09 どうか健やかであるようにと願う
2015.08.30 更新:1/1
しんとした無音の世界に、暗闇が降りた。遠くで聞こえる鳥の低い鳴き声が、いつまでも余韻をたなびかせ、耳の奥を震わす。
森にも等しく訪れる、静かな夜。けれど、これほど緊張し迎えるのは、きっと後にも先にもこれっきりだろう。
毛皮のベッドに腰掛けるサァラは、自らの吐息も潜める。座っているだけなのに、心臓の音が外に聞こえてしまいそうだ。
もう少し、待たないと。里のみんなが、完全に眠ったと、安心出来るまでは。
サァラは、じっと座ったまま動かずにいた。
ふと、サァラの腕がくいっと引かれる。隣に座る少年もまた、じっとサァラを見上げていた。これから何かが起きる事に気付いている彼の瞳は、ゆらゆらと震えているのが月明かりの中に見えた。
「……大丈夫だよ。大丈夫」
それは少年をなだめると同時に、サァラ自身も落ち着かせた。これから行う事は、サァラにとってはまさに大勝負と呼ぶべきものなのだ。
森が夜に包まれる前。
森の外に人間の集団があるらしいと、里のナーヴァル達の会話をサァラは耳にした。どうやらこの日の狩り部隊が森の外でも離れたところに居るだけで、今すぐにやってくる気配はないらしい。ナーヴァル達は少々の警戒はしていたが、今すぐどうこうするという事はなかった。攻撃された場合にのみ相手をする、意外と秩序のある種族だからだろう。
サァラは、これだ、と思った。少年をこの森から帰すには、今ほど都合の良いときはないだろうと。
慌てて住処に身を翻してからは、早めの食事を取って、準備したものを確認して、夜を待った。少年には身振り手振りで説明をしたが……上手く伝えられた自信はない。けれど、たぶんきっと、何か察したとは思う。サァラが用意してきた大人サイズの服から、元々彼が着ていた丁寧な作りの洋服に変える際、大きな青い瞳は最初の頃のように怯えを浮かべていた。
結局、どうして少年が森にやって来たかは分からない。けれど、彼が居てくれた生活は、サァラへ他にない幸福を感じさせてくれた。
「……大丈夫、もうすぐだからね」
だから見送る最後まで、笑っていよう。
サァラは静かに夜を待つ。森の外に集まっているという人間のもとへ引き渡す為に。
身動ぎせずに待ち続け、さらに夜が深まった。
サァラはふと立ち上がり、住処の外を窺う。そばだてた耳に気になる音は聞こえない。他のナーヴァルは完全に眠ってくれただろう。もともと里の中央の広場から離れているサァラの住処なので、多少は音が出ても平気だろうが、念には念をいれなくては。
「少年、おいで」
声音を抑え、サァラは手を伸ばす。いつもならば差し出されたそれを、少年はすぐに握ってくれたけれど、何故か今は腕さえあげず座ったままだった。
「少年?」
サァラは毛皮のベッドに近づき、背を屈める。少年の小さな手を掴もうとしたが、彼は逃げるように両手を引く。
初めて見せた、明確な拒絶。思わず驚いていると、少年の小さな口が開く。何かを呟いているが、普段以上にその意味が分からない。
「怖くないよ、森の外に行くんだよ」
細い腕を取って引っ張ると、少年は身動ぎして振り払う。幼い声が叫び、何かを必死に訴える。揺れる感情を秘めた瞳には、サァラも胸を締め付けられる思いだった。
きっと怖いんだよね、ごめんね。でも、ゆっくりもしていられないんだ。
サァラは結局、力業で少年の口を覆い、そのまま抱き上げる。彼が抜け出さないようがっちりとホールドし、素早く外に出た。
住処の側には、少年が入るのに丁度いい、背中に担ぐ造りをしている蓋つきの籠を用意していた。その中には既に、彼の為にと用意していた毛皮のマントや必要になるだろうものを詰めた小さな鞄が入っている。サァラはそこへ少年を投げ込んだ。小さな悲鳴のようなものが聞こえたが、すかさず蓋を閉めてサァラも準備に入った。
