第一章:第三話
◇ ◇ ◇
俺が仕事を終えて帰宅し、風呂場から出たのは夜中の二時頃だった。
今日も日付が変わる直前まで働いていた為、風呂場で眠ってしまった所為もある。
更に両親は俺を置いて遠い国に移住しており、出迎えてくれる人も居ない。
まぁ母さんにも父さんにも人生があるから、仕方ないな。
「あぁぁ。ゥぁ~~、辛すぎぃ」
何かすると怒られ、何もしなくても怒られ、上司同士は仲が悪くて板挟み。
こんな辛い毎日がどれくらい続くのか。俺はソファに仰向けで寝転びながら愚痴る。
「はぁぁ。明日は休みだ……早く寝よう」
窓から見える夜空を眺めていると、心が安らぐ。
俺が黄昏れていると、窓硝子から影が滲んで黒点が現われる。
最初は豆粒ほどの大きさで、灯りに照らされた虫の影かと思ったが……すぐに異常に気づく。
黒点がどんどん広がっているのだ。
「ぇっ、ぁっ。はぁぁ!?」
遂に黒点は立体を伴い、紫電を放つ黒球として顕現する。
俺は唖然として見ている事しかできなかった。
窓辺で黄昏れてたら怪奇現象に襲われるなんて、誰が予想出来る?
だが困った事に世界の時間は誰にでも平等である。黒球の変化は止まらない。
黒球は広がり続け、夜空の星々にも似た燐光を放つ『門』へと変わる。
「何だってんだこれっ、ぅぉおっ!?」
「よぉっと。とうちゃぁあああく!!」
門から出てきた物が何なのか、一目見て理解出来なかった。
長袖の純白上着、装飾の無い茶色のズボン。艶やかで短い黒髪。
何よりこんなに平たい顔と胸の女は見た事が無い……まるでゴーレムだ。
「流石ボク! 天才だ!」
「……ぇ、ぁ。だ、誰だアンタ?」
俺は自室に現われた謎の生命体を見て固まった。
こんなに驚いたのは、ルシア社長の昼寝中に鼻息ブレスの映像が直撃した時以来だ。
「おぉ現地人。なぁ君、此処は地球かい?」
「地球?……もしかして酔っ払ってんのか?」
俺は彼女の言葉に困惑した。その言語に聞き覚えが無かった。
何で神代より神々に与えられた筈の共通言語を使わない?
俺が使えるから会話が成り立つが、どっかの神格の戒律だろうか。
「誰なんだアンタ?」
「ボクの名前は、庄崎朱音!! 異世界から来た!!」
「うん。そうじゃなくてアンタはどうして俺の家に入ったんだ?」
俺はソファから上体を起こして、質問を繰り返す。
すると彼女は全身を震わせ、無邪気且つ満面の笑みを浮かべて叫ぶ。
「異世界に行ける機械を使ったのさ!! つまり異世界人だよ!!」
「……人の話を聞かない天才かよ」
俺は口出しせずに、現れた不審者の様子を伺う。
彼女のテンションは留まる事を知らず、俺を見て次々に質問を繰り返す。
「この世界の名前は! 何時代だ!? 人間はいるみたいだけど、どんな世界っ!?」
「イノセンスだよ……時代って言われても困るけど。中層世界イノセンスだ」
俺はこの世界の名前を答えつつ、部屋から逃げる為に体勢を整えた。
黒球は魔法や魔術式には見えないし、正体も分からん。
だが彼女が不法侵入者という事実は変わらない。警兵に突き出すべきだ。
「それじゃぁちょっと、俺は用事があるから……」
「待て。君は愚劣でマヌケな行為をしようとしているぞ」
彼女の瞳が俺を捕らえた時、思わず俺ははっとした。
声音から発せられる覇気から、高い知性と教養を感じた為だ。
こんな事はルシア社長と初めて会話した時以来である。
「僕は天才科学者。アカネなんだぞ?」
「……それで?」
「ノーベル賞も取りまくり、世界中の頭脳労働の記録を塗り替えた天才さ」
「不審者なの変わらないよね?」
「僕は宇宙に穴を開けて、別時空に飛び込む研究をしていたんだ。学会じゃ無駄だとかメルヘン頭だとか、馬鹿共が録に取り合わなかったがね!」
「……あの」
「だがまぁ良いさ。成功したという事は僕の理論は間違って無かった!」
「……その」
「証明しよう。異世界転移マシンのワープゲートから地球を見れば良い」
「めっちゃ早口で喋るじゃん、アンタ」
アカネさんの圧力に口をはさめなかったが、大凡の状況は掴めた。
