プロローグ 「計画の実行は今夜」
「ご主人様が大怪我されました」
屋敷の裏のこじんまりとした離れで、昼下がりの春の風を気持ちよく受けながら、読書をしている半ば世捨て人のように暮らしている僕の元に父上の執事のコルツが血相を変えて飛び込んできた。
「えっ」
僕は読みかけの本を思わず落としてしまった。そしてばね仕掛けのように立ち上がった。
「父上は今どこに」
「医務室に居られます。今、領内の医者が総動員されております」
「案内を頼む」
僕はコルツの後を追うように駆け出した。
僕は、コルツが言うご主人様、マグナ・ブッコワース伯爵の長男でシドレ・ブッコワース、今年で漸く13歳になったばかりだ。
世間的には伯爵の長男なんていい身分だと思われるかもしれないが、現在僕はブッコワース家で冷遇されている。
僕の実の母親はハボクック王室の王弟殿下の側室の娘で、結構な美人で頭が切れて、芸術の才のある人であったらしいけど、流行病で僕が5歳の時、呆気なく天に召されてしまった。
僕は、今の継母となるスーチェとは微妙な関係にある。彼女は僕の実の母親とは正反対で、どこのアマゾネスかと言う肉体と、力こそパワーが信条で素手で熊とも渡り合えると言われる女丈夫だが、母親として実の子のダグを次期伯爵にしたいようなのである。
よくある話だ。
ブッコワース家は代々軍人の家系で、問題は力で解決することがデフォルトとされている。
領内の食糧難を解決するために筋トレを領民に強要すると言う離れ業を真顔で検討する領主なのである。
そんな、ブッコワース家で優男で、剣を取るより絵筆をとったり、楽器を奏でたりすることを好む僕は異端者であった。
「父上っ」
医務室に入った僕の目に入ってきたのは、ベッドに横たわるゴリラのミイラ………じゃない、ブッコワース家当主が包帯だらけになっている姿であった。
「父上がこんな事になっているのに、兄貴はのんびりしている」
先に病室に駆け付けていた腹違いの弟のマグナが非難がましく僕を睨みつけてきた。
「身体を強く打ったのですか」
僕はベッドの横で父上の容態を見ている医師に声をかけた。
「両足の膝を壊されています。治っても今まで通りに歩くことは困難でしょう」
僕の問いかけに彼はすまなそうに首を振って答えてくれた。
「藪医者ばかり、嘆かわしい」
継母様が憎々し気に医師たちを睨みつけ、彼らは青菜に塩のようにみるみるしょげて、小さくなっていった。
「………膝なのになんで全身包帯? 」
ベッドの上でモガモガと唸っている父上を見ながら僕は首を傾げた。
「骨折なんぞ気合で治すと言われて、暴れられるので仕方なく。いくら、じっとしていないと治らないと説明してもご理解いただけないのです」
医師たちは泣きそうな声を出していた。
彼らは口で言わないものの、居合わせる面々の中で脳みそが筋肉でない僕にすがってきているようだけど、哀しいかな僕には父上をコントロールできる力はない。
すまないと僕は彼らに目で謝罪した。
「マグナ様がこのようになられたからには、当面このブッコワース家は私が守ります。シドレもダグもまだまだ幼いですから」
継母様が唐突に爆弾宣言をかましてくれた。これには、ベッドの上のゴリラのミイラ………否、父上も抗議の呻きを上げるが彼女に耳にと届いていないようであった。
「俺は、母様の言葉に従う」
ダグの言葉当然予想できたものであった。そして、僕はと言えば
「継母様のお言葉とおりに」
と一言答えただけだった。
どこの世界に、権謀術策が渦巻く世界に、好き好んで自ら飛び込んでいく奴がいる?
