07 許されない事と知っている
2015.08.19 更新:1/1
最初から、知っていた。
自分がどれほど危うい事をしているのか――――。
朝起きてから夜眠るまでずっと一緒に居て。
差し出した手が繋がって踏み出した爪先が並ぶ事が自然になって。
サァラと少年の過ごす時間は、この森の中で日常の一部になろうとしていた時である。
それは、唐突に訪れた。
サァラがいつものように少年を家に置いて、里の戦利品置き場に赴きうずくまって漁っていた時だ。何か役立つものはないかと、普段の調子でごそごそと両腕を突っ込んでいたサァラの背後へと、幾つかの影が伸びた。
ナーヴァルの里の、若い雄の戦士――――つまり、サァラと同年代のナーヴァル達のものだった。
何となしに気配を感じて振り返って、サァラは赤い瞳をハッと見開かせる。ちょうど地面に膝をついて見上げる形であったとはいえ、睥睨するような威圧を滲まる彼らの姿には、思わず声を詰まらせる。
獣頭の雄の獣人が、三人ほど。その誰もが、言葉を掛ける代わりに、唸り声を漏らしていた。挨拶ではなく、明らかに、敵意を含んだものである。
何か予感めいた冷たいものが、サァラの白い背を這った。
「あ、の……」
前世の記憶が邪魔をし、ナーヴァルとしてある種不完全なサァラは、生粋のナーヴァルとは比べものにならないほどに小さく細い。例え四つ足の獣の姿ではなく獣人の姿であったとしても、里の中でダントツに小柄なサァラは萎縮せざるを得ない。
そんなサァラへと、彼らの爪先が獰猛な唸り声と共に踏み込んだ。
「……いつまで此処に人間を置いているつもりだ、サァラ」
牙を擁した獣の口に相応しい、激情を震わす声音だった。その一言だけで、彼らから醸される険呑さの理由を知る。
「さっさと放り出せ、歩けないというわけでもないだろ」
「人間など、そもそも匂いから嫌いだ」
「あの匂いをつけて、里を歩かれたくない」
人間が里の一角に居る事への不満が最も強いけれど、その言葉にはサァラへの不満も少なからず含まれている。獣の赤い瞳に浮かぶものは、間違いなく不快感だった。
人間とは違い、獣――ナーヴァルは感情を隠す事は無い。ほぼ全力投球だ。よって頭上から睥睨する威圧というのは、強烈なものがある。が、サァラはそれくらいではへこたれない。本当は内心、汗がだらだらと流れて出ていたけれど、負けぬようにと自らを奮い立たせた。
「もう少しだけ待って! 長に約束した通りに必ず帰すから! だから――――」
「お前は、ナーヴァルではないのか」
サァラを見下ろす、獣頭の獣人たちの空気が、さらに不快感を露わにする。鼻筋にしわが寄るのを見つけて、サァラはぎくりと肩を震わせた。
「何故そこまで庇う。森を侵してやってきた人間ではないか」
「でもあの子は関係ない、あの子どもは関係ない!」
「……お前は、何か知っているのか」
グルグル、という獣の唸り声が増した。目の前に佇んだ同胞の獣人達が、途端凶暴さを含ませてゆく。
「人間と通じているのか。だからそこまで庇うのか」
「違う、通じてなんかない、私はナーヴァルだもの!」
「なら何故庇う! 森の中で生きるナーヴァルが、何故外の人間を助ける!」
一瞬、サァラは言葉に詰まった。それは、と声を小さくさせるサァラの腕を、一人の雄のナーヴァルが掴みかかる。五本の指、けれど鋭い爪を持つ猛獣の手は、容赦なくサァラの腕を捻じるように引っ張る。
ちょ、いったぁぁぁ! 馬鹿力なんだから加減してよ!
という言葉も、脳みそ筋肉なナーヴァルには通じない。ギリギリと音を立て、腕が圧迫されるだけだ。同じナーヴァルでようやく耐えられるこの痛み、あの少年では一秒も持たないだろう。必死に声を噛み殺しながら、膝立ちの状態で耐えた。
「お願い、もう少しだけ待って、お願い……ッ」
不満をぶつけられるなんて、最初から分かっていた事だ。そして、そうと知っていながら決めたのは、他でもないサァラでもあるのだ。
だって、守るって決めたんだから。
この森で唯一、あの子どもの味方になれるのは、《私だけ》なんだから――――!