彼女は御伽話である科学文明の住民で、科学機械を使って世界転移したと言う。
それは良いんだが……。
「ゲートって、黒球の事か?」
「あぁっ! 今はワープゲート式だが、いつかは物理的な扉を繋げるつもりだよ」
「……少し前に閉じてるけど」
アカネさんが長話を始めた辺りから、閉まり始めた『門』は先程閉じた。
彼女は俺の言葉にヘラヘラ笑い、『門』があった場所を見て目を逸らし二度見する。
最後の表情は隕石が降ってきたかの様に、強烈且つ壮絶な表情だった。
「へ?……へぁっ!?」
「中を覗くから開いてくれ」
「ちょっと待ってくれ。閉じた? 何で?」
アカネさんの独り言を聞いて、俺は逃走及び通報を再度考えた。
悪く思わないでくれ。俺は小市民であり、自分の身を守る義務があるんだ。
だが事態は俺の予想とは違う方向に転がって行く。
「くうっ、くっくっ……ううっ!ううっ!」
アカネさんが突然。ぼろぼろと涙を零して膝から地面に崩れ落ちた。
俺は窓に体を乗り出していたが、彼女の泣き声に思わず振り返ってしまう。
「どうしたんだ?」
「か、帰れない。地球に帰れないんだっ!」
「……は?」
俺は言葉を理解するのに、三拍程かかった。
そして俺はアカネさんの隣に座り、背中をさすりながら話しかける。
「元の世界に?」
「も、との世界に……わぁぁぁあ! うわぁぁーっ!」
俺は泣き出したアカネさんの隣で、どうして良いか分からずオロオロしてしまう。
その間も彼女は赤ん坊の様にグズり出す。
俺はそんな彼女に、当たり障りの無い言葉を吐く事しか出来なかった。
◇ ◇ ◇
「うーぅう……ぁぁあ」
「よしよし。ゆっくり呼吸してね」
彼女が泣き初めてから十五分後。
今の彼女は泣き疲れたか、座り込んで嗚咽を漏らしている。
俺はアカネさんの泣き声で、近隣住民から通報されないか冷や汗をかいていた。
「し、信じて貰えなっ。ないかもしれないけど、僕は……本当に異世界から来たんだ」
「確かに俺達ヒュージンとは少し違うね」
「……顔とか?」
「顔で種族違うって言う程、俺は畜生じゃないぞ」
彼女の背中をさすってる間に気づいた事がある。
アカネさんは明らかにおかしい。体内のマナが余りにも希薄だ。
俺の従兄弟が生まれた時でも、もう少しマナが宿っていただろう。
成人したヒュージンは魂の意思がマナを引き寄せ、肉体に宿る事で力が強くなる。
つまり彼女は中層世界や天界、魔界の人間ではない。
「何か飲む? オオカムヅミのジュースか、ココア位しか無いけど」
「……ここあ」
「了解。ココアね」
俺はキッチンに行くと鍋にミルクを注いで、机状の鉄板に刻まれた魔術式に触れた。
弾ける音と共に、火の玉が円を描いて現われる。後は鍋をかけるだけだ。
焦げると嫌なので魔術式を指先で回し、火力を調整するのも忘れない。
「……今のはなんだい?」
「うおっ!?」
耳元で声がかけられた拍子に、俺の首筋に息があたって驚く。
振り返ると目を真っ赤に腫らしたアカネさんが、我が家のキッチンを覗き込んでいた。
目を爛々と輝かせており、興味津々である。
「何って、マギストーブだよ」
「ストーブ? ここは日本じゃないのかい?」
「にほん?」
アカネさんがコンロじゃないとか、欧米かとか言いだして考え込む。
一度考えると、周りが見えなくなる様だ。
俺はコップに沸騰したミルクとココアパウダーを、たっぷり注いで良く溶かしておいた。
「まぁ良い。今のはどうやって動いたんだい?」
「魔術式で火を付けただけだけど……」
「魔術式? 待ってくれ! それは魔法かいっ!?」
確かにウチのキッチンは古いが立派な魔動具である。
自然現象である魔法と同列に語らないで欲しい。
だが彼女の圧力に俺はグイグイ押され、文句一つ言えなかった。
「い、いや魔法じゃないけど……」
「魔術式なのにっ!?」
アカネさんの様子を見て、俺は新たな疑念が湧き出た。
俺の勘は鋭く無い、むしろ鈍い方だ。だが彼女のリアクションは演技には見えない。
本当に喜び驚いて、興味を持っている……もしかしたら、もしかするのか?
