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最弱獣の献身  作者: 白銀トオル
第一章 獣の噺
6/26

06 一緒にお出掛けする

2015.08.18 更新:1/1

 初めて笑ってくれたあの日から、サァラと少年の関係は目に見えて改善されていった。

 改善されるどころか、とても友好的に変化していった。




 陽が昇り、悠久の息遣いが聞こえてくるような深い森林が、幻想的な朝に染まりゆく。

 馬鹿みたいに凶悪な生物しか存在しないこの森も、最強獣ナーヴァルの里の周辺は穏やかなもので、こうして朝露に濡れた爽やかな緑の匂いや、森に響く鳥の歌声の麗しさを感じるゆとりもある。

 キラキラと光る汚れ一つない透き通った川の縁で、サァラはせっせと身支度をする。近くには森で生きる草食獣(岩をも砕く蹴りと突進が必殺技)たちも居り、彼らは逃げるでもなく一瞥しただけで水を飲み続けている。サァラが貧弱過ぎるナーヴァルと知っているから成せる、この余裕なのだ。これがガァクであれば、一目散に彼らは逃げ出しているだろう。

 要するに、なめきっているのだ。

 いつもの事なので気にはせず、サァラはぱしゃりぱしゃりと水を掬い、顔へそっとかける。ぷるぷる、とつい獣っぽく顔を左右に振ると(いや獣だったね!)、サァラの横から布が差し出された。横に並ぶ細く小さな両腕を視線で伝ってゆくと、真っ直ぐと見上げる少年とぶつかった。柔らかな朝陽を斜めに受け、白く溶けるような金色の御髪は眩しく、碧眼は澄み渡る。


「ありがとう」


 サァラが受け取ると、少年は嬉しそうに大きな瞳を緩めた。そして、得意げに片手を胸に当てるのだ。


「ほら、少年、まだ濡れてるよ」


 自らの顔を拭った後、少年の額を滑り落ちる水滴を布で受け止める。少年は嫌がる素振りは見せず、むしろくすぐったそうに肩を竦めている。

 何なのこの生き物ォ! 可愛すぎる!

 わっさわっさと赤い長毛の尻尾を揺らして、サァラは今朝から満面の笑みが咲く。懐かれて気を悪くするものなんていない、まして相手は、将来を既に予想させる美少年だ。キラキラと光っているのは、その見事な金髪だけではない。


 思った通りに、笑うと可愛らしい。

 怯えもなく、緊張もなく、自然体で其処に居る少年に、サァラはほんわかと心を満たす。



 先日体調を崩した少年は、無事に完治してからというもの、サァラへすっかり懐いていた。

 弱っているところを献身的に看病されたという事実が後押ししているのだろうけれど、目の前の獣人姿のナーヴァルが害悪となる存在ではないのだと完全に知ったからなのかもしれない。

 十歳にも満たないだろう、あどけない少年。そのわりに、彼の碧眼にはとても聡明な光が宿っているのだ。サァラの記憶に残るこれくらいの子どもは、もっとふわふわとして何をしでかすか分からない危うさがあるのに、この少年は驚くほどしっかりとした表情をしている。まあもちろん、その年齢にしては、という前置きは忘れないけれど。

 相変わらず少年がこの森に来た経緯などはさっぱり分からない。けれど、もしかしたらきちんとした教育を受けた、良いところのお坊ちゃんなのではないかと近頃サァラは特に思うのだ。世話される事に抵抗がないし、所々の仕草に一般人にはない品がある。けれど、緑溢れる自然との触れ合い方がぎこちなく、虫一匹にも興奮する始末。

