侍とカラシニコフ
「今も、世界のどこかで――」
(『侍とカラシニコフ』初版同人誌に掲載の言葉)
この小説は、二〇一一年三月東日本大震災義捐作品として制作したものです。
本文中、一部に過激な表現・セリフが存在しますが、
特定の国家・民族・思想・信条・宗教その他を貶めたり
暴力及び犯罪行為の助長・奨励をするものではありません。
・第一部『東都』(遅くとも1853年から、1860年までの間)
◇
一般に嘉永六年の初夏といわれる。
三百年続いた徳川氏の政道は、この年から壊れた。
極東の、とある弓状列島にあるこの日本という国は、長いあいだ、『鎖国』という言葉で表現される、一種異様な対外政策を長く、取り続けていた。
それは外国人を寄せ付けず、外国の文化や、宗教を寄せ付けぬという、幕府の基本的外交戦略からなり、それはこの三百年のあいだ、片時も他のものに変わることがなかった。
しかしこの日……ある事件を境にして、それは大きく変えられてしまう。
その事件は、もうこのとき、すでに起こってしまったあとだった。
「何事だ岩瀬。朝から、騒々しいではないか」
江戸幕府老中首座・阿部伊勢守正弘は、時の宰相。飯田町駿河台・小山町の福山藩上屋敷に居を構えて、幕閣に隠然たる勢力を誇る阿部伊勢守は、江戸湾浦賀沖に出来した変事をまだ知らなかった。彼は、深川の桶職人に命じて作らせた、特製の鉢桶を心配そうに覗き込み
「わしのデメキンが逃げてしまうわ」
といった。
「デメキンどころのさわぎではございませぬ」
岩瀬氏八百石の目付旗本・岩瀬忠震はこの年三五歳。人並みはずれた勉学の徒で、特に西洋の学問に長じていた。阿部伊勢守は岩瀬の学才を愛し、栄達の道を与えるとともに、海防掛として、国の沿岸防備に関する研究を任せ、自らのまつりごとに関しても、しばしば意見をさせていた。
「一大事が出来したのでございますよ」
「なんだ、それは……」
「実は先般、薩摩候よりお報せのあった、メリケン国艦隊でございますが」
「ふむ」
阿部伊勢守はそれを聞いて膝を叩いた。
「目の青い毛唐人め、とうとう来おったか。長崎に」
「来ております。それが、浦賀へ」
「なんだと」
阿部伊勢守は、これにはさすがに色を変えた。当時の浦賀は、現在の神奈川県横須賀市にあたり、江戸八百八町を指呼の間に望む要衝の地である。日本への異国船の来航は、これまでも度々あったが、これほどまでに江戸へ接近してきた艦隊は、初めてであった。
「まことか、それは」
「如何様」
「して、その陣触れは?」
「先の報告通り、巨艦四艘からなる船団にて……これが浦賀奉行所より届け出の似せ描きでございます」
「見せてみよ」
岩瀬忠震は上座に進み出て、わら半紙にしたためられた一枚の墨絵図を、阿部伊勢守へ進上した。それは海へと突き出した岬の上から描かれており、太々と伸びた松の枝の下に、大きな文鎮のような形のものが二隻と、針山のような突起物の集合体を載せたものが二隻、まっくろに描かれて、紙面の海に浮かべられていた。
「なんだかわからぬ」
阿部伊勢守は、似せ描きの紙を傾けたり、ひっくりかえしたりしながら、眉間を寄せた。
「岩瀬、これはなんだ」
「は、それは、ふらいんぐ、えあくらふと、きゃりあーと申し、御共らは『航空母艦』と称し居ります。メリケン国の『にいみっつ』、『えんたあぷらいず』にしかと相違はございません」
「この、針ねずみのような船は?」
「西洋では、ばとるしっぷと申し、『戦艦』と訳しまする。四〇さんち砲九門、とまほーく、くるーず、みっそぉ、三二発を搭載しており、『みずーり』号、『にゅうじゃぁじい』号と思われます」
「なんと……。き、来ておるのか、それが。江戸湾へ?」
「そうです! き、来ておるのでございます、伊勢守様」
「こうしてはおられぬ……」
阿部伊勢守は立ち上がり、白絽の夏羽織を纏って、黄金作りのモーゼル自動拳銃を帯に差し、岩瀬に告げた。
「わしは急ぎ登城する。岩瀬、そちは浦賀へゆけ。様子を見て参れ」
「かしこまってございます」
岩瀬忠震は家代々のAK-47突撃小銃を肩に掛け、阿部伊勢守ともども、座を離れかけた。
そこへ、耳をつんざくジェットエンジンの爆音とともに、四つの尖鋭な影が、上屋敷庭先の松の枝を掠めて飛び、衝撃波と音響が、しじまを突き破り、周囲を激しく揺さぶった。
四つの影は一旦飛び去ったかと見えるや、再び旋回上昇に転じ、六月の大空を我がものの如く、白い飛行雲のカーブを曳いて、縦横無尽に駆け巡っている。
「ほう、あれはメリケン国の戦闘攻撃機、『ほおねつと』でござるな」
縁側へ出た岩瀬忠震が手のひらを額にあて、空を見上げて独語すると、阿部伊勢守は
「うぬ!!」
我慢堪らず、床の間に飾っていた関ヶ原以来の家宝、スティンガー対空ミサイルを担ぎ出し、空に向け始めた。
「なにをなさいます、御老中!!」
「邪魔立てするか、岩瀬」
「なりませぬ! その儀ばかりは御辛抱を……」
「ばかもの!! こともあろうに公儀のお膝元、公方様の御城府の上を、あのようにけたたましく飛び回るとは何ごとぞ。不逞の極みだっ、毛唐人め!」
「御老中!! それこそが毛唐人めの策謀でございますぞ」
「なんだと……」
「洋夷のねらいは戦なのです! そして、この日本国そのものなのですぞ」
「じゃと申して……」
「彼奴らめの目論みは、我が方に戦を仕掛けさせ、武力でもって我が国を征服せんとするものでございます! いま洋夷に戦を仕掛ければ、亡国は必定。清国の無残なありさまを繰り返すだけでございますぞ。伊勢守様」
「う、ううむ。分かった岩瀬。わしが愚かじゃった……。しかし」
阿部伊勢守はスティンガーを打ち捨て、肩を落として言った。
「世情は、このまま収まるまいのう」
その通りだった。
三百年続いた徳川氏の政道は、この年から壊れる。
そのことは既に書いた。
一時、浦賀に舞台を移そう。
ここは、当時から江戸湾口に面した三浦半島の要の地として、廻船問屋、干鰯問屋が軒を連ねて賑わい、その繁盛ぶりは近在の漁村のなかでも抜きん出たものであったが、しかし本日のこの人だかりは、そればかりのものではなかった。
商家の女房、小女から、かんなを担いだ職人、AKをさげた侍姿の者まで、さまざまな身分の人々が渾然一体となり、がやがやと実に口喧しく話し合っている。みな、我が物顔で江戸湾洋上にのさばる、異形の外国軍艦を一目見ようと、各地から馬を飛ばし、駕籠を雇って、はるばる見物にやってきた人たちである。
水面の照り返しと逆光によるシルエットで、それらの巨大艦群はいずれも恐ろしい黒色に見え、人々はそれを
「黒船」
と呼び始めていた。
海岸道路では――。
江戸湾防御を命ぜられた諸藩のT-55戦車が出動して車列を並べ、五六口径一〇〇ミリ砲の砲身を海側に向けている。
「あの黒船は、原子力推進で動くのだ」
一人の若い侍が、戦車の砲塔の上に立ち、首にかけた双眼鏡をかざして言った。
「原子力? なんですか、それは」
砲塔上のハッチから半身を出し、十二・七ミリ機銃に取り付いていたポニーテールの剣客少女が、侍に訊ねた。流麗な黒髪と白のリボン、爛々と光る両目が彼を見上げている。歳の頃は彼同様、二十を越えるか越えないか、という位であった。侍は答えた。
「そなたは知らぬのか。にゅーくりあ、てくのろじいを利用したカラクリを用いれば、軍船は、無限とも思えるほどのえねるぎいを得ることが出来るのだ。これには、高濃縮のウラン235が必要だ。しかし地球環境上において、天然のウラン鉱石に、ウラン235は〇・七パーセントしか含まれておらぬ。したがって、ウラン235を原子力発電に用いるには、ウラン濃縮工程が必要だ。諸外国において、現在一般的な同位体分離手段は、瓦斯拡散法、ならびに遠心分離法だが、本邦においては、豆州韮山に幕府が試作した実験的遠心分離機が、ただ一基あるに過ぎん。もっとも、仮に高濃縮のウラン235が一定量手に入ったとしても、それだけですぐ、発電工程に移行出来るという話でもござらぬが」
これだけのことを、その侍は一息で、眉ひとつ動かさずにいってのけた。剣客少女はただ、驚きに目を見張るばかりであった。
「そんな話は初めて聞きました……。洋夷のカラクリ術は、然程に進んでいるのですか」
「『てくのろじい』というのだよ。幕府は、そうした科学的知見が国内に広まり、幕府の権力が脅かされることを恐れ、洋学者を獄に繋ぎ、洋夷の進歩に目を瞑って、ひた隠しにしてきたのだ。すべては幕府の責任なのだ」
「信じられませぬ」
ポニーテールが激しく揺れた。少女は俯けた顔に怒りを浮かべ、侍にいった。
「本朝三百年の天下が、然様な薄氷に拠って建つものだったとは」
「そなたが信じるとも、信じぬとも、事実はひとつだ。あの四隻の黒船が、それを明瞭に物語っておるではないか。長年の幕府の無策ために、今や皇国が、洋夷の世界奴隷化政策の餌食になりつつあることをな。今、天下の草莽に眠るすべての志士が、勇を奮って立ち上がるときだ。さもなくば本朝の命運は、唐・天竺のそれを等しく辿り、皇祖創業以来の我が神国たる所以は、ついには外国の手に破却されるであろう」
少女の一対の眼が、湧き上がる涙に震えた。全身の血液が、火となって燃え上がる感動に圧倒されたのだ。もはや公儀(幕府)は頼めない。公儀に頼めば国は滅亡の途を進むばかりだ。神州のすべての民が、幕藩の身分を越えて等しく聖戦に生き、皇国の永遠の大義のため、銃を取り、火の玉となって洋夷を葬り去らねばならぬ。
「……あなたに感銘を受けました。ぜひ、御姓名を」
「拙者か。長藩毛利大膳大夫家来、松陰・吉田寅次郎。お手前は?」
「土州、山内候の臣。武市瑞山」
このとき、吉田松陰二三歳、武市瑞山二四歳。天下はまだ二人を知らない。
一方、その天下は……。
江戸三百年間のいわゆる『泰平のねむり』からようやく目覚め、その恐ろしい反動が、世間の人々を急速に『武力』へと駆り立てつつあった。
「武器をくれ! AKをくれ!!」
一儲けしたのは武具の店であった。
下級武士たちの中には、平和な世の中が長々と続き、武士のたましいともされたAKを、一時の糊口のために売り払っていた者が数多く居たのである。
武具商の御店はそうした浪人や、合戦に備える諸大名の買い付けで、突然、すさまじい活況を見せた。
「いったい何が始まるんでございます?」
御店の主人が浪人に訊くと、浪人武士は、ことごとく口角から白い泡を飛ばし、こう叫んだ。
「戦争だ! 異人を討ち払うのだ!!」
天皇も同じ意見であった。
「神州の皇土を洋夷の穢れた足で踏ますことなど、断じてまかりならん。幕府は断固、攘夷を決行し、夷荻を討ち払うべし」
一方、江戸幕府の宰相は、阿部伊勢守から、彦根の藩主・井伊掃部頭直弼となっていた。
井伊掃部頭は、開国派であった。
彼は、長い間政治に関わらず、ひたすら独習独学の年月を送ってきた仁である。天皇や諸国の浪士たちと違い、西洋列強の恐るべき力に関しても、井伊はつぶさに知っていた。
しかも、その上で、井伊は権力を持っている。
だから井伊掃部頭の考えが、天皇や、諸国の浪士たちと『同じ』になろう筈はなかった。
「もし、西洋と同等の力を我が国が得たならば……」
日本は東亜の盟主として、永遠に繁栄するであろう。
井伊の頭は、このことであった。
「急がねばならぬ。一刻でも早く国を開き、日本を世界の強国としなければ、我が国の存立は、たちまち危殆に陥るであろう」
そして、安政五年六月十九日が訪れた。
幕府全権は、ミサイル戦艦「ミズーリ」号上の甲板で、米国との不平等条約である日米修好通商条約に署名したのである。
これは、開国に反対する人々、すなわち上は天皇や諸大名、下は浪士、町人に至るまで、世の中の大勢の怒りを買った。
「乱心したか、直弼!!」
大老・井伊掃部頭に対する人々の不信と憎しみは頂点に達し、安政六年のメーデーの日、水戸藩士を中心とした数万人の群衆は赤旗を掲げ、
「反帝国主義・反日米条約・反売国、腐敗政権」
のスローガンの下、日光東照宮から御成街道を上り、大きな徳川家康の肖像画が飾られた江戸城門前へと詰め掛けた。
「井伊大老は辞職しろ! 条約を破棄し、攘夷戦争を決行せよ!」
尊王攘夷・破約開戦の幟を立てたトラックの上に立ち、小浜藩士・梅田雲浜が江戸城に向かって呼びかけた。かつて『日本外史』を著して、日本は皇室の国家なりとした頼山陽の息・頼三樹三郎もそれに同調して群衆を盛り立て、
「そうだ、井伊大老は辞めろ。神は偉大なり」
と言った。群衆も頼に答えて
「神は偉大なり、神は偉大なり!」
熱狂的に叫び、空に向かって銃を乱射した。
それは徳川政権にとり、まさに未曾有の事態であった。
徳川氏が政道の長となって以来、色々様々の危難や政治的困苦はあったが、かように激しい混乱と幕政批判を、かつて江戸城の住人たちは見たことがなかった。
群衆たちのその凄まじい絶叫の中で、大老井伊掃部頭は、誰よりも強く非難された。
人々の糾弾の声は果てしなく続き、ハンドマイクは井伊の政策のことごとくを、徹底的に罵倒した。
井伊は、どうにかして彼らを黙らせねばならぬと考えた。しかし井伊には学問はあっても、誰かに激しく批判され、辞めろと言われた経験がなかった。井伊の手元には、ただ、日本最強の軍事力と、それを動かす権力だけがあった。
群集たちの目の前で、重々しい響きと軋み声をあげて、江戸城の城門が開いた。人々は初め、何が始まるのかと静かに注視していたが、恐ろしい水冷式ディーゼルエンジンのうなり声とともに、幕府の主力戦車T-72が、長大な砲身をもたげて現れてくると、人々は城門の鼻先から一斉に散った。
「大変だ、戦車が出てきたぞ」
「怯むな!」
群衆は一瞬どよめいたが、勤王の士・梅田雲浜は声を励まし、尚もハンドマイクで叫んだ。
「なんだ! 外圧に屈した徳川の腑抜け侍めが。撃てるものなら撃ってみろ」
その瞬間、戦車の主砲が閃き、猛々しく咆哮した。
多数の人々を巻き込んで、梅田雲浜の身体は、ちゃちなトラックごと一瞬で爆破され、木っ端微塵になった。
「な、なんてことをするんだ! この人でなし」
