い、時間はある。
外では危機的状況に陥っているが、匣には時間の概念がない。
だからこそ、対話を試みる良い機会だ。
しかしてレニウスは首を振った。
「違うよ。さっきも言ったが、キミが自力で辿り着いたんだ。これには私も予想外だろうね」
まただ。レニウスは違和感のある言い回しをする。
自分の事だが、自分の事ではないような言い方。だけどその理由についても俺は理解していた。
「……天使因子」
目の前にいるのはレニウス=オルトレールであって、レニウス=オルトレールではない。
彼は【守護】の魔法使い、その力の源泉。即ち、俺が取り込んだ因子だ。
――調整だよ。キミ、自分の中身がどうなっているか正しく把握しているかい?
俺の胸に手刀を突き入れた後、レニウスが口にした言葉だ。今ならば解る。あの時、レニウスは俺に因子を取り込ませたのだ。
そしてレニウスは「調整は定着していない」とも言っていた。
推測するに、天使因子は匣で、俺の持つ因子の調整を行っているのだろう。
「調整は?」
調整が終わっているのならば、俺は再び闇を使える様になる。闇が使えれば鎧武者に貫かれた身体も再生でき、死ぬことはない。
しかしレニウスは首を振った。
「まだだね。後ろを見てごらん」
俺はレニウスの言葉に従い、背後を振り返る。
「いい機会だ。柊木レイ。まずは自分の中身を知ると良い」
そこには今まで俺が取り込んできた四つの因子があった。
氷で出来た鎖で雁字搦めにされている深淵の闇。
魔王であり勇者であった騎士が持っていた聖剣。
天使の象徴たる光輝の天輪。
そして見上げるほどに巨大な赤黒い球体。
闇は言わずもがな。
聖剣はこの身に魔王を封印した際に取り込んだのだろう。天輪は天使因子の核となっている因子だ。
この三つは知っているし、取り込んだ自覚がある。しかし、この赤黒い球体は知らない。
よく見ると表面が流動しており、血液のようにも見える。
天使因子が球体の前に浮遊しながら移動し、その表面に触れた。
すると、球体の表面が波打つ。
「これはライゼスの因子だね」
「……ライゼス」
前にレニウスが話していた魔法使いの一人だ。話によるとカナタが所属している日本魔術協会の始祖だとか。
しかし俺はそのライゼスとやらに会ったこともなければ見たこともない。
「間違いないと思うよ。ライゼスは悪魔の王であり真祖でもあるからね」
「真祖……。吸血鬼か?」
人間の血を啜る不死の怪物、吸血鬼。民話や伝説に登場し、日本では漫画やゲームにもよく登場する為、知らない人の方が少ないだろう。
彼らは血を吸う事で眷属を増やしていく。
そして真祖とは始まりの吸血鬼の事を指す場合が多い。
果たして同一の存在かは定かではないが、俺にとって真祖とはそう言う存在だ。
しかしてレニウスは頷いた。
「その通り」
確かに吸血鬼であるのならば因子が血液の形をしていても不思議ではない。
しかし問題は別にある。
「でも……俺は会ったことすらない」
「会っているはずだ」
レニウスは断言した。
「いや、会ったなんてモノではないね。この因子の量は長い期間、キミと共に居ないと取り込ませられないよ。……そうだな。柊木レイ。キミは地球を守ることが目的だとか言う人物に心当たりはないかい?」
――俺の仕事はこの星を守ることだからな。お前が暴走したら困るんだよ。
俺は爺の言葉を思い出していた。
一年半もの間を共に暮らし、俺に力の扱い方や戦う術を教えてくれた師匠。彼は確かに「星を守ることが仕事」だと言っていた。
「その顔はどうやら心当たりがあるようだね」
「……爺。……俺の師匠である神道尊だ」
弟子の俺でさえ爺の正体は掴めなかった。
俺が知ろうとしなかったのもあるが、改めて考えるまでもなく謎多き人物だ。
「当たりだね。そのミコトとかいうのが真祖ライゼスだ。……悪いけどこの事実は私に伝えておいて貰えるかい?」
「わかった。会えたら必ず伝えよう」
天使因子はあくまで因子でしかない。
おそらく目の前にいる天使因子は俺がレニウスと会った時までの記憶しか持っていないのだろう。
「会えるよ。そこは心配しなくていい」
