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最弱獣の献身  作者: 白銀トオル
第一章 獣の噺
3/26

03 共に暮らす

 運命の出会いを果たした、大事件の後。

 大陸最強の獣に生まれながら、史上最弱のナーヴァルであるサァラの生活は、劇的なまでに変化した。




 楽しい。

 これまでもわりとのんびり楽しかったけれど、今はその比で無いほどに楽しい。

 サァラはあれから、上機嫌に強かな原始の日常を送っていた。これまで位置づけられた変わり者扱いも、あの事件があってからますますその評価を高めてしまったとしても。全く、気にも留めていなかった。


 要するに、ますます仲間からの変人扱いに磨きが掛かってしまっていた。


 仲間達からは遠巻きにされたり、少々つれない態度を取られたり、其処を通るだけで空気が余所余所しくなったり、ガァクの嫌味も増えたり。挙げてみれば多いが、今ある使命を思えば痛くも何ともない。そもそも以前から、元人間の記憶が邪魔をしてナーヴァルらしからぬ振る舞いをしていたせいで、友達も出来ずにぼっちだった。だから、今更そうなっても痛くも何とも……。


 いや、よく考えたら、凄く痛い。


 生まれてからずっとぼっちって……。齢を正確に数えてはいないが、恐らくは十七、十八歳くらいだろうに、ぼっちって……。前世の分の記憶が実年齢よりも年上にさせているかもしれないがともかく、よく考えたら、もの凄く切なくなる状況であった。心臓が不意にキリキリとした痛みを感じたけれど、サァラはせめて背中を真っ直ぐと伸ばして、余所余所しいナーヴァルの里を進む。私がしている事は間違っていないと、自身を奮い立たせて。


 サァラの住処は、里の中でも隅っこにある。戦う事を第一に置く種族であるので、戦えないサァラの立場は群れの中でとても低いところにある。そうなると、住処も相応の場所に定められるのだ。多くの者が、いわゆる広場と呼ばれる開けた場所を中心として周囲に住処を作っているのに対し、サァラの住処はほとんど外側。何をするにも遠い所にある。

 だが、サァラはそれを嘆いた事はない。むしろ大いに喜んだ。何をしても仲間の迷惑にならない、と。そして、現在ほど、この周囲に仲間の住処がない事を喜んだ事はない。


 今日の分の食事――野兎という名の凶暴生物の肉――と、森の木の実などを採集したサァラは、それを両手に持って自らの住処へ向かう。里の広場から距離が開いてゆく毎に、周囲の空気の静けさは増してゆく。住処が視界に入る頃には、仲間達の声は微かなものになっていた。

 住処と言っても、勿論人間が暮らすような立派な家屋ではない。大胆に切り出した木材を、適当に見えながらも頑丈に組み合わせ造り上げた、野性味溢れる寝床だ。端から見ると、木材を集めてうずたかく積み上げたドームでしかない。けれど、その外観の粗暴さに反して、この中はちょっとした自慢になっている。誰にも自慢する事は無かったが、今は《同居人》のおかげで、ようやくこれまでの慎ましい努力が実を結んだ。

 サァラは鼻歌混じりで道を登ると、住処の脇に肉と木の実などを一旦置き、それから入った。扉なんてものはない、ぽっかり空いた口に布を垂らしただけの入り口。とてもワイルド。


「ただいま帰りましたー」


 出来るだけ穏便に、びっくりさせないように、そっと入る。入り口に垂らした布をめくって、顔を覗かせた。

 他のナーヴァル達の住処がどうなっているか定かでないが、サァラの住処は、ほとんど人間の住居の内装に近い。朧気な人間の記憶が消えずに有るせいだろう。水が入って来ないよう壁や天井の補修はしてあるし、入り口部分は一段掘り下げて玄関を作り、土間のような感覚で作業場を併設。サァラが眠るところには、地面に毛皮を敷き詰めて女性の天敵、足下の冷えもカバー。少しずつ集めて繕った毛皮の布団が、その上に広げられている。群れの戦利品として広場の物置場に突っ込んであった角灯や何かの蔵書、野営用の簡素な食器と、何に使うか定かでないが完備。獣が過ごす住処にしては、とても文明が感じられる内装だろう。毛皮も薬草と一緒に綺麗に干してある上に、獣臭くならないようにと良い匂いのする花を乾燥させて壁に掛け、芳香剤もばっちりだ。