頼三樹三郎は尊王攘夷の幟を持って、戦車の前に立ちはだかろうとした。だがその前に、砲塔上の十二・七ミリ車載機関銃が駆動し、頼の肉体をバラバラに引き裂いてしまった。
「ぎゃあああ!!」
「逃げろ!」
越前福井藩士・橋本左内も犠牲者の一人だった。彼はエンジンを吹かし、動き出した戦車を見て、他の大勢の同志に呼びかけて、彼らを先に逃がそうとした。しかしそれがいけなかった。彼が逃げようとした頃には戦車はスピードを上げ、彼をぐしゃぐしゃに潰してしまった。洋学の志を立て、若くして主君に愛された福井藩きっての英才はここで生涯を閉じる。左内の享年は二六歳であった。
江戸城の門前は、阿鼻叫喚の地獄となった。
戦車は逃げ惑う人々を容赦なく轢き潰し、二三ミリの四連装砲を水平にした対空砲車が、機銃掃射を浴びせかけた。城門の中からは更に続々と幕府の軍隊が現れ、AK-47を持った彦根兵や岡っ引たちが、濠の水の中に飛び込んだ人々に弾を浴びせかけ、次々と撃ち殺していった。
「賊どもを一人も逃すでないぞ!!」
井伊の腹心・長野主膳は、指揮装甲車に座乗して、各部隊に命令を出していた。長野主膳は元は国学者であり、井伊掃部頭の師でもある。いまは、この日本史上にもまれな政治的屠殺である攘夷志士大弾圧事件、のちにいわれる安政の大獄の指導者であった。
「やめてくれ! 降伏する」
あまりの惨劇に驚き、数人の浪士たちが路地の影から両手を挙げて現れてきた。長野はそれを一瞥すると
「構わん、やれ!!」
たちまち辺りの兵士たちが突撃銃の一斉射撃を見舞い、浪士たちは全身から血を噴き、おめきながら、濠の中に落ち、高々と水しぶきを上げた。
志士たちのながした鮮血で、朱一色に染まった濠端の道を、パトライトを煌かせ、サイレンを低く唸らせながら、護送車がやって来る。そして長野主膳の装甲車の隣へ車を横付けると、サイレンを止め、役人が降りてきた。
「長野様」
「吉田松陰を捕らえたか」
「然様に……」
「よし! 降ろせ」
長野主膳は装甲車を降り、同時に重厚な護送車の中から、手枷足枷を嵌められた吉田松陰が引き出された。松陰は、オロシャ国の戦術航空巡洋艦「ミンスク」が来航した折、密航を図った廉で、師の佐久間象山とともに獄に繋がれていたのである。
幕閣の中には、かねてより危険思想の吹聴者として、この両名を早々に死罪にすべきと主張する者が少なくなかった。しかし思想の是非はともかく、あたら国の賢才を失うことを恐れた阿部伊勢守のとりなしで、松陰は助命されていたのである。
だが長野主膳の考えは、阿部伊勢守と同じではなかった。
「不穏の芽は、芽のうちに摘まねばならぬ」
長野主膳はそう言った。
「吉田氏。そのほうもそう思わぬか」
「左様」
松陰は血溜りの上に袴の膝をついたまま、朴訥と答えた。
「徳川氏の政道を一日なりと永らえんとするならば、寸刻といえども拙者を生かして置いてはなりますまい」
「ははははは」
長野主膳は背骨を曲げ、身体を反らしながら大笑いした。
「こやつ、ふざけたことをぬかしおるわ。貴様ごとき痩せ蛙、一体何が出来るのだ。三百年続いた徳川の権威と威勢、何と心得る。このたわけ者めが」
「たわけ者は、あなた様でござる」
松陰は涼しげな顔と態度を変えず、十五も年上の国家の宿老・長野主膳に、まるで市井の悪童でも扱うがごとく、教え諭す口調でもって、静かに言った。
「この国事多難の折、まさしく国家の至宝たるべきあまたの英傑、俊才を殺して、なぜ天下のことを語れますか。あなたはこの日本国を滅ぼす気か」
「まつりごとはお上のすることだ。貴様ごときの批判は許さん!!」
「御政道が正義なれば誰も何も申しませぬ」
「徳川の政道を不正義と申したか」
「如何にもその通り……」
「おのれ!」
長野主膳は刀の鯉口を切り、柄に手をかけてわめいた。
「そのままにはしておかぬ!」
「お聞きなさい!! 長野殿」
松陰はその人柄に似ぬ大喝を発して、長野の動作を遮った。
「あなたは、いま皇国を取り巻く四海の情勢を何と思し召す?」
「何っ……」
「東亜十億の同胞が、西洋列強の侵圧のために死のうとしているのが分からぬのですか。我ら神州の民、憤然立って東亜の大同のために戦うべきであるのに、なぜ右手に西洋侵掠国と語らい、左手に国の秀でた者たちを殺戮するのです。これを不正義と呼ばずして、何と呼べましょう」
「天下泰平を乱す輩を誅するのが我らの役目ぞ」
「それは徳川の泰平に過ぎませぬ」
「何っ。そちは何を申すのだ。徳川以外に、徳川の天下以外に、天下などあろうはずがない!」
「あるのです、長野殿。まことの天下は、真実の天は、天にのみおわすのだ。徳川はその臣に過ぎない。天下は徳川のものではない!」
「では、なんだ!」
長野主膳は、吼えるように松陰に問うた。
「徳川は、一体この国のなんなのだ」
松陰は穏やかに、しかし目の端を細く尖らせて長野に言った。
「徳川は国の逆臣」
「何っ!」
「畏れ多くも帝の聖旨を汚し、外国と通謀して勤王の士を殺す。謀反人とはお手前たちのことですぞ」
「きさまーっ!!」
長野主膳は松陰の首を刎ねた。面の長い松陰の首が鈍い音を立てて道に落ち、転がった。
「長野様!」
よろめいた長野の身体を、役人が横から支えた。
「大事ございませぬか」
「ええい、離さぬか」
長野主膳は、役人の腕を振り解き、血のついた刀を提げたままで、江戸城の濠と石垣に振り向いた。人々の血で汚された家康の肖像が、そこににこやかに屹立していた。
「天下は徳川のものだ!!」
長野主膳はそういった。
「徳川だけが、この世を治めてよいのだ。永久に、徳川だけが!」
家康の肖像は、何も言うことはない。
「愚かだぞ、長野主膳」
代わりに、その長野の背後で……。
吉田松陰の刎ねられた首が、ぬらと浮き上がり、鮮血をぼたぼたと零しながら、空中に浮遊し、静止した。
「貴様、鬼神か!」
と、長野はわめいた。
その通りだった。
鬼神と化した松陰は、長野を見下ろし、幕府の役人たちを見下ろして、彼らにいった。
「長野、悪逆の徒よ。お前は私を殺した……。そして私だけではなく、多くの同志の命を奪ったのだ」
松陰の声は、生前と同じであった。その語りかけるような口調のままで、松陰の生首は長野らに語った。
「私は貴様たちを許さん。だから私は、お前たちが命よりも大事にしているものを滅してやる」
「なんだと」
「聞け!! お前は、天下は徳川のものだと言った……。ならば私は、そんな国は呪ってやる。この国を、狂気の国に変えてやる。徳川が天下を辞するまで」
「ほざくな! 貴様に何が出来る……」
その直後、城下を一陣の風が吹き、すぐそれは、死霊の雄叫びとなって、一個の竜巻に変じた。
風は、街路に染み付いた血のしずくを、或いは、犬のごとく撃たれ、虫のごとく殺された人々の骸を、瞬く間に吹きさらい、天の彼方へと押し上げ、吸い込んでゆく。
「うわっ!」
「た、助けてくれ」
「祟りだ、松陰の祟りだぞ」
「落ち着け!!」
長野主膳は、狼狽する家来たちに必死でいった。
「これはただの風だッ。こやつの祟りなどではない! ……おのれ、亡者め!」
天地を圧する烈風の中で、長野主膳は狂ったように刀を振り回した。無論、その太刀筋はむなしく空を切るばかりである。
「はははは、はははは……」
松陰は、いつのまにか断ち切られた胴体を取り戻していた。松陰は惨劇の跡を完全に吹き清めると、高笑いを残し、天の彼方へと消えていく。
「長野主膳!」
肉体を捨て、すべての束縛を逃れた吉田松陰は、ただ一人地上に残された長野主膳に、鋭くいった。
「お前の天下もこれまでだ。貴様の天命はもう尽きておる。井伊掃部頭の命もな」
「何ッ。と、殿が……。おのれ、待て、松陰。待て! 待て!!」
茶店の外側で待っていた浪士の一人が、差していた番傘を閉じた。
江戸城は、雪景色に鮮やかな輪郭を浮かべ、諸大名の登城のために、掘割の向こうから、陣太鼓の規則的な音が響いている。
茶店の中では、武鑑を手にした十余名の浪人たちが、思い思いの格好で、茶を飲み、また、注意深く外の様子を窺っていた。
店の者たちは、大名行列見物のお武家衆であろうと考え、何の疑念も覚えていない。
濠端の柳の下では、笠を被り、蓑を纏った浪人が、AKのマガジンボックスを確かめ、最後の点検を終えて、ガチャリと銃にはめ込んだ。
万延元年三月三日。
雪の降りこめる、この江戸城桜田門の外で……大老・井伊掃部頭は、これから殺害される。
この日は桃の節句であった。
江戸在府の諸大名、すべてが必ず登城するのである。井伊掃部頭も、将軍家茂に謁見し、祝いの言葉を述べることになっていた。
井伊掃部頭の住まう彦根藩上屋敷の位置は、江戸城桜田門からわずかに六〇〇メートル余を隔てるのみ。しかし、この日井伊掃部頭は、ついにこの六〇〇メートルを渡り切ることが出来なかった。
朝五つ(午前七時)。鉄鋲を打った彦根藩邸の門が重々しく開き、井伊掃部頭の行列は、おごそかに出発した。
井伊大老の行列は、中間小者、また護衛の士が合わせて五十名余り。この日の井伊掃部頭の乗り物は、メリケン国大統領から贈られた、黒塗りのリンカーン・コンチネンタルのオープンカーで、フロントグリルに立てられた二本の旗竿には、二本ともに、井伊家の家紋である「丸に橘」の小旗が翻っていた。
井伊家には、浪士たちによる襲撃の情報と警告が、他家から度々もたらされていた。
襲撃を警戒する井伊家の家臣たちは、オープンカーでの登城はあまりにも危険と訴え、防弾ガラスと装甲板を使用した、特別仕様のメルセデス・ベンツを薦めたが、井伊掃部頭は事前にこれを退けていた。
「ばかめ。そのように物々しい車で、諸大名の前に出られると思うか。白昼堂々、時の大老が素浪人ふぜいに襲われるなど、さようなばかげたことが起こり得ると思うのか?」
しかし、行列が藩邸の門を出て、わずか数分ののち……。井伊大老のいう
「ばかげたこと」
は現実になった。
「お願いにございます、お願いにございまする」
雪上をゆく行列の前に、訴状を掲げて走り出た男があった。竹棒の先に訴状を差し、それを相手に差し出すのである。直訴であった。
「どうぞお願いにございます。どうぞに、どうぞに!」
「無礼者っ、下がれい!」
騎馬の随人が走り寄り、馬を止めて、馬上から男を怒鳴りつけた。そしてそのとき、彼ははっと気がついた。男の掲げている竹棒の中から、暗い銃口がおのれの顔を覗いていたのである。
「し、しまった!」
わめいたときには既に遅かった。
「どうぞに!!」
馬上の男は、十二ゲージショットガンの散弾を至近距離からまともに浴びて、頭を吹き飛ばされ、鞍の上から転落したのである。
「なんだ、なんなんだ?」
供回りの侍たちは、列の前方に注意を向けた。物陰に身を潜めていた水戸脱藩浪士・関鉄之介は、機を見計らい、対戦車ロケットRPG-7の照準を、列後方のリンカーン・コンチネンタルに定めた。
「死を!!」
悲劇は一瞬であった。
鮮烈なバックブラストとともに、発射機から打ち出された手槍型の弾頭は、ロケットブースターの立てる凄まじい音に乗って桜田門外の空を切り裂き、その後一瞬無音になって、そして、井伊大老の乗るリンカーン・コンチネンタルの左側面に突き立つと、信管を作動させ、起爆したのである。
轟然たる爆発音が辺りに弾け、井伊大老のリンカーン・コンチネンタルは、火柱を四方に飛び散らせながら、真上に向かって六メートルも跳ね上がった。
黒こげとなった大老専用リムジンが地面に落ち、金属の鋭い軋み声を上げると、その直後、井伊大老の首が江戸の空から落ちて、転々と鞠のように雪の上を転がった。
それがすべての合図であった。
「神は偉大なり!!」
待ち伏せていた浪士たちが、次々とAKを乱射し、銃剣を閃かせて、井伊家の行列の中に突撃していった。銃声が周囲に満ち溢れ、行列の人々は、自分たちが初めから完全に囲まれていたことを知った。
「神は偉大なり! 神は偉大なり!」
井伊家の人数は、ろくに反撃も出来ぬまま、ことごとく撃たれ、或いは刺され、あっという間にその数を減じていった。
そればかりではない。
「た、助けてくれ、助けてくれ!」
「う、うわあ、うわあぁ」
「なんまいだ、なんまいだ……」
復讐に燃える襲撃側の気力に圧倒された井伊家の供回りは、突然の襲撃に恐れおののき、逃げ惑う者、平伏して哀願する者、祈る者、更には、逸早くいずこかへ逐電してしまう者が続出したのであった。
「門を開けてくれ! 開けてくれ!!」
江戸城の城門にかじりつき、門扉を叩いた者も居た。叩きながら、無表情に聳え立つ城門と、微笑する家康に向かって、彼は叫んだ。
「何故!! 何故開けて下さらぬのですか。頼み申す! 開門、開門!!」
だが、幾ら呼べども押せども、叫べども、江戸城桜田門の扉は開かれることはなかった。至近で巻き起こった激しい爆発音と銃声のために、江戸城中枢の指令コンピューターは、江戸城が敵の攻撃を受けていると判断し、自動的にすべての城門を電子ロックで閉ざした上、城門に関するデータファイルを暗号化して、高度なプロテクトをかけたのである。その暗号は老中会議の出席者全員の同意がなければ、絶対に解除されないシステムであった。そのために、この勇敢な中間は悲惨な末路を辿ってしまった。
「ぎゃっ!!」
彼は四挺のAK-47に同時に狙われ、明らかに一人の人間に対して使用する量ではない数の弾丸を浴び、たちまちにして「あの世行き」となったものである。
「わははは、ははは、わっはっは……」
松陰は空の上から、その凄惨極まる情景を眺め降ろして、ひとり快哉を叫んでいた。松陰の眼下では、水戸も彦根も、長州も薩摩も、勤王も佐幕も、そこにいるすべての人々が、刀を振りかざし、AKを撃ちまくり、拳を固めて殴り合い、またお互いの首を絞めていた。
「むごい! まことにむごいぞ、諸君! 素晴らしい眺めだぞ」
今や青年松陰の頭は白髪となり、肩まで垂れたそれは、正真正銘亡者の外見であった。松陰がその黒ずんだ眼窩の奥にわだかまる白い眼で地上を見ると、逃げ出した井伊家の中間の一人が、数人の浪士に取り囲まれ、爆破された車の残骸に追い詰められているところだった。