自分の命を出世とか、地位の向上のためにベットするゲームに参加したいなんて奴は余程向上心がありふれているのだと僕は思っている。
そして、少なくとも僕はそうじゃない。
できれば、そんな世界とは遠い所で、ゆっくりと過ごしたいのが僕の本音だった。
実際の所、伯爵家を継ぐなんて思いを僕は毛頭持ち合わせていないのだ。
でも、これを言ったところで誰も信じてくれないことは悲しいことに事実だった。
「私は、暫くここで伯爵様の看病を致します。当面の領内の運営は家令のナグスに任せます。判断事項があれば、私に報告しなさい」
継母様は、さらっと家令のナグス、ランド・スチュワードを長年勤めているイイ感じのナイスシルバーに言いつけた。
「は、仰せのままに」
ナグスはこんな重要な事をさらりと認めた。この領を実際回しているのは父上ではなく、ナグスなのであるが、それはそれとして、これからのこの領は継母様とナグスによって運営されるって宣言する継母様に僕は不安を感じた。
【何か、ヤバイ感じがする】
自らがこの領の舵取りをすると言いきった継母様の僕を見る目は、お茶の時間に出されたカップとソーサーが別物だった時のような、異物を見るような目に感じられた。
僕の単なる思い過ごしと自分に言い聞かせたかったが、今までの冷遇、本館に住まわさずに離れに最低限の使用人と共に追いやったことを考えるとその考えが甘すぎるとの結論に至った。
「父上………」
ここで僕は継母様に一世一代の三文芝居を演じてみせる。
ベッドの上で包帯に拘束され、モガモガ言っている父上をじっと見つめて呟くと、その場に膝から崩れ落ちた。
「シドレ様」
父上の侍従や家令のナグスが声をかけてくる。
彼らの言葉を聞きながら、僕はゆっくりと立ち上がると悲壮な表情を浮かべる。
そして、心配させまいとするような力ない笑みを浮かべた。
「後は継母様、医師の方にお任せします………、気分が優れないので戻ります………」
僕はそれだけ言うと、フラフラとした足取りで医務室から退出した。
「若様」
医務室から出ると僕専属の侍女のシュマが心配そうに駆け寄ってきた。
彼女の名は、シュマ。平民だから姓はない。真っ黒なレトリバーを思わせる犬族の獣人である。
僕より2歳年上の15歳、豊かな体躯とほんわかとした女性らしい人である。
僕の母上と同時期に流行病で両親を亡くしている。僕が3歳の時からの付き合いである。
「さすが獣人だね、凄い聴力だよ。何ともない。演技だよ」
僕は心配そうに寄り添うシュマにそう言うと、声を思いっきり声を潜めた。
「計画の実行は今夜」
「!」
僕は、シュマの瞳が大きく見開くのを見て、これが僕たち真人だと顔色を失っている状態なんだなと真っ黒な彼女の顔を見ながら呑気に考えていた。
「離れに帰ったら、リナとジャグにつなぎをコレットに取らせる。シュマは荷物の準備。絶対に気取られちゃダメだよ」
シュマの肩を借りてふらふらと歩く演技をしながら僕はシュマに小声で指示をだした。
「了解しました。計画実行ですね。若様、これで自由ですよ」
驚きはしたモノのシュマの表情は明るかった。きっと彼女もこの生活に辟易としてるのだと僕は思った。
「コレット、来て」
離れに帰るなりシュマは声を上げた。
「五月蠅いよ。聞こえているよ」
シュマの声に足音もなく白い影がすっと現れた。彼女の名はコレット、シュマほどじゃないけど、グラマラスな真っ白な猫族の獣人、年齢はシュマと同じ15歳、彼女も両親を流行病で無くしている。そして、僕が3歳の時から付き合いである。
「今夜、計画を実行する。リナとジャグに今夜計画実行だと伝えて。それが終わったら、気取られぬように荷物の準備だ」
「!」
コレットは僕の言葉に尻尾の毛をブワッと逆立てるのを見て、いつもマイペースな彼女でもこれは驚くんだなと思っていた。
「若様、畏まりました」
コレットは僕に一礼すると、音もなくさっと身を翻し視界から消えて行った。
「シュマ、今夜の食事は弁当にしよう。リナとジャグの分もお願いするよ」
