レッドサン
麻生達矢は、タイミングの悪い男だ。
それは子供の頃から顕著だった。
例えば学校へ行く時、傘を持っていく日は雨が降らず、持っていかない日にばかり土砂降りの雨が降った。漫画がうっかり鞄に入っていた日に限って、抜き打ちの持ち物検査で大目玉を食らった。購買でパンを買おうと思えば目の前で完売し、いじめられている子を庇ったらタイミングよく先生がやって来て加害者だと勘違いされた。
枚挙に暇がない程、絶妙なタイミングばかり。
しかし、それらを更に上回る空前の邂逅にたった今、見舞われた。
付き合い始めて4年目の今日、愛しの彼女にプロポーズをして見事に成功させた。涙を頬に滑らせながら抱き着いた彼女の細い腰を抱き、高級ホテルへと向かう。
その道すがら。
ふわりと揺れる白いワンピースとくるりと巻かれたピンクブラウンの髪が視界を掠めて、ふと目を上げた。
パールのイヤリングが煌めいた。ぽってりとしたチェリーピンクの唇と頬。長い睫毛に縁どられた記憶通りの垂れ目がちな目が、僕の瞳と重なり合う。
エナメルのミュールを履いた華奢な足がピタリと歩みを止めた。同時に僕の足も止まった。
僕、麻生達矢の前に、鈴城まりかが現れた。
二人の間を一迅の風が通り過ぎる。
目の前のまりかと記憶の中の幼いまりかが重なり合う。
まりかは僕の家のお向かいさんの一人娘で、所謂幼馴染というやつだった。
常に間が悪くて鈍くさい僕は何時も兄の悪戯の標的で、一人ベソを掻いていると決まってまりかが慰めてくれた。
自分の体より大きなランドセルから今日の授業で作ったの、と得体のしれない粘土やらを出しては涙目の僕を笑顔に変えてくれたのだ。
大きくなるにつれて兄や学校の友達はまりかのぶりっ子が嫌いだとまりかを避け始めても、僕の隣にはまりかが居たし、まりかの隣には僕が居た。
僕の隣のまりかは幼い頃と何ら変わりはなかったし、まりかがぶりっ子だというのならクラスのツインテールの女の子の方がよっぽど我が儘でぶりっ子だと思ったのだ。
しかし、まりかの元気な甲高い声は日に日に小さくしぼんでいった。愛らしい笑窪は滅多に浮かばなくなり、クラスの帰りの挨拶が終わると直ぐにクラスを飛び出して僕を呼ぶ。そうして僕の姿を認めるとその大きな瞳に涙を滲ませて体当たりするように抱き着くようになったのだ。
「まりか、大丈夫?」
小刻みに震える彼女の背中をトントンと叩きながら問いかける。
お気に入りの僕のシャツをまりかがぎゅうと握りしめて皺を作った。
暫くして、うん、とくぐもった声の返事にほっとする。
「たっくんはまりかのこときらいになっちゃった?」
「嫌いになんかならないよ!まりかは僕のこと嫌い?」
ブンブンと顔を横に振るまりかに視線を合わせて、まりかの小指と僕の小指を絡めた。
「僕はずっとまりかと一緒に居る。約束する、ほら」
にっこりと笑いかけてきゅっと握りしめる。
彼女もまたきゅっと握り返してくれた。
「約束ね?たっくんありがとう」
ごしごしと伸ばした袖で目元をこすって、その頬に深い笑窪を刻む。
今こそ僕がまりかを笑顔にしてあげる番だと心に決めた時には、もう既に鈴城家は僕の知らない街へ引っ越していた。家庭の事情だと母は言っていたがきっと違う。
まりかと顔を合わせる事無く、春風の様に僕の前から居なくなってしまった。
そうして何もかもが既に手遅れで、まりかとの約束なんて守れないことに僕はようやく気が付いたのだ。
そんな僕にとって忘れられないまりかが今、目の前に立っている。
「まりか…まりかだよな…?」
一歩、また一歩とまりかに近づけば近づくほど、思い出が蘇って胸がつまる。
「たっくん…」
昔より少し低く甘くなった声に喉の奥がぐっとつかえた。
漂ってくるバニラの香りが鼻腔をくすぐる。手を伸ばすと確かに彼女の肩に触れた感触が脳へと伝わる。
その瞬間、矢も楯もたまらなくなってその華奢な肢体を腕に抱いた。
「まりかだ…」
「たっくんだよね、たっくん」
腕の中のまりかは記憶よりも遥かに柔らかく温かい。
「そうだよまりか…嘘みたいだ」