蓋といっても、ツル性の植物で編まれた代物なので、楽々と彼にでも開けられる。籠の中から、背伸びをしているのだろう少年が蓋を押し上げていた。
それを見ず、サァラは首飾りを外し、下腹部の前後に垂れる長い布を紐解いて放り投げる。もともと身につけているものがあまりにも少ない獣の種族、既に恥などなく、サァラは堂々と装飾品を投げ捨てた。(見られたところで毛皮があるから裸とも言い難い)
籠の中で声を荒げていた少年が、一瞬怯んだように口を噤んだ。
――――そういえば、少年には初めて見せるかもしれない。
サァラは息を吐き出すと、その場に四つん這いになった。暗く染まった地面についた純白の四肢が震え、赤い髪や尾がざわりと揺れる。一体何事かと、慌てている気配が少年から感じられた。
サァラはここ最近、獣人姿で生活していたが、ナーヴァルの本来の姿は獣人ではない。四つ足の獣の姿だ。もやしっこのサァラも、その姿を持っているし、転変する事が出来る。
従って、獣化すれば――――五メートル前後の巨大な白獣になるのだ。
人と似た造形の身体が、月明かりのもと長大に伸びてゆく。
全身を覆う毛皮は、厚みを増して体躯を包み込む。爪の生えた五本の指は、大きく獣のそれとなって地面を踏みつける。尻尾はより大きくしなやかに、背中に流れた赤い髪は頭部と背筋を覆うたてがみとなる。そして、人とよく似た顔立ちは、鼻梁の長い獣のものへと変化してゆく。
木々の闇を割って注ぐ月光のもとに雌の獣人は居らず、代わりに純白の獣が四本の足で佇んだ。
竜すら殺すと言われる生粋のナーヴァル達は、全身に浮き上がるほどの筋肉を有していて、さらに獅子と狼を混ぜ合わせたようなその容貌は、はっきり言って凶悪な森のどの生物よりも獰猛さを露わにしている。大陸最強と呼ばれるに相応しい風格が、雌雄問わずに惜しげもなく全身から放たれるのだ。
未来の長と名高いガァクにいたっては、ざっと見ても十メートルはかたい。もはや馬鹿らしいと表現するほかない大きさだ。
対してサァラは「狩り、だめ絶対」という長年の軟弱ぶりが祟ってか、戦いについてはまるで役に立たない造りをしている。けれど、危険から逃げる生活が力強さを補い、速度に特化した姿となった。身体の大きさ自体はナーヴァルの標準サイズだが、露わになるはずの獰猛さは無く、全体的にしなやかさでほっそりとしている。狼や獅子、というより、まるで豹のような身体つきではないだろうか。あの厚い筋肉に憧れた事はないので、サァラは特に不満はない。むしろ、ちょっと綺麗だと思う事の方が多い。
さて、獣人の姿から四つ足の獣の姿に転変したサァラは、改めて少年を見た。すっかりと地面は遠くなってしまったが、籠に入っている少年の顔はよく見える。彼は大きな瞳を真ん丸にし驚いていた。今まで見ていた獣人が、突然獣の姿になればそうもなろうか。サァラにとって幸いだったのは、少年が獣の姿を見て恐怖しなかった事だ。
サァラはそっと近付くと、前足をひょいっと持ち上げ、籠の蓋を押さえつける。わぷ、という微かな息遣いが聞こえた。サァラは頭を下げると、籠に取り付けられた紐をくわえ持ち上げる。羽根のように軽い少年は、籠に入っても軽かった。
とにかく――――急がないと。
里のナーヴァルと、夜に生きる獣たちに気付かれないうちに。
サァラはしなやかな四肢で地面を蹴ると、月光が差し込む闇夜の森を駆け抜けた。夜目に利く赤い瞳には障害らしいものは無く、すり抜け、飛び越え、夜風のように駆け抜けた。
時々、口にくわえた籠の中からは少年の声が聞こえる。怯えているだろうか、最初の頃のように食べられかと思っているだろうか。それでも決して止まらず、サァラはひたすら足を動かした。
