夢
「ひさしぶり、ラナ」
俺は万感の思いを込めて呟いた。
記憶にあるラナとの思い出が色を取り戻していく。
あの頃と比べてお互いに成長した。ラナは大人になった事で、より美しさが際立ったように思える。
彼女は時間が止まってしまったかのように固まっていた。澄んだ海のように蒼い瞳で俺を見つめている。次々と流れ落ちる涙だけが、時を刻んでいた。
ラナの真っ白な頬に触れると、宝石のような涙が俺の手を濡らす。
親指で拭ってやるが次から次へと流れてくる涙は止まる事を知らなかった。
ラナが頬に触れた俺の手を愛おしそうに撫でる。
「ひさしぶり、レイ」
蕾がパッと花開くような、そんな笑顔をラナは浮かべた。
暖かな春。
今年は平年より桜の開花が遅く、散り始めるのが少し遅かった。
満開の桜に囲まれながら俺は中学生となり、同時に十三歳となった。
入学式。いつもとは違う非日常。
今日は新たにできた友達たちと、いろんなことを話した。
部活動はどうするのか、勉強はできるのか。それは他愛のない話だったが明日から始まる日常に胸を躍らせるには十分だった。
自宅に帰ってからは俺の誕生日パーティーが開かれた。
飾り付けられた部屋や机に並んだ多くの料理。これもいつもとは違う非日常。
親友二人とその家族も参加してくれて、俺は幸せな時間を過ごした。
こんな幸せな日常がずっと続く。この時の俺はそう信じて疑わなかった。
……ここはどこだ?
目を覚ますと俺は暗闇の中に一人佇んでいた。もちろんこんな場所に来た記憶はない。
……たしか俺は……。
記憶を辿る。
名前は柊木零。
誕生日パーティーの興奮が尾を引き、今日は少し夜更かしをしてしまった。ベッドに入ったのは日付を跨いだ頃だったと思う。
そして明日から始まる日常に思いを馳せながら眠りについた。
そこまでは思い出せる。
……ってことは夢か。
寝たら夢を見る。それは当然のことだが、夢を夢だと自覚できるのは特殊な夢だ。
いわゆる明晰夢というヤツだろう。
俺は幼い頃から心霊現象、都市伝説、魔法、魔術といった現実ではあり得ないとされている神秘的なモノに心惹かれていた。
きっかけは覚えていないが、気付いたらそうなっていた。
だから明晰夢がどういったものなのかは知識として知っている。
試しに頬をツネってみるとしっかりと痛い。
……ん? 痛い?
それもただ痛いのではない。現実のような痛みがあった。
……明晰夢ってみんなこうなのか?
まるで現実のような感覚を不思議に思った。
意識も明瞭で、体に触れると服の感触がしっかりとある。
足の裏からはゴツゴツとした硬い感触がした。
……硬い?
遅まきながらその時に気がついた。しっかりと地面がある。
軽く足踏みをしてみれば若干の凹凸があり、岩肌のような感触だ。
……って事は歩けるのか?
しかし、暗闇の中で歩くのは非常に危険だ。それぐらいはオカルト好きとして重々承知している。
こういう時はその場に留まって救助を待つのが定石だ。
しかし問題はこれが夢だということ。
救助なんて来るはずがない。
……というよりもこれはそもそも夢なのか?
俺はそこから疑問に感じてしまった。
さっきも思ったが、感覚がやけに現実的なのだ。ツネった頬は今だにジリジリと痛みを訴えている。
誘拐されてどこかの洞窟にでも閉じ込められていると言われたほうがまだ納得できるだろう。
これが夢だとは到底信じ難い。
……もしかして俺は死んだのか?