顔を上げたまりかの額に自分の額を合わせる。照れた様に顔を綻ばせるまりかが可愛くて仕方がない。まりかの右手を取って自分の指を絡めれば、そっと握り返してくれた。
ああ、なんて幸せなんだろうか。
「達矢!ねぇ、どういうことなの?!」
鋭い梓の声が僕とまりかを現実に連れ戻す。
はっと周囲を見やればぽつぽつと立ち止まる野次馬を背景に、見事な曲線を描いた右足に重心を乗せ腕組みをする自分の彼女、梓が此方を見据えていた。怒りを纏った瞳にぞくりと悪寒が走る。
僕とまりかは慌ててお互いの距離を取り、視線を彷徨わせた。
梓はそんな僕たちに更にイラついたように黒いハイヒールをかんと踏み鳴らした。
先程プロポーズをした僕の彼女。
そうだ、結婚の約束までしたところだった。
それなのに、あっという間に心変わりしてしまった。
今度こそずっとまりかと一緒に居たいという気持ちに。
これはもう、どうにも取り繕いようがない。
即断を迫られた僕は、言葉にする前に勢いよく腰から頭を下げた。
「梓…すまない、さっきの話は全て無かったことにして欲しい」
まりかが状況についていけずに困惑して僕の裾をほんの少し握ったようだ。
ぐ、と奥歯を噛みしめて頭を下げ続けていると、梓の長い長いため息と固い詰問口調が僕を責める。
「どういうことか説明して」
「まりか…彼女は幼馴染みなんだが色々あって引き離されていて。けど今日こうして会えて…本当に大事な子なんだ」
そういって僕はまりかの細い肩をそっと抱く。
我ながら支離滅裂な説明だ。僕の脳みそは極度の興奮で正常に機能していないらしい。只ひたすら僕の気持ちが梓に伝わるように、彼女の瞳から目を離さずに口を開く。
「勿論梓に言った事は嘘じゃない。それだけは信じてくれ」
本当に申し訳ない。そしてもう一度頭を下げる。
僕の視界の隅を遠巻きに通り過ぎる人が蠢く。後ろでしゃり、と小さな金属の擦れ合う身じろいだ音を耳が拾った。まりかまで巻き込んですまないと心の中で謝る。
沈黙の後、静かな梓の声が僕の頭に降ってきた。
「分かった」
がばっと身体を起こすと、口元に笑みを浮かべた梓の姿があった。
分かってくれたのか。
知らぬ間に強張っていた肩から力が抜ける。
「無かった事にしてあげる」
艶やかに笑んだ彼女に思わず目を奪われた。
ワインレッドのルージュを引いた唇がふるりと震わせながら開く。
そして大きく息を吸った彼女はこう叫んだ。
「大概にしやがれこの最低ロリコン変態野郎!!!こっちから願い下げだっつーの!」
しんと静まり返った。
僕はぶつけられた罵詈雑言の衝撃に雷が打たれた様に固まった。
梓は颯爽と身を翻す。瞬く間にレッドソールのハイヒールで野次馬を蹴散らし、颯爽と夜景の陰に紛れていった。
ざわざわと周囲の喧騒が戻ってくる。
くいくいと袖を引っ張られて呆然とする頭で振り向くと、困惑気味のまりかが首をこてんと傾げた。
「今のは何だったの?ねぇ、たっちゃん、あの人に何したの」
「まりか。…巻き込んでごめん」
とりあえず謝罪を口にすると、そんなことはいいのと首を振った。
「兎に角、まずはどこか話の出来る所へ行こうか」
野次馬の不躾な視線を一身に感じながらまりかの背中をそっと押した。後味の悪いこの場を去ろうと梓とは反対方向へと足を動かす。
まりかは後ろ髪を引かれる様に梓の去っていった方向を見つめていたが、僕の腕に急かされてノロノロと歩み始めた。
「ようやく落ち着いて話せるな。まりか、本当に久しぶり。元気にしてたか?」
終電も近いこの時間、まだ開いていたカフェに二人滑り込んで漸く口を開いた。
貼り付けた笑顔の店員に注文を済ませると程なくして香り立つカフェラテとコーヒーが届く。
「うん、元気してたよ。たっくんは?」
「僕もだ。今更だけどさ、あの時の約束守れなくてごめん」
約束?ときょとんとする彼女に指切りした時の事を話すと、あれかと眉を八の字にして微笑んだ。
「まりかこそ、何も言わずに引っ越しちゃってごめんね。あれから15年も経ってるのによくまりかって分かったねえ」
「忘れる訳ないよ、こんなに綺麗になってるとは思わなかったけれど」