目指す先は、森の外。集まっているという、人間のところだ。
しばらくの間、サァラは走り続けた。ナーヴァルの里自体が森の奥深くにあるので、森の外ともなれば必然的にその道中は長くなる。けれど何の道標もない暗闇の森を迷う事無く進められたのは、サァラが森の外に憧れてたびたび出向いた事が過去にあったからだろう。仲間には内緒で、森の終わりが見えるか否かのところから、飽きもせず見つめたものだ。
あの頃は無駄な事と思ったけれど、今は感謝すら覚える。
息を荒げ、森を疾走するサァラの前に、ついにその終わりが見えた。サァラは一段と速度をあげ、今まで超える事の無かった線引きを――――飛び越えた。
森を抜けたサァラの前には、幻想的な夜の草原が広がった。
雲のない夜天に浮かぶ、煌びやかな白銀の月。森から流れてきたらしい川は、静寂の草原に描かれ続いてゆく。注ぐ月光は闇夜を照らすほどの見事な輝かしさで、日中には決してない夜の世界を作り出す。森の中では決してみる事のないその美しさに、サァラは思わず立ち止まり惚ける。
森を出ただけで、こうも違うのか。
深い緑の香りを嗅ぎ慣れた鼻には、草原を柔らかく吹く夜風が清々しい。
と、つい見ほれてしまった時、口にくわえた籠から少年のくぐもった声が聞こえたので、意識を戻す。そうだ、惚けている場合ではない。森の外に集まっているという人間が居なくならない内に、少年を早く渡さなければ。サァラは感触さえ異なる夜の草原を駆けた。
探す事自体は難しいものではなかった。暗闇の中にぽつりと浮かぶ明かりが見え、それが野営のものであるとは直ぐに理解した。籠を口にくわえてたったかと駆けるサァラは、それに向かってさらに速度をあげる。どうか少年を連れて行ってくれる心優しい人でありますようにと願って。
しかし、問題は見つける事でなかったのだと気付いたのは、明かりに近付いてからであった。
サァラ自身、この世界に生を受けてから初めて見る人間の集団とあって、好奇心と緊張が良い具合に混じっていた。
金髪碧眼の少年を窺う限り、やっぱり西洋系の顔立ちと生活様式だろうか。こんな常識外の超巨大わんこがいるのだから、物語のようなファンタジーな世界だろうか。魔法なんてものが、あったりするだろうか。
そんな事を考えるくらいには、ほんのちょっぴりわくわくしていたのも事実だ。
おかげで、まったく肝心なところを忘れていた。
サァラがどれだけ貧弱だろうと、ナーヴァルという生物は――――恐れられ、忌避されるらしい生物である事を。
遠目に見ていた明かりが徐々に近付く。人間の集団というのは本当のようで、暗闇に浮かぶ明かり――熾した炎は、野営の風景を映し出した。簡易的な造りだが中々大きい天幕が二つ、三つほどあり、夜の見張りだろう人影も複数窺える。人間の成人男性だろう。その誰もが、一般人と言い難い武装を施している。
初めて見るために断定は出来ないが、無法者という雰囲気ではないような気がする。少なくとも里の戦利品置き場には見なかった、粗末さのない上等な装備と衣服だ。
少年を連れて行ってくれる人達だと良いなあ。
野営まであと数十メートルというところでサァラは走るのを止め、軽い駆け足で揚々と近付いた。森にはない文明の香り! と興奮するのを抑えて近付いた、次の瞬間。
見張りをしていた人々はサァラを見るや、一斉に武器を構え警戒の大音声を上げた。
当たり前である。突然現れた巨獣に、やあいらっしゃい、なんて朗らかな歓迎をするはずがない。目の前に広がる光景の通りに、敵だー! と騒がれるのが関の山だ。静かな野営地には警戒モードが一気に高まり、天幕から次々と人間が躍り出てはその誰もが武器を持ち突き付けていた。
そもそも、それ以前に。
(……あ! 言葉も通じないんだからお願いのしようがないじゃん!)
