08 正しい“さよなら”を見つける
2015.08.29 更新:1/1
あわや仲間同士の取っ組み合いという危機に直面してからも、少年に対する態度は何ら変わる事はなかった。寝起きを共にして、遊びに出掛けて、一緒に同じものを食べて。それが許されない事と知らされても、サァラの心は動かなかった。
けれど、まざまざとこの森の現実を見せられて、能天気でも居られなかった。
サァラが金髪と碧眼を持つこの少年を害するつもりはこれっぽっちもないとしても。
他のナーヴァル全てもそうであると全く言えない事が分かってしまったから。
うっすらと気付いていた、ナーヴァルの里の不穏な空気。それがサァラに向けられている事も察していた。にも関わらず実害が無かったのは、森の覇者の長という絶対的に逆らえない存在と、ガァクという一目置かれる戦士の存在が大きい。あの強力な二人がサァラと少年を認めてしまえば、それに反論出来る者はいない。
紙一重で平穏に過ごせている現状は、とても危ういところで揺れているのだ。
今まで変な奴扱いされ、里の中でもほぼ底辺の地位にあったサァラだ。今更何を言われようとへこたれない自信は大いにある。むしろへこたれていたら今頃この凶悪な森で生きてはいまい。
だが――――少年は違うのだ。
外から迷い込んだだけの、十歳にも満たない幼い子ども。ナーヴァルのいざこざに巻き込み、ようやく浮かべてくれるようになった笑顔を壊したくない。
(……もうそろそろ、かな)
サァラと少年のお別れの時間は、直ぐそこだった。
◆◇◆
森から出る時、少年には何が必要か。考えた時にまず浮かんだのは、必要最低限の食料とお金、そしてサバイバル知識だった。
食料は問題ない。少年の食べられる日持ちするものはいくらでも思いつく。
お金は、幸い里の一角にはがらくた置き場と称した宝の山がある。漁れば出てくるだろうし、生き字引の老ナーヴァル達に聞いて森にやってくる人間達が特に持ってゆこうとするものを代わりに持たせてやれば良い。多少の旅の資金はあっても損はないはずだ。
ただしサバイバル知識、これは詰めて持たせられないので、少年に覚えて貰う必要がある。どんなに綺麗でも生水は飲まない事、雨風を凌ぐ方法、虫除けの草木と逆に虫を呼び寄せる草木、獣の通る痕跡……。この時ばかりはサバイバル知識必須の森暮らしで良かったと思う。
他には、寒かったら大変だから毛皮のマントと、彼でも持てる小さな鞄だろうか。
考え始めてみると浮かんでくるが、それによってサァラの心が弾む事は無い。少年の為に必要なものを揃えた最初の頃とはえらい違いで、憂鬱になる一方だった。
絶対に森の外へ帰すと約束し、そうしようと心に決めたのもサァラである。最初から決めていた事であったのに、いざその時が近付いている事を自覚すると気落ちしてしまう。あの少年との生活は思っていた以上に深いところへ入っていたらしい。それとも、心の隅で期待してしまったからか。少年がずっとこの森に居てくれたら、なんて。それこそ叶わない事なのだと、ガァクの忠告が無くても知っていた事なのに。
サァラの前で、今日も少年は無邪気に笑う。金髪と碧眼に似合う煌めきに温かい気持ちになりながら、片隅が物寂しさを訴える。彼のこの表情が壊れない間に、お別れをしないと。
自分の為ではなくて、少年の為。何処か言い聞かせながら、サァラは少年を連れて外へ出る。少年が森の外に出られるよう、伝えられる限りを伝えるべく。
少年は、分かるだろうか。理解してくれるだろうか。もうすぐこの森から出られる事を。その先は彼だけで人里に向かう事を。
サァラと、きっと二度と会わなくなる事を。
「――――?」
少年が、不思議そうに首を傾げる。サァラは慌てて意識を戻すと、笑顔を浮かべ彼の頬を撫でる。
「何でもないよ、うん、何でもない」
その言葉は少年ではなく、自分自身に向けたような気がした。
ナーヴァルの里は、相変わらずよそよそしい雰囲気に満ちている。先日、サァラと雄のナーヴァル達の間にあった一悶着は既に伝わっているのだろう。サァラの背中に掛かる視線の多くは猜疑的な感情を含み、ただでさえ居心地は悪いのにさらに厚みを増している。
様々な強者が暮らす森の頂点にある覇者、ナーヴァルなのに、何てみみっちい事か。
開き直るサァラであるが、いつ背後から襲われるか、不安を抱くのも事実である。もやしっこのサァラでは、端まで吹っ飛ばされるのが関の山だ。何よりの根源はサァラであるけれど。
そんな、険悪な空気に濁る里の有様に気付いているはずなのに。
「サァラ、またそんなところを漁っているのか」