まりかは照れを隠す様にサーモンピンクの花柄ネイルの指先で口を覆ってはにかむ。そんな仕草さえ可愛い。
「たっくんお仕事は何してるの?会社はこの辺ー?」
「いやいやまさか、僕はしがない中小企業の事務職だよ」
この辺りの高層ビル群の会社とは比較できないだろう。そう思い敢えて控えめに答えると、ふうんと薄い反応が返ってきた。
「まりかはねぇ、ここから10分位のところでお仕事してるの」
語尾を伸ばして方向を指し示す。高層ビルの立ち並ぶ駅の方向だ。
幼い頃をよく知るあの彼女が、と思うと違和感を覚えてしまう。
「まりかもちゃんと社会人出来てるんだな」
「そうだよ、まりかの事なんだと思ってるのたっくん」
ぷっくり頬を膨らませて怒る彼女にごめんと笑いながら謝った。
それはいいとして、とまりかは頬から空気を抜くとぐい、と身を乗り出してきた。
「さっきのお姉さんと何があったの?教えてくれるよね」
有無を言わさない笑顔は、事を有耶無耶にさせる気はないらしい。
「あー、それはだな…」
言わなければと思うほど言葉の歯切れが悪くなっていく。
「ええとその、少しだけ…付き合ってほしいと頼んだのに僕が反故にしようとしてしまって…」
「それって告白して自分で振ったってこと?え、なんで」
まりかは眉根を寄せて非難がましい視線を寄越す。
咄嗟についてしまった嘘に脂汗が背中を伝う。
「だってまりかとの約束、あっただろ…僕は器用じゃないから、彼女とは」
「なんで、まりかとの約束なんてどうだっていいでしょ!彼女さん大事じゃないの」
「どうでもよくなんか無い!ずっと一緒に居るって約束したじゃないか」
思わずテーブルを叩いてしまった。鈍い音に店内が静寂に包まれる。ハッと我に返って、もごもごと謝る。動揺を隠す様にしてコーヒーに口をつけた。温い酸味と苦味が鼻を抜けていく。
まりかは音には動じずに、真っ黒な瞳で俯き加減に冷めたカフェオレの水面を見つめていた。
「んどくせーな」
極小さな声でまりかが呟く。
え、と聞き返すとまりかは、スイッチが切り替わったかの如く髪を掻き上げ、足を組んで背を凭れると舌を鳴らして大きく息を付いた。嘲笑を浮かべて僕を一瞥する。
彼女の突然の変貌に僕は目を疑った。
「たっくん、本気で言ってんの?子供の頃の口約束なんて覚えてる訳ないし正直ドン引きなんですけど。小っちゃい時からたっくんってちょろいなーとか思ってたけどホントに単純だよねたっくんって」
「ま、まりか…?」
「あんなに美人で賢そうな人をしかも人いっぱい居るなかで振るとかマジでたっくん最っ低、彼女超可哀想」
まりかは徐にカフェオレを一気に煽ると、鞄を掴んで立ち上がる。
泡を食って止めようと腕を伸ばすとまりかは侮蔑の表情で身を引いた。
「とんだ無駄足食ったわー、あのねぇ、言っとくけどまりか彼氏けっこー居るからね。たっくんとは比べようもない位いい男だから。変な気、起こさないでよね?じゃあね、もう会うこともないと思うけど」
きゃはは、と品のない笑いを残してこちらを顧みることなく店を出て行った。
僕は何てことをしてしまったんだろう。
あまりの衝撃に暫く放心していたが、店員の冷たいラストオーダーですがという声に意識が覚醒した。慌てて会計を済ませると、刺すような視線から逃げる様に店から飛び出した。
とにかく、梓と話をしなければ。
取る手遅しと震えるスマートフォンで梓の電話番号をタップする。
梓、どうか出てくれ。馬鹿な事をした、もう一度やり直してくれ。
呼び出し音が重なる音に、言いたいことが胸から溢れ出して喉元をじりじりと焦がしていく。
繋がったかと意気込めば留守電のガイダンスで、思わず歯噛みした。何度も掛け直したが全く応答はない。
何時もなら直ぐに反応があるのに、と真っ白な頭で只管コール音を聞いていると、ぶつりと切断音がスピーカーを震わせた。電源を切ったらしい。
青白く光る画面を呆然と見つめることしか出来ない。
「…そりゃあ、そうだよなぁ」
あれだけ酷い仕打ちをした僕の声なんてこれ以上聞きたくもないだろう。
まりかの辛辣な、しかし的確な言葉が頭をグルグルと回って足元が覚束ない。