ふとそんなことを思った。
ここは死後の世界なのではないかと――。
だとしたら地獄だ。
音すらもない暗闇の空間。こんなところに閉じ込められていたら気が狂ってしまう。
人間というものは、無音空間に長くいると発狂してしまう生き物なのだ。
俺は急激に恐ろしくなり声をあげた。
――あげてしまった。
「誰か――」
声を発した瞬間、ゾッと背筋が粟立った。
凄まじい悪寒がする。何か取り返しのつかないことをしてしまった。そんな直感がする。
……なん――。
疑問に思いかけたその時、右腕に激痛が走った。
「……ッ! がぁぁぁあああああああ!!!」
視界があかく染まる。
あまりの痛みに思考がうまく働かない。
こんな激痛を感じるの生まれて初めてだ。
「ぐぅ……!」
歯を食いしばり、痛みに耐えるべく右腕を抑える。
しかし、それは失敗に終わった。動かした左手が空を切る。
代わりに何か温かい液体が左手を濡らしていく感触がした。
……え?
何度も右腕を探すが、俺の左手は空を切るばかり。
嫌でも理解した。
……右腕が……無い。
その時、唐突に視線を感じた。
それも一つや二つではない。無数の視線だ。
心臓の鼓動が痛いぐらいにうるさい。冷や汗が溢れ出し、全身の震えが止まらない。
「ヒッ」
喉の奥から小さな悲鳴が漏れ、無意識に一歩後ずさった。
――コツンッ。
足がひんやりと冷たい硬質な何かに触れた。俺は半ば反射的に振り返る。
瞬間、視界が晴れた。
それは真っ暗闇から暗闇になった程度の変化。しかし今までの異常な暗さではなくなった。
目を凝らせばなんとか見える。
「ッ!?」
そこにいたのは、バケモノだった。
かろうじて人型ではある。頭があって身体があって、手足がある。
だけどそのバケモノはあまりにも歪だった。
一際目を引くのは腕だ。とにかく数が多い。それこそ無数という言葉がしっくり来るほどの数。
それが肩口のみならず腹や腰といった本来腕のあるはずのない箇所からも生えている。
腕の種類も様々だ。
人間のモノから始まり、節足動物の様に細長いモノ、コウモリのように飛膜が付いたモノ、クラゲの様に触手じみたモノと、その種類は多岐に渡る。
頭部も人間のモノとは大きく異なっていた。
主に大きさだ。普通の人間の三倍はある。その表面はのっぺりとしており、三対の目があった。
その全てが俺を見つめている。
瞳の色は赤黒く、瞳孔は猫のように縦長だった。
そんなバケモノが息遣いが聞こえる程の至近距離で俺を見つめている。
……逃げなきゃ。
そう思う気持ちとは裏腹に、身体が竦んで言うことを聞かない。まるで金縛りにでもあったかのように一歩も動けなくなる。
そうこうしているうちにバケモノに変化が生じた。
目の下に亀裂が入り、上下に裂けていく。それはまるで口のようだった。
俺の予想を裏付けるかの様に口内には規則正しく並んだ人間の歯がある。
それがまた、果てしなく不気味に思えた。
バケモノが吐いた息が顔に掛かる。
とてつもない獣臭がして鼻が曲がってしまいそうだ。
何もかもが歪つ。
そんなバケモノの口が弧を描き、下卑た笑みを浮かべる。
「キヒッ」
次の瞬間、首に激痛が走った。腕に感じた痛みと一緒だ。
まるで熱した鉄板を直接押し付けられたような痛み。あまりの痛みに俺は絶叫を上げ……られなかった。
なぜか声が出ない。
困惑していると唐突に目の前にあった赤黒い瞳が横にブレた。と思った時には浮遊感を感じていた。
直後、後頭部に鈍痛が走る。
……は?
痛みも忘れ、俺は間の抜けた声を出した。
正確には声は出ていなかった。代わりに出たのはゴポッという湿り気を帯びた音だけ。
訳がわからない。理解が追いつかない。
……なんで俺は自分の身体を見上げている?
瞼がやけに重い。思考がうまく働かない。とても寒い。寒くて寒くて堪らない。
俺は薄れゆく意識の中で首を切られたのだと悟った。
……人って首を切られるとあんな噴水みたいになるんだな。
そんなことを思いながら俺の意識は闇に沈んでいった。
「キヒヒヒヒヒヒヒッッッ」
化け物は狂ったように嗤い続けていた。