「――――何をしている!!」
あわや仲間同士の取っ組み合い、という事態へ拳と共に割り入ったのは、強靭な白い体躯だった。
跳ね飛ばされるように地面へ尻もちをついたサァラの正面では、同じように引き倒された雄の獣人の姿があった。彼は直ぐ様に四つん這いに転がって体勢を整えると、闖入した人物を睨む。だが、立ち塞がった者の姿を認めた瞬間、誰もがぎくりと肩を揺らした。
サァラの目の前に、大きな背が聳える。赤いたてがみに覆われた、屈強な白い背だ。サァラに詰め寄った若い雄達と比べても一際の存在感を放つそれは、毛や尾を逆立て、全身から獰猛な唸り声を漏らしている。その逞しい背が誰のものであるかなど、サァラとて考えるまでもなかった。
「群れを乱すつもりか。里の中での争いは、許しが無ければ禁じられているはずだ」
獣の頭部と人の身体の造形を持つ、獣人姿のガァクが低く唸った。剥き出した牙の向こうから、荒く息が吐き出される。
未来の長と呼ばれるだけあって、群れの中で一目置かれるガァクは同年代のナーヴァルにとっては憧憬の対象でもあり、同時に最も敵に回したくない相手でもある。戦いに関して、この種族には年齢の序列があまりないのだ。
「庇うのか、ガァク」
「サァラ、人間をいつまでも置く。里の皆、不愉快と思っている。ガァクも同じだろう」
分かってはいたが、やはりそう思われていたのか。最近は里の中にもあまり顔を出さなかったから、薄く感じていた程度であったけれど。
サァラは尻もちをついたまましょんぼりと肩を落とす。頭の天辺の三角の耳もぺたりと伏せられる。
ガァクは一度、サァラを肩越しに振り返った。赤いたてがみの向こうにある、犬や狼のように鼻梁の長い獣の横顔はとても鋭く険しい。元々真っ赤な瞳がさらに燃え盛るような激しさを宿していたので、無意識にサァラも身構える。けれど、彼は直ぐに顔を戻しその瞳を雄達に向け、グウッと大きく唸った。
「人間は気に入らない。それを庇ったサァラの行動も気に入らない。だが――――それでサァラを害そうと思った事はない」
思わぬ言葉を耳にしたとばかりに、若い雄達が一様にたじろいだ。当然、サァラもその中に含まれている。だって、一番不満に思っているのは、このガァクだとばかり。サァラは目の前の大きな背を見上げた。
「大体、里で一番の軟弱なサァラでも、群れの仲間だ。お前達はそれを忘れたか。長が許した事も忘れたか」
「そ、それは」
「……何をしようとしたのかは、聞かないでおいてやる。さっさと立ち去れ!!」
牙を剥き出された口を開き、一喝の咆哮をあげる。その迫力たるや、背後で座り込むサァラも震え上がらせるほどで、正面に立つ雄達にとっては言葉に出来ない恐怖だった事だろう。去ってゆく後ろ姿は、凶悪な森の覇者ナーヴァルが他では決して見せないものであった。
襲いかかろうとした嵐が、あっという間に消え去った。一人取り残されたような感覚の中、サァラは呆然と遠ざかる姿を見送る。けれど、ぐるんと勢いよく振り返ったガァクの眼光に捕らえられ、丸い肩を揺らした。
睥睨するような威圧を伴って、ガァクは無言のまま見下ろし、そして前触れなくサァラの片腕を掴んだ。そこは丁度、先ほどの雄達に掴まれた場所であったが、爪を刺し圧迫するほどの力ではなかったので多少鈍痛がぶり返しただけだった。無言のまま立たされ、緊迫で止まったままの空気がじわじわと動き出す。
サァラの頭が、縦に三つ並ぶほどの頑強な長躯は、ほぼ壁である。普段から圧倒されるものを感じているが、今ほどのものではなかったような気がする。言葉に迷うサァラへと、ガァクの視線が直下で落とされていた。
「……来い」
そして、返答を聞かずにガァクは身を翻した。腕を掴まれたままのサァラは、逆らわず彼に従った。
ほとんど縄張りの外ともいえる、里の外れ。
