2.父は娘をひとりにしない
コンラートは、両手を握りしめてカッサンドラの後姿を見送った。
その夜はカッサンドラのアパートメントのソファに座ったまま過ごし、朝を迎えた。
三日後、コンラートはパン屋を任せる人々に別れを告げた。
「後は頼むぞ。俺はこの街を護る」
「親方、お願いします、必ず帰ってください」
「教えてもらいたいことがいっぱいあるんです」
パン屋は長い間コンラートとともにパンを作ってきた男に任せることにした。男は左足が義足で戦場に立つことはできない。男の妻と、カッサンドラの幼馴染だったその娘、そしてエリンの友達だった孫が重い物を運ぶことのできない男の補助をする。
「任せろ。俺はパン屋を継ぐ前は軍曹だった。
戦闘機が空爆に来たら、俺が撃ち落としてやる。お前らはパンを作ってくれよ、頼りにしてるからな」
「親方、無茶しないでくださいよ」
「この街は俺が護る。お前たちがここでパンを作っていることを知っているからな」
「よう、タビー、倉庫は任せる。頼りにしてるぞ」
珍しいことだが、雌猫のタビーが表に出てきた。
タビーは、いつの間にか倉庫前の箱型ベンチに住み着いていた。仔猫を産み、カッサンドラとエリンが箱型ベンチを改装して住みやすくしてやった。賢い猫で、子育ても上手いし、狩りも巧みで、仔猫にその技術を伝えているようだ。年に一度か二度仔猫を産み、貰われて行ったりさまよい出ていったりして、近所にはたくさんの子や孫がいる。このあたり一帯のドブネズミを退治して、住民にかわいがられている。
珍しく「にゃおん」と声を出し、コンラートの足に体を擦り付けた。
「心配するな、大丈夫だ、ドーラと一緒に帰ってくる」
首をちょこちょこと掻き、背中をやんわりと撫でると、コンラートの手に頬を擦り付けた。
店の角を曲がって、女性がひとり走って来る。
「コンラートさん、これを」
カッサンドラの幼馴染のひとり、名は何といったか、そう確か、ミリアだったか。
ミリアは、多色の細い紐で美しい模様を編み込みながら作った、幅一センチほどの平たい紐をコンラートに差し出した。
「ドーラに会えたら、これを渡してください。私と妹が編みました。
こっちはコンラートさんに」
そう言って、コンラートの手首に同じ模様を編み込んだ紐を結んだ。
「帰ってきてと願いを込めました。ドーラの手首に結んであげて、お願い」
コンラートを見上げるミリアの目から、涙がこぼれて頬を伝った。
コンラートにも、すでに失うものは何もなかった。
孫は父親の国の空爆で殺された。
わずか四歳の孫を連れてその男の国から帰ってきた娘は、本当に頑張っていた。十年だ。必死で育ててきた子を一瞬で失い、未来に何も見出すことができなくなってしまった。
娘の傍に行くのだ。娘がやりたいことを一緒にやる。戦いたいなら、共に戦う。
孫を失い娘をも失いかけている男は、生涯をこの地の塩となって生きてきた頼りがいのある後姿を見せて振り返らずに歩いて行った。
軍に召集されているのは、十八歳から六十歳までの男性。六十三歳のコンラートには適用外だ。
コンラートは行く。
戦闘訓練を受けたことがある兵役経験者として、志願兵となるために。