26.契約の炎
「は……?」
その間抜けな声は誰のものだったのだろうか。
あっさりと、なんの未練も見せずに条件を取り下げたレイドールに、その場にいる者達はそろって目を丸くした。
「いや、そこまで嫌というのであれば、最後の条件は取り下げるといっているんだよ。どうしても王太子になりたかったわけでもないからな」
あっけらかんとした口調で言ってのけ、レイドールは懐から筆とインクのツボを取り出した。丸めた羊皮紙を再び広げて、躊躇いもなく最後の条件に横線を引いて消した。
「ほい、じゃあ条件は上の四つということで。それで問題ないよな、兄上?」
「う、む……そうだな……」
先ほどまで烈火のごとく怒りをあらわにしていたグラナードであったが、まるで柳のようにその怒りをいなされて毒気を抜かれてしまう。呆然とした顔のまま、思わずレイドールの言葉に首肯してしまった。
「そうかそうか、納得してもらえたようでなによりだ。さっそく誓文にサインをしてもらおうかな」
(そういうことか、やってくれる……!)
満足そうに腕を組んで頷くレイドールに、ロックウッドは王弟の狙いを悟った。
レイドールは最初から、グラナードが王太子の座を与えてくれるなどとは思っていなかったのだ。
あえて否定される条件を記載しておき、狙い通りにグラナードの激昂を受けたらあっさりそれを取り下げる。
そうすることで、他の要求が通りやすくなるように仕向けたのだ。
(レイドール殿下はあっさりと条件を譲歩した。それに付け込んでさらなる譲歩を迫るようであれば、陛下の器を小さく見られてしまう)
この場にいる貴族は、全員が全員、グラナードに忠誠を誓っているとはいえなかった。
国王であるグラナードに表向きは従ってはいるものの、帝国の侵略のせいもあって、隙を見せれば敵に寝返ろうとしている者もいる。
いつ裏切るかもわからない連中の前で、王が狭量なところを見せるわけにはいかなかった。
グラナードもロックウッドと同じ考えに至ったらしく、渋い顔をしながらもレイドールの主張を受け入れる。
「……いいだろう。その条件で構わん。すぐに国璽を持ってこさせるから少しだけ待っていろ」
「それには及びませんよ。兄上」
配下に命じて王の印鑑である国璽を持ってこさせようとするグラナードであったが、それをレイドールが押しとどめた。
「我らは血のつながった兄弟なのです。ならば、それにふさわしい方法で契約を結びましょう」
「兄弟にふさわしいやり方だと? まさか、口約束で済ませるつもりか?」
「それで兄上が安心できるなら構いませんけど……そうですね、ここは血印をもって契約を結ぶとしましょうか」
「血印……」
グラナードが眉間にシワを寄せた。
血印とはその名の通り、契約書に己の血を使ってサインを記すことである。法として定められた手段というわけではないため公的な拘束力はないものの、己の血をインク代わりに使うだけあってその契約は重い。
血印によって結ばれた契約に背くということは、魂の尊厳に泥を塗る行為に他ならないのだ。
「殿下……お言葉ではございますが、国王であらせられるグラナード陛下に流血を求めるなど不敬ですよ」
いまさら不敬もなにもあったものではないだろうが、ロックウッドが苦言を呈してくる。
この謁見が始まってから心なしかやつれた様子の宰相に、レイドールは皮肉な笑みを浮かべながら両手を広げる。
「そうかね? 確かに兄上はこの国の頂点に立つ王。俺は王族とはいえ、辺境の一領主に過ぎない。奈落と天上ほどの立場の違いはあるよな。だけど、今は帝国の侵略という国難に共に立ち向かわなければいけないんだ。兄弟の絆を結びなおすのは自然なことではないかな?」
「それはそうですが……手段というものがあるのではないでしょう」
「血のつながった兄弟が、血の契約をもって信義を結ぶ。これ以上、ふさわしい手段なんてないと思うがね」
レイドールは右手の親指を口の中に突っ込み、躊躇いなく犬歯で指先を噛み切った。そして、にじんだ血を使ってサラサラと誓文に己の名を刻む。
「はい、私の名前は書きましたよ。兄上はどうされますか?」
「む……」
赤い血の印が刻まれた誓文を突きつけられ、グラナードはさらに険しい顔つきになる。
自分は血を流すことなど厭わない。お前はどうなんだ? そんな風に挑発をされたような気がしたのだ。
「まあ、兄上がどうしても痛いのは嫌だというのであれば、普通のインクでもいいですよ。無理強いは致しません」
「……馬鹿にしてくれるなよ。この程度のことを誰が怖がっているというのだ。サインをしないなどと言っていないだろうが」
グラナードは侍従に命じてレイドールの手から誓文を持ってこさせて、自分も同じように指先を噛み切って名前を記した。
国王グラナード・ザインと王弟レイドール・ザイン。二人の王族の名前が血をもって記される。
二人の名前が記された誓文は侍従の手を経由して、再びレイドールの手に戻された
「これで文句はないだろう、レイドール。お前の条件は飲んでやる。約束通りに帝国と戦うように」
「ええ、もちろん。契約は成立しましたよ…………『起動』」
「なっ……!」
レイドールが短く呪文の言葉をつぶやいた。次の瞬間、グラナードの手の中で誓文が黒い炎に包まれる。
慌てて誓文から手を放すグラナードであったが、誓文を焼いた黒炎は二つに分かれて、拳大の火球となってレイドールとグラナードの胸へとそれぞれ突き刺さる。
レイドールは瞬き一つすることなく黒炎を受け入れるが、対照的にグラナードは胸を抑えて玉座から転がり落ちる。
「陛下っ!」
ロックウッドが愕然と叫び、他の貴族も悲鳴を上げた。謁見の間は瞬く間に怒号と喧騒に包まれる。
「……これで契約は結ばれた。俺の牙は深いぞ、グラナード」
誰にも聞こえないほどの声量でレイドールはつぶやき、口元に冷たい笑みを浮かべるのであった。
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