暫しの休息を求めて雨ざらしのベンチに深く座り込んだ。じわじわと冷たいベンチに体温を奪われていく。
僕は、まりかとの再会に一人で盛り上がって、本当に大事な人を傷つけてしまった。
気丈に振る舞う梓とまりかの辛辣な言葉とがグルグルと脳内を駆け巡っては馬鹿な僕を責めたてる。
ふいにスマートフォンがメール通知を知らせた。
梓かと思って勢いよく身を起こし、画面を確認すると取引先の重役である梁井専務の文字が表示された。珍しい。
このタイミングで僕に何の用かと訝しくもメールを開いた。
飛び込んできた画像に、眩暈が止まらない。
「嘘だろ、そんな」
梓が仄暗い照明の中、クイーンサイズのベッドにシーツを巻き付けて眠っている姿が写っていた。
メイクを落としてあどけない彼女の目元が赤いのはきっと僕のせいだ。くっきりと浮いた鎖骨から肩のラインが色めいて、体の奥底からざわざわする感覚が溢れ出しては止め処ない。
”彼女の眠りの妨げになるから電源は落とさせて貰ったよ。君が馬鹿なお陰で助かった、ご馳走様。”という彼のメッセージに目の前が真っ赤に染まる。
梁井専務に電話を掛けるも留守電にしか繋がらない。
「ああ、クソッ」
梓曰く社内きってのイケメンなのに浮付いた噂が一切ない筆頭優良物件という彼が、何故そこに居るのかと考えただけでも胸糞悪い。
兎に角、一刻も早く話をしなければ。
結局、翌日は居ても立っても居られずに休日出勤し、梁井専務にアポを取るも全く取り付く島もない。終業後の彼を捕まえようと通用口で一人待ち続け、ようやく捕まえられたのは更に翌日。
だが。
「なんでお前が梓と居るんだ」
何時もよりラフな格好の梓の肩を支えるようにしてエスコートする梁井専務。パッと見がまるでカップルで苛立ちが最高潮に達する。
その手を離せと詰め寄れば、梁井専務は片眉を上げるとさっと梓を僕から遠ざけた。
「取引先の専務に対して随分な態度だが、まあいい」
そんなことより、と切れ長な目を更に眇められて、息巻いていた勢いがそがれる。
「手酷く振った彼女が次に誰と付き合おうが君には関係ないだろう?」
「貴方こそ関係ない!私は梓と話がしたいんだ」
「彼女は君の顔も見たくないそうだよ。お引き取り願いたい」
ああくそ、分が悪い。
専務の陰になっている梓に向かって必死に声を上げた。
「梓!なあ、せめて顔を見せてくれないか!謝りたいんだ、どうか」
「君も分からない人だね」
仕事時と打って変わって無表情な梁井専務からの言葉は酷く冷たく、静かな怒りを肌で感じる。もう、今後の取引は絶望的だろうと頭の片隅でそんなことを思った。
とその時、専務の後ろから梓が意を決した表情で現れた。
「専務、ありがとうございます。平気ですから」
腕に手をかけて穏やかに伝える梓が一拍置いて、こちらに向き直る。
泣き腫らしているだろうとばかり思っていた彼女は、見事にその予想を裏切ってくれた。振られたこと等吹っ切れた様に柔らかく微笑み、背筋を伸ばして向き合う姿はこれまで以上に凛として美しい。
「梓!本当にも」
「謝らないで!いいの。私の方こそ酷いこと言ってごめんなさい。達矢、今までありがとう」
僕を遮った上にお礼を重ねられ、彼女へ言いたい言葉達が胸の内で一気に雲散霧消していく。
「あのまりかちゃん、大事にしてあげてよ」
苦笑すると隣の専務へ行きましょうと梓は目を上げた。
梁井専務の腕に手を添えて見上げる彼女の表情が、見覚えのある色を湛えているのを捉えた瞬間、僕は完全に彼女の心が離れてしまったことに漸く気が付いたのだ。
完全なる完敗。
僕の上げかけた右手は力を失い重力に従って下りて行った。
気付けば会社まで戻ってきてしまった。
まだ残っていた鈴木という後輩が僕を見て泡を食っっている。どうやら自分は想像以上に憔悴しているらしい。
あたふたと世話を焼く鈴木の腕をがしりと掴む。
「お前も今日はご苦労さん。疲れてるだろう。喜べ、優しい俺が奢ってやる、付き合え」
鈴木は額に脂汗を滲ませてかくかくと縦に首を振った。
その時の僕の表情が見たことも無い程危機迫っていて、身の危険を感じたと後の鈴木は言う。