この雄ときたら、気にもせずサァラへ声を掛けてくる。
今日も全く衰えず、全身から屈強さを放つ雄のナーヴァル、ガァク。赤い豊かなたてがみを広い背に流し、筋骨隆々という言葉を体言する獣人は、里の空気に怯む様子はない。堂々と背筋を伸ばし、サァラを見下ろす。今もっとも里で立場の危ぶまれるサァラにだ。
前から何かと構ってくる雄ではあったけれど、最近の彼のそれは顕著だ。
「……私に話しかけたら、ガァクも同じように見られるよ」
がらくた置き場という名の宝の山から立ち上がったサァラは、ガァクへ振り返る。強靱な身体に乗っかった獣の頭部は、不思議そうに傾く。全くと言っていいほど、可愛らしさの欠片がなかった。凶暴そうな顔は、やっぱり凶暴そうな顔のままである。
「何だそれは。俺がそうされる理由は何一つとしてない」
ガァクには清々しいまでに後ろめたさなど無かった。サァラの眼前に佇む体躯にも、見下ろす瞳にも、以前と変わらない高潔さが宿っている。
分かっているのか、分かっていないのか。いや、きっと分かっていて、それでもなおサァラに声を掛けられるのだろう。この雄は、そういう雄だ。サァラも感心するのだから、他のナーヴァル――特にサァラの行動に否定的なもの――は恐れ入っているに違いない。周囲には誰もいないが、遠くできっと。
前は、苦手だったんだけどねえ。
サァラは小さく笑いガァクを見上げた。以前ほど彼を怖く感じないのは、先日の件がやはり大きい。それに、今もっとも信頼出来るナーヴァルがガァクだけというのもあるだろう。
「それで、その袋のようなものは、何に使うつもりだ?」
鋭い爪の伸びた指先が、サァラの持つ小さな鞄を指す。
「これ? 少年にあげるの。良いじゃないどうせみんな使わないんだから。必要になる人にあげるのが一番よ」
「必要?」
「森を出る時、絶対に必要でしょ?」
ガァクの赤い瞳が、僅かに動いた。
「……森から出すんだな」
「準備してるの。少年が、きちんと人里へ行けるように」
宝の山から引っ張り出した肩に掛ける小さな鞄を抱え、ガァクの横をスッと通り過ぎる。彼の見下ろす視線が、サァラの頭の天辺を追いかけてくるのが分かった。
「……お前は」
言い掛けておきながら、いや、と彼は口を閉ざす。
「あまり時間はないぞ、サァラ」
低音で紡がれた言葉に頷いて、足早にその場を去る。
分かってる、分かってるから。
少年の為にと引っ張り出した鞄を握る手には、無意識の内に力が入っていた。
それから、サァラは何度も自身に言い聞かせ、自身を奮い立たせ、少年が森を出る準備を急ぎ進めた。
日持ちして、なおかつ少年でも食べられるもの。
人間の世界の金銭に、森へ来る人間が特に持って帰ろうとする川底の宝石のような輝く石。
罠を仕掛けて捕まえた草食獣の、綺麗な毛皮で繕った子どもサイズのマント。
そして――――いつかお別れする時の為に保管していた、少年の洋服。
年のわりに聡明な彼だ、これから何か起きるのかと、もしかしたら気付いているかもしれない。サァラの指を握る手は、時々とても強くすぼめられた。
その手をずっと、出来れば包んでいたかったけれど。
彼が一番安心出来るところに帰れるよう、もう、手放さなければ。
準備を終えたサァラは、彼を連れてお気に入りの場所へと行った。これが最後かなと、何処かで思い浮かべていた。
◆◇◆
淡い色に染められた野花と、濃淡の様々な緑が敷き詰められた大地に、そよ風が吹いた。慣れ親しんだ森の匂いと清々しさを含んだそれは、草花を柔らかく揺らし、サァラと少年を撫でていった。
普段から静かであるのに、風の余韻が耳の奥にいつまでも残るほどの静寂を感じる。
何処かぼんやりとするサァラの少し離れたところで、少年は野花の真ん中に座っている。実に絵になるような美しさで、きらきらしているのは補正ではない。
何かせっせと手元を動かしていて、サァラに見えないよう隠しているつもりらしい。時々振り返ってサァラが移動していない事を確認して、またせっせと手元を動かす。サァラは小さく笑い、手を振る代わりに赤い尻尾を揺らしてみせる。
金髪がきらきらするあの小さい後ろ姿を、もう見れなくなるのか。
そう思うと、つい溜め息がこぼれてしまう。森から出られて少年はきっと喜ぶのに、湿っぽいのは良くないとサァラは自らの頬を叩く。
「――――!」
不意に少年が明るく声を弾ませて立ち上がった。振り返った彼は、何やらとても素敵な笑顔を浮かべている。小さな両手に何かを握りしめ、サァラのもとにトテトテと小走りで駆け寄ってきた。
「内緒で何をしていたの?」
