01
「転校生?」
左右の開脚をしながら見上げると、新見はY字バランスのままにやりと笑った。
「そうそう、俺のクラスに入ってきたんだよ。小柄な奴でさ。特技は器械体操って自己紹介で言ってた」
ふうん。気のない返事をしながら息を吐き、開脚のままぺたりと胸を床につけた。顔を上げれば同じコートで女子新体操部がレオタードにスパッツ姿でランニングを始めようとしている。こちらもそろそろ部活開始の時間だ。部長の号令は、と視線を巡らせかけたところで、突然ロンダードからのバク転が視界を占領した。
「よっしゃあ! 今日も気合い十分だぜ! 走るぞお!」
部長である飯沼の派手な号令はいつものことだが、そのルーティンがこの男子新体操部を支えている。柔軟をやっていた面々が「おーす!」と声を上げて、体育館の出入口へ向かう飯沼の背中を追いかける。
最初に駆け出したのは一年生の笹本。今年の春に入ってきた経験者で、中学校では個人の部に出場し、県内一位を独占していた。笹本が、なぜこの城北高校に入学したのかは誰も知らない。県内にはもう二つ、男子新体操部がある高校があり、そちらの方が部活動に力を入れているからだ。
次に駆け出したのは横井。笹本と同じ一年生で、中学校まではバレエを習っていたという。バランス力は抜群で、柔軟性にも秀でている。「せんぱーい!」と手を振る仕草には愛嬌があり、入部から一ヶ月、二年生三人組からしっかり可愛がられてきた。
「行こうぜ」
新見が駆け出す。俺が追いかける。
これが、静岡駿河城北高校男子新体操部の全メンバーだ。たった五人の弱小部。男子新体操団体競技は四人から参加できるのでメンバー数に問題なかったが、如何せん練習場所がなかった。城北高校の体育館は一つ。そこを剣道部、バレー部、バドミントン部、バスケ部、弓道部、そして新体操部が三つに区切って順繰りに使うのだが、新体操部にコートが割り当てられても十三メートル四方のフロアを作れるのは一面だけ。そして、床だけで演技ができる女子とは違い、男子新体操にはスプリングの入ったマットが必要とくる。そのスプリングマットは、城北高校にはない。なので、女子新体操部とコートを交互に使っても、できる技は簡単なロンダードやバク転、宙返り、倒立などに限られることになるため、見せ場であり最も練習が必要なリフトや集団交差といった大技は避けなければならなかった。
それに加えて指導者が不在ということも、状況悪化に拍車をかけている。顧問は女子新体操部コーチの大村先生が兼任してくれているが、女子新体操の経験しかない大村先生からは、男子新体操の指導はできないときっぱり言われていた。
弱小部たる所以は練習場所の無さと、諦めの早さと言えると、光司にはわかっていた。小学生のうちに挫折を知った光司にとって、諦めることは当たり前のこととなりつつある。今日も、未来を諦めて学校の外周をなんとなく走る。
ただ走るだけではつまらないと言いたげに、飯沼が側宙をしてポーズを決める。それを笹本が笑う。横井が負けじと開脚ジャンプをする。新見が窘める。
これが日常。部活中も、動画サイトにある数少ない男子新体操の動画を見ながら新しい技を練習したりするが、それが演技という三分間の形を成すことは決してない。
「転校生、男で残念だったな!」
話がこちらを向いたような気がして顔を上げると、五人のメンバーの一番前で笑っていた飯沼がバク宙と共に光司の横に並んだ。
「なー、太田! 太田も女子が良かったよな、転校生!」
「え、俺はどっちでも……」
「なにィ!? お前、ホモだったのか!?」
「そんなこと言ってないだろ!」
「おーい、一年! お前らの先輩、ホモだぞ!」
わははは、と笑いながら走る速度を上げた飯沼に手を伸ばしたが、するりと逃げられた。飯沼に乗せられて逃げていく笹本と横井を追いかけるしかない空気になったので渋々歩幅を広くした。
「待てって! 違うってば!」
「ホモが来たぞー!」
「先輩、引っ張らないでくださいって!」