根本から重要な事を忘れていたサァラ。これでも大陸最強、凶悪な森の覇者、ナーヴァルであるが何か。
籠をくわえながら意気揚々近付いたサァラは、ここにきて途方に暮れる。しかし事態は既に動いた後、慌てて数歩下がるも、彼らは全高三メートルはくだらないサァラを見上げながら果敢に武器を向ける。炎の明かりに照らされた面持ちは少年のように西洋のそれだったけれど、警戒と恐怖をまざまざと浮かべる様子にわくわくする場合ではなかった。
理解出来ない言葉をもって、声を荒げ、サァラを取り囲む。生粋のナーヴァルのように太さや強靭さはないが、五メートルを超える四足の巨大な白獣は余裕をもって警戒ラインの内側だ。
これは、困った事になった。ただ少年を渡したいだけなのが。
野営地の真ん中、燃え盛る炎の中でぱきりと火花が爆ぜる。静かな夜風の音は、無音の沈黙と共に吹いてゆく。
サァラの一挙一動を、彼らは見逃すまいと睨む。汗が伝うような緊張感はサァラにも感じられたが、ここまできた以上はとにかくやり通すのみである。サァラは出来るだけ穏便に頭を下げると、籠を地面へ下ろす。たったそれだけでも警戒されるのは何となく悲しくなったが、敵意はないよー超友好的だよーと目に念を込めて逡巡する。警戒を解くどころか深まったのは、絶対に気のせいだ。
とにかく、これを早く。
サァラは籠を地面へ置き前足で軽く押す。実は先ほどからじたばたと暴れていた少年は、そのまま鞄と毛皮のマントと共に倒れた籠から転げ出てきた。
その時、緊張の張り付いた沈黙が大きく動いた。野営地を作った彼らは、突然籠から出てきた少年に驚いたようだったが、見下ろすや一様に呆然とし何事か呟く。そして次の瞬間、誰もが同じ言葉を叫び、少年にわっと駆け寄った。
……んん? この空気はまさか。
成人した男性達が少年を抱き起こし、安堵と驚愕、そして喜びを綯い交ぜに表情を変える。そして他の人々は、庇うように少年の前に立ち塞がるとより一層強く握った剣などの切っ先を突き付ける。少年は一体何が起きたのかと目を白黒させていたが、抱き起こした男性を見るや、目を真ん丸にし声を上げた。その仕草はどう見ても、初対面のそれとは思えなかった。
まさか、何と言う幸運だろう。少年は彼らと既知の間柄だった。
とんでもないスーパーラッキーである。という事は、彼らは少年を探しに来た人々なのか。これだけ立派な恰好をしているのだ、やっぱり良い所のお坊ちゃん説は正しかったらしい。
沸き立つ空気を、サァラは遠くから見つめるように見守った。少年は驚いていたが、それ以上に嬉しそうであった。暗闇の中でもきらきらとする煌めきは、とびきりの明るさを弾けさせている。あれほどの明るさを、サァラは見た事がない。
そうだよね、知っている人が来たら、久しぶりに会えたら、嬉しいよね。
仲間の反感を買っても私がした事は、やはり間違っていなかった。少年のあの姿を見て、ようやく安堵する。
そして――――これで約束は果たした、と。
サァラは、ゆるりと後ろ足を引き、野営地から一歩ずつ遠のく。このまま森に帰ろう、それが一番良い。だが、動き出したサァラをそのまま見逃さず、誰かが声を上げた。少年に向いていた多くの意識は再びサァラへと注がれ、非常に深い困惑の感情が視線に乗せられる。こんな大きな生き物が少年を連れてきて、びっくりしているのかもしれない。或いは、ナーヴァルだと気づいているのだろうか。
彼らの武器は変わらず構えられたままだ。心配しなくても攻撃はしないのに。
赤い瞳を周囲に逡巡させ、一度少年で止まる。その大きな瞳は、サァラを見上げていた。長くそれを見つめてしまうとせっかくの覚悟が揺らいでしまいそうで、サァラは直ぐに逸らし、身を翻した。
「――――!」