「殺せ! 殺すのだ。やってしまえ!!」
松陰はわめいた。すると、彼らの後ろから一人の侍が駆けつけ、浪士のAKを取り上げるや、銃口を中間に向けて掃射した。血煙が噴き、中間は倒れた。
「わははははは」
松陰は、その生前の人柄からはまったく考えられなかったほどの残酷な笑い声を立てて、その有様を単純に面白がっていた。
死という体験を通して、この青年に如何なる変化が働いたのか、そのことは杳として知れない。
しかし、かつての青年志士・吉田松陰がこの世に残した鮮烈な『狂気』が、この後数年間にわたり、日本全土を席巻することになるのである。
この話は、その数年間の物語である。
・第二部『南海』(早ければ1862年の内に)
◇
文久二年の土佐……。
その頃、土佐藩参政・吉田東洋の権勢は頂点に達し、独裁権力を手中にした東洋による改革が、この南海雄藩の様相を一変させつつあった。
「この土佐での改革を、幕政改革の範となすのだ。土佐国の回天は、いつに日本国の回天である」
この四六歳の若き宰相の政治的理念は、開国貿易であった。
東洋は藩の洋式化を図り、急速な改革に反発する門閥出身者や、既得権益を持つ保守派層の反対をねじ伏せて、不屈の精神で近代化を推し進めた。
東洋の改革の結果、辺境のいち外様藩に過ぎなかった土佐山内氏の城下は、たちまち高層ビルの林立する近代的都市に生まれ変わり、舗装街路が整備され、人々が路面電車に乗って町々を闊歩するという、西側資本主義のショーウィンドウ的存在に変容した。
それは紛れもなく、幕末土佐の生んだ一人の天才のなせる業であったが、土佐藩にとって不幸なことに、天は土佐藩に二物を与えていた。
武市瑞山である。
この瑞山が、勤王の至誠篤いポニーテールの美少女剣客であることは先にも述べた。
江戸での剣術修行を終えて帰国した武市は、参政・吉田東洋によって変貌した故郷を目の当たりにし、怒りに震えた。
「唾棄すべき、西側ブルジョア思想に犯された参政のやり方は許せない!!」
開国への憎悪を新たにし、自邸に設けた剣術道場を根城にする
『土佐勤王党』
を結成したのであった。
もしもこの世の中に『生まれながらの革命指導者』というものがあるとしたら、武市瑞山の資質はまさしくそうであろう。武市の下にはたちまち百五十人の同志が集い、そのすべてが武市の吐いた唾でも喜んで舐めるというほどの忠実な門下になった。
文久二年の春ごろになると、勤王党の主要な議題は、どうやって東洋一派を藩政から追放するか、に絞られた。
武市は『殺害』を主張した。党の大半の者が武市の意見に賛成したが、ただひとり坂本龍馬だけが反対した。
「東洋を斬ったとして、よし数年は藩政の実権を握れるかもしれん。しかし、江戸の老公(山内容堂)が土佐に戻れば、東洋暗殺の下手人はかならず露見する。それは武市、おまえのことじゃ。最後には、みんなが磔柱に掛かるだけじゃ」
この頃の彼はまだ、武市以上に無名であったが、幼馴染の武市はその強い親愛の情から、二百名近い門下を抱える身でありながら、龍馬にだけは弱かった。武市は、意見不一致で龍馬を野に追いやることだけは避けたいと考えていたが、しかし、東洋一派追放は急がねばならないことも知っていた。江戸の老公が帰国すれば、東洋の政治的背景は磐石となり、それこそ藩政追放など思いもよらなくなるのである。
武市は何度も龍馬を説得しようとしたが、それは無駄であった。武市と龍馬は、結局このとき袂を分かった。その去り際、龍馬は武市に言った。
「分かった、武市。おまえは東洋を斬れ。そうしたら、わしは国を脱ける。みんなは、わしが東洋を殺ったと考えるじゃろう。おまえは、東洋は龍馬が勝手に斬ったと言えばいい」
「ばか!! そんなことが言えるわけないでしょう」
しかし武市は、このとき逆に説得された。龍馬は脱藩の仕度を始め、武市は暗殺計画の立案にかかった。
それは、五月六日の温かい雨の夜であった。
武市は、黒塗りのクライスラー・エアフローの車上から、傘を差して歩いてくる東洋へ、さも親しげに声をかけた。
「そこを行くお方。あなた様は、参政殿ではありませんか?」
「む?」
東洋は目を細めて、その声のぬしを確かめようとした。しかし、折からの降雨が視界と音を遮り、東洋はまったく無警戒のまま、車のそばへと歩いてきた。
「如何にも拙者は吉田東洋だ。そなたは誰か?」
「そのお答えは……」
武市はシートの下からトンプソンサブマシンガンを取り出して、その長い筒先を東洋に向けた。
「これですよ!!」
『土佐のタイプライター』の異名通りの、けたたましい銃声が夜空に響いた。土佐の参政・吉田東洋の肉体は、五十発入りドラム型弾倉の全弾を浴び、一瞬にして無惨なものになった。
「以蔵、出して!」
武市が命じると、運転手兼用心棒の岡田以蔵はアクセルを踏み込み、一瞬車輪を空転させたあと、低いエンジン音と一人の人間の死骸を残し、雨の中へと矢のように去っていった。東洋の遺体は、かつてそれが人間だったとは考えがたいほど、凄まじい状態の肉塊に変わり果てていた。吉田東洋はこの宵、城内で『信長公記』を講義した帰りであったが、皮肉なことに、それは戦国の革命児・織田信長が、本能寺で非業の最期を遂げる折の段であった。車は人気のない官庁街を抜け、繁華街に紛れた。
「なにも、お嬢さま自らの御手でなさらずとも、私にお命じくだされば、東洋の如き……」
「お前の腕が、信用出来ないというのではないのよ。以蔵」
「それでしたら、何故?」
「龍馬は……」
武市は流れ去る車窓を見ながら、あさってのような言葉を以蔵に返した。
「今頃、国境を抜けたかしらね」
以蔵は、沈黙するしかなかった。
車は風を巻いて、道場へと走る。道場ではすでに、武市からの殺害成功の暗号を受け、決起部隊の行動が始まっていた。
「奸賊・吉田東洋は死んだ! 俗論政府にも死を!!」
これは勤王党の攘夷派クーデターであった。決起部隊は直ちに藩庁を包囲、各交通機関を停止させ、警察本部を占拠。一隊は武装して放送局へ押し入った。
「聞け!! われわれは正義軍である。正義軍は今から決起趣意書を全藩に放送するのである」
「そんな勝手なことをしてもらっては困ります。あなたがたは、この放送局をなんだと思っているのですか」
その職員は即座に殺された。街ゆく人々は街頭テレビが告げる臨時放送の音色に足を止め、番傘の庇を上げて、ビルの壁面に飾られた液晶画面を仰いだ。山内氏の三つ葉柏の紋章を背に、革命派の報道官・平井収二郎は、攘夷革命が成功し、土佐二十万石はもはや佐幕藩ではないと述べた。次に平井は、反革命容疑の逮捕者リストを読み上げた。そこでは普請奉行・後藤象二郎、町奉行・乾退助ら、高名な藩要人の名が続々と挙げられた。
「おい後藤さん、こりゃ一体何事なんだ」
「乾君。逆らっちゃいかんよ」
幼少時から吉田東洋の私塾で学び、竹馬の友である二人は、城下の料亭で皿鉢を囲み、刺身と酒盗で飲っていたところを御用となった。後藤と乾は両手を頭の後ろにのせて、AKの銃口で背中を突付かれながら、護送車に押し込められた。
「旦那! なんてこった」
護送車には先客がいた。これもやはり東洋の弟子で、下横目の岩崎弥太郎である。
「なんと、弥太郎。おぬしまで捕まえられたのか」
「後藤様、乾様。こいつは武市めの策謀でございますよ」
「うむ」
乾退助は静かに頷いた。
「かような大それた真似、武市以外の者にはけして出来まい。して、先生は?」
「それが……」
「先生は、どうしたのだ!」
後藤象二郎が答えをせかした。
「先生は、お亡くなりでございます。勤王党の発表では、殺害の下手人は郷士・坂本龍馬と。しかしこれなるは真っ赤な嘘、すべて武市めの仕組んだ謀略に相違ありませぬ」
「うぬ!!」
後藤象二郎はそれを聞いて、電撃のように叫び、長く痛恨の唸り声をあげた。
「おのれ!! 憎い、憎いぞ武市瑞山……。あの小生意気な小便臭い娘め! きさまの生肉を引き剥がし、心の臓をむしり取って、喰ってやりたいぞ!!」
「だまれ! 囚人は私語を禁ず!」
白鉢巻、白襷の勤王党員が怒鳴り、護送車は出発した。同じころ、同じようなことが、高知城下のいたるところで起きていた。参政吉田東洋以下、藩政府の主だった参画者を一度に失い、土佐藩庁は敗北を認めた。勤王党は、一夜にして政権を掌握したのである。
「土州、勤王藩となる」
の報は、瞬く間に日本全土に知れ渡った。『極東のCNN』と形容された衛星テレビ局も、土佐藩の勤王革命を大きく報道し、AKを掲げた勤王党員に囲まれながら、戦車に乗って街路を睥睨する武市の写真は、米国『TIME』誌をはじめ、海外メディアでたびたび取り上げられるショットとなった。
武市自身も、大勢の前に出て演説することをとても好んだ。
聴衆八千人を集めて盛大に行われた第三回土佐勤王党大会は、彼女の次の発議から始まった。
「我らは来るべき攘夷戦争において、もはや幕府権力を対手とせず。土州は近く上洛し、聖旨の存ずるところをつぶさに拝察の上、その大御心をもって、広く日本六十余州に号令せんとするものなり」
嵐のような拍手と喝采が会場を包んだ。それは新しい宗教の現出を思わせる熱狂を帯びたまま、日本全土に伝播した。
「土州の武市が上洛するぞ」
「ついに、俺たちの時代がやって来たのだな」
「そうだ!! 幕府の奴らをぶっ潰してしまえ!」
そして、日本各地に鬱屈していた過激な攘夷派浪士たちが、一斉に京の都に押し寄せた。
それはAKを撃つことと、刃物を振り回すことしか知らない、ならず者のような人々であったが、そうした集団が時を得て、群れを成し、江戸から、長州、薩摩から、水戸から、すべての国々から、三関を通り、わんさと京にやって来た。
京は突然、無法の巷となった。
「助けてくれ、助けてくれ!」
「わははは、わははは」
奉行所や、代官所の役人が、白昼堂々オートバイに繋がれ、洛中を引きずり回されるという、凄まじい光景も日常になった。
大獄時代、『今太閤』と異名を取った京洛の恐怖公・島田左近も殺された。
「この男は、かの大悪党・井伊掃部頭と通謀し、勤王憂国に生きる多くの士を、無実の罪で殺した挙句、私腹を肥やした逆賊である。我らはここに天誅を加えるものである!!」
一人の男がカメラの前で弾劾文を読み上げると、覆面をした数人の男たちが次々と刀を抜いた。
「神は偉大なり!」
「神は偉大なり!」
「ひええ」
両手足を縛られた島田左近は、たちまち首を切り落とされた。その無惨な姿はインターネットの動画投稿サイトに掲載され、多くの自称志士たちの鉄腸を震わせ、幕府要人の心胆を寒からしめた。『天誅動画』は多くの模倣事件を生み、数年にわたる一大ムーブメントとなった。
開国派の学者も天誅の標的にされ、吉田松陰のかつての師・佐久間象山はこの時期に殺された。ある夜のこと、佐久間象山が三条木屋町の路上を歩いていると、一人の武士が飛び出し、刀を抜いた。
「つおーッ!!」
「何ごとだ?」
「佐久間象山か!!」
「だったらどうする?」
「殺す!!」
佐久間象山はデザートイーグルの弾を四発も喰らい、肋骨と内臓がぐちゃぐちゃになり、即死した。ほかにも、多くの人々が殺され、京の街角に、毎日夥しい血が流された。
京の都は、そうした中で、武市瑞山の上洛を迎えたのである。
武市は、まだ幼い土佐藩主や、二千人の勤王革命防衛隊を率い、旭日の昇るころ、艶やかなポニーテールを颯爽となびかせて、堂々、戦車に乗って入京した。
京洛の人々は、中京の土佐藩邸へと続く街路の両脇にぞろぞろと湧き出して、島田左近に代わった新たな都の支配者を一目見ようと、洛中洛外の各地から詰め掛けてきていた。
「あれが、土佐の武市さんや」
「お顔の涼しげな、凛々しいお人やなぁ」
「若いのに似ず、大したものや……」
衆目は一様に、武市瑞山を好ましく認めた。それは奇しくも、京の都を等しく覆っていた不穏の香が、武市に味方した形であった。餓鬼・畜生の類とさして変わらぬ様相を呈す、勤王浪士の頭目が、どのような人物なのか……人々の想像は初め、地獄の鬼の如きそれであったが、実物はその予想に反し、まことに眉目麗しい、こざっぱりした才子であった。義経然り、京人はこの種類の英傑しか、英傑として認めない。
武市は、藩邸とは別に、木屋町三条上ルの料亭『丹虎』を本営と決め、直ちに、諸藩や禁裏を相手取り、攘夷戦争を開始するための政治的な活動を開始した。
それは、まず、朝廷を動かし、朝廷から幕府を動かし、幕府から、諸藩を動かすという、ビリヤード式の理論から成り、外交権を独占する幕府を疎ましく感ずる人々、特に、幕政に参与出来ない外様諸藩が、武市の活動を熱烈に後援した。武市も、これに答えた。
政治の中心は、いまや江戸でなく、京都であった。政治の常であるか、幕府の対応はここでもやはり後手に回って、世論は攘夷一色となった。
天皇も勅命を出し、幕府に、攘夷の断行を強く迫った。
「幕府は攘夷をせよ! 不当な条約を破棄し、戦争をすべし」
井伊大老死後、いまだ幕閣内での政治的紛争が解決せぬままであった幕府は、この世論の沸騰ぶりには抗するべくもなく
「わ、分かり申した」
十四代将軍・家茂を上洛させ、勅命を拝するほかはなかった。
三代・家光公以来、その職にある者として、実に二三〇年ぶりに上洛した徳川将軍は、しかし盛時の威光、いまどこにあろう。家茂将軍は孝明天皇に謁見し、ついに攘夷の決行を誓約させられたのである。
「かならずや洋夷を討ち払いまする」
幕府は、やり込められた。
世の中に鬱屈する多くの攘夷論者は、将軍のこの一言を、まさに待望のそれとして受け止めた。日本は、洋夷と戦争するのだ。
『丹虎』の土佐勤王党も、狂喜に沸いた。
その日、坂本龍馬は、そこへ偶然、ふらりと立ち寄っただけであったが、暖簾際で酔漢に肩をぶつけられ、罵声を浴びたときから、『丹虎』内に漂う一種異様な気配に気が付いた。
