ネットへの偏見
人間とは、時に獣よりも本能に従順である。
他者を蔑み、貶し、踏みにじる。それは自己の存在意義を確立するために生まれた一種の防衛本能だ。
その本能を発散するために、ネット環境は最適ともいえる。
SNSでの誹謗中傷が問題視される現代。
学校でのいじめ。社会からの圧力。人間の醜さが容赦なく露見するネット環境には、悪魔が巣食っている。
見知らぬ他人と気軽にコミュニケーションをとれるインターネット。そこには数多の悪が存在し、それを懸念する人も少なくない。事実、人の親である雄太朗もそれを感じる1人であった。
雄太朗の持っていた固定概念の1つ。
【ネットでは、真面目であるほど馬鹿をみる】
分かりやすい例をあげよう。
ネットでは、釣りコメントというものが存在する。
釣りコメントとは、明らかに他者の怒りを煽るためだけに書かれた地雷だ。
想像してほしい。
ある日、自分が好きな作品に対し『こんな幼稚な作品が面白いとか、読者は餓鬼ばかりだ』とコメントが。
どうだろう? もしも自分が好きな作品にこんなコメントをされたら、あなたは怒りが湧いてこないだろうか?
それに対し、普通の人間ならば否定から入る。
『なぜそんなことをわざわざ書くんだ』
『作者の気持ちを考えろ』
様々な苛立ちが、一瞬でネットを駆け巡るのだ。
しかし、残念ながら釣りコメントに対して常識で立ち向かうことは悪とされる。それは、戦場で見つけた地雷を踏みに行くと同意なのだ。
地雷を仕掛けた狂人は、その爆発を最大限に楽しむことができる人間。そんな人間に常識など初めから通用しない。
それどころか爆発は時に巨大な火災となり、他の人を次々と巻き込むこともある。だからこそ、その地雷を踏んではならないのだ。
常識人が馬鹿をみる。
雄太朗はそんな無秩序な世界が心底嫌いだった。
しかし、とある学生が作った掲示板。それが雄太朗の固定概念を変えることになる。
インターネットとは、使い方1つで簡単に人生を狂わせることができるのは紛れもない事実。
だがその反面、素敵な出会いがあるのもインターネットだ。
雄太朗がその掲示板で学んだこと。
それは、科学によって作り出されたネット環境とは、決してそれ自体が悪ではない。それは無限の可能性を秘めた、現代に存在する異世界であるということだ。
顔すら知らない他人。
今から語るのは、魔境と呼ばれるインターネットの1つ。とある掲示板で出会った一部の人との関係を、ネットの良し悪しと絡めながら呟く、雄太朗の独り言である。