 どれも全て、サァラの慎ましい努力の結晶である。

 だが本人からは満足のゆく内装とは言え、同胞から見るときっと狂気の沙汰。なので、住処を改造しまくっている事は、一度として仲間に言っていない。


 さて、そんなサァラの住処には、現在ちょこんと小さな少年が膝を抱え座っている。十歳前後の、まだまだあどけない金髪の少年。あの日サァラが運命の出会いを果たした、人間の子どもだ。


 あれから三日ほど経過している。お湯を用意して毎日洗ってあげているので綺麗だし、怪我も少しずつだが治ってきている。それについては安堵しているのだが、やはりまだまだサァラを見る目は険しい。怯えている、と言った方が良いのだろう。他のナーヴァルと比べればサァラは細くもやしっ子であるが、彼からしてみれば異種族のおっかない獣人にしか見えないので仕方ない。微笑んでみても、怪訝な顔をするか、ビクリと肩を揺らすかの二択だ。白目の少ない深紅の目が笑っても怖いだけか……残念だ。この少年が笑えば、きっと天使の微笑みのように可愛いだろうに。せめてもの悪足掻きに、尻尾はいつも緩やかに揺らしている。敵意はありませんよーと動物的に訴えるその効果のほどは、この現状から考えるまでもないが。


「ご飯を採ってきたの。用意するから待っててね」


 少年から返答はない。それでも、サァラは微笑んで、語りかける。言葉が通じなくても、変わらず怯えたままでも、身振り手振りで意志疎通の糸口になっている事を信じて。



◆◇◆



 森を侵した侵入者の一人、金髪の少年。

 何らかの理由によって大人達に追われ、森の深くへ逃げて来た彼の命は、どうか見逃してくれるようにとサァラはナーヴァルの長に懇願した。

 結論から言えば、長の答えは。


「良いだろう」


 少年の命は、見逃してくれる事となった。

 森を侵した侵入者ではあるが、何の脅威にもならないだろう弱者と戦う事はナーヴァルの矜持に反する。ましてそれが子どもなど、牙を折る行為である。それが、長の判断だった。

 これに喜んだのは、他ならぬサァラである。さすがはナーヴァルきっての戦士、清々しいまでの英断だ。


「だが、これまでの事を思えば、そもそも人間とは相容れぬ。よって、見逃すのも、関わるのも、この一度のみと心得ろ。後の責は、サァラ、お前が全てを負う事になる。良いな」


 サァラは深々とぬかずき、その言葉を受け入れた。

 その時、隣に座る四つ足の獣姿のガァクは、鼻面にしわを寄せ苦々しく唸っていた。彼にとってはきっと面白くない結果であるのだろう。それでも、長の判断に委ねると彼自身が提示したのだ。長の言葉に従う意を見せ、ガァクは身体を退けた。周囲のナーヴァル達も、不満げな声は漏らしたが、文句は言わなかった。

 ああ、良かった。

 サァラはどっと息を吐き出し、安堵を抱く。きつく握りしめた手のひらを解いて、直ぐに立ち上がって少年に近付いた。人の姿と言えど、齢十歳前後の少年よりも身の丈が何倍もあるので、いっそうその存在を小さく、頼りなく感じた。


「……お前が何を思ってそれを救おうというのかは、聞かぬ。だが、己が口にした言葉は、必ず果たせ」


 重厚な低音で紡がれる言葉の言外に、必ず森の外へ帰せと、念押しされている事はサァラも分かった。去ってゆく長の大きすぎる屈強な背中を頷き見送り、それからガァクを見上げた。獣人の姿ではなく四つ足の獣の姿の彼は殊更に大きく、前足一つでサァラを潰せそうなほど立派だ。体長はざっと見て、五メートルどころではない。十メートルはあるのではないだろうか。雄獅子のように豊かな赤いたてがみが、白い巨躯を引き立てて、他を圧倒する空気を放っている。

 本当は今すぐにでも離れたいほどおっかないのだけれど、サァラは真紅の炯眼を見つめた。


「あ、あの……ガァク……」

「……何だ」

「あ、ありがとう……長に、その、話す機会をくれて……」


 途端、不愉快そうにガァクは鼻を鳴らす。鼻筋にしわを寄せる様は、正しく猛獣。ヒイ! 怖い!


