147.もう一つの別れ
セイリアが故郷に帰っていったのと同時刻。
宰相の娘――メルティナ・マーセルはセイリアの見送りをすることなく、とある場所を訪れていた。
今頃、レイドールとセイリアが別れの言葉を交わしていることだろう。
しばらく、レイドールの屋敷で生活していたメルティナもまた、セイリアとはそれなりに親しい関係を築いている。
それでも、レイドールとセイリア、ネイミリアの三人の会話を邪魔したくはなくて、別れは事前に済ませていた。
「……ここに来るのも、久しぶりですね」
馬車から降りたメルティナは、建物を見上げながら「ほう」と溜息をついた。
紫のシンプルなデザインのドレスを纏ったメルティナは、ヒールを履いた靴で屋敷の門の前に立つ。
そこは王都の貴族街にあるマーセル邸――すなわち、メルティナの生家だった。
「お嬢様! お帰りになったのですか!?」
敷地の入口には警備の人間が立っている。メルティナの姿を見るや、驚いた顔になって門を開き、中に入れてくれた。
(ここには、もう帰ってくることはないと思っていたのですけど……また帰って来られるとは。人生というのは、やはりどう転ぶかわからないものですわ)
マーセル邸は庶民の家よりは大きいものの、宰相が暮らす家としてはかなりこぢんまりとしていた。
外観にも飾り気がなく、寝泊まりできればそれでいいとばかりに必要最低限の造りになっている。
庭には数本の樹木が植えられているだけで、花壇などもなかった。父親であるロックウッドに文句を言ったことはないが、幼少時のメルティナは秘かにそれを不満に思っていたものである。
メルティナはレイドールの幼馴染であり、かつての婚約者という関係だった。
しかし――五年前に王都から追放されるレイドールを見捨てて、再会してからも呪いを使ってレイドールを拘束するなどの無礼を働いたことで、完全に信頼を失っている。
それでも――ここ数ヵ月、レイドールを国王にするために貴族や王宮関係者の調略に動いたことにより、働きが認められてある程度の信用を取り戻すことができていた。
今では自由に王都を歩く許可が与えられており、こうして生家に帰って来ることも許されている。
(もっとも……それは首輪があるからでしょうけど)
「んっ!」
メルティナがゆっくりと自分の下腹部を撫でると、キュンと締めつけられるような甘い痺れが身体の奥で生じる。
メルティナの身体にはネイミリアにより、いくつもの呪いがかけられていた。その呪いの大半は性的なもの。情欲を掻き立てるような淫猥な効力のものばかりである。
最近になってようやく呪いによって与えられる性的快楽にも慣れてきたものの、身も心もとうに屈服してしまっていた。
かつては国のために、王のために、レイドールを裏切ったメルティナであったが……もはやそんなことは夢想だにできない。
快楽という真綿の鎖につながれたメルティナは、身命を賭してレイドールに仕える以外の目的意識を失ってしまったのである。
(それでも……レイドール様が王に……いえ、摂政になられたおかげで、これからはザイン王国に背信することなく尽くすことができる。私が選んだ道と、マーセル家の忠義が重なった。これは喜ぶべきことですわ)
「……おそらく、父もそのことで私を呼び出したのでしょう」
メルティナが久しぶりにマーセル邸を訪れたのは、父親――ロックウッド・マーセルに呼び出されたからである。
宰相――ロックウッド・マーセルは国王グラナードに忠誠を誓っており、グラナードの王位を守るためにレイドールを追放までした。
それ故にレイドールからも憎まれているはずだが、先日の王宮での戦いでは、レイドールを王宮に招き入れて人質を救出。人々に混乱が広まらないように情報操作まで行った。
兄王から王弟へと寝返った結果になった、ロックウッドの立場は微妙なものである。
宰相という地位を剥奪されていないものの、コウモリとして信頼はされていない。早い段階でレイドールに鞍替えした貴族らからは、白い目で見られていた。
(……早いか遅いかの違いだけで、どちらも裏切り者には違いないでしょうに。愚かなことです)
内心で嘆息しながら、メルティナは屋敷の中へと足を踏み入れる。
「お嬢様! お帰りなさいませ!」
「お久しぶりですね、テレサさん」
玄関で出迎えてくれたのは、メルティナが生まれる前からマーセル家に仕えているハウスメイドの女性だった。
初老に足を踏み入れた年齢の恰幅のいい体形のテレサは、大きな身体でメルティナを抱きしめてくる。
「ああ! よかった、お嬢様! よくぞお帰りになって……! このテレサ、お嬢様のご無事を毎日、祈り続けておりました!」
「っ……! あ、ありがとうございます。テレサさん」
メルティナは力いっぱいの抱擁に息を詰まらせながら、何とかそんな言葉を絞り出す。
しかし、テレサは目に涙をいっぱいに溜めながら、なおも両手の力を強くして豊満すぎる全身で令嬢を締め上げる。
「お嬢様、お嬢様! よくぞご無事で……!」
「て、テレサさんっ、それくらいでっ……!」
このままでは潰されてしまう。命の危機すら感じて、メルティナはどうにか抱擁から脱出した。
胸に手を当て、ぜーぜーと荒い息を繰り返しながら、メルティナはテレサに訊ねる。
「お、お父様はどちらにおられますか? 今日は呼ばれてきたのですけど……」
「旦那様でしたら、二階の書斎におられます。今日はメルティナ様が帰ってくるので、誰も二階には上げるなと」
「そうですか、それでは会ってきますわ」
このままテレサと一緒にいたら、蛇に絞められた蛙のようになってしまうかもしれない。メルティナは足早に階段に向かおうとする。
「あっ! お嬢様、お待ちください! 旦那様ですが……ちょっと様子がおかしいのです」
階段に昇ろうとするメルティナに、テレサが慌てたように言ってくる。
「私と門番以外の使用人に、急に暇を出してしまい……今日だって朝から部屋に閉じこもって、食事もいらないと。二階からはまるで物音もしませんし、様子を見に行きたいのですが、上がってくるなとの御命令で……」
「…………」
「私、どうしたら良いかわからず、心配で心配で……」
「……わかりました。父のことは私に任せてください」
メルティナはそう言い置いて、階段を昇っていく。
この時点で、メルティナには一つの予感が頭に浮かんでいた。
それはメルティナにとって受け入れがたいものであり、同時に、胸の奥にストンと自然に収まるものである。
「…………」
書斎に近づくにつれ、予感は強くなっていく。
部屋の前に立つと、閉ざされた扉の向こうからは生臭い異臭が鼻を突いてくる。
「……お父様、メルティナです。入りますよ」
一応、扉を叩いてノックする。
しかし――当然のように中から応答はない。
メルティナがドアノブを回すと、カギはかかっていなかった。
「……お父様、いないのですか?」
メルティナは扉を開く。
途端、むせ返るような臭いが強くなり、胃の中身が喉にせり上がってくる。
「お父様……?」
部屋の中を覗き込むと……そこには確かに、ロックウッド・マーセルがいる。
メルティナがこの屋敷に住んでいた時と同じく、いつものように椅子に腰かけて座っていた。
しかし――
「……やはり、こうなってしまいましたか。お父様」
ポタポタと小さな水音が鳴り、メルティナの鼓膜を震わせる。
床には水たまりができていた。鮮やかな赤い水が、床の上に広がっていた。
ザイン王国宰相――ロックウッド・マーセル。
グラナードの側近であったその男は、椅子に座った姿勢のまま、腹部から血を流して絶命していたのであった。
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