out side of
その少女、エレナ・ベレズスキーに世界の広さを教え込んだのは誰あろう同室のメイド仲間、リズだった。
リズは単調な生活の中で、ともすれば内側へと向かっていくエレナの意識を外の世界へと向けさせた。
リズが口を開けばどこか知らない世界の大言壮語が、その愛らしい唇から飛び出した。
いわく、インドの山奥にはダイヤモンドでできた山がある。
いわく、地底には地上と同じ世界があって人間と恐竜が住んでいる。
いわく、南極には宇宙人の基地があってUFOはそこからやってくる。
もっともエレナもリズもサンタクロースを信じるには歳を取りすぎていた。
エレナは今年16歳、リズは17歳になる。
ほとんどは他愛もない冗談の類だったが、リズは心のどこかでそれらを信じているようだった。
エレナが初めてこのケンタッキー州ジョージタウンのアパラチア山脈の中腹に建つ、「ブラックウォーター館(もっともメイドたちからは単にお屋敷と呼ばれていた)」にやってきたときはまだ10歳だった。
その前は多くのロシア系移民と同じく、ニューヨークのブライトンビーチに住んでいた。
住んでいたアパートは倒壊寸前で市からは危険住居の指定を受けていた。
壁は薄く隣室からは毎日のようにロシア語で怒鳴り散らす声が響いていた。
彼女はその怒鳴り声が始まるといつもビクビクと怯えた犬のように、部屋の片隅にうずくまって嵐が去るのを待つしかなかった。
6人兄妹の末っ子で、他の兄妹に栄養を取られてしまったのか身重は145cmからは伸びなかった。
もっとも、彼女はほとんどの兄妹を見たことがない。
貧困層の両親にはそれだけの家族を養うだけの経済力がなく、エレナのふたつ上の姉アーシャより上は里子に出された。
残ったアーシャとエレナだが、アーシャはエレナが5歳のときに家から遊びに行ったきり帰ってこなかった。
エレナはアーシャを思って毎日泣いていたが、両親はどこか清々しい顔をしていた。
やがて、10歳になると母親に手を引かれバスターミナルからフランクフォート行きのグレイハウンドバスに乗り、そこからさらにまたバスに乗せられはるばるこの「お屋敷」にやってきた。
母親に手を引かれ、お屋敷の立派な門を潜り豪華な彫刻の施されたドアを開けた先で、どうやら母親は自分を見捨てるようだと気づいた。
「どうかよろしくお願い致します」
そう言った母親の表情はやはり清々しかった。
最初に会ったのはメイド長のセレスト・アドキンズ。
美しい顔だが怒ると手のつけようがなかったので、他のメイドからは影でドラゴン・レディと呼ばれていた。
かなり前からこの屋敷で働いているようだが、彼女の年齢を知るものはいなかった。
ただ、20歳より上にはみえなかった。
いつだったかリズは彼女のことをこういった。
「あのドラゴン・レディは生放送でアポロの月面着陸もJFKの暗殺も見たらしいぜ。それどころか、ワイアット・アープがOK牧場で決闘をした年にここに来たそうだ。」
それを聞いたとき、エレナは笑いを堪えられなかったし、リズも同じだった。
ふたりでしばらくゲラゲラ笑っていたが、物陰からすっと音もなく現れたドラゴン・レディにしこたまひどい目に合わされた。
それ以来この話題は禁句になっている。
セレスト・"ドラゴン・レディ"・アドキンズに連れられて部屋の前まで来ると、彼女は言った。
「今日からここがあなたの家よ」
そしてさっさとどこかへ行ってしまった。
途方に暮れながら恐る恐るドアを開けると思いもしないものが待っていた。
午後の日差しの差し込む明るい室内。
両側の壁際には手入れの行き届いた清潔なふたつのベッドと、使い込まれた古びた机があり、真ん中に丸い簡素な作りの木製テーブルとイスがふたつ。
だが最も目を引いたのはテーブルの向こう側に腰掛けてこちらを見ている少女だった。
つややかな金髪とキラキラと好奇心に輝く大きな青い瞳、大人びた細面の真ん中に小さな鼻、そして活き活きとしたピンクの唇。
最初はこの屋敷の主人家族かと思ったが、そうではなかった。
エレナはしばらくぽかんと口をあけて彼女を見つめていた。
そのうち、その美しい少女が涼やかな声を発した。
「私はリズ。ミドルネームも名字もなし、ミスもミセスもいらない。ただのリズだ」
エレナはまだぽかんと口をあけたまま入り口に突っ立っていた。
そんなエレナを見ているうちにリズは吹き出した。
「どうした相棒、口がきけないわけじゃないだろ。」
エレナはようやくそこで彼女も同じような境遇なのだと理解できた。
「エレナだ。エレナ・ベレズスキー」
ようやく喉からその一言を絞り出した。
リズはそれ聞くとまた涼やかな声で言った。