笑い声は止まない。
必死に完成度だけを極めていた中学時代までとは全く違っているが、これはこれでいいと思えている自分がいた。小学生のときも、中学生のときも、笑顔は一切作れず、楽しい思い出もできなかったから。
*
翌日。今日も部活ができることを楽しみにしながら過ごしていると、休み時間の廊下から新見が顔を見せた。ちょっと、と手招きされるのに呼ばれて教室から出ると、新見は見知らぬ男子を連れていた。小柄な奴だが、半袖のワイシャツから出ている腕にはしっかり筋肉がついている。光司は額一つ分下にあるその目から妙な威圧感が発せられていることを察し、おずおずと新見を見た。
「あの、もしかして……」
「そう、転校生の菊池。お前のこと話したら会いたいって」
「俺!?」
嫌な予感と共に菊池に目を戻すと、彼は睨み上げるようにして光司ににじり寄った。
「お前、米原体操クラブにいた太田兄弟の兄の方だろ?」
思い出したくない名前を言われ、光司は足を引いた。
「そう、だったけど……」
「〝だった〟じゃねえよ! なんで体操辞めたんだよ! 弟の方はちゃんと続けてんのに、なんでお前だけ辞めちゃったんだよ!」
変な汗も出てくる。弟の存在は学校では極力思い出したくない。学校でだけは、弟から解放されていたい。なのに菊池は眉を釣り上げてにじり寄ってくる。
「弟はちゃんと続けてたから強化選手になってんじゃん! お前、もったいねえよ! こんなところで何やってんだよ!」
胸ぐらを掴まれそうになり、菊池の手を払いのけた。
そうだ、中学二年生になった弟の光太は昨年から男子ジュニアナショナル強化選手に選抜され、今までよりも増して練習三昧の日々を送り始めている。でも俺は、と光司は思わず俯いた。光司にとって器械体操は最早トラウマであり、忘れたい過去でもある。そこに弟がいなければどんなに良かったか。弟のいない今がどんなに楽しいか。
「俺なんかが体操続けてたって、別に何になるわけでもないよ。あいつとは出来が違うんだから」
それだけ言って、トイレに向かった。校舎西側のトイレなら人も少ない。大股でずんずん進んで飛び込むようにして角を折れると、肩を掴まれた。振り返れば新見が罰の悪そうな顔をして立っている。
「ごめんな」
言われる前に言ってやった。新見は居心地悪そうに身動ぎしたが、光司の目に向き合った。
「俺こそごめん。そんなすぐには吹っ切れないよな……。悪かった。でもお前、そろそろ……」
「わかってるよ。弟は関係ないもんな。俺の人生に、あいつなんか……」
「違う、そうじゃない」
「いや、大丈夫。わかってる、わかってるから」
新見の視線を散らすように手を振った。そう、俺の人生に弟は関係ない。才能の違いを間近に見て、早々に自分を諦めてしまったことも、それで体操クラブを辞めたことも、中学で新体操に転身したことも、そこでも弟と比較され、笑うことさえできなかったことも、弟とは関係のないことなのだ。関係のないことなのに、光司の人生にはずっと弟が寄り添っている。
「菊池さ、今日、見学来るって」
「え……?」
「部活だよ。もしかしたら入部すっかも」
「まじか……」
嫌だ、と思ってしまったが、その感情は咄嗟に背中に隠した。新見は何か言いたげだったが、予鈴に呼ばれて教室に戻っていった。
そこから六限目が終わるまで、光司は心ここに在らずな状態で過ごした。菊池はどこで太田兄弟の名を知ったのだろう。県大会か、全国大会か……。いや、全国大会ともなると当時の光太は苦戦していたし、名前が通るような成績なんて出せていなかったはずだ。そもそも、兄である光司だって全国大会ではぱっとしなかった。だとすると県大会だが、同学年で県大会出場者と言ったらだいたい顔を知っている。なのに菊池は見たこともなければ名前も聞いたこともない。あいつはどこの誰なのか……。
考え事は引きも切らずに流れ込んできて、部室のドアを開けてからも眉間に皺を寄せたままになってしまっていた。その難しい顔を、横井が覗き込んだ。