奥へと進んで行ったとき、龍馬の眼に映ったものは、身分の高下に関わらず、熱にうかされた人々の、あらゆる姿であった。昼間から大酒を喰らい、狂気のように激論する者、歌う者、泣く者、剣舞と称して刀を振り回す者、叫びながらAKを空にぶっ放す者、などである。龍馬は、素面であった。龍馬は、世界の中で自分ひとりが、何か巨大な「酔い」の中から、永久に閉め出されたような疎外感を受けた。
「何事なんじゃ、この騒ぎは……」
龍馬が、思わず辟易して独り言ちたとき、彼は、庭に面した廊下の上で、ある人物とばったり行きあった。それは男装した、一人の女性であった。「龍馬」と彼女はいった。龍馬は、最初それが誰だか分からなかった。龍馬もまたその人物を知っていたが、彼の知っている少女のイメージと、容易には結びつかないほど、わずかな期間に、化粧の仕方も、衣装も、大小の刀も変え、彼女はすっかり、大成した人物に変貌していた。武市瑞山である。
「ああ。なんだ、武市か。そうか。全然、分からんかった」
「何よ、それ」
もう、何年も会っていないような気がした。
屋敷全体が、美酒に酔いしれていても、武市は、酔っていなかった。武市は、まったくの下戸で、酒のたぐいを、一滴といえども受け付けない。土佐人には珍しい質であった。
無論、そのことは龍馬も知っている。
「無事に、国抜けしたのね」
「おまえは、出世をした」
「参政は、私が殺ったわ」
「聞いている」
「あなたの仕業にした」
「その話はよせ」
「今、どうしてるの? また私と組まない?」
「わしはお尋ね者だ」
と龍馬はいった。
「今は都合が悪い」
しかし実際のところは、「お尋ね者」というのは大した理由ではなかった。
この頃の土佐藩の、坂本龍馬への追及は、まだ差し迫った脅威ではなかったし、それよりも遥かに大きな問題を、いま坂本龍馬は抱えていた。脱藩後の龍馬は、紆余曲折を経て、どういうわけか、幕府の軍艦奉行・勝海舟の弟子になっていたのである。
勝は、幕府開国政策の首魁とも目される人物で、武市ら攘夷党にすれば
「売国奴」
以外の何者でもない、という男である。そういう男を、いま龍馬は「師」としている。坂本龍馬は、すでにこのときには、武市たち武闘派の路線と、実は完全に道を違えていたわけであった。
しかし、そのことを龍馬は、武市には言わぬ。そのかわり、龍馬は『丹虎』のこの異様な有様について、武市に訊ねた。
「国へ、手紙を頼もうと思って来た。どうしたんじゃ、この騒ぎようは」
「聞いて驚くわよ」
武市はすこし人の悪そうな笑みを向けたあと、衿の中から一通の封書を取り出し、龍馬に差し出した。
「江戸からの早飛脚。それによるとね、ついに、公方様(将軍)が攘夷戦をお認めになったのよ」
「幕府が?」
龍馬は封書を開けて、書状を一読した。そこには確かに、来る五月十日を期して、諸外国に対し攘夷を決行し、開戦に踏み切るとある。
「これで諸藩の士も一斉に立ち上がるでしょうし……」
「いや、それはおかしいな」
決起以来の活動が認められたと喜色を浮かべる武市に対し、龍馬は書面に目を落としたまま、不審の口調であった。
「幕府が外国と結んだ約定を、今更反故にするわけがない」
「どうしてよ?」
「『万国公法』といってな」
龍馬は書状を武市に返しながら、彼女に答えた。
「外交上、世界のすべての国が、守らねばならんとされる『掟』のことだ。そこでは一度結んだ約定を勝手に破り、戦争を仕掛けることは、何よりも下劣なこととされておる。世界の公法に背けば、海外の列国は、公然と日本を攻撃するだろう」
「だから、幕府は攘夷をしないっていうの? でもこれは、諸侯に向けた正式の命令なのよ?」
「幕府の腹は読めてるさ」
龍馬は、三つ葉葵の影に我が身を隠す、幕閣や、それを取り巻く人々の考えが、手に取るように分かるようであった。それはこの青年が生来に持つ、一種不思議な才能のせいもあったけれども、なによりも彼自身が、攘夷勤王に燃え立つ炎の渦を離れ、遠い山上から下界を望む峰の一角に、このときたまたま、差し掛かっていたと看做すのがふさわしい。
いま日本一国が、全世界を敵として、交戦の軍を起こしても、勝てる見込みはひとつも無い。それなのに、幕府は攘夷の号令を出した。何故であるか? それは攘夷を叫ぶ勤王派の勢力を、攘夷戦争で疲弊させ、相対的な勢力関係を、幕府に有利に導こうとするものである。
龍馬は愚鈍な男であった。だがその愚鈍な龍馬も、その山の上に立ったとき、これだけのことが即座に分かった。武市は天下の英雄だったが、しかし、彼女にはたったそれだけのことが、まるで見えてはいなかった。彼女はすでに、早足で山を登りきり、また降りきっていたのであろう。龍馬と武市の関係は、実に日本古来の、亀と兎の物語であった。
「冷静になれ」
と龍馬はいった。
「幕府の頭にあるものは、徳川の政権を守ることだけだ。その徳川の命令で攘夷を決行するのは間違ってる。早まるな。武市」
「それじゃあ、攘夷は!?」
武市は、小娘のように詰め寄って叫んだ。
「一体いつになったら、攘夷を決行出来るのよ」
「……分からん」
「分からん?」
「少なくとも、十年、二十年の問題じゃない。造船所を建てて、黒船を造るだけで、五十年はかかる」
「………」
そのときの武市の顔を、龍馬は、二十年の長い付き合いの中で、初めて見た。
それは彼の直らない習性である、物覚えの悪さのためではなく……。実際にも武市は、この眼前の男に対し、そのような表情を向けたことが、これまでで、一度も無かった。
龍馬は何もいえなくなった。
武市は、涙を流していた。
「龍馬」
武市は溢れ、零れ落ちるものをそのままにして、静かにいった。
「あきれて、物もいえない」
「………」
日本に、黒船を造る能力はない。
だから、
「黒船を造る」
という龍馬の言葉は、開国をする、ということと同じであった。
それは、龍馬という一人の男が、武市のこの後の生涯から、完全に訣別したということも、意味した。そのことを思ったとき、彼女は、自分の力で、自分をどうにかすることが、全然、出来ないようになったのだった。
「武市……」
龍馬は、口の中に湧いた苦い唾をようやく飲み込んで、やっとのことで、信じられない位、重くなった自分の口を、わずかに開いた。
「黒船は、必要だ。日本が、列強国に勝つために……自分自身が、列強国になるしかない。そうしなければ、生きてはいけないんだ。分かるはずだ、武市」
「もう」
武市も口を開いた。
「喋らないで。何も、聞きたくない」
「………」
武市は背中を向けた。
「出て行って。手紙は、届ける」
龍馬は暫くのあいだ、その場に黙って立ち尽くしていた。もう、二度と会うことはないだろう。龍馬は、武市の瑞々しい黒髪を結わっている、白いリボンに目を留めた。思い出すのも恥ずかしい種類の話が、海の中の泡沫と同じ数、その白さの中に詰まっていることを、地球上の全人類のうちで、龍馬と、武市だけが知っていた。
龍馬は、目を背けた。
彼は、いつものように懐に手を入れて、何も言わず、ひとり、『丹虎』を去る。お互いに、振り向かなかった。
「お嬢さま」
縁側の影から、トンプソンサブマシンガンを肩に掛けた大男が顔を覗かせた。
「以蔵」
武市はそう言うと、小さくため息を吐き、目元を懐紙でぬぐってから、彼に向き直った。
「聞いていたの?」
「いいえ」
「嘘……」
「すみません」
「何故、謝るの」
「ぜんぶ、聞いてしまったから」
「そう」
風が吹き、木々のこずえが鳴った。武市の髪の尾が、さっと流れて、それから、武市はいった。
「なら、忘れなさい」
「はい」
「他の同志にも、言ってはならない」
「坂本の言ったことは、本当なのですか。お嬢さま」
「何がです?」
「つまり……坂本は、黒船を」
「あなたは」
武市は愛刀の『南海太郎』をドスリと床に突き立て、以蔵にいった。
「知る必要はない」
「……分かりました」
「以蔵。私はね」
武市は、以蔵に横顔を向けると、かすかに口元へ笑みを浮かべた。
「権力を手に入れてやる。権力さえあれば、黒船なんか、必要じゃない」
「権力を……?」
「そう。幕府なんて、煩わしいものは無くしてしまって、私が権門盛家となって、直接、攘夷戦を指揮するのよ。そうすれば、日本は必ず勝つ。だから……」
そのとき武市の頭から、純白のリボンが、ひとりでに、はらりと落ちた。
そして、留め込まれていた武市の長い髪が、黒く、わっと開いた。
「私に逆らう奴は、全員殺してやる。一人残らず、あの世へ送ってやるわ」
「俺が」
以蔵は、肩から先をわずかに前へのめらせて、武市にいった。
「殺します。全員、一人残らず、俺が、殺ってやる。ぶっ殺してやる。お嬢さまに逆らう奴は。誰であろうと……」
「そう」
武市は懐に片手を入れ、そこから一枚の人相書きを取り出すと、三つ折にして、以蔵に手渡した。
「明朝がいいわ」
「は……」
以蔵も、その場を辞した。
「幕府の思惑なんか、私には関係が無い。……要は、勝てばいいのよ」
顔にかかる黒髪を指先で掻き分けながら、武市は、庭の松の枝に向かって独り言ちた。
彼女は、足元の、刀の先に引っかかっているリボンを見留めて、それを懐に入れながら、「しかし」といった。
「来る攘夷決行日。先手を切って動くのは……恐らく寅次郎殿、あなたの長州藩ですわね」
地を這う草花の緑の芽が、ざぁ、と揺れ立った。
武市は、地下に眠る松陰・吉田寅次郎が骸を起こし、ひとつの鬼神となって
「そうだ」
といったのだと思った。
・第三部『西南』(1863:『攘夷年』と呼ばる)
◇
長州藩の領主は、戦国期の名君として名高い、毛利元就の家系である。
かつて関ヶ原の戦いにおいて、西軍に属した毛利氏は、その戦後、幕府からの執拗な内政干渉に晒され、その居城も、防御に不適な萩城に限定されていたが、幕威も衰えたこの幕末期には、山口に「政事堂」と称する城砦を築き、藩庁もそこに移していた。
山口政事堂は、四囲に濠をめぐらし、三六基のトーチカと、十四基の高射砲塔で守られた堅固な要塞である。
『我々は、一歩たりとも米帝に譲歩しない』
と記された巨大看板に描かれている画は、列強諸国の国旗を踏み付けながら、AKを構えて突撃する武士、農民、町人、その他の身分の大群衆であり、それを教導していく、天馬に乗った吉田松陰の姿であった。
時の藩主は、十三代・毛利大膳大夫敬親である。
「殿!! 幕府はついに、情け容赦ない、攘夷決行一大聖戦事業完遂と、人民悲願の反米英帝国主義、統一民族独立大決戦を諸藩に命令しましたぞ!!」
「うむ」
吉田松陰の一番弟子で、長州藩攘夷派の最先鋒である久坂玄瑞は、攘夷実行の幕命を知ると、いそぎ政事堂へ登って、毛利大膳大夫に謁見した。
毛利大膳大夫は、丸々と肥満した身体を、肘掛にもたれかけさせ、無感情な顔で、久坂の言うことを聞いている。
この殿は……。
公的にも私的にも、いっさいの望みも、野心も持たないという、幕末史においてはおよそ珍しい種類の人間で、家臣の言うことがどのような主張であっても、絶対に反対せず、ただ「そうせい」としか言わぬので、
『そうせい候』
と呼ばれていた。火を吹くような激烈な男である久坂玄瑞は、その通りの激烈な調子のままで、そうせい候にいった。
「我が長州藩は、この際攘夷の尖兵となり、徹底的かつ最高の大衆大団結で、洋夷の威張る下人野郎どもと、軍国主義的侵略者、ブルジョア悪党一派を熱狂的にこなごなに打ち砕き、反帝国主義攘夷聖戦の先鞭を付けるべきと存じます!!」
「うむ、そうせい」
「殿。しからば政務役より言上すべきことあり」
藩政務役筆頭の周布政之助が、久坂の後を引き取って毛利大膳大夫に言った。
「洋夷との戦端を開くにあたり、藩内の裏切者、開国主義者の長井雅楽を斬り、攘夷の血祭りにしたいと思います」
毛利大膳大夫は頷いて答えた。
「うむ、そうせい」
長井は即日、切腹となった。同時に、藩内のその他の開国主義者もことごとく粛清され、長州は攘夷に固まった。
そしてそれを皮切りに、長州藩の激烈な攘夷が開始された。
長州藩は、沿岸砲と地対艦ミサイルで関門海峡を封鎖すると、大型空母六隻を基幹とする長州藩機動部隊が、一路北太平洋へと針路を取った。長州の軍はいずれも旧式で、その装備は、元亀・天正の頃から少しも変化がなかったが、それでも長州藩青年たちの、攘夷に燃える意気は天に沖し、若い闘志が満々だった。
「我々は一体、どこへ行くのでござるか?」
機動部隊は北へ向かい、荒波を蹴立てて出撃したが、乗員の長州藩士たちは、はじめのうち、誰も艦隊の行く先を知らなかった。そのため、
「蝦夷地か、樺太の沿岸測量に向かうのではないか」
という憶測が流れ、最初はその説が有力であった。
「冗談ではない。国では攘夷を決行するというときに、我らが然様な場所で遊んでいてよいものか」
血気盛んな青年藩士たちが、憤り、不満を言い立て始めるのにさして時間は要さなかった。しかし、艦隊が千島・択捉島のヒトカップ湾を抜錨し、機動部隊司令長官・高杉晋作が、マイクを通して、初めて全艦隊の行動目的を明かしたとき、乗員の憤懣は一転、熱狂に変じた。
「諸君。我々はこれより北方航路を取り、太平洋を東へ向かって横断する。我らの目標は、米国太平洋艦隊の母港・ハワイ真珠湾である。諸君の健闘をいのる」
みなぎる青年の血潮を乗せて、艦隊は一路、北海へ乗り出した。若者たちの灼熱した鉄の意志は、日輪の陽射しも凍る、北太平洋の海の水を突き破り、弾き、溶かし、ひとむらの蒸気に散華せしめた。艦隊は前進した。
そして、文久三年五月十日の日が昇った。
幕府の定めた攘夷決行の日。機動部隊は予定の通り、ハワイ北方、三〇〇海里の洋上に達していた。
各空母には攻撃準備の旗旒信号が揚げられ、飛行甲板には、爆弾や魚雷を装着した一八三機の第一波攻撃隊が、爆音をあげてエンジンを暖めている。整列した飛行侍たちに、空母の飛行長と航空参謀が作戦の指示を終えると、高杉晋作司令長官が短い激励の辞を送った。
「皆はすでに神である。だから今更言うことは何も無い。神州武士道の精華を発露し、眼の青い異人連中の、黒い腹を焼き払うのだ。天佑を確信し全軍突撃せよ」
