1.カッサンドラ
カッサンドラは、腕の中の息子が息をしていないことに気付きたくなかった。
「エリン、エリン、エリン」
息子の頬に自分の頬を寄せて、その頬が冷たく、もう血が通っていないことはわかっていたけれども、それを現実だと知りたくなかった。
カッサンドラは、道路の脇に膝をついて座り込み、息子を抱え込んでいる。周囲は空爆で一部が崩壊したアパートメントやマーケット、折れた電柱。大小のコンクリート破片が飛び散り、切れた電線が時々青白くスパークする。パニックに陥った犬たちがしっぽを後ろ脚の間に巻き込んだまま切なく吠えている。
誰かがカッサンドラの背にそっと触れた。
「奥さん、お子さんを病院に運びましょう。抱き上げられますか?」
カッサンドラはすぐには反応できなかったが、背に毛布を掛けられて、力強い手が立ち上がらせてくれた。エリンを支えきれずよろめくと、ふたりの男性の手がエリンを受け取ってくれた。
「さあ、一緒に行きましょう」
よろめきながら、エリンを抱いた男性について行った。ひとりが軽くカッサンドラを支えてくれたが、すぐにほかの人を助けに行ってしまった。道路上にはまだ倒れている人々と、倒れている人にすがってその名を呼んでいる人や、助けようとしている人たちがいる。
「まだ息があるぞ」、という大声が道路に響く。
その夜は、病院の簡易ベッドの脇で、エリンの頬を撫でながら夜明けを迎えた。大部屋に並べられた簡易ベッドの脇には、次々に亡くなった人たちの親や子供、きょうだいや近しい人たちが訪れた。恋人の手を握って離さない人や子どもの脇で夫の胸に縋り付いて泣きじゃくる母達とともに、寒い部屋で冷たい頬を撫でながら何時間過ごしたろうか。
温かい紅茶を配る人たちが部屋に入ってきて、朝が来たことに気が付いた。
「パパ、来てくれたの」
「ああ、カッサンドラ、遅くなってすまなかった。さあ、このお茶を一口飲みなさい」
カッサンドラは、被害者が運び込まれたいくつかの病院を巡って自分を探し当ててくれた父親を見上げた。
カッサンドラの父、パン屋のオヤジであるコンラートは、娘の左手を取って温かな紅茶のカップを握らせ、孫の頬に当てられた右手をそっと握って、カップを支えるように誘導した。
エリンは、白木の棺に寝かされて、集団埋葬地に埋められた。墓地は街から二、三キロ行ったところにあり、空爆下ではそこまで運ぶことができない。
埋葬地には、コリンと同学年の少女、アリアナの母もいた。ふたりの母は、失った子を思って手を握り合って泣き崩れた。
同じ日に亡くなった三十数人の人たちとともにエリンとアリアナも眠りについた。残された家族や恋人は、不意に訪れた愛する人の死を受け入れることができないまま、涙と祈りを捧げた。
カッサンドラは、呆然としたままだった。
息子エリンは、この街に突然空爆を実行した隣国の男との子だ。学生時代に隣国の男と出会い、愛し合って結婚、エリンが四歳になるまで隣国で暮らしていた。
夫婦としてうまくいかなくなり、離婚して、この街で親から引き継いだパン屋をやっている父のもとにエリンとともに身を寄せた。
それから十年。エリンとコンラートはウマが合って、コンラートは密かにパン屋の跡継ぎができたかもしれないと喜んでいた。
なぜ?なぜなの?
なぜ、エリンの父親は、エリンを殺すかもしれない空爆を止めなかったの?息子が憎いの?それとも私を殺したいの?
意味をなさない言葉を胸の中で呟いた。それに何の意味もないことをカッサンドラは知っている。
国同士の戦争に夫だった男の意見など取り入れられている訳もないことは十分にわかっていた。
おそらく、隣国に住んでいるその男も、自分の息子の安否に気を揉んでいるだろうこともカッサンドラはきちんとわかっていた。でも、感情は制御できなかった。
ほんの昨日の朝だ、ニキビのできた顔で振り向いて、「行ってくるよ」とドアから出て行ったのは。
エリン、エリン、なぜこんなことに。どうしてあんな場所に。
一緒にいれば、体で庇っても生き延びさせたのに、なぜ私はエリンの傍にいなかったの。
生まれたばかりのエリン。
父親に抱かれてこちらに手を伸ばしているエリン。
歩き始めたころ、おいでおいでと手を伸ばすと真剣な顔で一歩一歩近寄るエリン。
パン屋のみんなに愛された、ダークブロンドの髪とブルーグレイの瞳。
同級生と通学する後姿。
もう二度と、二度と会えない。大人になって恋人ができて、幸せに生きるところを見届けたかったのに、なぜ、なぜなの?
