深海
しばらく歩いて行くと、セバルトにもわかってきた。
マナの歪みが大きくなっていることに。
「ところでお前さん、何者だ?」
歩きながらウォフタートが尋ねる。
「ただのしがない旅人ですよ」
「そんなわけなかろうに。ま、別によいがな。何者でも。マナのバランスがとれた方が儂も快適だ。文句は言うまい」
精霊はマナの世界の住人である。
であれば、むしろ人間以上にマナの異変に関しては敏感だろう。
快く協力しているのは、それが理由でもあるはずだ。
「あの岩のあたりが怪しいですね」
「うむ。もうすぐだ」
柱のような岩が林立する荒野に、一際大きく二つに先端が分かれた岩があった。その裏に、マナを歪ませる魔神の欠片があるようだ。
セバルトとウォフタートが回り込もうとしたときだった。
「――何者だ?」
岩の裏から、声が投げかけられた。
直後に、影から一人の黒衣の男が姿をあらわす。
男はすでに臨戦態勢をとっていて、その手には魔神の欠片。
「この力を狙って来たんだな? あいつの読み通りか、誰かこの力を狙ってるものがいると」
「あいつ? あなたはいったい何者ですか」
「これを守るよう依頼されたのさ。ふっ、この仕事受けてよかった。魔の力を使って好きにしていいって報酬をもらえたからな!」
黒衣の男は酷薄な笑みを浮かべると、素早く手を動かし魔法図を描く。
「なるほど。ウォフタート様、こいつが何か仕組んでいたということですね」
「落ち着いて話しとる場合か!? いきなり敵が――ってもう魔法撃ってきたぞ!」
ウォフタートが言ったときには、すでに黒衣の男から炎の魔法が放たれていた。
魔神の欠片によって強化されたその魔法は白熱した怒りの塊となってセバルトに向かってくる。もはやそれは炎というよりは光と言ったほうがいいような代物だった。
――それはもう、なくなった。
セバルトが放った圧縮された水の刃によって火の玉は切断されるとともに、はじけ飛んでしまったのだ。
その刃は、火の玉の熱量を全て奪ってあまりあるほどの密度があったのだ。
黒衣の男も、精霊ウォフタートも、ともに動きが止まった。
同時に遠くでず……ん、と何かが落ちる音がする。
そちらに目を向けた二人は、目を見開くしかなかった。水の刃が岩の柱を真っ二つに切断していたのだ。
黒衣の男の衣が破れ、右腕から血が流れる。
「ばっ、ばかな! 俺はこの力を使ったんだぞ!? 絶対の魔の力を! 人間じゃかなわないはずだ! それに魔法図を描くそぶりもなかったじゃないか! 何をした!?」
黒衣の男が発した声は、ひきつった裏声。
(余裕ぶってた最初の声とだいぶ違うじゃないか。それにしてもなるほど。『魔の力』ね)
「魔法図は描きましたよ。手は使わずに。あなたよりずっと速く」
「何を言っている……? くっ、とにかく貴様は危険と判断した。全ての力を使ってでも!」
魔神の欠片が胎動した。
同時に荒れ狂う白炎が男の前に燃え上がる。
そこにいるだけで周囲の地面を溶かし、ドロドロの溶岩に変じさせ、地面がクレーターのようになっていく。
(この力――魔神というのもあながち嘘ではなさそうだ。力だけが分裂して散逸したということか?)