「ばんざい、ばんざい!!」
空母乗員や飛行侍たちの歓呼を背に、高杉晋作が艦橋の中に姿を消すと、同時に旗艦の檣楼へ、『皇国の興廃この一戦にあり』の信号旗が揚げられた。これは将兵の士気を鼓舞する、高杉の巧みな演出であった。
「搭乗員の意気盛んであります」
「宜しい。直ちに全機出動」
襷がけの武士が陣太鼓を打ち鳴らし、具足をつけた信号兵がほら貝を吹き始める。
整備兵が機の車輪止めを次々に払うと、飛行甲板の遮風板が降ろされ、もはや編隊の発進を遮るものは何もなくなった。艦橋の信号兵が白旗を風になびかせ、最初の一機がそろそろと飛行甲板を進み始める。白い機体に描かれた日の丸の鮮やかな朱色が、見送る者の気分を否が応にも昂揚させた。
機は飛行甲板を滑り終えると、一瞬艦首の下へ沈み込み、それから上昇して、橙と群青色に染め分けられた暁の空へ飛び立っていった。他の一八二機もすべてこれに倣った。故障機も、困難な発艦に失敗する機も、一機もなかった。攘夷決行の五月十日に備え、日夜黙々と訓練に励んできた成果が発揮されたのだ。用意したすべての機が発進を終えると、高杉晋作は、空母艦橋の真ん中に置かれた大きな和時計をちらと見遣った。攻撃開始は二時間後の予定である。
一方、ハワイ・オアフ島最北端のカフク岬(ホノルルの北西四五キロ)に設置されていたオパマ・レーダーサイトが、高速で接近する正体不明の飛行編隊を探知したのは、現地時間で午前七時をすこし回った頃であった。
「北西より、敵味方不明の編隊が接近中。距離は……約一三〇マイル、はいそうです。IFF応答なし」
しかしこの報告は、ワシントンのホワイトハウスどころか、ホノルルの陸軍防衛司令部で握りつぶされてしまった。
「オパマポイントのボーイズが、ロシア人の高高度高速哨戒機を見つけたようだ」
「空軍にスクランブルを要求しなくていいのか」
「スクランブル? 今日は日曜日だぜ」
担当者はモーニングコーヒーを呷りながら、親指で壁掛けの日めくりカレンダーを差した。
「みんながガッカリする」
「日本の浪人集団が、無礼討ちに来たのかもしれないぜ」
英国が要求している、生麦事件の賠償交渉に関する新聞記事を読みながら、彼は言った。
「ばかな。日本は未開のサムライ国家だ。非文明人ジャップが俺たちを空から攻撃するというのか? もしもそんなことが現実になったら……」
「なったらどうする?」
「腹を切ってやるよ」
「はははははは」
ラジオは平常通りの放送だった。
そのときハワイのラジオ局は、アルトゥール・ニキシュ指揮、ベートーヴェンの交響曲五番・第三楽章を流していた。攻撃隊は機上からラジオを傍受し、その電波の導くままに、ベルリンフィルの音色に乗り進撃を続けた。日の丸の鉢巻をした長州の侍たちは、レーダー波をかわすため、編隊を低空に展開させ、ハワイの切り立った断崖と峡谷を抜け、パイナップル畑の頭上をかすめて、真珠湾へ、敵の母港へと機を走らせた。その真珠湾も、いつもの日曜日の朝だった。
星条旗が掲げられ、軍楽隊が各所で国歌を吹奏しているさなかであった。フォード島の航空基地では、米国空軍の最新式ステルス戦闘機F-22ラプターが格納庫から引き出され、すがすがしい朝の日差しを受けたところだった。キャノピーの透明部分が眩しそうに瞬いた直後、そこに一機の旧式レシプロ双発機の姿が映った。
「なんだあれは?」
基地の兵士たちが瞠目したのも束の間、双発機は着陸用の主脚を出さないまま、滑走路に出ていたF-22を押し潰し、すさまじい金属音を立てて胴体着陸した。
「やりやがったな!」
基地の憲兵が機に走り寄り、早口の英語で喚き立てる。
「この戦闘機は一機一億三七五〇万ドルもする、合衆国政府と空軍の財産だぞ。請求するからな!」
その直後、着陸機の扉がひらき、機の中から、黒づくめの装束に覆面をした、十数人の男たちが、続々と現れてきた。手に特殊部隊用のAKS-74を持ち、みな背中に日本刀を差していた。
「なんだ、なんなんだ」
みんなは何が始まるのかと思い、腰を浮かしかけた姿のまま、ぽかんとしていた。憲兵もはじめは、その異様な風体に驚いていたが、気を取り直して
「お前たち、どこから来た?」
と訊いた。すると黒装束の一団の中の、隊長らしい男が言った。
「神国ニッポン」
「なんだって?」
「さらばでござる」
「おい待て、待つんだ」
ぞろぞろと去りゆく謎の一行を、憲兵は追いかけようとした。しかし彼の背後、何マイルかで突き立った火柱の閃きと、数秒遅れて弾けた轟爆音が、彼の追捕の足を止めさせた。若い兵士たちは振り返り、目の上に手をかざして、口々に言った。
「ヒュー、いいねえ。独立記念日の花火かな」
「港のほうだ」
「ビューティフル」
「サイコーだ!」
「なんだ? あいつは。ヘイ、規定高度違反のクラシックプレインがいるぜ」
そのとき、兵士たちの頭上をレシプロエンジンの爆音が駆け抜けていった。ある兵士がその機影を指差すと、機は爆弾を投下した。滑走路に駐機中の航空機の列の中に、その黒い塊が吸い込まれ、一個飛行中隊(十六機)分のF-22が吹き飛んだ。
「なんてこった、こりゃ戦争だ!」
「マザーファック! ビッチ!!」
「ジャップだ」
フォード島の航空基地を襲撃したのは、赤根武人率いる二四機の長州藩士たちだった。晴れ渡った日曜の朝、高射砲陣地も、地対空ミサイル基地も、戦闘の準備などすこしもしていなかったし、彼らの接近に気付き、スクランブルした戦闘機も一機もなかった。そのときそこにあったのは、突如として牙を剥いた謎の敵性集団に対し、無防備に横たわるハワイ真珠湾だけだった。
侍たちは、日頃の鬱憤をただこの一日のみにぶつけようとするが如くに、目標とされた米軍の「財産」を好きなだけ爆撃し、地上の敵機や、燃料タンク、格納庫、兵舎などの地上設備、また少しでも動くものに対して、神業的練度でもって、空飛ぶ殺し屋となって、情け容赦なく機銃掃射をし始めた。
バリバリバリッと、雷の裂けるような、恐ろしい二十ミリ機関砲の銃撃から逃れて、基地副官の空軍少佐は、地上すれすれを飛び掠める長州の戦闘機を背に、シャツのボタンを留めるのも忘れたまま、通信室に飛び込んだ。彼は無線機の受信ダイヤルを操作している通信兵を捕まえて、「打電しろ」と言った。
「真珠湾空襲さる。これは演習ではない」
果てしない破壊と殺戮の場と化したハワイを見て、純粋な敵愾心と闘志に駆られ、コックピットに乗り込む若いパイロットたちも居た。彼らはF-22のエンジンを始動させ、誘導路からランウェイに機を向かわせた。しかしその過程のどこかで、彼らは必ず発見された。
侍は、すぐさま戦闘機を降下させ、正義の保安官よりも正確な射撃で、この電子戦装備と最新の科学技術の結晶であるところの機体を、地を這う高価な機械のままで炎上させた。
「うわああ!」
火達磨になったF-22が進路を変え、駐機中のB-2ステルス爆撃機の列に向かって突っ込んできたとき、兵士たちは逃げ出した。次の瞬間、数万個の食器棚を一度にひっくり返したよりも大きな音響が起こり、次いで各機が搭載していた百八十トンの爆弾が、いっぺんに爆発した。火柱が地獄の炎のように天に沖し、島中の建物にはめられていた窓ガラスがすべて割れた。
「むっ?」
戦闘機を駆ってフォード島上空に飛来していた山県狂介(のちの山県有朋)は、地上に未だ手付かずのF-22中隊を発見した。しかしすでに機銃をすっかり撃ち尽していた狂介は、もう一度旋回し、戦闘機をF-22の横に着陸させた。
機を降りた狂介は、燃料補給車を見つけ、それに乗って戻ると、ホースを取って、燃料をF-22に一機ずつかけて回った。狂介は火をつける。十六機のF-22がメラメラと燃え立った。
「これでよい」
そして狂介は颯爽と戦闘機に乗り、何事もなかったように飛び立っていった。その直後、F-22の搭載燃料と弾薬が、次々と爆発し始めた。
「助けてくれ!!」
真珠湾に停泊する八隻の弾道ミサイル原潜は、すでに夥しい炎と黒煙に包まれていた。
堂々と二列縦隊で並んでいた艦隊は、既に二隻が転覆し、艦腹を空に見せている。他の六隻も著しく炎上し、閉鎖された隔壁の中で閉じ込められ、水死する兵士が続出していた。
「司令部に報告したのか?」
戦略原潜「ウェストバージニア」は、弾道ミサイル二四発を搭載する大型軍艦だった。艦は魚雷七発、爆弾二発を蒙り、浸水と火災が発生、後部のミサイル室と機関室が大きな損傷を受けていた。
「電信電話、ともに応答ありません」
「味方の戦闘機はどこに行っちまったんだ。何をしてるんだ。我が国の見えない戦闘機は」
「艦長、落ち着いてください。このままでは全員焼死です」
「そうか分かった。やむをえん、総員退艦させろ」
「総員退艦、総員退艦だ」
その直後、同じように停泊していた戦略原潜「アリゾナ」の弾薬庫に八百キロ爆弾が飛び込んだ。「アリゾナ」は、それが一万六千トンの巨大潜水艦の最期とは思えない大爆発を起こし、眩い光となって、この世から一瞬で消し飛んでしまった。
「ハレルヤ!!」
と「ウェストバージニア」の艦長は叫んだ。一方、「なんということだ!」、といったのは、米国海軍太平洋艦隊司令長官・キンメル提督だった。キンメル提督は、湾を望む小高い丘の上にある、私邸の庭に立っていた。
提督は、遠く真珠湾で立ち上った光芒と、燃え盛る艦隊を見て、我を忘れるほど怒った。
「チクショー! ジャップめ!! はらわたが煮えくり返る思いだ。この礼はきっとしてやる。おまえらの頭に手を突っ込んで、脳みそをぐちゃぐちゃにしてやるぞ!!」
キンメルが叫ぶと、真珠湾上空に立ち込めていた黒煙がぐにゃりと歪み、それぞれに円を描き、弧をつくって、一人の青年武士のかたちとなった。それは凄まじい猛火に揺らめいて、炎上する真珠湾を眼下に、高笑する吉田松陰の大きな姿だった。
「悪魔め!」
キンメル提督は、その日本人青年のことをなにひとつ知らなかったが、その影を見た瞬間、提督はえも言われぬ激しい感情に襲われて、白い海軍服のポケットから取り出した十字架を、空に向かって突き出した。
「去れ! 地獄へ帰るがいい」
「貴殿がメリケン国水師提督、キンメル殿でござるか?」
そのキンメルの背後に、十数人の黒装束の男たちが立っていた。忍者の一人がキンメルに声をかけると、キンメルは振り返り、声を裏返らせながら喚いた。
「今度はなんなんだ?」
忍者はひらりと刀を抜いた。
「お命頂戴!!」
キンメルは首をはねられた。そこへ自家用車に乗って、ハワイ方面陸軍司令長官の、ウォルター・ショート中将がやって来た。この日の朝、ショート中将はキンメルとゴルフの約束があり、軍服でなくゴルフウェアを着用していた。中将がゴルフバッグを車の中から取り出して、顔を上げたとき、中将の眼にキンメルの首なし死体が飛び込んだ。
「ぎゃあああ!! ひっ、人殺し!」
中将はあわてて車に戻り、何度もスターターを空回りさせたあと、エンジンを吹かし、急発進させた。忍者は手裏剣を投げつける。数発が車体に突き刺さり、車は大爆発した。
濛々たる煙がハワイ全土を覆いつくしていた。この二時間足らずの攻撃により、長州藩は米国太平洋艦隊の主力原潜八隻を撃沈大破。B-2ステルス爆撃機十機を含む、作戦用航空機一八八機を破壊し、一五五機に損害を与えたのだった。まさに驚天動地の大戦果であった。
「長州藩、攘夷実行」
の知らせは、たちまち日本全国を駆け抜け、日本のあらゆる藩の攘夷熱に火をつけた。
「長州に遅れを取るな!!」
二ヵ月後、長州と同じ巨大な西南雄藩のひとつ・薩摩が行動を起こした。生麦事件の賠償問題で揉める薩摩と英国が戦端を開き、これは激しい海戦に発展した。
薩摩藩は英国海軍の攻撃により、先代藩主・島津斉彬の頃より、営々として築き上げた、あらゆる近代設備を焼失し、その城下は灰燼に帰したが、それでも鹿屋の陸上攻撃機が反撃し、英の巨大戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と、巡洋戦艦「レパルス」を沈めて報復した。
藩や、兵力を持たない草莽の志士たちも、武器を手に、異人撃攘のため、ことごとく立ち上がった。
「軍曹。館内の様子はどうなっているのですか?」
江戸高輪・東禅寺にある英国公使館の境内で、衛星テレビ局の現地取材をうけた英国人憲兵が、L85を構えた姿のまま、目だけをカメラに傾けて答えた。
「公使館を占拠した日本のローニン集団は、十数人か、二十名前後と見られる。ローニンは、いずれもAK-47と手榴弾で武装していて、我々は包囲しているが、敵もなかなかに手強い」
そのとき、米軍の識別マークをつけたUH-1ヘリコプターが飛来し、公使館上空に占位を始めた。ヘリの側面扉が開き、ガンナーが機関銃に手を掛けているのが見える。すぐに、ヘリのローター音に混じって、重機関銃の銃撃音が唸り始め、寺の縁側や柱や、瓦屋根に、雹のように弾丸が降り注ぎ始めた。
境内は一面の砂埃にまみれたが、その銃撃に答えて、庭の一角で起こったロケットの轟音と光が、それらをかき消し、空へ向かって伸びた。くぐもった爆発音が間を置かず起こり、ローターの音が低く変化する。爆風のために、空中へ放り出された乗員の姿が下から見えた。
「R-P-G! R-P-G!」
「危ない、伏せろ!!」
憲兵軍曹は、次なる衝撃を予期して、テレビクルーとカメラマンの頭をつかみ、押さえ込んだ。ヘリはすでに、黒煙を噴き上げて傾きながら、横回転を始めて落下しつつあった。その影が境内の奥の林の中に消えると、爆音が上がり、搭載するガソリンが火焔となって、四方八方へ飛び散った。
「こちらは本日、犯行グループからCNNへ送られたビデオ映像です。三十秒間の短いファイルです。夜間に撮影され、映像は不鮮明です。しかし、爆発の瞬間がはっきりと映されています。映りますか……ああ、出ましたね。この映像です」
CNNテレビは連日、日本でのローニンによるテロ行為を報道した。
何かの大きな影がカメラの前をよぎり、数秒後、爆発の閃光が走った。一瞬、画面は白く埋め尽くされ、それが収まると、激しく炎上する洋館のさまが、そこに代わって映し出された。