他のナーヴァルの姿や匂いがない事を確認した後、ガァクは大きく息を吐きだした。心底呆れたような息遣いが、サァラの三角の耳を掠める。
掴んできたサァラの腕を開放すると、彼は手頃な岩の上へどかりと座り込む。人間とは異なる獣の頭部なのに、そこにはありありと読み取れる感情が張り付いている。呆れと、憤り。共通の色を宿す深紅の眼は、胡乱げにサァラを見ていた。
「……お前は人間の子どもにつきっきりだから知らないだろうが」
里の中は今、あまり良い雰囲気ではない。ガァクはそう一言置いて、話し始めた。
「子どもとはいえ人間。これまで何度も森を侵し、森の恵みを荒らし、群れの子どもを狙ってきたのは、あの人間だ。お前が頭を下げた事と必ず帰すという言葉に免じて長は一度のみと見逃した。多くの仲間はそれに従っているが……納得していない者も少なくない」
先ほどの彼らのように。サァラも、それはよく分かった。ガァクは一度目を瞑り、それから再びサァラを見据える。
「サァラ、お前はそれでも、群れを乱す人間を庇うのか」
告げられたガァクの言葉に、サァラはしばらく黙った。元から静かな森に、沈黙が風と共に過ぎ去る。
「――――庇うよ」
ぴくり、とガァクの獣の耳が跳ねた。
「私だけだから。あの子を、森の外へきちんと返せるのは」
その時、ガァクは心底理解出来ないと言わんばかりに顔を顰めた。人の造形に近い雌よりも、雄は格段に表情の出にくい獣の頭そのものであるのに、器用な事だと思う。
実際のところ、きっと彼には分からない。彼だけでなく、多くのナーヴァル達もそうだろう。むしろ、先ほどの彼らのような反応こそが当然だ。サァラも、よく分かっている。伊達に長年、この森で生き、森の覇者の里で生まれ育ったわけではない。
「……前から変だと思っていたが、つくづくお前は変な奴だ」
ガァクはそれ以上、尋ねなかった。緊張で張っていた空気が微かに緩んで、森に聞こえる穏やかな音が舞い戻る。身構えていたサァラも、ほんの少しだけ安堵の吐息を漏らした。
彼の顔は変わらず不機嫌そうな色に染められているが、サァラへ乱暴に詰め寄ったりしなかった。先ほどの大激怒した光景を思い浮かべると、今度は自分の番かとも嫌な予感を抱いたが、意外と彼は冷静である。
「ガァクは……怒ってないの?」
納得していない者に属するのは、この雄のナーヴァルでもあったはずだ。ここ最近はサァラも不機嫌なガァクの姿しか見ていない。
ガァクはじろりと赤い眼を細める、見くびるな、とでも言うように唸る。
「ふん、気に入る気に入らないの話で言えば、俺も気に入らない。だが、長が認めたものに文句を言うつもりはない」
何ともガァクらしい、潔い物言いであった。そうだ、この雄はそういう雄だ。軟弱貧弱もやしっこのサァラを蔑ろにもしてこなかったし、物事の是非を語る際にもいっそ清々しいまでの明瞭さを言動に表していた。
凶悪な森の覇者ナーヴァルの、峻烈でありながら高潔な若き戦士。
多くのナーヴァルから特別目を掛けられる理由を、改めてサァラは悟った。
「……ガァクが一番、怒ってると思ってた」
「俺が?」
ピク、と三角の獣の耳が揺れた。屈強な身体の上に乗っかった獣の頭は、驚きを露わにする。
「だって、長の許しを貰う時も、その後も、ずっと怖い空気が出てたから。ガァクが一番怒ってるんだろうなって思ってた」
だからこそ、ガァクの身体を張った擁護にサァラは驚いている。
ガァクは、むう、とこれまでとは少々異なる唸り声を漏らし、岩の上に腰掛けた身体を揺らした。自覚はあるのか、決まりが悪そうな仕草であった。
「別に、俺はお前に対して、怒った事はない」
「だって、人間の子どもを匿ってから、ガァクすごく怖かった」
それに限らず普段から怖いのだけど。
「あ、あれは……」
ガァクの目が、一瞬泳いだ。
