7、ただの教科書、されど教科書
ホームルームは異様な盛り上がりを見せたものの、収拾がつかなくなることはなかった。
担任が業務連絡をしている最中に、気が散ってりったんをチラチラみる輩も存在したが、それ以外はいつもと同じ様にスムーズに終わった。
時計を見ると8時50分。次の授業まであと10分ある。
(次の授業は……、魔法陣1及び演習か。準備しておこう)
リンクくん人形は魔法陣入門という教科書とノートを、傍のスクールバッグから取り出した。
クラスの連中はというと、転校してきたりったんに色々と話しかけにきているようだった。
自然と彼女の机の周りには人が集まり、楽しく談笑していた。
きっと彼女が持つ話しやすい雰囲気は、アイドルとして活躍出来ている理由の一つなんだろう。
また、他クラスにも噂はすぐに届いたのか、珍しいものを見るように廊下の窓から身を乗り出している生徒たちもいた。
自室の俺はと言うと、肩はがっくりと下がり、猫背のような体勢で今日の仕事に取り掛かり始めた。
筋トレがまだ終わってないことなんて、どうでも良い。
違う作業で気を紛らわしたかった。
「あ〜。俺絶対変な奴だって思われた。あ〜」
そもそも自分が引きこもり始めたきっかけは、世間から自分の能力を隠すためであった。
人に気味悪がられたりなどは、相手から距離を取ってくれる分、本来なら都合のいい格好の隠れ蓑である。
ーーしかし、
「推しの前くらいでは格好つけたいよな〜」
何かもどかしい気持ちがある。
胸のあたりがムカムカする。
これをすべて床に吐き出してしまいたいが、物体として何も出てこないものであるというのもわかっている。
俺はキーボードにタイプをし始めた。
すると、左下のモニターに流れていたテレビ放送は切り替わり、どこかのカメラ映像が映し出された。
そこには、電柱の後ろに隠れる怪しい影が映っていた。拡大すると、中年の男性が何かを見張っている。
「朝から元気にストーカーかぁ。暇な人もいるものだなぁ」
中年の男性は、少し離れたところで歩いている女性と距離が離れると、また自らが隠れやすいひと目につかない場所に移動しては距離を詰めていた。
ストーカーと断定しても間違いはないだろう。
なぜこのような映像を撮影しているかというと、画面の中でつけられている女性からの依頼があったからだ。
彼女は最近つけられている気配があるといい、この事務所に相談しにきたのだ。
その仕事を終えるべく、俺は今日の手始めにストーカーの情報を集めるところから始めようと思っていたが、案外犯人は警戒心が薄く、すぐに網に引っかかってくれた。
「他には何があったっけな……?」
右上のモニターには今日やろうと思っているTo Doリストが映し出された。
横書きに文字は連なり、15個のチェックボックスが画面上に表示されている。
「一つ目は簡単に終わりそうだとして、次は……」
この量の仕事をこなすには、仕事を並行して効率よく終わらせる必要がある。
それには優先順位をつけながら仕事を終わらせていき、終わったら配備させていたドローンを次の場所へ張り込みに行かせなければならない。
キーボードを操作する手が、はしゃぐように動き始めた。
忙しい分だけ、色々忘れて気を紛らわせることができる。
その時、自分は誰かに名前を呼ばれた。
「……アミシマ、君? ちょっといいかな?」
スピーカーから尊き推しのりったんの声が聞こえた。
中央のモニターのリンク君人形は視線を右へとずらした。
そろそろ授業が始まるからだろう。
りったんの周りにできていた人垣はすっかりなくなり、皆自分の席に戻っていた。
なんやかんや進学校である。
授業を大切にし、ちゃんと準備する姿勢はいいことだと思う。
よって画面に映ったのは、座ってこちらに少しだけ身を乗り出しているりったんだけだった。
あぁ尊い。