 ……ああ、まあ、この森の虫はどれも擬態して隠れる気ゼロの、派手な上にか弱くない姿をしているので、驚いても仕方ないか。



 ――――さて、この光景の通りに分かるのだけれど。

 サァラはあれから、この少年を外へと連れ出すようになった。


 懐いた少年が真っ先にねだったのは、外へ出る事だったのだ。

 サァラが出ようとした時、意を決したように彼はテコテコとついてきて、まるで「僕も一緒に行く」とばかりにサァラの大きな手を掴んでぐいぐい進もうとしたのだ。その手のあまりの小ささと自己主張の可愛らしさに変な声が出てしまったが、もちろんサァラもさすがに危険だと思って首を振った。が、少年は意外な頑固さをサァラに見せて、めげずに何度も進もうとした。


 まあ、確かに家に閉じこめておくのは身体に悪いし。何より暇だろうし。


 少年が心配であったものの、試しに比較的危険のない里の外を流れる川縁ならばと彼を連れて行ってみたところ、少年は途端にキラキラと表情を輝かせていた。やっぱり家に閉じこめるような事は良くないのだと考えを改め、サァラはそれから、少年の手を引いて共に出かけるようになった。


 少年は最初、目の当たりにする森の風景――高く高く聳える大樹に、見た目だけは美しい幻想的な鹿や兎、見事な花を咲かせる植物等、それは美しい太古の息吹を感じさせる森林――を戸惑いがちに眺めていたものの、今では興味が湧いたものには突撃する気概を見せている。見た目は天使だが、ちょっとやんちゃなくらいが男の子らしいというものだ。

 けれど、四つ足の獣姿のナーヴァルに追いかけ回されたトラウマも少なからずあるのか、森の生物たちにはとても注意深く、少しでも見かけようものなら慌ててサァラの手なり足なりしがみつく。

 くそ可愛くて倒れるかと思った……ではなくて。こういう危険を認知するところもまた、年のわりに聡明だと思わせる要因だった。


 そんなわけで少年はサァラの側から勝手に離れないので、今もこうして顔を洗っていても布を差し出す紳士ぶりを披露してくれている。

 君は将来、素敵な青年になるよ。こんな大陸最強(笑)の生物にも優しくしてくれるのだから。



 さて、自慢の赤い髪の毛(たてがみ?)でも梳こうかと、宝の山から拝借した櫛を取る。と、少年が素早い動きでその櫛を手から取り上げ、川縁にしゃがんだサァラの背面へトテトテと回り込む。そして、小さな手で背中を覆う赤い長髪に触れると、櫛をせっせと通し始めた。

 ちなみにこれは少年の最近のマイブームらしく、サァラの手伝いみたいな事をやりたがる。身体の造形は人に近い獣人の姿であるが、ちょっと獣っぽい顔立ちや全身を覆う薄い白毛、頭の天辺の三角の耳に尻尾と、動物のように見えるのかもしれない。ブラッシングをしている気持ちだろうか。


「ふふ、ありがとー」


 誰かに梳いて貰うのは、不思議と気持ちが良い。獣耳が緩やかに下がって、尻尾から力が抜ける。

 ナーヴァルにとっては、身繕いという行動は自分でするもの、誰かにして貰う場合は血縁者や番のみとされている。ナーヴァルとしては少々複雑ではあるが、少年は知らないのでノーカウントとさせて頂く。