「やはり、欠片とはいえ凄まじい。周囲に対する影響が大きそうなので、一撃で終わらせてもらいます」
白炎はさらに大きくなり、男はその裏で歯をむき出し笑みを浮かべた。
「さすがにこれは無理だろう? 無理なはずだ。俺の仕事の邪魔をするやつは、焼けて死ね!」
限界まで育てた巨大な炎の壁をセバルトに向けて放った。
だがセバルトは動じない。
なぜなら、魔と精霊しかいないここでは、セバルトは英雄になれるから。
「それではこの魔法で。『人工深海』」
スノードロップを掲げて力を入れた瞬間、黒い水が現れ、白い炎を取り囲んだ。
ウォフタートが信じられないように目を見開く。
「黒い水、光が通り抜けられないのか」
それは極限まで圧縮されたただの水。
深海と同じように、いやそれ以上に圧縮された水。
本来ならば液体はどれだけ強い力でもほとんど圧縮されないはずなのだが、それを無理矢理同じ座標に水を多重に展開し重ね合わせることによって強引に可能にした水魔法。極限まで密度が高い、ただの水の塊。
それは天然の深海よりもはるかに凄まじい圧力を持ち、水でありながら鋼より重たく、それに覆われた領域は光すら通さない。
セバルトはそれで白炎を取り囲むと、一気に押しつぶした。
内側から圧縮された水を振動させ蒸発するような音がする。
だがどれだけ蒸発させようと、圧縮された水は減らない。それはまさに、小さいながら海そのもののような水の質量があるのだから。
すぐに蒸発する音は聞こえなくなり、静寂の黒い塊だけになった。
黒い塊はゆっくりと小さくなっていく。
やがて消えたとき、そこにはもはや光の痕跡も何も残っていなかった。
「う、うそだ……なんだ、今の魔法は」
「シンプルな水球ですよ。魔神でも及ばない、という但し書きはつきますが。さあ、もう終わりでしょう。おとなしくしてください」
「くっ……くそぉ! 化物――めっ!? がっ!」
黒衣の男が再び魔法図を描こうと手を動かした瞬間、その手首に握りつぶされそうなほどの激痛が襲う。
一瞬で間合いを詰めたセバルトが、魔法を力任せに止めたのだ。
「遅すぎです。魔法というのは、もっと速く発動させないと。待ってくれる優しい人ばかりではないのですから。……『魔の力』に頼らず戦っていたら、あなたは勝てたかもしれませんね。なんでもありは、そちらが不利」
男の手から黒い塊がこぼれる。同時に男の体から黒いもやもやが出て行った。
セバルトはサクッと回収すると、丈夫な蜘蛛の魔物の糸で男を縛った。
ウォフタートが、呆気にとられて向かってくる。
「おぬし……精霊より力が間違いなくあるぞ?」
「ええ。ありがとうございます」
「知っていたって顔だが――おぬしはいったい何者だ?」
セバルトは微笑んで言ったのだった。
「旅人ですよ。はるか遠くから来た」
(俺が本来の力を出せたということは、やはりあの取り付いていた黒い靄のせいだな。魔神の力で一時的に魔物と同じ性質になっていたということか)
黒衣の男は縛られているが、その必要はなさそうだった。過ぎた力を宿した反動か、気を失っている。
背負って町まで帰らなければならないのが面倒だなあと思いつつ、セバルトは魔神の欠片を荷物袋に収めた。
「なんなのだ? それは」
「わかりません。しかし、何者かが意図的にマナを乱そうとしていたことと、それを邪魔されたくないということがわかりました」
「世界に混乱を起こそうということか」
「そうですね。そんなことをして何のメリットがあるのか――おそらく、情勢を注視していれば、見えてくるはずです。混乱によって誰が一番得をしているのかを見れば」
「そいつが怪しいというわけだな。是非なんとかして欲しいのう。儂の平穏な生活のために」
ウォフタートは腰を曲げて、老人っぽさをアピールしてくる。
「ふふ、平穏な生活と言われたら黙ってはいられませんね。彼が目を覚ましたら、色々尋問します。……さあ、それではそのためにも、マナにケリをつけましょう」
セバルト達は、ウォフタートを呼び出した場所へと戻った。
そこにつくと、スノードロップを鞘から抜く。
マナを乱し過剰にしバランスを崩す要因はなくなった。
であれば、あとは今すでに余っているものを処理すれば、それで完璧だ。
セバルトは純白の剣を両手で持つ。
そしてウォフタートが言うもっともマナの力を集める大地のポイントに向かって、力を込め、地面に深々と突き刺した。
まるで昼のような閃光がフラッシュし、白いくさびは大地からマナを吸い上げはじめた。
「僕の目から見ても、マナが移動していることがわかります。これで、なんとかなりそうですね」
「うむ。儂もスローに眠れるというわけだの」
「なるほど。それなら僕と同じ目的ですね。のんびり釣りでもできそうです」
「おおいいのう。焼き魚でも今度奉納しておくれ」
ほのぼのとした平和な空気が夜の荒野におりてくる。
精霊も人間もやはりそう変わらないものだな、とセバルトはしみじみ感じている。
と、ウォフタートがセバルトに一歩近づいてきた。
「それにしても、儂より強いとは恐れ入った。おぬしの力は人間離れしておるが……本当に人間か?」
「人間ですよ。どう見てもそうでしょう」
ウォフタートは顔を近づけてセバルトをじーっと見てくる。ふさふさの髭がかすってくすぐったいとセバルトが思っていると。
「ううむ。確かに人間のような気がするのう」
「気がするじゃなくて人間です」
「ほっほっほ。冗談だ、セバルトよ。だが精霊より強い人間など、いるものなのだな。長生きはするものだ、珍しいものが見られたわい」
「はは、僕らには精霊様の方が珍しいですけどね」
セバルトとウォフタートは、二人で楽しそうに笑った。
精霊ウォフタートは笑うセバルトに手を出し、セバルトはその手をとる。
二人はしっかりと握手をし、ウォフタートは陽炎の中に消えていき、そしてマナの沈静化を成功させたセバルトは、エイリアの町へと戻っていった。
昨日の夜風より、少しばかり気持ちよくなった気がした。