カメラがズームしていくと、燃え上がる建物の上に閃く、ユニオンジャックの旗が見える。映像はそこで終わり、繰り返し冒頭からリピート再生がかかった。画面を横切っていく黒い影のところから。
「新英国公使館です。建物は、シナガワシティに建設中でした。自動車爆弾による攻撃が後を絶ちません。恐ろしいことです。これらの攻撃者たちの多くは二十代の若者です。各地で悲惨な凶行が続いています。大きな悲劇です」
だが、攘夷派にとっての『大きな悲劇』はこれからであった。
文久三年。
この年、新撰組が結成された。
その元締めは、親幕府の筆頭勢力・会津藩である。
のちに幕末の最後、戊辰戦乱において、他に比類なき苛烈な『滅亡』を経験するこの東北雄藩は、このころから『京都守護職』として、幕末政界に登場する。そして、長州藩・土佐藩らの勤王勢力を抹殺すべく、会津と新撰組は行動に出るのである。
新撰組が京に来て、はじめのうちは、彼らはまったくの無名の集団であった。
「あの、身なりのおかしな、変てこな奴らはなんだろう?」
だがすぐに京の人々は、どうやらそれがこれまでにない、真に恐るべき、まともではない連中だということに、気付かないわけにはいかなくなった。ドイツ式の鉄兜を被り、ガスマスクと防弾鋼鉄服に身を固め、ダンダラ模様の羽織を纏った新撰組の、一糸乱れぬ行進に、人々は唖然とさせられた。
「京都の治安を守らねばならん」
度重なる粛清ののち、局長となった近藤勇は、新撰組の組織を固めると、すぐ、果敢な行動を始めた。新撰組は軍楽隊を先頭に、無数の隊旗を高々となびかせ、重装甲車の車列を連ねて、毎日街路を闊歩した。
反幕府派の鉾先が、海外へと向いているうちに、幕府とその擁護者たちは、完全に勢力を盛り返していたのである。
暴力をもって鳴るこの新撰組という集団が、殺戮者としての性格を剥き出しにするまでに、時間はさして要らなかった。
「助けてくれ!!」
白昼、四人の勤王浪士が、月代を汗まみれにして、都の大路を逃げ走っていた。市井の人々が振り返る中に、『誠』の旗を掲げた一台の八輪式重装甲偵察車が現れ、けたたましいエンジン音を立て、土煙を噴き上げて急追していく。
「ひっ!!」
走りながら振り向いた一人の顔が、恐怖に引きつると、直後、七・九二ミリ弾を一分間に一五〇〇発発射するMG42の掃射が地を薙ぎ、その男の頭といわず身体をいわず、肉体のあらゆる箇所をばらばらにした。
「うわあ、うわああ!」
浪士たちは、一瞬にして亡き者となったかつての同胞を見て、錯乱した叫びを挙げ、人一人かという路地に逃げ込んだ。再度機銃が唸り、路地両側の反物屋と両替商の店に弾痕が刻み付けられた。
「目標、左十五度!」
「左十五度了解!!」
ハッチから顔を出した指揮官が双眼鏡を構えて命ずると、砲塔が旋回し、五センチ砲の砲口が商家の白い土蔵に向けられた。
「撃て!!」
装甲車の主砲が火を吹いた。かつて土蔵だった場所に火柱が上がり、瓦屋根が十五メートルも吹き飛んだ。土塀は砂を突き崩すように、跡形も無く消え去った。
「前進!」
ディーゼルエンジンが排気ガスを濛々と吐き出し、装甲車は再び動き出した。路地に面する建物や塀を踏み潰し、逃げ出す猫や鼠をよそに、新撰組の装甲車は浪士たちを追った。
次の大路で、更に二人が倒された。残る一人は懸命に駆け、とある料亭に逃げ込んだ。『丹虎』であった。
「先生!! 武市先生、た、助けてください」
「どうしたのです。何の騒ぎです?」
武市はたまたま、遊説のため外出するところであった。武市は式台から降りて、戸口まで出た。最近の武市は、髪を降ろしていることが多い。このときもそうであった。
浪士はその武市の白羽織にすがり付いて、口をしきりに動かした。
「し、新撰組……」
「なんですって?」
そのとき、『丹虎』の木戸門を突き破って、装甲車が踊り込み、二人のすぐ前に停止した。新撰組の指揮官の男は、車内からMP40短機関銃を取り出し、一人で逃げ出そうとした浪士の背中を撃った。浪士は血反吐を吐き、絶命した。料亭の女中が、悲鳴を上げた。
「貴公は、武市瑞山殿とお見受けする」
装甲車指揮官の男は、車上から見下ろしながら、武市にいった。
「失礼つかまつった。我らは会津中将様お預かり、新撰組の者でござる。ご無礼平に」
そして、彼は口元を笑いに歪めた。武市は顔を上げ、男を睨み上げる。
「これが、新撰組の流儀ですか?」
「アクセルと、ブレーキを間違えたのさ」
彼は、親指の先で背後を指差し、「よくある事故だ」といった。
「見ればこれからお出かけの様子。不運なことにならずに済んで、よかったですな」
「どういう意味です?」
「あなたが去り、我らが残る……。そういうことでござる。では、これにて御免」
「待ちなさい! あなたは……貴殿の姓名は?」
装甲車指揮官は、はめていたゴーグルを上げた。切れ長の、冷たく光る怜悧そうな眼が、武市を見ていた。
「私は、土方歳三だ。覚えてもらおう。貴様に取って代わる男を」
『誠』一文字を染め抜いた朱色の旗が、始動されたエンジンの振動に合わせて揺れた。崩れた木戸門の瓦屋根を踏み潰しながら、車輌は大路へ後退していく。武市は、一直線に自分へ向かって突きつけられた、その黒々と空いた砲口を前にして、身じろぎひとつ出来ない自分に気付いた。
「武市瑞山、これだけは言っておく」
新撰組副長・土方歳三は、東山の尾根に閃く日輪へ、そのシルエットを大きく映じ、武市に向かってこう決め付けた。
「貴様は終わりだ。策謀の時代は、もう終わったよ。このあとに来る時代はただ、『力』だ。武力だ。待つがよい、武市瑞山。やがて圧倒的な武力が、お前たち勤王の勢力を、一人残らず叩き潰してしまうだろう。その時を……」
土方は乗車を進発させ、銀色の都大路の上を、燦然たる旭日の光に乗り、走り去っていく。このときの武市に出来たことはただ、表へと走り出て、その後姿を黙って見送ることだけだった。
都に風が吹く。武市は自らの長い黒髪とともに、舞い上がる砂塵を痛みとして受け、目元を覆って背を向けた。土方のいうその時……。このとき、それはもう目前であった。
・第四部『日本』(その後の数年間に)
◇
その夜……。
長州藩は嵐であった。
山口政事堂の地下防空壕にある、通信室・敵信傍受第一班では、前日の深夜から夜半にかけて、微妙な緊張状態がつづいていた。長州では、米英など攘夷戦争の被害を受けた連合国が
「近く、報復にやってくるのではないか」
という噂がしきりと流れていた。だから、この通信室に今みなぎっている緊張もまた、それにまつわる緊張であった。
「交換台? 作戦部長の久坂様にお繋ぎしてくれ。そうだ、私邸の方だ」
伊藤俊輔は、のちに博文と改名し、国家の丞相ともなる男であるが、このときにはまだ二十そこそこの若者にすぎない。密航して、英国に渡った経験があり、英米の作戦通信を傍受解読する役目を任されていた。作戦部長、久坂玄瑞は起きていた。
「何事だ、俊輔」
「数時間前から、連合国の通信の様子が変化しました。艦艇間の通信数が大幅に増えています。なんらかの軍事行動の兆候ではないでしょうか」
「通信の内容は?」
「分かりません、未知の乱数表を使用しているようです」
「全然、解けんのか」
「はい」
「………」
電話機の向こうで、久坂は黙考しているようだった。数秒間、受話器は無言になった。そのあとで、久坂の声がまた聞こえた。
「分かった。そのまま警戒を続行しろ」
「すぐに警報を出さなくていいですか?」
俊輔は着物の衿を掴んで、胸元に湧いた汗を拭いながらいった。通信室はひどく蒸していて、夜中でも暑苦しかった。
「今月に入って、もう五回も警報を出している」
と久坂はいった。
「そのたびに藩全軍を動員し、将卒は疲労の極だ。あやふやな情報で判断を誤りたくない」
「しかし! 今までにない通信の増え方です。この現象は薩英戦争の事例とも一致しております」
「だが、この天候だぞ。君のところからは見えまいが、相当な風と雨だ。敵が来襲するとしても今日はありえんよ。もし不埒にも敵がやってくれば、かならずや神風が吹いて、毛唐の船は全滅するに違いない」
「気象班の予報も取り寄せました」
伊藤は受話器を一度耳元から離し、机の上の書類束を集めて、電話口まで引き寄せた。
「前田浜から壇ノ浦にかけての天候は、天明以降回復の見込みであります」
「そうか」
久坂は伊藤の努力を認めた。彼はこの松下村塾以来の後輩生にいった。
「分かった。俊輔、君は今すぐ前田浜の砲台陣地へ行け。念のためだ」
「諒解しました」
伊藤は、すぐ地下鉄に飛び乗った。政事堂から各地の要塞に繋がる直通路線で、山口から下関まで一時間半であった。前田浜の砲台陣地は、十門の二〇三ミリ砲と、二二門の一五五ミリ砲、二一門の一二七ミリ砲を備え、日本屈指の沿岸要塞を形成している。攘夷戦争開始後は、壇ノ浦、彦島の砲台とともに、下関海峡封鎖の任務に就き、海峡を通過しようとする外国商船に対しては、長州藩庁のいうところの
「情け容赦ない、無慈悲な直接照準・鉄槌射撃」
を加えていた。
伊藤がそのコンクリート要塞に入ったときは、寅の刻(午前四時)をちょっと過ぎたころであった。
「異常はないか……?」
「はいッ。嵐も、幾らか静まってきたようであります」
「だいぶ酷かったのか」
「短距離砲台のいくつかは、浸水のため、避難した模様であります」
「心配だな」
伊藤は三二倍の砲台鏡を覗き込み、まだ暗い海上を見渡した。ところどころに白い波頭が立っていて、それだけがかすかに見えている。
「浮遊機雷は全部、どこかへ流れてしまったかもしれないな」
彼はそんな懸念を抱いたが、それからしばらくは、何もない時間が続いた。それは実際以上に、果てしなく長い時間であるように、伊藤は感じた。雨風がトーチカを打つ単調な音だけが、ひたすら続き、その中で伊藤は一人、緊張した面持ちを崩さず、黙り込んで座っていた。だが、その長い時間もやがては終わり、水平線の向こう側が、白々と明るんでくるのを彼は認めた。
夜明けを間近く控えて、寝ずに過ごした伊藤はふと、自分がひどく、ばからしいことに労力を費やしたのではないかという感覚に襲われた。すべては杞憂なのではないか。
「そうかもしれん……」
伊藤はそう呟いてもう一度、砲台鏡に目を当てた。これを最後に、伊藤は本部へ帰ろうと思っていた。伊藤は過ぎ去った嵐のあとの、何もない、静かな朝の海を想像した。
しかしそうではなかった。
そのとき伊藤が見たものは、米英蘭仏の四カ国合同、五〇〇〇隻の連合艦隊だった。
「敵だ」
トーチカの人々が、みな、伊藤を見た。想像を絶する光景が、このとき伊藤俊輔の眼前にあった。島のような巨大軍艦から、小さなものまで、形は実に様々だった。かつて江戸湾にやってきた黒船艦隊の、それは千倍の規模であった。伊藤や、トーチカのみんなの受けた衝撃も、千倍だった。伊藤は、硬直した顔面の筋肉を解きほぐす余裕もなく、驚愕に引きつった表情のまま、振り向いて、彼らにいった。
「やってきた……。敵だ!」
「敵襲だーッ!!」
要塞のサイレンが鳴らされ、兵舎の兵員が次々と跳ね起きた。兵士たちは具足や、撃剣の胴丸をつけ、鉢金を巻いて銃架のカラシニコフを取り、坑道を走り、整列、番号をかけていく。伊藤はこけつまろびつ、政事堂の作戦本部へ通ずる直通電話を取ると、ハンドルを回し、何度もフックを叩いた。
「本部本部!! 前田浜四号陣地の伊藤俊輔だ。作戦部長を頼む! 敵だ! 侵攻が始まった!」
「作戦部長は留守だ」
電話の相手はいった。
「俺は副官の山県狂介だ。俊輔か? おまえ、なんでそんなところに居るんだ」
「ああ狂介……。大変なんだ。敵がやってきた。五〇〇〇隻の黒船艦隊だ」
「五〇〇〇隻だって?」
山県はそれを聞いて、電話口の向こうで大笑いした。無理もなかった。山県はまだ、この光景を見ていなかった。
「俊輔。頭が変になったのか? 西洋列強は、その百分の一の黒船も持ってはいないぞ」
「本当だ!」
伊藤は叫び、鼻水を垂らしながら、もう一度沖合に視線を転じた。彼は山県の言うとおり、自分の見たそれが幻であることを願った。だがその艦隊は、やはり、現実であった。
「嘘じゃない!」
と彼はいった。
「船が多すぎて、海が青く見えない。信じられない! 物凄い数だ」
トーチカの銃眼から外を見ていた伊藤の頭上を、轟音を立てて、数十本のトマホーク巡航ミサイルが走っていった。そしてそれを皮切りに、海上からの凄まじい砲撃が始まった。わずか三十分のあいだに、長州藩前田浜砲台は、四〇センチ砲弾三六〇〇発、二〇・三センチ砲弾一万八〇〇〇発、十五・五センチ砲弾三万二〇〇〇発、十二・七センチ砲弾三六万一〇〇〇発、ロケット砲弾一五〇万発、機関砲弾一〇〇〇万発を浴びた。
「どうした、俊輔! 報告しろ。何が起きたのか?」
「何が起きたのか、だと!?」
伊藤は爆風による煤と土砂とで真っ黒になった顔を、狂気のように引きつらせながら、受話器に向かって叫んだ。
「貴様!! この音が聞こえないのか! 艦砲射撃を受けてる。……だからそうだって! ええい狂介、貴様じゃ話が分からん。作戦部長を呼び戻せ! 便所に居ても構わん!」
日本国土はかつて、その三〇〇〇年の歴史において、かくも熾烈な攻撃に晒されたことはなかったであろう。連合国艦隊の砲撃は、それから更に三十分間続き、地形や、ベトンで固められた箇所以外の、地表に出ている構造物は、人工、自然を問わず、すべてのものがこの世から完全に抹消された。砲台陣地は、九十パーセント以上が消滅した。
「俊輔。久坂だ」
電話の相手が交代した。久坂玄瑞は、藩侯に謁見して、出帥の表を奏上したと満足げに語った。
「彦島でも、壇ノ浦でも、すでに戦闘が始まっている」
「これはもう、戦闘なんぞと呼べるものじゃありませんよ」
「何を申すか俊輔。たとえ防長二州がことごとく玉砕しても、神州の永遠の大義のために、あくまでも徹底抗戦をし、断じて聖戦完遂にゆくのが我らの歴史的使命である。分かるだろうな」