 少年はサァラの髪を丁寧に梳いて、満足げに息を吐き出す。トテトテとサァラの横へと再びやって来て、櫛を戻した。


「――――! ――――」


 何を言っているか分からないが、綺麗になったよ、とでも言っているのかもしれない。サァラは微笑み、ぽむぽむと少年の頭を撫でた。


「さ、戻ろっか」


 立ち上がって少年に手を伸ばす。彼はサァラの指先を躊躇いなく握り返し、足の爪先を並べた。

 この魔境の森にはない、目映い金色と色白な肌を持つ少年。ナーヴァルがたった一度でも腕を振れば飛んでいってしまうような、小さく頼りない存在。

 けれど、サァラが遙か彼方に忘れてきたものを思い出させるこの可愛らしい存在は、いつの間にか心の中の浅くないところに佇んでいて。

 時々、ふと思う。少年がずっとこの森に居たら、なんて。

 もちろん、そんな事は双方にとって許されるものではない。サァラも森から帰すと約束しているのだ、破ってしまえばきっと恐ろしい目に遭う。


 けれど、でも。

 暴かれない心の中だけくらいは――――。


 きゅっと握りしめた少年の手には伝わらなければ良いと、サァラは願う。



◆◇◆



 それはさておき。

 先の体調を崩した一件から、少年はサァラを敵の認識から外してくれた。それだけでも大きな進歩であるのだけれど、出来ればもっと親しくなりたいのがサァラの本音であった。もっと仲良くなれば、身振り手振りでの意志疎通も滞りなく交わせそうだし、少年の身辺も分かるかもしれない……というのは少々大げさだが、仲良くなって損はないはずだ。

 仲良くなれば、あの天使の微笑みをもっとたくさん見れるしね!

 それもまた、サァラの偽らざる本心である。ナーヴァルの仲間、特にガァクには決して言えない。


(でも、手っ取り早く仲良くなるにはどうしたら……)


 考えを巡らすサァラの側で、少年は今、洗濯物を干す作業をしている。中は魔改造、外は荒ら屋な巣の枠組みの端っこと、近くの木と結んで引いた紐(物干し竿代わり)に、少年はえっちらおっちらとタオルや服を掛けてゆく。残念ながら背丈が足りなかったので、その辺の倒木の丸太を踏み台にして、一枚一枚並べてゆく。サァラの真似をしたいのだろうか。小さな子どもが大人の真似をしたがって背を伸ばすような。

 森の中にはない見事な金髪がキラキラとした光を踊らせ、ちょこちょこと動いている。そしてサァラに振り返って「どや!」と胸を張ってみせた。

 何なんだあの生物は。くそかわ!

 とは叫ばなかったが、代わりに尻尾がわさわさと踊った。心に忠実なこの尻尾が恥ずかしい。身を捩ったところで尻尾は隠れない。

 上手上手と両手を打つと、少年は微笑んだ。この無邪気な笑顔が見れるだけ大進歩なのだが、怖い思いをした森の風景だけでなく、それだけでなく自然豊かで美しい一面も持つ森の風景も知って貰いたい。


 サァラはしばし考え、その後、一人頷く。

 丸太の踏み台から慎重に降りた少年が、サァラの足下へと寄ってくる。不思議そうに見上げる聡明な青い瞳と視線を近づけるべくサァラはしゃがむ。


「身体の調子も絶好調だし……」


 どうしたの、と小首を傾げる少年の頭を撫でる。


「――――よし決めた。ちょっとそこまでお出かけしよっか!」


 高らかに宣言したサァラの正面で、少年は瞳に乗せた不思議そうな色を深めた。




 少年の身なりを、出来るだけ動きやすく怪我のしにくいもの――宝の山から拝借した、大人用の長袖と長ズボンの加工品――に着替えさせる。少年は終始されるがままであったけれど、何処かに出掛けるらしい事は気付いたようで、その白い面持ちには期待の笑みがあった。聡明そうな彼だが、そうした姿を見るとやはり年相応の子どもなのだとサァラも小さく笑む。

 ちなみにサァラの格好は普段と何ら変わらない。胸の前に下げた首飾り、お腹の下とお尻を隠すように垂らした長い布、靴などない素足。森の中で生きる獣はこれで十分なのだ。おしゃれしたいが、獣化する際には邪魔でしかないので仕方ない。後は採取用の小袋と無骨なナイフを腰に巻いて、準備完了である。獣人姿も後押しして際立つ原住民の香りは気にしない。


「よし、行こっか」


 差し出したサァラの指を、少年の小さな手がきゅっと握った。




 出掛けると言っても、少年を連れて遠くまでは行かない。行けない、と称した方が正しいか。

 森は広大で何処にでも行き放題と外の人は思うかもしれないが、暮らす生物達の縄張りもあるので、考えなしに歩き回れないのだ。森には森の掟、守らなければならない約束、ままならないものである。