「畏まりました。まずは、その前に荷造りしますね」
心配させまいと言う気づかいか、いつも調子なのかシュマは明るく言うと荷造りするために駆けて行った。
「ここに帰ることはなくなるんだな」
僕は感慨深く離れを見回した。
この離れは、伯爵家の長男が起居するにはとてもとても質素なもので、1階はホール、その横に食堂、厨房、反対側に応接室と浴室があり、僕は2階のベッドと執務机をソファーセットで部屋の7割が占められている部屋で生活している。シュマとコレットは隣の僕と同じぐらいの大きさの部屋を2人で使っている。
僕の住んでいる離れは、父上の弟、つまり叔父さんが造ったもので、叔父さんが出奔した後、ここに居るのはいつも僕と侍女の2人だけ、来客もなく、父上、ましてや継母様やマグナが尋ねてきたことはない。
来客がないのは、皆、継母様のご機嫌を忖度しての行動だった。
父上は脳みそが筋肉なので、後継者とか今後の領の経営なんて脳みそが筋痙攣するので一切手を出していなかった。彼が唯一、力を注ぎ、無い知恵を絞るのは戦や不埒者の討伐などの筋力を必要とする事のみだった。
恐ろしいことにブッコワース家の当主は代々皆、脳みそが筋肉でできていたことだった。こんなので、良くここまで家が持ったもんだと、ブッコワース家の一員として僕は不思議に思っていた。
ただ一人例外がいた。それはエンフ叔父さんだった。
エンフ叔父さんは、脳みそ筋肉の家系には珍しく、学問に目覚めた人で騒がしい本館での生活を嫌って離れを造ってそこで晴耕雨読ならぬ晴読雨読の生活をしていたんだけど、母上が亡くなった時、ふらっと出奔してそれっきりの人だった。噂ではどこかの山奥で隠者になっているとか、どこかの国で軍師をしているとか噂されているけど、はっきりしたことを知っている人は僕の周りにはいなかった。
「若様、リナとジャグには伝えました。今夜、計画の通り落ち合います」
いつの間にか戻ってきたコレットが恭しく僕に報告してきた。
「君たちとあの2人がいれば心強いからね。………この計画に君たちや彼女らを巻き込んだことに、すまないと感じている。僕の我儘に付き合いたくなかったら、この場から去ってもらっても、継母殿の下についてもらっても構わない」
僕はコレットとシュマにそう言うと頭を下げた。
「若様っ、ふざけないでくださいっ」
コレットがいきなり僕を怒鳴りつけた。彼女の尻尾はぶわっと逆立ち、瞳はまん丸になっていた。
「私の忠誠はブッコワース家ではなく若様に捧げられています。若様のためなら、若様が笑顔になられるのなら、この身、如何様にでもする覚悟です。この覚悟を安く言わないでください。このコレット、いつまでも、どこまでも若と一緒です」
コレットはそう言うと立ったまま大きな目から涙をこぼしていた。
「シュマも一緒です。どこまでも、若様に来るなって言われてもついて行きます。今更、捨てるなんて言わないでください」
シュマは悲痛な表情で言うと僕にぶわっと抱き着いてきた。
「シ、シュマ、何どさくさに紛れて羨ましい………、けしからんことをしているんですか。その位置は、シドレ様の家臣筆頭であるコレットのものです」
コレットはそう言うと、シュマを押し退けるように僕にしがみついてきた。
「さらっと怖いことを言わないでください。家臣筆頭はこのシュマです。そして、シュマは未来の正室です。コレットには側室の立場を確保してあげます」
「正室は、私、コレット以外あり得ません」
2人が僕を挟んでギャーギャーとやりあい、僕は彼女らのふくよかな胸に挟まれるという、なんとも言えない至福の一時を味わっていた。
「君たちがついてくれると聞いて、とても嬉しいよ。でも、正室とか、側室はまだまだ先の話だよ。今は、滞りなく計画を進める事。きっと継母様の配下が僕らを見張っているはずだよ。いつもの調子で、気取られることなく慎重に進めよう」
僕がそう言うと、彼女らははっと正気に戻ったようになって、粛々といつもとおりに、僕はダラダラと夜になるまで過ごした。
ご笑覧頂ければ幸いです。