「せんぱーい、どうしたんですか?」
「なんでもないよ、さっさと着替えな。今日は見学来る奴がいるから」
「新入部員ですか!?」
「どーだかな」
剣道部と一緒に使っている小さな部室はやたら臭い。主に防具から発せられる悪臭に鼻をつまむのも慣れてきたもので、光司はタオルとペットボトルを掴んでフロアに下りた。女子は最近新設された体育館脇のプレハブを部室として割り当てられたが、男子は体育館に併設された用具入れの二階を部室として使っている。移動は楽でいいが、夏場になるとゴキブリが出るのが難点だ。
光司がコートに立つと、新見が菊池を連れてきたところだった。部室へ上がる新見に菊池を託され、光司は気まずい思いになりながら、体育館を三分割したコートへ招いた。三分割、と言っても分割するのはこれからだ。使い慣れていると仕切りのネットがなくても分割されて見えるものだが、隣のコートの球技からの妨害や女子新体操部の主具の乱入を防ぐためにはネットは欠かせない。
光司がガラガラと音を立ててネットを張っていると、女子新体操部の一年生二人が慌てた様子で交代した。別にいいのに、と思いつつ、菊池の傍に戻る。菊池は普段のルーティンをこなすような慣れた仕草で柔軟を始めていた。いや、違う。始めるも何も、床に尻をつけたら自然と関節や筋をほぐしてしまうだけだ。身についた性質、特別なことは何も無い。皆が座る時に自然と胡座をかくように、体操に触れている者達は自然と関節をほぐしてしまう。
「菊池、お前、いつから体操やってる?」
「五歳。太田の方が一年早いんだぞ」
「え、なんで知ってんの?」
「それは……」
言いかけた菊池の言葉をさえぎるように、二人の間を綺麗な側宙が通り抜けた。
「っしゃ、通れた!」
と言ってピースサインを作るのは飯沼部長だ。飯沼が来た方向にはスクールバッグが放り捨てられている。
「あぶないだろ」
「俺にできないアクロバットはない!」
「んなこと言って、経験ないくせに……」
「そうとも! 体操競技のことはよくわからん!」
「これだから……」
うんざりしかけたとき、菊池の目が視界に入った。菊池は飯沼を目で追っている。どうしたのかと思うと、その目は光司に向いた。飯沼は既に荷物を拾って部室へ向かっている。
「あいつ、どこのクラブ入ってた?」
「飯沼は無所属だよ」
「え……?」
「運動神経だけが取得で色々やってきたらしいんだけど、中学でちょろっと器械かじったら飽きたって。今はここで猿真似して遊んでる」
「猿真似……」
「大会の動画見て真似すんの。飯沼はほんと運動神経だけはいいから見ただけでだいたいコピーできるし、変なとこあってもちょっと口出せば直しちゃう。天才だよ、あいつ」
「なんでクラブに入らないんだ……?」
「縛られるのが嫌いなんだってさ。勿体無いよな。指導者がついたら絶対伸び……」
はっとした。飯沼のことをまるで品定めするように語っていたのは無意識で、それだけで、意識が勝手に競技の方へ向いていたことに気付かされる。もう何もかもを手放したつもりでいたのに。
菊池のせいだ、と思うと親切心より鬱陶しさが勝りそうになるが、それが形を成す前に飯沼と新見、それから横井と笹本がフロアへの階段を駆け下りてきた。部活開始の時間だ。
ウォーミングアップは、まずは軽いストレッチ。と言っても、左右開脚も前後開脚もできないメンバーはいないので、軽く前屈をしたらそれぞれ思い思いに軽い柔軟を始める。そこからはランニング、高速縄跳び、体育で使うマットを敷いての軽い床運動。しかし、それらの中にいちいちアクロバットを挟んでくる飯沼を見て、菊池は羨ましそうに「あいつ、どこでも同じパフォーマンスができるんだな」と言ったのは少し面白かった。見慣れてしまえば目新しさは消えてしまうのだが、普通の選手なら、床の模様や天井の高さ、壁との距離が変わると綺麗な転回ができなくなることがある。靴一つでも、履いただけでバク転が綺麗にできなくなることも多い。しかし飯沼は、外であろうと校内の廊下であろうと、運動靴であろうと革靴であろうと、どこでも何を身に付けていても同じように体を動かすことができるのだ。この順応性の高さは天性の才能だろう。