 かと言って里の中をうろつこうものなら他のナーヴァルに遭遇して面倒な事態を引き起こしかねない。特に……未来の長、筋骨隆々の雄ガァクの存在が恐ろしい。別に乱暴者ではないし、もやしっこサァラに対しても意地悪はしないのだが、どうにもあの空気が今も苦手である。

 従ってサァラが向かう先は、里の外、誰の縄張りにもなっていないこの森では穏やかと言える一角だった。


 自慢じゃないが逃げる事に関しては里一番。もやしっこサァラがこの凶悪な森を生き延びるには、とりわけ危険な生物との鉢合わせを避けなければならないので、そういう点の道選びはちょっとした特技だ。


 微かに残る匂いをかぎ分け、地面の足跡、周囲の痕跡を注意深く窺う。仲間がよく通る道は避け、他の生物の進行方向には進まない。これだけでも厄介事は回避出来る。サァラのそんな様子を、少年は興味深そうに見ていた。


「森には森の歩き方ってね。さ、こっちだよ少年」


 音を立てず歩を進めるサァラの後ろを、少年はテコテコと小走りでついてきた。




 しばし歩く事、十分程度。ナーヴァルの里からは遠ざかり、仲間の匂いもなく、他の生物の姿もない。

 到着した目的地は、サァラと少年だけの貸し切りだった。


 豊かな葉を茂らす大樹を抜けたサァラと少年の前に、緑の影が晴れて柔らかな陽光が注いだ。森の上に広がる空と太陽が、木々に隠される事なく広がっていた。薄い空色ではなく、まるで原色の青を垂らしたような色彩。よくこの空を見上げて思ったものだ、混在する記憶の空とは何処か異なる異世界の空だなと。

 歩を進めるサァラの足下には野草が生い茂り、所々で淡い色の野花が慎ましく咲いている。どれも不思議な形の花弁をしているが、見目の美しい幻想的な姿である事には違いない。


 少年は不思議そうに辺りをきょろきょろと窺い、それからサァラを見上げる。こてんと小首を傾げる最高に可愛いオプション付きで。


「私のお気に入りの場所だよ。連れてきたのは少年が初めて」


 深い森林の中に切り取られたように存在する、空の見える慎ましい風景。

 一人で考え事をしたい時や、森で逃げ回って心身共に疲れた時には、サァラは此処へ足を運んでいた。

 淡く小さな花弁を咲かせる野花が踏み荒らされた事はなく、また此処でくつろいでいる時に襲われた事もないので、安全地帯なのだろうとサァラは思っている。

 つまり此処ならいくらでも自由に過ごせる!

 サァラは足取り軽く、その中心に進んだ。輝く金髪を跳ねさせて、少年がポテポテと後ろに続く。


「そうだなあ、何をしよっかなあ」


 ふと思ったが、獣生活が長かったせいで人間の子どもが好く遊びなんてどのようなものなのか、サァラには見当もつかなかった。人間の記憶といっても、今ではおぼろげなものばかりだ。

 ナーヴァルの子たちは、かけっこをしたり、狩猟ごっこをしたり、大人たちの真似をしたり……。少年も、人間とはいえ男の子だから、そういうのが好きだろうか。あまりそういった遊びが似合わない外見だけど。


「あ。その前に、ちゃんと水分取らないとね」


 上下運動の激しい獣道を通ってきたのだから、少し休まなければ。

 水は持ってきてないので(こういう時こそ水筒っぽいものの出番だったな……)サァラは囲うように並ぶ木々を見上げて探る。ぷっくりと真ん丸に膨れた木の実をぶら下げる木を見つけ、きらりと赤い目を光らせた。

 丁度良いもの発見とばかりにサァラはその木へ駆け寄り、ぴょんっと跳ねながら幹を駆け登った。あっという間に地面は数メートル下である。


「――――! ――――!」

「直ぐに戻るよ、ちょっと待ってねー」


 不安そうな少年の声へ、赤い尻尾を振りながら応じる。サァラは猫が枝を伝うように四つん這いで進み、無事にぷっくり丸い木の実をもぎ取った。そのまま四つん這いで戻って、安定する場所に腰掛けほっと一息つく。さてこのまま飛び下りようか、とサァラが見下ろした時である。