「礼を言われる筋合いはない。長の指示に従うまでだ。サァラ、それはお前も一緒だ」


 ガァクは終始不機嫌なまま、去っていった。


 サァラはようやく、小さな少年の肩に指先を伸ばし触れた。かれこれずっと長い間、会いたかった人間。けれどその肩に触れた時、サァラは驚きに似た感情を感じ、ドキリと震えた。

 昔の記憶よりも、ずっと華奢で、頼りない、人間の子どもの肩。昔も、こんな風だっただろうか。驚く反面、その頼りなさに、納得もした。

 小さな丸い肩に触れた己の手は、肌色ではなく、薄い滑らかな白毛を纏っていて。長い指の先端には丸い爪ではなく、尖った爪が生えていて。手のひらだって、思った以上に大きい。人間の女性の手よりも、きっと、ずっと頑丈だろう。

 この手は既に、人間のものではない。もうずっと以前から知っている事だ。サァラはナーヴァルの中でも最弱だが、獣である事には変わらない、と。


(……けど、だからこそ)


 守らないと。

 迷い込んで、それでも無事だった、この少年を。


 何度も転んで、それでも必死に駆けていたのだろう。土や葉っぱを被って汚れた金髪の少年の頭を見下ろし、サァラはきゅっとその肩を抱いた。怯えきった肩は、変わらず震えている。その原因の一つは、まあ己でもあるのだろうと予想はしていたが、決してサァラは離さなかった。

 その時のサァラの深紅の眼には、正しく炎が燃え盛るように、メラメラと感情が滾っていた。少年を守り、きちんと森の外へ帰すという、かつてない使命感で。



◆◇◆



 ――――こうして。

 あの事件の日から、サァラの住処には新しい同居人として、少年が迎え入れられた。



 少年を抱えて住処に戻ったサァラが最初にしたのは、綺麗に洗ってあげる事であった。

 土埃や泥に汚れ、葉っぱを被った少年の姿は、どれほど必死に森を駆けていたか窺える。或いは、必死になってガァク――獣姿のナーヴァル達から逃げていたのかもしれない。この時点で既に泣きそうになったが、それを必死に抑え、少年を綺麗にする為に湯の支度をする。森を流れる水が綺麗な事は周知の事実であるけれど、さすがに冷たい真水を浴びせたら風邪を引いてしまうかもしれないので。

 ナーヴァルの里には、これまで戦ってきた人間達が残した品々を保管している場所がある。といっても彼らにとっては何の価値も無いらしく、森が汚れないよう取りあえず持ってきては一角に重ねているだけなので、ゴミ置き場のようになっていた。其処からサァラは、使い勝手の良さそうなものを拾ってきては、住処に運んでいた。

 冒険者達が持ち運んでいた道具なのだろう、鍋やら桶やら小さなケトルやら諸々。

 サァラにとっては、歓喜して踊りたくなるほどの宝の山だった。

 さて、そんな道具を引っ張り出し、火を熾して沸かした湯を桶に入れている間、噂の少年はと言うと……怯えた顔のままだった。料理にされると思っているのだろうか、サァラの一挙一動を見つめてガタガタ震えていた。食べないよー怖い事しないよー、と微笑んでみたものの効果は薄く惨敗だ。何はともあれ、この人と獣の混ざった顔が悪いのだろうか、やっぱり。


 赤い髪の中から、獣の耳が二つピンと立ち、白い顔に浮かぶ大きな深紅の双眸。凶悪生物がうじゃうじゃ生息する危険な森の、第一級危険生物、大陸最強の獣ナーヴァル(想像200%)


 うん、きっと怖い。私がこのくらいの年だったなら、泣き叫ぶ。ガタガタ震えるだけで留まるのはむしろ大したものだと言えよう。


 とはいえ心の中で滂沱の如く泣きながら、サァラは少年を、土間に用意した桶へ招いた。服をぽんっと脱がせて、湯に入れて、畳んだ布を優しく滑らす。ちなみにこの間、少年は終始硬直していた。