一通り体を動かし終わって本格的な柔軟が始まると、今度は横井が映える。バレエの経験者である横井はとにかく姿勢が良く、柔軟体操中もそれが崩れることはない。しかも誰よりも体が柔らかく、男子ではあまり得意な選手のいないアラベスクのバランスも、持ち上げた足の膝裏に後頭部をぴたりとくっつけられるほど綺麗に決まる。骨盤の向きもお手本のようで、柔軟の指導は主に横井が受け持っていた。
「先輩、Y字バランスは脚を骨盤に乗せるんですよ。こうやって」
と、手の支えなしでもバランスができるのは横井だけだ。しかも横井は、本物のバレリーナのように手足が長いので、踊る姿は女子新体操部の誰と比べても見劣りしない。横井がバレエを辞めた理由は誰も知らないが、続けていればきっといいところまでいっただろうと誰もが言う。しかし横井は、にこにこしながらいつも話を流してしまうので、部員は一ヶ月も経たないうちに横井に何も言わなくなった。
そうして柔軟を終えると、次はアクロバットだ。横井はここでは生徒になる。倒立、前転、倒立、前転と繰り返してマット二枚を進んだら、今度は倒立からのブリッジで、脚がついたら手から起き上がる。次は一本の線の上を進む側転、ロンダード。そこまでやると、飯沼が待ってましたとばかりにバク転を始めるが、今日は菊池へのサービスか、ロンダードからのバク転に加え、体を伸ばしたままで宙返りをするスワンをやり、着地するとそのまま前宙をした。男子新体操ではよくある組み合わせ技だが、スプリングの入っていないただのマットでこなすのは難しい。
すると菊池は珍しかったのか、食い入るように飯沼を見つめていた。
笹本もアクロバットを卒なくこなす。流石、男子新体操個人県内一位だ。三回連続のバク転をぴたりと着地して見せると、確かめるように倒立をして肩に乗る自身の重みに首を傾げている。
「どうした?」
「いえ、なんだか最近違和感があって……」
「成長期じゃない?」
「背が伸びんならいいですけどね」
笹本と笑いあっているうちに、新見がロンダードからのバク転をやった。新見は他の部員のように無駄な動きをしない。やるというルールがあるからこなしてはいるが、その性格からしてどうして部活に入っているのか謎である。だが、技の完成度は流石経験者だった。小学生の頃は光司と順位を競った間柄で、二人の実力は同等と言える。
次は光司だった。軽く助走をつけてロンダード。体が床と垂直になるまでに両脚を揃えて、そのまま着地。着地はつま先で。膝も極力曲げず、勢いをつけたままでバク転に持っていく。しっかり高さをつけて、バネになった気分で全身を躍動させる。絶対に両脚をばらばらにしてはいけない、足が床から離れたら膝も曲げない。曲げていいのは跳躍と着地のときだけ。よく怒られたところだ。
ぴたりと着地すると、「意味わかんねえ!」という怒声につんのめりそうになった。コートを分け合っている女子新体操部からも、両隣のコートで部活に励んでいるバスケ部とバレー部からも視線を集めているのは、見学者の菊池だった。
「お前ら、意味わかんねーよ! なんでこんなとこで腐ってんだよ!」
*
「横井、何読んでんの?」
「ボールルームへようこそ、です」
「あー! アニメ見た! 今どこ?」
「ちーちゃんと喧嘩したとこです」
「見して見して!」
寝転びながら漫画を読んでいた横井の背中に飯沼が乗った。読み終わった漫画を置きながら目を向けたが、顔の前にはすぐに次の漫画が現れる。新見がハイキューの二十巻を差し出していた。新見は既に二十一巻を片手で捲り始めている。
光司が二十巻のページを捲り始めると、ほどなくして横井と飯沼が立ち上がった。
「お前、腰柔らかいからちーちゃんやって!」
「えー?」
「先輩命令!」
「こうでいいですか?」
「もうちょい反る!」