 なんと金髪の少年が、よじ登ろうとしていた。

 一瞬ぎょっとなった。それと同時に、サァラを追いかけてこようとするその姿に、不謹慎にもキュンッと胸がときめいてしまった。

 しかし、良いところの出身の予想が色濃くなるほどに、木登りはやはり不慣れであるらしい。小さな白い手をしがみつかせ幹を蹴って登る速度は進んでいるのかすら怪しい。

 いっその事、サァラが抱えた方が断然速いけれど……。

 何度も身を乗り出し、降りて助けようとし、けれどぐっと堪えた。いや、ここは少年の頑張りを見届けるべき! まるで子どもを応援する親の心である。獣だけど。

 サァラは手に汗を握りながら、懸命に登る少年を応援した。何度もまごつき、それでもじわじわと進み、サァラの腰掛ける枝を目指す。そして、小さな手が小枝を掴み、身体を引っ張り上げると。

 ついに登り切って、応援するサァラのもとにやって来た。

 少年は嬉しそうに笑って、小さな胸を誇らしそうに張っている。すごい少年、頑張った! サァラも両手を叩いて出迎え、これでもかと褒め称える。


「ほら、苦労の後の飲み物は格別だよー」


 太い枝に腰掛けたサァラの隣へ、少年もそろりと慎重に腰を下ろす。

 サァラは持参した無骨なナイフを取り出して、木の実のヘタを水平にサッと切り落とす。この綺麗な真ん丸の実は食べられる部分がほとんどない代わりに、ほんのり甘い香りのする水が蓄えられているのだ。それを少年へ差し出して、別の木の実にも同様の事を施す。

 サァラは木の実を持ち上げ、切り口を口元へ運んでそっと傾けた。ほのかな甘い香りはするが、無味の口当たりはさらりとしてすっきり。ほぼ真水であるが、真水よりもずっと飲みやすいのだ。

 こくりと喉を鳴らし、少年を見下ろす。彼はサァラの意図を汲み取って、コップを持つように木の実を持ち上げると、小さな唇を切り口に押しつけ傾けた。

 彼の青い瞳に、明かりを灯すような煌めきが浮かんだのは、直ぐだった。どうやら口に合ったらしい。

 空になった木の実は、背後へぽいっと投げる。ごみじゃないから大丈夫だとはサァラの持論である。


 それから、何をするでもなくしばらく枝に腰掛け、木の上から風景を見渡した。

 大地を埋める緑草の緑と、野花の淡く儚げな花弁の彩り。木々の茂みから現れた空から注ぐ陽射しが、柔らかく森の陰影を遠ざける。外の世界がどうかは分からないが、俗世から切り取られたような、幻想的な風景。

 何故だか強者ばかりが暮らす凶悪な森ではあるけれど、こうして見ればきっと、ただの自然界だ。


「この森もね、そんなに馬鹿みたいに怖い事ばっかりじゃないんだよ。こういう綺麗なところもあるし、平和な時だってあるし」


 少年の整った面が上がる。サァラは小さく微笑み、隣に並ぶ輝かしい金髪を撫でた。白い毛に覆われたサァラの手を、彼は拒まなかった。


「ちょっとだけでも、知ってくれたら良いんだ。特別なことじゃないんだって。この森も、私達ナーヴァルも」


 彼は首を傾げたけれど、浮かべた笑みはふっくらと可愛らしい。サァラは笑みを深め、おもむろに枝から飛び下りた。地面までおおよそ二、三メートルと行ったところで、すとんと軽く降り立つ。

 枝に座る少年はちょっとだけ慌てており、どうしようか迷っているようだった。サァラはにこにこと両腕を持ち上げ、彼の下で腕を広げた。

 さあ私がキャッチしてあげよう、この胸に飛び込んでおいで! なんちゃって。

 さすがに飛び下りては来ないよなあ、と思っていたら、少年は意を決したように枝に両手をついて身を乗り出した。滑るように落ちて来た少年を、サァラは慌てて受け止め抱える。

 凄いぞ少年、君からしたらためらうはずの高さなのに!