天使因子が自信を持って言う。何らかの根拠がありそうだが、聞いても答えてはくれなさそうな雰囲気だ。だから俺は頷いた。
「……わかった」
「助かるよ。では本題だ。元はこの聖剣から邪神因子が出ていた。それを――」
「ちょっ! ちょっと待ってくれ!!!」
俺は慌てて天使因子の言葉を遮る。
今、何やら重要そうな単語があった。また話が逸れるが、これを聞かずにはいられないだろう。
邪神、なにせ神だ。
「その邪神因子ってのはなんだ?」
「闇の源であり、魔王の力の源でもある。だけど詳しくは言えない」
「……言えない? それはなぜ?」
俺は眉を顰める。
この期に及んで話をはぐらかされるのは非常に困る。
すると天使因子は肩を竦めた。
「別に意地悪で言っているわけではないよ。私はキミたちには別の答えに辿り着いて欲しいんだ」
「……別の……答え?」
「そうだ。この世界が辿るであろう滅亡の未来、その解決方法だね。私たち魔法使いは既に方針を定めて動いている。だけどキミたちには別に答えに辿り着いて欲しいと思っているんだ」
するとレニウスは微笑んでみせた。
「打てる手はいくつあってもいいからね。でもあまり私たちが情報を与えすぎるとどうしてもこちらの思考に引っ張られてしまう。だから言えない」
そう言われて仕舞えば、納得するしかない。
だけど聞いておかなければならないこともある。
「……そうか。わかった。なら言えないことは言わなくていい。だけどこれだけは教えてくれ。滅亡の未来ってのはなんだ?」
「……そうだね。それぐらいは知っていないと危機感を持てないか。いいだろう」
レニウスが大きく頷く。そして決定的な言葉を口にした。
「敵の……使徒の目的は創造主である邪神の復活。それは世界の滅亡と同義だ」
俺は喉を鳴らし、生唾を飲み込んだ。そして天使因子の言葉を口の中で反芻する。
「世界の……滅亡」
どうやらウォーデンが冒険者ギルドでいった言葉は間違いではなかったらしい。
現実味の無い言葉。しかし酔狂で言っているわけではない事は天使因子の瞳を見れば一目瞭然だ。
……それに俺はあの瞳を見ている。
未来で見た天蓋を覆う程に巨大な瞳。
ヤツは闇、正確には邪神因子を操り、魔王になった俺を殺したサナを魔王にしようとした。そんな事ができるとしたらそれこそ邪神だけだろう。
そう考えると辻褄が合う。合ってしまう。
天使因子の言葉が信憑性を増していく。
……そうか。
そこで俺は一つの事実に気が付いた。それは一つの希望。暗闇の中に灯る光だ。
「……ヒトには神を殺せるだけの力があるって事か」
だからこそ先んじて排除しようとしている。
そうならば使徒が俺を狙う理由も納得できた。
だけどレニウスは微笑むだけで、何も言おうとはしない
きっと「答えられない事」なのだろう。
「……わかった。敵の目的が知れただけでありがたい。話を逸らして悪かったな」
「構わないよ。必要な事だ。……では本題に戻るとしよう。さっきも言ったけど闇と魔王の力は元を辿ると同じ力なんだ」
「邪神因子だな」
レニウスは鷹揚に頷く。
「そうだね。だから魔王を封印し、取り込んだ時にキミの中で邪神因子が増した。それがキミがあの時、殺戮衝動に呑まれた理由だよ」
「調整っていうのは勇者因子と邪神因子の分離、そして封印の強化ってところか」
「その通り。話が早いね。既に分離は終わっている。しかし封印の強化は途中だ。だから今はまだ封印を解かせるわけにはいかない」
「……なるほどな。理解した」
だけど同時にそれでは解決にならない事を理解した。だから俺は言葉を続ける。
「なら質問だ。天使因子と悪魔因子、そして勇者因子のいずれかに再生能力はあるか?」
レニウスは俺の言葉に笑みを深くした。
それだけで答えには十分だ。
「行くのかい?」
「ああ。これだけの事がわかれば十分だ。助かった。ありがとな」
「構わないよ。私もキミに死なれるのは困るだろうしね。利害の一致と言うやつだよ」
「それでも、だよ。じゃあ……またな」
「……また」
手を振るレニウスを見ながら、俺は目を瞑った。
目覚め方はわかっている。後は戻って敵を討ち倒すだけだ。
――さあ、パンドラの匣を開けようか。