「こうですか?」
「そしたらステップ! 左足から! せーのっ……」
「ぶっは、無理無理! 見ただけじゃできませんって!」
「大丈夫、俺が引っ張るから!」
じゃれ合いながら社交ダンスの猿真似を始めた飯沼の姿勢はいつになくすっきりとしている。それに寄り添う横井の腰もいつになく反っていて、光司は思わず噴き出した。それに気を良くしたのか、飯沼が横井を引きずるようにしてステップを踏み始める。力ずくで横井を引きずり回す飯沼は楽しそうで、横井も笑っているが、ここの部員は色々と抱えすぎていた。
光司にとっての弟のように、それぞれに問題を抱えているのだ。それに向き合うことから逃げている日々を唾棄するようなことを菊池に言われた翌日だと言うのに、光司も含めて皆、今日も逃げることに徹していた。
「なあ、新見」
新見は「なに」とぶっきらぼうに言うだけで顔も目も漫画から離さない。
「菊池、教室でなんか言ってた?」
「別に、なにも」
「ふうん……」
光司は、壁に寄りかかって音楽を聴いている笹本を見遣ってから、手元の漫画に目を落とした。
菊池は昨日、激昂するように怒鳴った後、誰もが理解しているのに誰もが目を背けていることを堂々と意見したのだ。
「太田だけじゃなくて新見と笹本も器械やってただろ。フォーム見ればわかんだよ。横井はバレエだな。なんでこんなとこにいんの? なんで指導も受けずにこんなとこでダラダラしてんだよ。それに飯沼。お前指導者無しでここまでやれるっておかしいだろ。お前ら、なんで自分の才能潰すようなことしてんの? なんでそれぞれの場所にさっさと戻らないんだよ!」
新見が器械体操を辞めた理由は、鉄棒から落下したからだ、という話は一年生の頃に本人から聞いていた。そこからは、もう器械に上がるのも怖くなったらしい。どうして男子新体操部に入ったのかと聞いたが、新見はその質問には答えてくれなかった。
飯沼は、そもそも大人が嫌いだと、これも一年生のときに本人が語った。小学生のときに親が離婚し、通っていたヒップホップダンススクールを辞めさせられたこと。その後、学校の廊下で踊っていたのを先生に叱られたこと。中学校で部活に入ってみたら指導者と反りが合わなかったこと。飯沼の自由が過ぎる性格なら他にも色々あっただろうが、主にそのようなことで大人を嫌いになり、指導者がいないという理由で男子新体操部に在籍している。
そして、出来の良すぎる弟に劣等感を煽られ続けてきた光司ときた。二年生が二年生だから一年生たちの過去には誰も触れなかった。むしろ、避けていた。そうして逃げることに徹していたというのに、菊池は核心を突いてしまったのだ。
「本当にやりたくないならわざわざこんな部活入る必要ねえじゃん! 本当はやりたいんじゃないのか!?」
菊池の言葉には誰も反応しなかった。できなかった。そうしてだんまりになった五人に痺れを切らし、菊池は体育館を去ったのだった。
きっと、菊池の言葉に言い返したくても出てこなかった台詞は、五人とも言い訳だったのだろうと、光司は今日の様子を見て確信していた。光司は、弟と比較してしまうくらいならやらない方がマシだと思っている。だから、やらない。割り振られた曜日に体育館にやって来て、好きなように体を動かして帰る。比較しようのない日々、何も無い日々を過ごして二年目に入った。
城北高校男子新体操部はぬるま湯だ。曲もなく、演技もない、額縁だけの男子新体操部。しかし、なくなってしまうのは惜しい。
光司は口を開きかけ、やめた。
「先輩、今日って部活やりますか?」
光司の代わりに言葉を発したのは笹本だった。その言葉の先に目を遣ると、飯沼が困った顔をしている。
「やらない日があってもいいんじゃない? どうせ大会あるわけでもないんだし」
助け舟を出したのは新見。顔は相変わらず漫画に一直線。
「そーだよ、笹本。先輩たちとこうやってダラダラする日があってもいーじゃん」
新見に乗っかる横井。
その横井の目が、ついと滑って光司に向いた。