「はい」
「前田浜の状況はどうか」
「砲撃はやみました……」
伊藤は、口中に混じった砂混じりの唾を、乾燥しきった喉の奥に押し込むと、銃眼を覗き込んで、外の様子を窺った。
「上陸用舟艇が接近中」
「分かった。君は本部へ戻れ。要塞指揮官を出してくれ」
久坂は山口政事堂の中央戦闘情報室で、各隊の部隊長に達する演説の草稿を練りながら、電話機の向こうの伊藤にいった。要塞指揮官はすぐに出た。久坂は毛筆を操る手を止めず、彼にいった。
「君か。私は本部の久坂玄瑞だ。ああご苦労、楽にしたまえ。敵は今から上陸するそうだ。前からも言っていたことだが、我が国土は神聖であるから、断じて洋夷に踏ませてはならん。一歩も退くな。その陣地を死守するんだ。分かったな。ああよし、健闘を祈る」
無造作な仕草で久坂が受話器を置くと、通信機と接続された自動毛筆テレタイプに向かっていた使番の一人がやって来て、切り取った巻紙の一部を読み上げた。
「帝国主義者の爆撃であります。第十七、および第十八洋上監視艇よりの報告。敵爆撃機の梯団、佐多岬の南南東六十海里の地点にあり。機数二〇〇、北上中なり」
「その程度の爆撃ではこの永久要塞はびくともせんよ。各堡塁とも防禦を厳重にせよ!」
「はいッ!」
直ちに空襲警報が発令され、隔壁閉鎖が指示された。侍の叱咤のもと、足軽雑兵たちが高射砲隊の砲架を要塞内に引き込んでいく。対空砲塔の機関砲座は昇降機でタワー内に格納され、地対空ミサイル車輌も後退して、その出撃口は四重の耐爆耐火耐核ドアで閉ざされた。B-52爆撃機の大群が空に曳く無数の飛行雲が、政事堂上空に達したころには、要塞の主要火器はすべて、分厚いベトンの中に隠されていた。久坂玄瑞はいった。
「この要塞は不落である。したがって、長州藩も不落である。長州が不落である限り、神国もまた不落である」
すぐに、爆撃が開始された。一機あたり三〇トン、二〇〇機合計六〇〇〇トンの爆弾が、嵐よりも激しく、濃密な密度を持って降り注いだ。それでも長州軍大本営、政事堂要塞は無傷を保ち、その機能はすこしも損なわれることはなかった。その代わりに山口市街は人口も含め、一瞬で石器時代以前の状態に戻ってしまった。
壇ノ浦では激戦となった。
ここでは、現役を退いた高杉晋作に代わり、奇兵隊総監となった赤根武人が中心となって、敵の上陸軍を阻止していたが、昼頃には連合軍は海岸へ橋頭堡を設定し、続々と戦車を揚陸し始めた。土佐脱藩・中岡慎太郎は、同じ土州脱藩の士を糾合して『遊撃隊』を編組、長州軍の一隊として出撃したが、すぐに西洋連合軍との覆うべからざる装備・実力の差を思い知らされた。海上からの猛烈な艦砲射撃と空襲に絶えず晒され、隊の戦力はあっという間にその数を半減させた。
「カールグスタフが二本しかないのか!?」
中岡は怒りとともに叫んだ。街道に出て対戦車装備を受領、前進し来たる敵戦車を邀撃・撃滅せよとの司令部命令であった。しかし長州が彼らに与えた『対戦車装備』は、わずかに歩兵携行式の無反動砲が二門だけだった。
「友軍の機甲師団はどこへ行ったんだ!!」
「北部へ転進中であります」
残地部隊の役人が中岡にいった。
「洋夷の別隊が小野田浜へ上陸の気配があります」
「ばかげておる!」
「受領書に御署名を。こことここです」
残地部隊は兵舎と穀物倉庫を焼き払い、井戸にガソリンを流して引き上げていった。遊撃隊は、街道の三叉路脇に布陣し、木立のなかにカールグスタフを隠した。敵歩兵が道を通過したあと、戦車の側面を狙って撃てと中岡は指示した。敵がやってくるまでの時間は束の間であった。しかし、その短いあいだに、中岡はかつての盟友・坂本龍馬を思い出していた。
「長州は洋夷に敗れた。幕府は、この機会を見逃しはしないだろう。既存の反幕勢力は全滅だ。しかし、そうだ、坂本龍馬。まだ、あの男がいた……」
脱藩以来、中岡は彼に会ってはいないが、幕府が神戸へ開いた海軍塾に、いま龍馬は籍を置いているらしい。
それを人伝に聞いたとき、中岡は、彼に変節漢としてのそれしか与えなかったが、いま思い返すに、すべて龍馬の言が正しかったのだ。自分も含めて反幕府派勢力は、開国を志向する幕府に反発するあまり、欧米列強国の実力について、あまりにも無知であり、侮りきっていたのだった。そのことは、五〇〇〇隻の艦船と百万の連合軍、数千機の航空機を相手に、日本刀とカラシニコフ銃一本で、地に伏せている今の我が身が、何よりも強く証明していた。
「今日を境に、日本の歴史は変わるだろう。いや、変わらなければならんのだ」
中岡は、硝煙で黒ずんだ目蓋の下から、両の眼だけを光らせて、誰にも聞かれぬように静かに、一人呟いた。
「AKの時代は終わった……。俺たちの役目はここまでだ。龍馬、後は貴様の仕事だぞ!!」
そのとき、兵士が叫んだ。
「戦車警報!!」
「全員、着剣しろ!」
中岡は全員のAKに銃剣を装着させ、自身は日本刀を引き抜いた。
「肉攻班斬り込み用意。わしもここで死ぬ!!」
だが、中岡は死ななかった。
中岡慎太郎はこののち龍馬とともに働き、同志となって、その関係は彼ら二人が暗殺される日まで続いた。
彼らの死は三年後、龍馬と中岡がすべての仕事をやり終えた、慶応三年の冬にやってくる。それは維新回天における重大な境界のひとつだが、そのことはここでは書かぬ。
「気をつけてください、時限信管付きの爆弾がまだ埋まっています」
「俊輔。そう心配せずともわしはまだ死なんよ。天は、まだわしに仕事を残しておる。この高杉晋作にな」
AKを肩にかけた伊藤俊輔を供にして、高杉は馬に乗って山口に戻ってきた。山口は連日の空爆により、廃墟も残らないほどの酷い有様となり、難攻不落を誇ってきた山口政事堂の城壁も、米軍の地中貫通爆弾と燃料気化爆弾の猛攻で崩された。長州藩庁はついに連合国の停戦勧告に合意し、和平交渉の主席として、高杉を呼び戻したのである。高杉のいう『仕事』の最初がこれであった。
「俊輔」
政事堂の城門を潜るとき、高杉はふと、馬の足を止め、伊藤にいった。高杉が見慣れた、そこにあるべきものがひとつ、無くなっていたのである。
「ここには、松陰先生の絵があったはずだが、どこへいったのだ」
攘夷聖戦を謳う攘夷派の国策絵画であった。それが綺麗さっぱり無くなっている。
「分かりませぬ」
と伊藤はいった。
「爆撃で吹き飛んでしまったのか、誰かが降ろしてしまったのか。いつの間にやら、消えておりました」
「そうか」
高杉は、まだ白く跡の残る城壁を見上げて暫し沈思したあと、
「まぁよい」
馬を進めて、城内へ入っていった。
山口政事堂では、多くの死者が出ていた。建物の被害はさほどではなかったが、停戦に抗議したり、勤王派の将来に絶望した人々が、自ら命を絶っていた。
勤王派の筆頭家老、周布政之助は自害した。
神官の出で、諸国の攘夷浪士に大きな影響力を持っていた活動家・真木和泉や、高杉と並ぶ軍事指導者だった来島又兵衛も、自殺した。
久坂玄瑞も、死んでいた。
腹を切った。
「狂っていやがる」
高杉は吐き棄てた。
「松陰先生の教えは、まさにそれだった」
「『狂気』の教えですか?」
「そうだ。松陰先生は、俺たちに、狂え、といった。それは確かに、必要な時代もあった。松陰先生や、俺たちの頃にはな。だが、これからの時代は、松陰先生を越えたところになければならん。いつまでも、狂ったままではいられない。単なる狂人だ。それでは」
「はい」
「よいか。俊輔」
伊藤は、顔を上げた。彼に、精悍な横顔を向けたまま、高杉はいった。
「お前は、狂った日本を作るなよ」
早ければ文久三年から、遅くとも元治二年までに……。
『狂気』の人々は、おのおのその歴史的職分をまっとうし、ある者は従容と、またある者は激痛にもだえ苦しみながら、次々と死を遂げた。
土佐は、長く江戸謹慎の国父・山内容堂が、大獄期、井伊掃部頭から科せられた禁を解かれ、帰国した。
かつて、吉田東洋を参政に抜擢し、手腕を振るわせたこの殿様は、その東洋を殺して政権の座についた勤王党を、許すつもりは毛頭ない。
容堂はまず、武市によって投獄されていた後藤象二郎ら、旧東洋派の面々を牢から出し、藩政に復職させた。
「参政様殺害に関しましては、すべては、武市瑞山ら、勤王党一味の策謀であること、疑う余地もございませぬ」
容堂に召されて、後藤はそういった。そのことは、土佐の誰もが暗黙のうちに知ることだったので、容堂も、すぐ諒解した。次に論点となったのは、このまま武市ら勤王党を、政権の座につけておくことが、土佐藩一国にとって、利益であるか、不利益であるか、ということだった。
「諸国の動静を推慮しますに、勤王派の勢力は、全国的には衰退の傾向にございます」
と後藤はいった。
「爾来、天下に有力なる勤王藩は、薩摩と長州でございましたが、薩摩は会津と結び、いまや勤王藩ではございません。長州は、すでに京洛の政界から追われ、数々の軍事行動にも失敗。さらに四カ国連合艦隊の攻撃を受け国内は壊滅、勤王派の重要人物を多く失い、藩政の実権は親幕府閥が掌握しております。……時流は完全に転換いたしました。もはや、本藩が勤王を掲げることに、なんの利益もございません」
「そうかい」
容堂は鼻くそをほじりながら懐紙を開き、自らの鼻の穴から取り出したそれを包むと、くしゃくしゃと丸めていった。
「これからは佐幕ということだな」
「如何様」
「よかろう」
容堂は広い額をゆっくりと上げて、後藤の顔を見た。
「武市を潰せい」
翌日。
まず、勤王政府の情報相・平井収二郎が、他の二名の勤王党員とともに捕らえられ、殺された。
「なんということだ!」
土佐国内の勤王党員は、党内で武市に次ぐ地位にあった平井が、藩庁の手であっさり処刑された事実が信じられなかった。だが彼らが信じようと信じまいと、すでにこの藩庁の性格は、殺人者のそれだった。藩庁は勤王党に対する圧迫を強め、やがて彼らが暴走するのを待った。果たして、そのときがやって来た。
「平井さんたちの無実を藩庁に訴えるのだ!」
党員たちは日を約して集結し、高知城に詰め掛けた。そして、その場で全員が捕らえられ、投獄された。
次に、藩庁の粛清の眼は、京都で活動している土佐勤王党に向けられた。
そこには武市がいる。武市の子飼いの、大勢の部下がいる。藩監察方に就任し、この粛清の指揮を執る後藤象二郎は、師を殺し、自分に屈辱を負わせた武市という女に対する報復のために、燃えていた。後藤は鳴門海峡を船で渡り、淡路島を経て、京坂の地を踏んだ。
「武市。あの小面憎い偽善者の人殺しめ。必ず、あの小便くさい娘の化けの皮をひん剥いて、それから……えーっと、えーっと、殺してやる!!」
しかし、その肝心の武市は、他の勤王党の者たちのように、無造作に殺してしまうわけにはいかなかった。
一頃は、英雄として都に名を馳せた武市瑞山である。明白な証拠を掴むまでは、如何に土佐藩庁といえども手出しが出来ない。
土佐藩監察方は、捕らえた党員を縛り上げ、土佐や、京坂における、数々の暗殺事件について
「武市が命じたと言え!!」
連日、苛烈な拷問を科したが、それでも、口を割る者は一人も無かった。物的な証拠は元より何もない。武市は暗殺を命じても、その証拠になるものを絶対に残さなかった。
「象二郎如き三流男に、この私が捕まえられるもんですか」
武市は長髪を掻き揚げ、自らの白いうなじを撫でて、後藤たちの懸命な探索の様子を、せせら笑って眺めていた。
「見てなさい。今にまた、勤王派の勢力が盛り返すに決まってる。そうすれば、殿の考えもお変わりに……。そうしたら、ふふ、今度こそ象二郎、間違いなくあんたの首を刎ねてやる」
だが事態は、思わぬところから進展をした。
その年の長雨の頃。
岡田以蔵が捕まった。
捕らえたのは、京都の名も無い幕吏である。
はじめ、縛された以蔵の罪は殺人ではなかった。
『浮浪罪』であった。
この夜、以蔵は酒を飲み、泥酔して、暴れたのである。この辺りではよくある騒ぎであった。
すぐに、自身番の役人がやって来て、彼を取り押さえた。奉行所に引き立てられた以蔵は、臆病なほど震え上がり、役人たちの物笑いになった。彼らは、この小汚い無学な若者が、あの『殺し屋以蔵』だなどとは、全然、考えなかった。
奉行所は、彼の訛りから、土佐藩に問い合わせをした。やがて、藩邸から後藤象二郎がやってきた。以蔵の顔は青ざめた。
「よお」
後藤象二郎は、にやりとした。これは、すごいものが見つかった、と彼はいった。
「こいつは、以蔵だ。『殺し屋以蔵』だぜ」
「な、なんやてぇ?」
「そんなばかな……」
役人たちはそれぞれに、驚いたり、失笑したりした。後藤象二郎は、「本当だ」といって立ち上がり、顔を俯かせたままの彼に
「そうだな? 以蔵」
と呼びかけた。
以蔵は答えない。何も、言葉が浮かんで来なかった。勤王派勢力の興隆と、武市の引き立てによって、単なる無学な青年から、凄腕の殺し屋へと変貌した以蔵は、しかし、勤王派勢力の衰微を見て、また単なる無学な青年に戻ってしまっていたのだった。
後藤象二郎は、
「この男を責めよう」
と決めた。
彼は、土佐藩の厳格な身分制度における、上位階層の人間として、決め付ける口調を使い、以蔵に向かって命令した。
「立て!! 以蔵」
以蔵は今や、ただの命令される一人の人間だった。彼は黙って、後藤の言葉に従った。
そしてその身柄は、即日、ヘリに乗せられ、土佐藩へと護送されたのである。
懐かしい国許についてすぐ、以蔵は拷問された。
「以蔵め!」
監察の役人は、以蔵を縛り上げて天井から吊るし、木刀が折れるほど撲り付けたが、以蔵は凄まじい悲鳴を挙げるだけで、武市に関することはおろか、どのような事件についても、何も白状しない。
「すぐに吐くかと思ったが、なかなかにしぶといわい……」
その同じ頃。
京の都でも、土佐の役人と同じように、
「以蔵め!」
と叫んでいる人物が居た。
「あのような阿呆は、さっさと殺ってしまえばよかった」
その人とは勿論、武市瑞山である。
思えばこの人物の人となりも、以蔵以上に、ずいぶんと変わった。