「お前ではなく、お前の住処に……子どもと言えど別の雄が……」
「え?」
終盤、ほとんど唸り声に混じっていたので全く聞こえなかった。小首を傾げて尋ね返したが、ガァクは答えようとしなかった。「ともかく」ガァクは誤魔化すように大きな声を出すと、どっかりと腰掛けていた岩の上から降りて、サァラの前に佇んだ。
「俺は一度決まった事に文句をつける馬鹿ではない。だが、俺とは違う者も少なくない事を覚えておけ。良いな」
「う、うん。あ、あの……ガァク」
「何だ」
サァラの頭が縦に三つ並びそうなほどの、逞しい長躯を持つガァク。顎を目一杯上げ、サァラは彼を見上げる。
「あ、あの……あ、ありがとう」
高潔なナーヴァルの雄の表情が、一瞬動く。しかしそれだけで、獣の面持ちはただ冷静であった。サァラに感謝を言われる理由がないとばかりに鼻を鳴らす。
「……別に、お前に言われるような事ではない」
その低い声も同じで、何ら普段と変わらないように感じた。けれど、サァラは不思議と彼に萎縮する事もなく、小さく笑みを浮かべる事さえ出来た。予想外の方向から受けた擁護と窮地を助けて貰った感情が、普段抱く恐怖心を上回っているからだろうか。ナーヴァルの中では格段に小さく華奢でもやしっこの名を張り付けられたサァラの前にある、この頑強な獣人姿のガァクは、今はそれほど怖くはなかった。
それに。
ちらりと視線を下げて、サァラは気付いてしまった。彼の体格に比例して立派な赤い尾が、ぶんぶんと左右に振れている事に。
凶悪な森の覇者、ナーヴァル。大陸最強と語られていようと、その本質は、やっぱり獣である。
ガァクに睨まれそれ以上笑わないようにサァラは堪える。
ふと、ガァクは一歩踏み出すと、その屈強な背を屈めてサァラに近付いた。そしてその鼻先を、サァラの首筋へ寄せる。彼は直ぐに離れたけれど、その表情には堅さがあった。
「……人間の匂いが、強くなっている」
ガァクは小さく呟きを落とした。その低音に秘められた重みは、サァラの耳を確かになぞった。
「お前は、この森で生きるナーヴァルのはずだ。匂いが移りきる前に……終わらせろ」
ガァクは最後にそう言って、先に里へ戻って行った。その頑強な背を見送るサァラは、その場に留まり立ち尽くす。おもむろに自らの首筋を指先で撫で、そして息を吐く。
「……そうね、私は、ナーヴァルだものね」
そんな事、前から知っていた事実だろうに。
その事実が今は、サァラの深いところを刺していた。
何故か。
考えるまでもなかっただろう。
――――匂いが移りきる前に。
ガァクが二度告げたその言葉は、森に生きる生粋のナーヴァルからの忠告だったのかと、サァラは知ったような気がした。
◆◇◆
住処に戻ったサァラを、少年が出迎えた。聡明な青い瞳に無邪気な光を乗せ、サァラの足下に駆け寄ってきて見上げる。その小さな頭を、白毛に覆われた手でそっと撫でつつ、彼の前でしゃがむ。
少年はもう、サァラの赤い瞳にも怯える事はない。真っ直ぐと視線を伸ばし、もう怖い事はされないと気付いているから無防備に目の前に居る。白毛を身に纏い、鮮やかな赤い髪を背に流す、獣人姿のナーヴァルの正面に。
サァラは、そっと少年に手を伸ばす。彼はそれに自らも手を伸ばすと、小さな手のひらでサァラの指先をきゅっと握った。
サァラは頬を緩め、笑みをこぼす。この喜びは、仲間に忠告を受けてもやっぱり変わらない。
でも。
「君に、危ない事がいくのは、駄目だよね」
爪の伸びた指先を曲げ、指の関節で少年の頬を撫でる。くすぐったそうに肩を竦める彼の仕草が、また恐怖で歪むのは見たくはない。
「きちんとお別れ、しようね」
その瞬間まで仲間に忌避されるとしても。
――――許されない事と知っていても、サァラの心は僅かとも動かないのだ。