咄嗟に目を反らした先に、開いた漫画のページがある。自分たちと同じ高校生たちがバレーボールの試合をしている。重ねてきた練習の成果を出し切ろうとしている。実力以上のものを出そうとしている。
光司は目を閉じた。体育館の天井のライトの眩しさ。観客席のざわめき。フロアマットの弾力のある感触。自分たちのための静寂。審判員の視線の痛さ。
「兄ちゃん、今日ね、先生に褒められた!」
期待と興奮を全て掻っ攫う、弟の存在。
「俺はどっちでもいいよ」
飯沼の声に顔を上げると、彼は仕方なさそうに笑っていた。
お前らに合わせるよ。
そんなことを言いたげな表情に見える。光司は迷ったが、結局言葉は出なかった。沈黙が訪れる。
その沈黙を破ったのは、突然部室のドアを開けた菊池だった。
「おい! コーチやってくれそうな人、見つけたぞ!」
菊池の目は釣り上がっていた。飯沼と横井が光司を見た。光司も新見を見た。新見は笹本を見て、ついには五人全員で顔を見合わせた。
「それから俺、入部するから。だから、皆で新体操やろうよ!」
菊池の声が狭くて臭い部室内に木霊した。びりびりと響くようなエネルギッシュな声。光司はその声が、市の大きな体育館に満ちる様を想像してしまった。審判が演技開始の旗を上げる。それに、全くの無音の中で菊池の声が答える。横一列に並んだ飯沼、新見、菊池、横井、笹本、それから、自分。このメンバーなら。このチームの中でなら、もしかしたら……。
「待ってください、コーチって……。フロアはどうするんですか? 現状、この学校の設備じゃまともな練習なんかできませんって!」
「笹本の言う通りだ。菊池も見ただろ。マットなんか、体育の授業で使うやつ借りてんだぞ」
横井と新見が言い返すが、菊池は折れなかった。
「俺、テレビで見たことあるけど、ここと似たような環境でインターハイ出場した高校が埼玉にあるんだよ。ここだけじゃねえんだよ! やりたい気持ちと練習場所さえあれば大会出れんだよ! やろうよ! お前ら、人に見てもらえよ! もっと目立てよ!」
菊池は怒っている。なぜかはわからないが、猛烈に怒っている。そこに空気も読まずに触れたのは、やはり飯沼だった。
「お、おい……そんなキレんなって……」
「キレちゃ悪いかよ!」
「いや、悪いわけじゃ……」
「だったら黙って新体操やれ! おい、太田ァ!」
飯沼のせいで勢いを増した菊池がずかずか歩み寄ってきたかと思うと、そのまま胸ぐらを掴まれて立たされた。
「ちょっ、菊池……」
「お前がいるっつーからどんなすげぇ部かと思えば大した練習やってねえし、かと思えばすげぇ奴ら揃ってるし、がっかりした俺の気持ちどうしてくれんだよ! 責任取れ!」
両手のひらを菊池に見せながら、光司の思考はストップした。今、菊池は何と言った。あっさり褒められたのではないか。菊池は弟を知っているはずなのに、俺を褒めた。どういうことだ。
「俺、今からコーチ候補に会いに行くから」
言いながら、菊池は光司の胸を突き飛ばした。小柄な体躯に似合わない強い力に動揺している間に、菊池はドアの向こうへ消えてしまったが、胸の高鳴りは止まなかった。
何の比較もなく評価された努力が喜びに跳ね回っているかのようだ。
「なに、俺らまじで新体操やんの?」
「みたいですね……」
「いいじゃないですか、どうせ暇なんですし」
「乗り気? 冗談だろ……?」
口々に戸惑いを露わにする四人に、光司は混ざることができなかった。このメンバーで演技してみたい、なんて、軽々しくは言えなかったのだ。コーチは大人の人が来るんだろう。新見は身軽だから、リフトで誰かの上に乗ることがあるかもしれない。横井も、笹本も、何か抱えているんじゃないのか。だから、ここに逃げてきたんじゃないのか。だったら、無理に誘うことなんかできるわけがなかった。皆の前で我が儘を口にすることなんてできるわけがない。
だって、もしかしたらまた、弟という壁に阻まれて、先へ進めなくなってしまうかもしれないのだから。