 本当に飛び下りる勇気もさる事ながら、サァラを信頼してそうしたのだろう。嬉しくなってそのままぶんぶんと回すと、彼はサァラの喉を覆う毛皮にしがみつき、楽しそうに声を上げた。

 目が回るまでくるくると回転したサァラは、そのまま柔らかい野草と野花の大地へ仰向けに倒れ込む。振動で草が舞い、赤い髪が広がる。

 少年は顔を起こすと、腹部にぺったりと跨るように座った。覗き込む少年の向こう、鮮やかな空が見え、差し込む陽射しが金髪を輝かせる。何という天使。


「――――!」

「大丈夫、全然平気。羽根みたいに軽いもの」


 身体の造りは丈夫なので、これくらいで怪我などしない。仰向けに転がったままのサァラは、少年へ笑みを向けた。彼もぱっと笑うと、とすんとすんと跳ねる。

 少年、だからといって女性の腹の上でそうされるのは複雑だよ……。

 上半身を起こし、背を真っ直ぐと立てる。少年のお尻はずり落ち、サァラの太股に座る形となった。


「……? どうしたの」


 おもむろに少年は背を伸ばして、小さな手を目一杯持ち上げる。何だろうかと思って頭を下げると、少年の手がサァラの視界の横を過ぎ去った。

 そして。


 むぎゅっ


 小さなおててが、頭の天辺に生えている三角の獣耳を掴んだ。

 形容しがたい衝撃が全身を駆け廻り、「ヒキャンッ?!」という悲鳴とも驚きともつかない妙な鳴き声が上がってしまった。

 何処から。サァラの口から。

 少年は、聡明な青い瞳を真ん丸にしている。そしてその驚きは、徐々に悪戯っぽい煌めきに塗り潰されていった。


 むぎゅっむぎゅっ


「ンギュッ?! ちょ、ちょお、少年ッ」


 むぎゅむぎゅと両耳が揉まれる。先ほどの衝撃が倍になって爪先に駆け抜けた。

 悪戯をするこの小さな手を剥がしてやろうと試みたが、こうも凄く良い笑顔を至近距離からぶつけられると、それもあっという間に萎んでゆく。

 恐るべし天使、だがそれが良い。まったく、と心の中で悪態をつきながらも、サァラの表情には笑みがこぼれる。


「こんなにナーヴァルに近付いて、あまつさえ耳を触ろうとするなんて、きっと少年くらいだよ」


 凶悪な生物が生息する森の覇者、ナーヴァルへ無防備に近付き、その上耳をにぎにぎする。そんな勇気を見せた生き物なんて、これまで聞いた事もない。きっとこの少年が初めてではないだろうか。

 そして人間に耳をにぎにぎさせたナーヴァルも、きっとサァラが初めてだろう。

 ……ガァクに知られたら大変な事になりそうだ。


「そんなに耳が楽しいかな? ほら」


 ぱたぱた、と三角の獣の耳を跳ねさせる。何が楽しいのか超ハイテンションになって、より一層サァラの耳を撫で始めた。子どもにもみくちゃにされる動物達の心が分かった気がする。

 けれど。

 サァラは突っぱねたりせず、少年の好きなようにさせた。


「ふふっじゃれあいっこする? うりゃ!」


 下げた頭を、少年に寄せる。互いの額をこつんと合わせて擦らせると、少年もお返しとばかりに頭を動かした。サァラの赤い髪に、少年の金髪が毛先を触れさせる。


 それからは、じゃれ合いをきっかけにして追いかけっこなどをし、遊んで過ごした。緑色の敷き詰められた大地をぱたぱたと走って、時々転げ回るサァラと少年の笑い声が、覗く空へと響いていた。