途端、張り裂けんばかりの幼い声が、サァラに掛けられる。
ついちらりと振り返ると、抱きかかえられた少年が、男性の腕の中大暴れして抜け出しているところだった。男性達の必死な面持ちから少年を制止している事が窺える。けれどそれ以上に、少年の幼げな表情にはもっと追い詰められたものが浮かんでいた。
少年は小さな身体で大人達の包囲網をすり抜けると、全速力で駆け寄ってくる。サァラ――巨大な獣姿のナーヴァルの足元へ。
そこでこちらに来られるとは思っていなかったサァラはさすがに動揺した。
私は森の獣だよ。君の後ろにいるのは、同じ人間だよ。
知ってる人なんでしょ、少年、ようやく帰れるんだよ。
こぼれそうになる“何故”を必死に飲み込む。前足にしがみつく小さな子どもを離そうと左右に揺らしてみた。振り飛ばすほどの力ではないが、大人達は慌てて距離を詰めてくる。何か危害を加えられると思ったのだろう。
けれど彼らの心配など余所に、少年は首を何度も振っている。言葉なんて通じないのに、まるでサァラが言わんとする事を知っているような仕草だ。彼は何か必死に言い募りながら、ぐいぐいとサァラの前足を引っ張る。そうしたって動かない事くらい、分かるだろうに。
「駄目だよ、少年。君は森の外で暮らすべき子どもなんだから」
ぶんぶんと、少年の首が横に振られる。彼の力は決して強くないのに、サァラの心を掴むようだ。
そうだね、繊細な容姿に反して、君は結構頑なだものね。
じわりと染み出す感情を必死に抑え、金髪の天辺を見下ろす。小さな唇をぎゅっと噛みながら、彼は――――泣いていた。大きなナーヴァル達に囲まれた時だって、サァラに触れられて震えた時だって、決して泣き出す事のなかった彼が、この時初めて。
サァラは奥歯を噛み締め一呼吸を置くと、本来の四足の獣の姿から獣人の姿へ転じた。そこかしこから驚いたような気配を感じたが、サァラはそれを見ず、少年を覗き込む。
「少年」
ぐいぐいと赤い髪を引っ張り、首にしがみつく小さな手は、思いのほか力が強かった。最初に会った時より少しワイルドになったかなと、場違いな笑みがこぼれる。小さな背をぽんぽんと叩いて宥めるも、余計に力が入ってサァラに縋った。何処か聡明で大人びた彼も、駄々をこねる様はやっぱり幼い子どもだ。
サァラは少年を軽々と抱きかかえ、動きを止めている人々へと近付く。雌の獣人姿でも、やっぱりちょっぴり大きいらしい。ざっと見て齢三十、四十を過ぎた男性達と並んでも、視線の高さが合わずにいる。サァラの方がほんの僅かに背丈があるようだ。きっと自覚しているよりも、四足の獣の姿も大きいのだろう。
突き付けられた鋭利な切っ先が、どうするべきか迷い上下にぶれる様を片隅に見つつ、再びしゃがむ。籠から転がり出たマントと小さな鞄を持ち上げ、少年に身に着けさせていった。
「これだけ大人が居るなら、大丈夫だろうけど」
しっかりとマントを着させて、その肩に鞄を掛ける。
「念には念をね。中に色々入れたから、必要があったら上手に使ってね」
鞄を開けて中身を見させる。けれど少年は鞄なんて見ずに、ひぐひぐとしゃくり上げサァラだけを見ていた。
ああ、そんな、せっかく帰れるのに。
その大粒の涙が伝染してしまいそうで、サァラは必死に笑った。そっと背中を屈め、少年の額に自らの額を重ねる。どんなに人の姿に近くとも、肌は薄い白毛で覆われ、耳は三角の獣の形、大きな手には鋭い爪が伸びている。人間ではないけれど、少年に祈りを込め、何度も擦り合わせた。
泣いてくれるのは、これで“さよなら”だと知っているからだろうか。少しでも、サァラとお別れをするのを、惜しんでくれているからだろうか。
「……少年」
少しは、彼の心に寄り添える獣に、なれただろうか。
「元気でね」