しかし、先ほどのファーストコンタクトからよく俺みたいなやつにも話しかけようとしてくれた、と思う。
普通の女子はキョドッて“よよろろししくく“なんていうやつには気味が悪くて近寄らないはずである。
でも彼女は何も気にしていなさそうだ。
それが推しの優しい良いところでもあるんだけど。
「どうしたの?」
今度はミスをしないように気をつけながら、できるだけ平然と喋ることができた。
すると、りったんはこちらに両手を合わせ、肩をすくめながら言った。
「お願いがあるんだけど……、教科書を見せてくれない…… かな?」
そうか、転校してきたばっかりだから、教科書がまだ揃えられていないのか。
もちろん貸しますとも。
是非是非。
「もちろんいいですよ」
「ホント! ……助かったぁ」
ぱぁっと笑顔が広がり、またドキドキしてしまう。
俺はモニターで間接的に見ているからいいものの、実際に見ていたらあまりの眩しさに目が潰れていただろう。
「私、魔法陣なんて初めて習うから教科書見れて良かった。ありがとう」
そう言うと、りったんは立ち上がった。
自分の机に手を掛け、俺の方へ寄せ始めた。
「えぇっと、大園さん!?」
俺はてっきり教科書を文字通り“貸すもの”だと思っていた。
しかし、机を寄せるっていうことは……。
「どうしたの網島くん? 近くに寄らないと見えないでしょ?」
机を寄せて二人で1つの教科書を見ようとしていたらしい。
別に珍しいことでもないが、不意に近づいたときに感じたいい匂いに、戸惑ってしまう。
リンクくん人形はさっと、自分の脇に置いてあった教科書を掴むと、
「待って、待って。——ほら、これ使っていいですよ」
と言って差し出した。
「でも、それだと今度は網島くんが見れなくなっちゃうじゃない」
「いや、俺にはこれがあるから」
リンクくん人形はカバンからタブレットを取り出し、pdfファイルを開いて画面を見せた。
「教科書くらいは電子書籍化してあるから、——それ、もし良かったら丸ごとあげるよ?」
この学校では一時期全教科書の電子書籍化を目指そうとしたが、紙の本を使っていた生徒に比べて成績が思うように伸びなかったことから、タブレットは使われなくなった。
しかし今でも、学業目的なら授業中にタブレットを使っても良いことになっている。
「——でも悪いよ……。じゃあせめて私の教科書が届くまで使わせてくれる?」
「もちろん」
「ありがとう!」
彼女の笑顔が眩しい。
この世には一体何個の太陽があるのだろうか?
周囲から、何か貫くような視線を感じた。
皆声に出さないまでも、お前は近付くなという意味をその目で訴えているように感じた。
その時、扉がガラララ、と勢いよく開かれると、
「ッハ、ゴホッ…… 、始めるぞい」
とむせながら、頭の薄い年配のおじいちゃん教師が入ってきた。
手には多くの荷物を抱えている。
窓から差し込んだ太陽の光が、彼の頭に反射する。
まるで彼の禿頭が自ら光っているようだった。
この世には太陽は3つもあったらしい……。
「起立!」
ショートヘアの少女が号令をかける。
号令はクラス委員長がかけることになっていた。
その声に反応し、クラスの生徒たちは自分も含め一斉に立ち上がった。
りったんも初めてであるはずなのに、遅れることなく立ち上がっていた。
「休め! 気をつけ! 礼」
クラス委員長の号令に皆従って、姿勢を変え、最後は礼をする。
クラスの中にはピリッとした空気が漂い、授業の始めの切り替えを、この号令がちゃんと担っていることがわかる。
また号令の効果の一端を担うのは、このクラス委員長の人柄もあるんだろう。
後ろから見える背中は小さい。
気の強そうな感じではなく、クラスをまとめ上げるという雰囲気ではないものの、親しみやすさがあり、いわゆるいじられキャラとして愛嬌があるんだろう。
対する老齢の教師はというと、
「ハァ、グフッ……、はぁあ、まぁ座れ」
と言いながらむせていた。