 そして全身から汚れが落ちた時、サァラは驚いたものだ。女性が羨む色白な肌は擦り傷だらけだがもちもち柔らかく、この森の中では見あたらない金髪の髪は、汚れを落としていっそう輝いていた。頭の天辺に、天使の輪っかが見える。そして何より近くで見た少年の丸い瞳は、綺麗な碧眼だった。

 このあどけなさい年齢のうちから、既に美形の風格が感じられる。正に天使のような存在だ。

 願わくは、その可愛らしい天使のご尊容から恐怖が消えたら一番良いのだが……。


 綺麗に少年を洗い、全身を拭き、サァラはそれはもう少年を丁寧に扱った。服も汚れてしまっているので、ひとまずは代わりに毛皮を肩へ掛けくるんでおく。宝の山の中にきっとそれらしい服もあるだろうから、取って来るまでは毛皮で我慢して貰いたい。毎日洗ってるから、そんなに獣臭くないと思うから、我慢してね少年。サァラはぴっかぴかに綺麗になった少年を、己が普段使っている毛皮の寝床に寝かせた。まずはちょっと休んでてよ、という意である。少年は変な顔をして何度も起きあがったが、そのたびにサァラが優しく肩を押して寝かせたので、ついにはそのまま横になる。

 サァラはぽんぽんと身体を撫で、後片づけや少年が着られそうな服を漁りに行ったりと用事を済ませた。住処へ戻って、寝床を見ると――――少年は、寝息を立てて眠っていた。毛皮にくるまれた小さな山から、すこすこと可愛い寝息が聞こえる。


 見れば見るほど、本当に幼い。それなのに、どうしてこんな可愛らしい少年が、人間の大人に追われ、しかもこんな凶悪な森に入ってしまったのだろうか。何か只ならぬ事件の気配を薄く感じたものの、それをサァラが何度尋ねても知る事は……今後、決して無いだろう。


 これまでの僅かな時間で、既に知った。少年とサァラの扱う言語は、全く違うようだった。

 広場から抱えて戻ってくる時も、これから此処で過ごすと伝える時も、湯に入って汚れを落とす時も……サァラが何度も、何度も説明しても、少年に通じた様子は無かった。ただただ怯え、或いは怪訝に、サァラを見上げるばかりだった。言葉による意志疎通が叶わないのだと、サァラは丁度この時知って、身振り手振りで伝える方向に移行した。やはりこの森と、森の外は、世界が違うのだろう。


 けれど、人間であった記憶を持つサァラが思うのは。

 金髪碧眼の少年は、天使のように可愛い存在である、という事だった。


 サァラは眠る少年の側に座って、しばらくその寝顔を堪能していた。ニマニマと笑い、毛皮の上に頬杖をついて、上機嫌に尻尾をふりふり揺らして。端から見ればきっと、恐ろしい光景だった。

 少年が目覚めたのは、それから一晩経って、翌日を迎えてからであった。やはり、想像の通りに消耗していたのだろう。




 それからサァラの生活は、少年の存在によってかなり変化していった。

 少年の世話は言わずもがなだが、新しい同居人の為に食事を用意したり、使い勝手の良さそうなものを揃えたりと、その暮らしは獣というより人間のそれにだいぶ近いのではないかと薄く思う。

 仲間達からは相変わらず変な目で見られるものの、サァラはこの変化を、特別苦しく感じた事はない。むしろ、楽しいというか、嬉しいとさえ思っていた。獣の生を受け入れても、深い所に根付いて消えない人間の記憶とのせめぎ合いを、きっと思いの外悩ましく感じていたのだろう。それが今だけは、存分に許されているような気がして、心地よいのだ。


 まあ金髪坊やから、恐怖は全然消えないけどね!