鈴木一押しの都内唯一の酒蔵の清酒は僕の舌をうならせた。程よい喧騒、旨い酒と肴に絆されたのか、気付けば甲斐甲斐しく世話を焼く鈴木に彼女とまりかの事を洗いざらい話していた。
「女見る目がない上にあんなに素敵な梓さんを麻生主任から振るとか何様ですか馬鹿ですか。しかも最後何も言えずにおめおめと逃げ帰るだなんて男の風情にもおけない人ですね主任」
深い溜息をついた鈴木になじられて膝に手をついて首を垂れる。
さしずめ説教を受ける生徒だろうか、中々に手厳しい。
「本当に仰る通りで…」
「梓さん以上のいい人なんて会ったことない」
「僕もだ」
「でも主任よりいい人にかっ攫われて安心しました」
僕の口からはひゅうと力ない息が漏れ出て行った。
「今頃は梓さん梁井専務と…」
「うるさい!いいから黙って飲め!」
瓶の日本酒をどぼどぼ鈴木の杯に注ぐ。何だか視界がぼやけてきた。
机へ跳ね返ったお酒を勿体無いと連呼しながら慌てて口をつける後輩はザルだ。ペースを落とさず5、6杯は飲んでいる筈なのに顔色一つ変えずに水の如く飲み干していく。
心のどこかで、梓は別れを告げた僕に泣いて縋るものだと思っていた。しかし蓋を開けてみればあっさりと手を放し、あまつさえありがとうと笑いさえしたのだ。
所詮その程度の思いでしか無かったのか、もしや梁井専務と既に深い仲だったのか。
いや、梓に限ってそんなことはしない筈。
ぼんやりとグラスを見つめながら止め処ないネガティブな思考にハッとして、流石に飲みすぎだと自覚した。
しかしあと少しだけ、飲みたい。
「おい後輩。度数低いやつあるか、日本酒」
まだ飲むのかと胡乱気な視線が返ってきたが気付かない振りをする。
「じゃあこれで最後にしてくださいね主任。私主任をお姫様だっこ出来る自信ないですから」
「あってたまるか阿呆」
「じゃあですね、レッドサンなんてカクテル、どうでしょ」
カクテルとは縁のない自分に分かる訳が無い。適当に頷いて、店主と後輩のやり取りを見るともなしに見ていた。
「レッド・アイの日本酒版なんですけどね、結構飲みやすくて鈴木オススメの一杯です」
「そうか」
程なくして運ばれてきたそのカクテルは仄かなとろみの鮮やかな朱色。
一口煽ればトマト特有の酸味が日本酒を爽やかに包んで喉奥へと運んで行った。
「トマトか、思ったよりさっぱりしてるな」
でしょうとしてやったり顔の鈴木が鼻につく。
にお前も飲むかと掲げると、暫く逡巡したのち受け取ると口をつけてこう言った。
「麻生主任、私に鞍替えしちゃいます?」
「なんの話だ」
すすすとすり寄る鈴木にぎょっと身を引くと背中に固い壁の感触が当たった。
いや、まさか冗談だろう。な?
「私とかお買い得ですよ?手取り足取り教えますし…ね、主任?」
艶めかしく肩に手を滑らせる鈴木の手を叩き落として一喝した。
「俺は男にゃ興味なんぞ無いわっ!!!」
喧騒から一瞬にして沈黙。
はっと辺りを見渡せば酔っ払いの視線を一身に浴びていた。隣で鈴木がげらげらと笑い転げている。
姉ちゃんには興味あんだろがあ、いや、ありゃあゲイならいけるって意味じゃねえのかと四方八方から野次が飛んできて笑いと喧騒に包まれる。酔っ払い万歳と苦笑いを浮かべながら、机の陰で鈴木の向う脛を蹴飛ばすことは忘れない。
ああ畜生、もうこの店使えなくなったじゃねえか。
こみ上げる笑いが止まらない。
自分が必死に体裁を取り繕うとも、結局どんどんとボロを出してこの有様だ。
梓もまりかも、こんな最低男に捕まらなくてよかったという自虐さえ笑いの種になる。
いつの間にか復活した彼の杯にレッドサンのグラスを軽く合わせた。
「ああくそう、大馬鹿野郎乾杯!」
「そうそう残念な主任に乾杯!男前な梓さんにも乾杯!」
「悔しいがいい男過ぎる梁井専務に乾杯!ああしみるっ」
ドン、と煽ったグラスを勢いよく下ろす。
次だ、次。
止めにかかる鈴木を上手く躱して、立ち回る店員に二人分のお代わりを注文した。
夜はまだまだ長い。
思ったようなざまぁ展開でなくてすみません…こんなはずでは??
ご一読ありがとうございました!