おどけてみせたサァラに、少年は細い腕を掲げた。彼が持っていたのは、花の輪っかだった。淡い色でまとめられた、野花の輪っか。花冠とも言うべきか。
「おおッ上手に作れるね少年。凄く綺麗!」
お世辞でなく、本当にそう思った。ナーヴァルの手は大きく、小さく繊細な花弁の野花はとてもじゃないが摘み取って編んだりなど難しいのだ。
サァラの側で、少年はにっこりと得意げに笑っている。やんちゃな一面は男の子らしかったけれど、花の輪っかを作るなんて器用だ。それに、将来を既に感じさせる金髪碧眼の美少年には幻想的な花弁がとても映える。
花の似合う男子……なるほど、それもまた素敵じゃないか。
すると少年は、花の輪っかを腕に通すと、空いた両手を上下に動かし始めた。サァラの顔の前で、下がる手のひら。ついでに少年も一緒になってしゃがむ動作をする。しばし考え込み、サァラは閃いた。
「ああ! 頭を下げて欲しいんだね」
サァラは地面に座った身体を少し後ろに下げ、少年に頭を近付ける。彼はぱっと表情を明るくさせると、再び花の輪っかを両手に取り、爪先立ちに背を伸ばしサァラへ近付けた。
花の香りと共に、ごく軽やかな感触がそっと天辺に乗った。
獣の耳に、ちょっとした違和感。ぱたぱたと揺らしつつ両手を持ち上げて触れてみると、彼が作った花の輪っかがそこにあった。
「――――! ――――!」
上手でしょ、とでも言うように、彼は上機嫌に小さな身体を左右に揺らしてはしゃいでいる。
花冠なんて、ナーヴァルになってから初めてだ。
雌のナーヴァルは、人に近い顔立ちをし身体も雄より細い造形であるが、獣人の外見は変わらない。薄い白毛を纏う、赤髪に赤目の獣だ。似合うかどうかは分からないけれど、少年が嬉しそうなのでサァラも嬉しくなる。
「少年からの初めての贈り物だね。ありがとう」
小さな頭に手のひらを乗せ、金髪を撫でる。くすぐったそうに受ける仕草は、サァラをやっぱり温かくさせた。
「ありがとう……」
この子と、もうすぐお別れ――――。
最初から知っていた事が、何故か無性に重みを増した。
その時、サァラを見上げる少年が、突然ぎょっと目を丸くした。慌てて腕を伸ばす彼の様子を不思議に思っていると、小さな肌色の指先がサァラの頬に伸びる。ぴとりと触れ、そして下がっていった彼の指が、濡れていた。
サァラは自らの目元を拭う。ああ、これは。
自覚した途端、さらにぼろぼろと落ちてゆく雫。その軌跡に沿って毛皮が濡れていった。
「……ふふ、泣いたのも、初めて」
力なく笑ってみたが、上手くその表情に変えられていないだろう。なおもボロボロと泣き続ける大きな獣人に、少年が必死に細い腕を伸ばす。衣服の袖をむんずと掴んで引っ張り、それをサァラの目尻に押し当ててくる。どうやら、涙を拭こうとしてくれるようだ。真っ赤な瞳から落ちる雫が、少年の服に吸い込まれる。
君は良い子だね、こんな《獣》にも優しくしてくれるんだから。
浮かべた不格好な笑みが、徐々に崩れる。ぎゅっと顰めたサァラの顔に、少年の両手が触れた。途端、サァラは彼を抱きすくめて背を丸めた。
本当は。
(君の為じゃなくて、自分の為だった)
獣として生きる日々に、納得などしていなかったのかもしれない。
ナーヴァルであると知るほどに、何処にも置き場のない人間の記憶が存在を主張した。森の外にいるだろう人間を一目見て、諦められて、捨てられるかと思えばそうでもなく。むしろずっと隙間の空いていた心を埋めるような、大切なものを見つけた気分だった。
一緒に遊んで、一緒にご飯を食べ、一緒に眠る――――森で過ごすこれまでの日々が、人と獣、一体どちらを満たしていたのか。
いつか帰すと言っておきながら、いつまでも居てくれたらと思っていたのは、このサァラだ。最初の頃にあった傷なんて、もうとっくの前に癒えているのだから。
本当は帰って欲しくないけれど、でも。
鼻をすすり、両目を無理矢理拭う。抱きすくめた少年をそっと離すと、歪む世界に彼が佇んでいる。
「……大丈夫だよ。君はちゃんと、森の外に帰れる」
たぶんきっと、本当は《獣》ではなく、《人間》が良かったのだ。でなければ、ナーヴァルとしてここまで中途半端な存在になりはしなかった。
だが、もうそんな細かい事は、気にするところではない。
「私が、絶対に連れて行くから」
最初に決めた事を、今度こそ果たす。
だから、どうか。
「君は笑って、手を振ってね」
里の中の弾かれ者、最弱獣サァラの心は、ようやく決まった。
そしてサァラがナーヴァルの里を歩いている時。とある会話がそこかしこで聞こえた。
森の外で、何やら多くの人間達が集まっているらしい、と。