◆◇◆



 出掛けた甲斐あって、その後サァラと少年はさらに距離を縮め仲良くなる事に成功する。天使の微笑みが1.5倍ほど輝きを増し、楽しそうに丸い肩を上下させていたのがその証拠だ。もっとも少年だけでなく、サァラ自身も楽しく遊んでいたが。

 やっぱり獣だからだろうか。人間だった頃と比べると、今の方が身体を動かす事は嫌いではない。

 ただ狩りだとかは駄目だ。絶対駄目だ。


 互いに満足して住処に戻った後は、土で汚れた身体を清め身なりを変え、夕食を食べて静かな夜を迎える。全力で遊んだので、疲れた少年は直ぐに寝付けるだろう。いつものように寝る準備をするサァラも何だか心地よい眠りを得られそうだと思っていた。

 けれど、少し予想外の出来事が、寝る間際になって訪れた。



「寝よっか少年。森じゃ夜も朝も早いからね」


 寝間着――と言ってもだぼっとした大人の服だが――に着替えた少年を、毛皮のベッドへ身振り手振りで導く。彼は大人しくそこに腰掛けたので、サァラは角灯の灯りを吹き消して土間に広げた毛皮の上へ座る。

 ぺた、ぺた。

 小さな足音が、サァラの背面で聞こえた。気配を感じて振り向けば、住処へ差し込むほのかな月明かりに照らされる、小さな影。


「少年?」


 彼は無言のままサァラの隣に進み、おもむろに腰を下ろして座った。そして、じっとサァラを見上げる。


「どうしたの? ここは冷たいよ」


 サァラは再び立ち上がって少年の手を引こうとしたが、彼はそれを拒むと、毛皮の上でぺしゃんと倒れ込んだ。

 これはまさか。一緒に寝ようと言っているのだろうか。

 少年はサァラを見上げ、てしてしと毛皮を叩く。危うく鼻血を噴出するところであったが何とか背筋を震わすだけに抑え、彼の側にしゃがんだ。


「あっちにしよう? あっちの方が広いから」


 言葉は通じていないはずなのに、彼は言わんとしている事は察しているのか、毛皮のベッドには目もくれず「ここが良い!」とさらにてしてし叩いた。

 何だこのわがまま、こんな可愛いわがままが存在しているのか。

 暗闇の中サァラは悶絶していたが、怯えきって身動ぎもしなかった最初の頃を思えばこの変化は嬉しくもある。サァラを見るつぶらな瞳は、常に警戒心と恐怖心が露わになって歪んでいたはずなのに、今ではナーヴァルと一緒に寝ようとさえしている。

 てしてし、てしてし。毛皮を叩く音はなお続く。そういえば外に出たがった時も意外な意志の強さを見せていた。サァラは小さく息を吐き出し、転がった少年を抱え立ち上がる。毛皮のベッドに近付いて彼を下ろすと、何やら不満げな声が聞こえた。サァラは苦笑をこぼし、ベッドに膝をつき乗り上げる。途端、少年の顔が暗闇の中で明るくなった。


「寝づらくても知らないよ?」


 べろんと上掛けの毛皮をめくってその下に潜り、腰のところにまでそれを被せる。横向きに寝転がったサァラの隣には、直ぐ様少年が並ぶ。彼はもぞもぞと動きながら位置を直して、サァラの胸にしがみついた。サァラは苦笑いを深めつつ、自らの胸の辺りですっかり眠る体勢に入った彼の頭を、そっと撫でる。


「おやすみ少年。寝相悪かったらごめんね」


 少年の手が、きゅっと白い毛皮を掴んだ。その頼りない力に、サァラは心の奥をじんわり温かくさせ、瞼を下ろす。


 いつもよりも、ずっと温かいなあ。


 何となく、サァラはそんな事を夢うつつに思い浮かべた。




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