「魔法じゃないなら動力は!? 供給方法はっ!?」
「……とりあえず落ち着いて、ココア飲まない?」
「落ち着いてられないよっ!」
喚くアカネさんだが、ココアを差し出すとすんなり落ち着く。
俺達は居間に移動すると、彼女の質問よりも大事な事を聞いた。
「ストーブの事はともかく、まずは自己紹介しない?」
「……そういえば君は誰だ?」
アカネさんは黒球から飛び出して以来、泣いて喚いて騒ぎっぱなしである。
俺の名前も聞いてないので、彼女は俺の素性を知らない筈だ。
「俺はスティール・ワーク。ここは俺の家で、寝ようとしたら君が現われた」
「スティール君だね? 分かった。覚えてあげよう」
喜びたまえよ。彼女は自信満々に言う。
俺は俗っぽい所作に、異世界人疑惑を撤回しようか考えた。
「とりあえず君が異世界人だとして」
「とりあえずも何もないぞ」
「茶々を入れる天才かよ……」
ボクは万能の天才だ! と叫ぶアカネさんに溜息が出そうになるが耐える。
俺はこの家で唯一の味方である、ココアを口に含み落ち着いた。
ココアは良い。ミルクと滑らかな甘みが、ストレスを緩和してくれる。
「話を整理すると、宇宙だとか地球って場所から来た人間なんだね?」
「あぁ。地球人の日本人。ピッチピチの二十歳さ!」
「それで科学者であると……」
「君は僕の実験に携われて実に幸運だねぇ。後は世界中に発表して、教科書に載るだけだ!」
俺は言葉を続けるか悩んだ。
嬉しそうに夢を見ている子に、現実を突きつけるのは気が引ける。
だが互いに大事な事だ。許して貰おう。
「それで、帰れなくなったっていうのは?」
「……ワープゲートが開かないんだ。計算なら開ける筈なのに」
「機械の故障かい?」
「ボクに限って、そんな事は無い……よ」
アカネさんは自信なさげに、変な棒のスイッチを握り締める。
カチカチと音だけが部屋に響き、何かが起きる様子は無い。
彼女が落ち込み始めたので、話題を変えよう。
「空間転移なんて無茶したなぁ。生存できない環境ならどうしたんだ?」
「いやいや、勿論準備したとも。マウスの投入実験とか機械実験とか」
「聞き捨てならない話が聞こえたぞ!?」
確かにここ最近、俺の家でネズミが出た。
アカネさん……お前の仕業だったのか。
「まぁ良い、一旦置いとこう。科学に詳しくは無いけど調査はしたんだ?」
「あぁ、したよ。優先カメラを使っての機械実験や調査端末を投入してね」
じゃないと生存可能な環境か分からないし、妥当だな。
俺がそう考えてると、アカネさんが目線を逸らして呟く。
「機械実験は一切データが観測出来なかったけど……」
「君はなんて無謀な子なんだ」
前言撤回しよう。この子大丈夫か?
データが一切分からない、どこに飛ぶか分からない場所に突っ込んだって……。
「あの穴からこっちを眺めていれば良かったろうに」
「ワープゲートからデータが取れないんだ。光も通さないから見る事も出来ない」
その後も実験について楽しげに語らう彼女は、心が安定した様だ。
代わりにマウス実験について詳細を聞いた俺は、大変疲労感を覚えたが。
「とにかく今は、帰り道が開かないと」
「うん……」
「……当然パスポートも無いと」
「まぁ……」
……憲兵に突き出すべきかな? 一般人が関わっちゃいけない気がする。
アカネさんの為にも俺の安全の為にも、そうするのが一番じゃないか?
その時、アカネさんが目元を潤ませている事に気づいた。
俺が何を考えてるか分かった様だ。
「……」
でも憲兵に突き出して、この子は大丈夫だろうか。
言ってる事が本当なら、国がどう動くのか想像できない。
ホテルを借りさせるにせよ、戸籍も無い人間に貸してはくれないだろう。
かといって俺の家に泊めた場合、彼女が犯罪者なら俺の身と資産がヤバイ。
「……」
俺は腕を組んで悩む。
これが男気のある奴なら一発でバサっと決めるのだろうが、俺は小市民である。
暫くの間、時計の針が動く音に耳を傾ける。そして決心した。
「……良かったら今日は、ウチに泊まる?」
「いいのかいっ!?」
「まぁ深夜に憲兵のところに行って揉めるのもね」
俺は馬鹿だから、考えた所で事の真偽なんて分からん。
だけどアカネさんが言った通りの立場なら、そう言って欲しい筈だ。
きゃっきゃと喜ぶ彼女を背に、俺はココアのおかわりの準備を始めた。