かつて、以蔵を見出した頃の武市は、純粋な正義に燃える、溌剌たる剣術少女であった。
しかし、それがひとたび革命を成就させ、その手を他人の血にまみれさせ、激しい権力闘争に明け暮れるうちに……武市はいつしか、阿修羅と化したものであろう。
天才的な革命家から、強権的な独裁者へ……そうした人物の悲しい記録は、古来、数え切れぬほどある。
武市瑞山の二面性は――。
このとき、後者において発揮された。
「以蔵は所詮、足軽の子だわ」
武士ではない、と武市はいった。
そしてその、『武士ではない』という点のみをもって、
「拷問されれば、何もかも、白状するに違いない」
と、このように決め込んだものである。
それは実際には、どうであったか、分からない。
武市の想像した通り、以蔵は拷問に耐えかねて、やがて自白してしまったかもしれないし、或いは、しなかったかもしれない。
だがそのことの結論は……武市瑞山が彼女なりの判断をし、アクションを起こした段階で、永遠に分からないものになってしまった。
ある日のことである。
牢屋に入れられた以蔵のもとに、差し入れと称する食物が運ばれた。
それは青々としたワサビと刻みねぎが、赤身とともにたっぷりと巻かれた鉄火巻だった。このような食べ物が以蔵に届けられることは、かつてなかったことである。
「どちら様の差し入れでございますか?」
度重なる拷問で腫れた顔を上げて、以蔵は牢屋番の男に聞いた。
「お前のよく知っているお方だよ」
牢屋番は、牢の格子に鍵を掛け直しながら、答えてやった。
「武市様のねぎらい品だ」
「お嬢さまが!?」
以蔵はそのとき、電撃のような感動に打たれて立ち上がり、格子を掴んで、牢屋番に叫んだ。
「本当に、お嬢さまが下されたのか!?」
「そうだよ」
牢屋番はござの上に腰を下ろして、
「よかったな、以蔵」
といった。以蔵が捕らわれてから、早十日あまり。その間連日の拷問にも屈さず、武市の名をおくびにも出さぬ以蔵の姿に、同情する牢役人たちも少なくなかった。以蔵自身も、この牢屋番も、以蔵の必死の忍耐が武市に届き、報われたようなつもりになっていた。
しかし、そうではなかった。
そのことに最初に気付いたのは、ほかならぬ以蔵だった。
以蔵は、牢屋番が用意してくれた醤油皿に鉄火をつけて、一度は口元へと運びかけた。
だが、彼はすぐ、ある違和感に襲われて、その巻き寿司を口へ入れることなく、置き戻してしまったのである。
「どうした? 喰わんのか」
牢屋番は訝しんだ。以蔵は暫くのあいだ、暗く押し黙っていたが、やがて寿司下駄をそっと差し返し、
「これは喰えない」
といった。毒が入っているから、というのである。
「ばかなことをいうな」
牢屋番は怒り出した。武市と以蔵のあいだに、賢君忠臣の関係を見ていた牢屋番の男は、主君の差し入れた食物を、毒が入っている、などといって拒もうとする以蔵のことを、許せないと思った。
「食べろ!!」
牢屋番は強く迫ったが、以蔵はもう背中を向けて、見向きもせぬ。更に彼は、以蔵の背中に向けて、以蔵の色々な悪口を言い立てたが、以蔵はもう何も言わなかった。
「やれやれ、なんて冷てえ野郎だよ。なんて怪しからん、見下げ果てたやつだなお前は。ああいいよ、嫌なら喰うな。てめえのような野郎にくれてやるくらいなら、鼠にでも喰わせた方がよっぽどましだ。この馬鹿野郎」
牢屋番は寿司下駄を引き下げて、そのへんにいた鼠に撒き与えた。そこには七匹の鼠がいたが、それはすぐ、七匹の鼠の死骸になった。
「な、何!? こりゃあ……な、なんてこった。ほ、ほんとに毒だ!!」
以蔵は驚かなかった。『殺し屋』と呼ばれ、鬼神と同じように恐れられた以蔵だが、本当の彼は、一人の臆病な青年であった。だから、自分の命を危うくするものに対しては、彼は、動物以上の本能を持っていた。
武市瑞山が、その外見的な可憐さとは裏腹に持つ、冷酷な一面を、以蔵はよく知っていたし、何よりも、その『冷酷な一面』が発する命令を、今まで忠実に遂行して来たのは、ほかならぬ以蔵であった。だから以蔵は、武市なら……いつもの『お嬢さま』なら、自分を消しにかかるに違いない、ということも、当然察することが出来たのである。
以蔵という男に関し、武市の考えたことは、当たっていた。
以蔵は武士ではない。
生まれもそうだし、気質でみても、彼は武士ではなかった。
彼が武士ならば……武市の与えた毒入りの食物も、主に忠実であるままに、食べたであろうし、死ぬことも出来たであろう。
だが、以蔵は武士ではなかった。
だから、彼はそれを喰らわなかったし、更には
「他の役人を集めてほしい」
このことをいうのも、もはや、平気であった。
「今から、すべてのことを話したい」
この物語も、ようやく終わりが近付いてきた。
この小説には、決まった主人公というものが、はじめ全然なかったのだが、こうして二ヶ月間、私の書いてきたものを俯瞰するに、どうも、武市という人物の存在が、とりわけ他を圧している。
だから、この物語世界の『幕末維新』は、これからまだまだ続くのだろうが、一応、今回のこの稿では、武市瑞山の死をもって、おしまいということにする。この物語の主題としても、それが一番よかろう、という気がしている。
武市はまもなく死ぬ。
以蔵はすべてを告白した。
土佐の参政・吉田東洋を殺し、不当に政権を奪取したことや、世の中を騒がせた数々の暗殺の教唆、武市がその後に抱いていた幕府転覆のための計画も、以蔵は、土佐藩の取調役に対し、包み隠さず、語り聞かせたものである。
以蔵の武市に関する証言は、その中のどれかひとつだけを抜き取ってみても、それだけで死罪を免れ得ないような凄まじいものばかりで、これだけのことを一人でやってのけたからには、やはり、武市は一代の英雄だったのだろう。
しかし、その名声もひとたび頓挫してしまえば、単なる反逆者のそれに過ぎない。
武市瑞山は、土佐へ監送と決まった。
藩邸を去る武市を見送る人間は、誰もなかった。今や、京洛の英雄といえば、武市のことではなく、新撰組の近藤勇である。囚人護送車のカーテンの隙間からも、白いレオパルド2に乗った近藤勇と、それを守る新撰組の物々しい隊列、『誠』一文字の旗印が見えている。
列のしんがりは、あの土方歳三だった。武市も、土方も、お互いの顔を見たが、土方の側ではそれとはまったく気付かなかった。そこではもう、完全に武市は過去の人間だった。武市は目を背けた。
洛外の仮設飛行場から、武市は飛行機に移された。そこには戦車を運ぶことも出来るメッサーシュミットの巨大輸送機が、武市のためだけに用意されていた。それは都落ちする巨人・武市に向けた、容堂流の『粋なはからい』だったのかもしれないが、もしそうであったとしても、この土佐の殿様が武市のために手向けた『はからい』は、これだけだった。武市は与圧もされていない寒々とした貨物室の中に、一人きりで閉じ込められた。
六基のレシプロエンジンを唸らせて、滑走の凄まじい振動のあと、十五トンの巨人機は空に浮き上がった。次にこの機が地に着いたとき、私は死ぬであろう、と武市は考えた。国許へ帰れば、切腹の沙汰は間違いない。しかし武市は、切腹の恐怖はなかった。切腹は侍の死であろう。武市はその前途に、些かの不安も、恐怖も感じることなく、空挺兵用の長椅子に腰掛け、刀を両足の間に置き、過ぎ去った時代をゆったりと考える余裕もあった。
「思えば、実に、色々なことがあったもの……」
彼女は両目を閉ざし、初めて浦賀の沖に姿を見せた、米艦を眼にしたときの心境に帰った。そこからの、足かけ十余年の歳月……。さまざまな人間の顔が、武市瑞山の脳裏に去来しては消えていった。
「寅次郎殿、平井、久坂殿……」
「そして」
そのとき、武市の前に黒々と立ちはだかった人影が、口を開き、彼女にいった。
「私でしょう。お嬢さま」
武市は果たして、その声に慄然とした。
「お、お、お前は……」
武市は目蓋を上げ、声のぬしを見た。それは、幻ではなかった。確かに、男が立っている。彼がそこに居たのだ。
「い、い、以蔵!!」
「はい」
以蔵は口だけを動かして、武市に答えた。
「お久しぶりでございます」
「あなた……。い、生きていたの?」
国許からの知らせで、以蔵はすでに、処刑されたと聞いていた。以蔵はいった。
「いいえ、死にました」
「ならば、一体どうして。な、何をしに来た!!」
それは勿論、挨拶のためではなかった。
以蔵は刀を抜いた。
「わっ、わっ」
武市は椅子から転がり落ち、長い黒髪を乱しながら、暗い床の上を這い回った。以蔵は抜き身を提げたまま、それをゆっくりと追う。最初、広々と見えた貨物室が、今では一升枡よりも狭く感じた。武市はすぐ、追い詰められた。
「な、なによ!」
武市は、顔にかかった髪を払うと、腰を抜かした姿勢のまま、以蔵に向かってわめき立てた。
「前には主を密告しておいて、今度は主を殺そうっての? この、恥知らず。卑劣漢!」
以蔵は何も動じなかった。彼は、「お嬢さま」と静かにいった。
「俺は今まで、憎くて人を斬ったことはない……。だがあなたのその心だけは違う!」
「ほざくなあ!!」
武市は素早く刀を引き寄せ、そして、目にも止まらぬ居合を放った。だが以蔵は片腕一本で、簡単にそれをはねのけると……上段に振りかぶった大刀の柄を、両手で持った。
「はっ!!」
武市はそこで目が覚めた。
そこはまだ、朝もやに煙る都大路をゆるゆると走る、護送車の中だった。
「夢か。なんという恐ろしい夢を、私は……」
武市は首筋を撫で、全身にべっとりと掻いた汗の匂いを感じた。
それは死への恐怖からではない。
「以蔵。なんということだ。私はあなたに、とんでもないことをしてしまった。私の罪を隠すために、あなたを殺そうとしたのだった。酷いことをしてしまった……」
おのれの犯した悪鬼の如き所業の数々を、いま武市は初めて思い出し、そしてその罪のあまりの深さに、彼女は戦慄したのである。
以蔵だけではない。
上洛以来の武市は、権力をめぐる果てしない戦いの中で、数多の命を奪い去っていた。武市は、それらの人々の名を、いま一々振り返り、思い返した。
「これをすべて、私がやったのか。……いや、私以外の一体誰が、このようなまねをするだろう」
武市は着物の衿元に手を差しいれ、その手のひらに白いリボンを掴んだ。武市の脳裏に、必然的に思い出される男があった。長く美しい黒髪をひとつに束ねて、彼女は、今や土佐勤王党のうち、最後の生き残りの一人となったその男に向け、胸の中で呼びかけた。
「龍馬、私は一足先にゆく。どうやらこの償いが、私の最後の務めらしい。……だから、あの世で待っている。いつまでも待っていてあげるから、あなたは、ゆっくりと来なさい。いいわね? そうするのよ」
「分かった」
力強く答える声が、どこかから聞こえたようであった。
「あの世で待っていろ、武市。わしも、やがてゆく」
武市は、窓のカーテンを開けた。
東山に昇る朝日が、家々や寺社の瓦屋根に返って、京洛全市を黄金色に塗色せしめ、銀色の剣が、どこまでも大路を刺し貫いて通っている。
「帝」
武市は、去りゆく禁裏の屋根に視線を向け、その両目からとめどなく涙をこぼした。
「あなたの国を作りたかった……」
その日は慶応元年、閏五月十一日とされる。
武市瑞山は、ついに割腹して果てた。
切腹において、腹を三文字に断ち割って自害した人間は、後にも先にも、この武市瑞山があるだけである。
二年後の、慶応三年十一月十五日。
坂本龍馬が暗殺された。
その下手人の正体については、今もって色々といわれるところであるが、誰が龍馬を殺ったかということは、ここでは大した問題ではない。
ともかく龍馬と中岡慎太郎は、あの世へ行った。
「やれやれ、ここがあの世か」
龍馬は、あの世の宿場役人に案内され、中岡とともに料亭『あの世』の門を潜った。
「ほー、これは凄い。構え壮大なる料理茶屋だな、龍馬。少なくとも、血の池地獄や針の山はなさそうだぞ」
「わしは、まだ頭がガンガンする」
「脳をやられたからなぁ……」
「心配はいりませんよ、坂本さん」
二人の到着を待っていた以蔵が、龍馬にいった。
「生前の後遺症は、すぐに治ります。ここは天国ですから」
「なんだ、以蔵」
以蔵の姿を見て、中岡慎太郎が、思わず驚いた声を出した。
「お前は地獄行きだと思っていたぞ」
「はあ。魂の半分が地獄へ行きましたので」
「そうか。お前の正しい部分だけが、こちら側へ来たのだな」
「あの世は合理的に出来とるのう」
龍馬は、その優れた仕組みに感動した。彼はつい先刻まで、大政奉還後の新国家のあり方について、中岡と様々に論じていたところだったのである。
しかし、そのことを心配する役目は、もう二人のものではなかった。
あの世では、井伊掃部頭が梅田雲浜と将棋を指し、長野主膳と橋本左内が巨乳がよいか貧乳がよいかで激論を交わし、長井雅楽と周布政之助が、各派を率いてネオジオで遊んでいた。
「すべては終わったのだな」
と龍馬は思った。
そして龍馬は何年ぶりかで、武市瑞山と再会した。
最後に会ったときよりも、武市は幾分、若くなったように見えた。
「まだまだ、成仏してない魂が、大勢あるわ」
夜の縁側で、庭に灯る灯明を二人で見ながら、武市はいった。
「長州の吉田寅次郎も、まだこっちへ来てないし、ほかにも沢山、亡者になった人がいる。まだもう暫く、地上の世界は荒れるでしょうね」
「そうか……。わしは殺られる前に、徳川将軍に大政を奉還させたが、それでもやはり、戦は避けられんのか。内戦が根深くなって、諸外国に付け込まれれば、最悪だ。わしは、もしかしたら、まずいことをしてしまったのかな。武市」
「そんなことは分からないわよ」
武市はその眼を一度龍馬に向けたあと、再び、横顔を向け直して、彼にいった。
「そのことを考えるのは……きっと、私たちの物語ではないんだわ」
龍馬は、暫しの沈思を挟んでから、そうだな、と武市に答えた。
「そうして置くのが、良いかもしれぬ」
鳥羽伏見の前夜――。
空は夜半から、雪となった。
(『侍とカラシニコフ』終)