 良いんだ、無事に森の外へ帰れれば、それだけで。怯えた視線を受けるたびに泣きそうになっているのは、何かの気のせいだ。


 サァラは土間で食事の準備をしながら、ちらりと少年を見た。

 必死に逃げていた時に出来た傷は、命の危ぶまれるものはないけれど、擦り傷やら打ち身やらとにかく数が多い。ナーヴァルは基本傷が出来たら気合いで治すという考えなので……まあ要するに、自然治癒を推奨している。よって、薬などの品はない。そもそも怪我一つでもしたらこの凶悪な森では、あっという間にお陀仏だ。怪我する前に叩きのめせという、筋力にものを言わせた考えだろう。こういうところが、野生溢れる生活の不便さである。

 せめて滋養が良いものを食べさせてあげようと、体調を崩した者や小さな子ども達が良く食べる果物を採ってきて、少年に食べさせている。サァラもよく摘む、桃みたいに甘く柔らかい食べ物だ。警戒する少年もこれは気に入ったのか、見せるとぱくぱく食べてくれた。


 さて、そろそろ肉も焼けただろうか。


「レモンっぽい味つけしか出来なくてごめんね、少年。さすがに森の中だとソース味の代物は無くて」


 なんて独り言も、少年には通じないが。

 串焼きにした肉を、少年へ渡す。困惑して串焼きとサァラを見比べる彼へ、サァラは大きく口を開けて食べるジェスチャーをする。少年は勇気を振り絞るようにぱくりと食いつき、ぎこちなく食べ始めた。

 お肉にかぶりついても可愛いだなんて、全く天使はぶれないな。

 つい和んでしまって、長毛な赤い尻尾がふりふり動いてしまう。


 彼の傷が少しでも治ったら、それから森の外へ連れて行ってあげよう。森の向こう側は、ナーヴァルの領域ではない。サァラも見た事のない世界だ。彼の足で、歩いて行って貰わなければならないから。


「まずは怪我を治そうね、少年」


 通じない言葉を語りかけ、サァラも同じ串焼きの肉を頬張った。

 彼は此処でしばらく過ごす事を、気づいているのだろうか。それとも、己を捕らえる牢獄に見えるのだろうか。多分きっと、サァラが一番聞きたいのは、其処なのかもしれない。




 さて、食事の後は片付けを済ませ、ナーヴァルの里の広場へと向かわなければならない。名ばかりの大陸最強(笑)のサァラにとって、群れの仕事を疎かにする事は即死亡フラグだ。金髪少年を眺めていたいが仕方ないので、素直に向かう事にする。


「此処に居てね。外は危ないから、出たら駄目だからね」


 決して通じる事のない言葉を、身ぶり手ぶりで必死に伝える。少年は怪訝な顔をしたけれど、背中を押して寝台に座らせて「どうどう」と両手をかざすと、何となく察したのかちょこんと大人しく丸い膝を揃える。そんな少年へ、サァラは最大級の柔らかい微笑みを向け、小さな肩を撫でた。少年から消えない緊張感が弾け、可愛らしい丸い肩が跳びはねた。

 少年よ、これでも超友好的な渾身の笑顔なんだ……。

 人の姿に近いと言えど、獣っぽい形の赤い瞳に、肌の代わりに白い短毛の覆うこの姿は、やっぱり怖いだろうか。そうだよなあ、何かちょっぴり身体も大きいしなあ。今日も怯えられながら、サァラは住処をとぼとぼと去った。




「――――え、しばらくは来なくて良い?」


 そして広場に到着したサァラが掛けられたのは、そんな台詞であった。

 曰く、嗅ぎ慣れない匂いが近くにあると落ち着かない、だそうな。拾い物の人間が居なくなるまで仕事は免除、その後から復帰しろ。免除期間は長くはないからな。獣的な台詞の多いナーヴァルの仲間達の言葉は、サァラが脳内変換すると大体そうなる。ちなみに、ナーヴァルの里一番の猛者である長も、そんな事を言っていた。

 やはりナーヴァルにとって、少年と言えど人間はあまり歓迎出来ないものだろう。仕方のない事なので、サァラは文句などない。それでも、どのナーヴァルも進んで害そうとはしてこないし、同胞のサァラの事も邪険にしない。それだけでも、十分な譲歩だと思っている。

 さすが、凶悪なこの森に君臨する最強の獣。誇り高く素晴らしい。その辺の草葉の陰に誇りを捨てた私とは、大違いだ。


(という事はじゃあ、少年と過ごせるわけだ。良かったー)