「よろしくな相棒。ここじゃルームメイト兼一応の先輩ってことになる」
その出会いから、6度ほどイースターと独立記念日とレイバーデイとハロウィンとクリスマスと新年が過ぎた。
山は緑になり、赤と黄色のグラデーションを描き、やがて真っ白になるのを繰り返した。
お屋敷は変わらずその豪奢な佇まいを変えなかった。
エレナは仕事を覚えてこなすようになり、リズも同じだった。
朝起きて庭の掃除をし、家の中を掃除し、洗濯をし、たまに調理の手伝いをし、その他雑務に追われた。
夜にはセレストが教師になり、彼女たちに教育を施した。
たまの休みの日には二人で屋敷の前の坂をくだり、街にでかけ映画を見て本屋に立ち寄り、ソーダファウンテンでアイスクリームの乗ったルートビアを飲んで帰って来る。
単調な毎日の繰り返しだった。
リズは相変わらず寝る前になると、どこか知らない世界のワクワクするようなおとぎ話をエレナにさも見てきたかのように語った。
そのときだけは、エレナは少しだけ解放された気分を味わった。
リズの語る外の世界。
一度だけエレナはリズに聞いた。
「どうやったらそんな話を思いつくんだ?」
リズは芝居がかった動作でさも残念そうに肩をすくめると言った。
「いいか、相棒。私は本当のことを話しているんだ。そもそも私達がこの世界についてなにを知っているっていうんだ。」
「セレストが勉強の時間に言ってたぜ。ダイヤモンドの山は存在しないし、地底人もいない、南極は氷の世界だ。」
リズはさも残念そうな顔をすると言った。
「自分で見て確かめたわけじゃない。この世界を象とカメが支えてるかもしれないじゃないか」
「たしかに自分で見たわけじゃないけど、君の語る世界は荒唐無稽すぎるよ」
「私は自分の目で見るまで信じない」
それからリズはニヤリと笑うと、両切りのウィンストンを咥えて愛用のジッポライターで火をつけた。
煙がゆっくりと天井へと立ち上ってゆく。
そんな生活のなか、リズは日に日に美しくなるようだった。
エレナは鏡を見るたびに自分はなにか変わったのだろうかと自問した。
しかし、最初にリズと出会った日以来、あまり変わってはいなさそうだった。
やがてリズには特別な仕事が与えられた。
見栄えがいいので、主人夫婦が重要な客の来訪や逆に訪問するときにリズを連れていくようになった。
初めて主人夫婦がリズを連れて行った日、リズはなかなか帰って来なかった。
最初は屋敷の外に行けるリズをうらやましくも思ったエレナだったが、消灯時間を過ぎても帰ってこないリズが心配で仕方なくなった。
エレナは電気スタンドの小さな明かりのもと、彼女が帰ってくるのをひたすら待った。
なんとなく吸い始めたマルボロの吸い殻が、灰皿の上にマッキンリーよろしく見事な山を築いた。
やがてマッキンリーがエベレストに成長するころ、ようやくフラフラとした足取りでリズが帰ってきた。
その目からはいつものきらきらした輝きが失われていた。
「どうしたリズ。心配したんだぞ。なにがあったんだ?」
そう問いかけるエレナに、リズはひとこと「疲れた」
それだけ返すとベッドに倒れ込み、寝息を立て始めた。
エレナはため息をつくと、しばらくリズの寝顔を見つめ、リズに毛布をかけてやった。
それから自分もベッドに潜り込みやがて意識が暗闇の底に落ちていった。
夢は見なかった。
翌日、エレナが起きたときリズはもうすでに起きていてベッドに腰掛け足をさすっていた。
ベッドから起き上がったエレナにリズは疲れきった声で「ひどい目にあった」とぼそりと呟いた。
「いったい何があったんだ」
そう問いかけたエレナにリズは唇とへの字に曲げながらぼそりぼそりと語りだす。
「6時間突っ立ってた。それこそ棒きれみたいに」
「なんだって?」
「突っ立ってたのさ。ずっと旦那夫婦がなかよくくっちゃべってる横で」
「それは大変だったな」
「ああ、6時間だ。考えてもみろ。ブレードランナーのノーカット版を見てまだ釣りが来る」
それからいつものようにニヤリと笑うと、ポケットからウィンストンを取り出して火を付けた。
「今日はどうする。仕事は休むのか?」
「いや、ドラゴン・レディに目を付けられるのも怖い。いつものように働くさ」
しかし、いつものようにはいかなかったようだ。
リズはそれからの二三日、油の切れた機械のようにギクシャクとしか動けなかった。
「まぁ、いつか慣れるだろう。いつか」
一日の仕事を終え、部屋に戻ってきたリズはうんざりといった感じで言った。
外に行けるのも良し悪しかもしれない。
そんな思いがエレナの咥えたマルボロとリズのウィンストンの煙と一緒に窓の外へ流れていった。