再び朝の光に気が付いた時、カッサンドラは不意に理解した。
自分がどんな気持ちであろうと、誰が死のうと、世界は回っていることに。自分はまだ生きていて、明日も生き続けているだろうことに。
昨夜座らされてそのままだったソファから立ち上がり、カッサンドラは髪を梳き、首の下のところを髪用のゴムで一つにまとめると、裁ち鋏を取って、バッサリと切り落とした。
クローゼットの奥から、エリンと一緒に夏の徒歩旅行に行くときに使っていたバックパックと小さめのデイパック、ウエストポーチを取り出した。
デイパックに、下着、裁縫セット、手持ちの現金のすべて、薬箱の中身を詰め込んだ。ウエストポーチには、身分証明書、パスポートなどの書類と抗生物質、カロリーバー。バックパックに着替えと保存食を入れ、その上からデイバッグを押し込んだ。
シュラフと断熱シートを括り付け、外ポケットに保温ポットを二つ入れ、直接火にかけられるステンレスのマグカップをカラビナでぶら下げた。あとは、ロープとアーミーナイフ、缶入り燃料だ。ああ、防水スプレーと雨天用のポンチョも探さなくては。
廊下のクローゼット上の棚に全部まとめてあったことを思い出した。
父親と引き離されて野外生活を教えられるチャンスを逃がしてしまったエリンのために、夏が来るたびに一緒に徒歩旅行をしていたから、カッサンドラは野外生活がどんなものか少しは知っていた。
準備を整えたカッサンドラは、エリンの部屋に入った。
エリンの衣服を衣装ケースに納め、ケースの上に張り紙をした。「どなたでも必要な方に使っていただいてください」
クローゼットの次にベッドを整え、散らばっている本を本箱に納めた。
引き出しの中にあったものを袋に移し、すべての引き出しが空っぽになっていることを確認して、袋とパソコンを抱えて居間に戻った。
床下貯蔵庫を開け、そこにあった根菜類や瓶詰めの保存食を引っ張り出して、段ボール箱に移した。空いたその場所に息子の遺品を納めて、貯蔵庫に鍵をかけた。
鍵を鎖につけて首に掛ける。
自分の部屋を見回して別れを告げる。最後に、居間に貼っていたエリンの写真を一枚取り、心臓の上、ネルシャツのポケットに入れた。
「パパ」
「ドーラ、どうした。その恰好はなんだ?」
白い作業着と帽子姿で、パンを焼いていたコンラートが飛び出してきた。
「パパ、ごめんね、私行くわ」
「ドーラ、どうして」
「もう失うものは何もないのよ、パパ。できることをやりに行くわ」
コンラートは、娘が差し出した紙袋を受け取って中身を見た。娘の茶色の髪がゴムでひとくくりにされて入っていた。慌てて娘がかぶっているニットの帽子を脱がせると、あの美しかった長い髪が切り落とされている。
「ドーラ。
ここにもお前ができることはある。パンを焼いてもいいし、お前には仕事もあるじゃないか」
「そうね、パパ」
カッサンドラは胸のポケットからエリンの写真を出した。
「ごめんね、パパ。私がエリンを思うようにパパが私を思ってくれていることは知っているのよ。
だから、パパにもわかるでしょ?もし私が空爆で殺されたら、パパはどうする?
同じことなの、パパ」
コンラートは、背負っているバッグパックごと娘を抱きしめて、必死で頭を撫でた。短くなった髪の上を、水の玉が光って流れる。
カッサンドラは、撫でられるままにしていたが、やがてやんわりと父の腕から抜け出し、頬にそっとキスを残して、振り返らずに道を歩いて行った。
志願して、兵になるために。
国際ニュースを見続けているうちにストーリーができましたが、リアルすぎて救いが無いので、異世界に飛んでもらうことにしました。
結果的に異世界でサバイバルすることになりました。