 一人にさせておくのが心配だったサァラとしては、むしろ願ってもない事だ。ラッキーとすら思える。サァラは満面の笑みで了承し、心の中で高々と拳を突き出しながらスキップし広場を去る。

 仕事が無いという事は、勿論その分狩り部隊の獲物の分配は少なくなるが、森の恵みで補えば良い。あとは空いた時間で……。


「――――待て、サァラ」


 意気揚々とスキップしていたサァラへ、背後より掛けられる低い声。この荒々しい響きを含んだ低音は……。

 サァラの楽しい気分は、一気に下降し地面へ落ちた。跳ねていた足も止まる。


「ガ、ガァク」


 赤いたてがみの立派な、獣の頭部を持つ獣人姿のナーヴァル――ガァクが、サァラを射竦める。彼はゆっくりと歩を進めると、サァラの前で立ち止まる。白い毛皮を纏う屈強な肉体と、赤い豊かなたてがみ。下りてくる影の、なんと濃い事か。相変わらず、外見から既におっかないナーヴァルの雄である。


「あの人間は、まだ居るのだろう」

「それは、も、勿論」

「……お前は、何故人間などに肩入れをする」


 人と獣を足して二で割った顔立ちの雌とは違って、雄は狼と獅子を混ぜたような獣の頭部を持つ。従って狼のように鼻筋は長く、其処にしわが寄れば不機嫌な様をありありと作り出す。人間のように二本の腕と二本の脚を持つものの、全体的に強靭で脆弱な部分を持たない獣人姿が、普段に増して凄みが増す。

 ひぇぇ、こっちは小心者なんだから、勘弁してよ!


「い、いけない? 子どもを哀れんじゃ駄目な理由、無いじゃない」

「……人間であるのが、問題だろう。森の外から侵入する外敵で、最も多いのは人間共だ」


 グルル、と獰猛な唸り声が聞こえる。白い毛をたっぷりと蓄えた喉の向こうから、這うように、サァラの耳へと降りてくる。


「長がああ言ったから納得している者がいる事を忘れるな。我らが里に余所者を置くなど、普通ならば考えられるものではない」

「わ、分かってる、ちゃんと分かってるから!」


 言いながら徐々に下りてくる獣の顔が、本当におっかない。サァラは両手を出して、目の前にあるガァクの頑丈な胸を押した。雌のナーヴァルは、胸の頂を丁度良く隠す装飾の多い首飾りを付けているが、雄は何もない。手のひらに感じたちょっと逞しすぎる胸の筋肉に、「鍛えすぎヤベエ」と思わずサァラは青ざめる。何という躍動感だろう。

 そういえばこの雄は、若い戦士達のリーダーで、未来の長として名高い。体格だってガァクの方が、サァラなど問題にならないほど二回り以上も立派で大きいのだ。

 ……あの少年なんて、デコピンどころか息を吹きかけるだけで端まで飛んでいってしまうに違いない。

 ガァクの怒りだけは、買わないようにしないと。

 前から思っていた事が、今ほど痛感する事はない。

 と、思っていたサァラであるが、ふと顔を起こす。息がぶつかるほどの距離にある猛獣のかんばせに、内心ヒヤヒヤしたけれど、急に黙したガァクを不思議がって見上げた。


「ガ、ガァク……?」


 サァラは、窺うように呟く。ガァクは鼻を鳴らすと、何事も無かったように顔を離した。正面から浴びせられる圧迫感がようやく幾らか薄まる。


「……さっさと森の外に捨て置いて来い。匂いが移る前に」


 ガァクはそれだけ言うと、離れていった。取り残されたサァラはぽつんと立ち尽くし、首を捻る。

 匂いが移る前にって、何だろ。少年の匂いの事だろうか。普段からもっと強烈な獣臭さに囲まれてるんだからそれくらい我慢しなさいよ! サァラは想像の中だけでガァクに文句を言って、すごすごと広場を後にし住処へ戻った。繊細な硝子のハートは既にバクバクと悲鳴を上げているもので……。




 改造済みのマイホームに戻ると、金髪の少年は土間で幾つもの本を広げていた。その姿を見た瞬間、おっかないガァクのせいで低下した気分が盛り上がる。

 前世の私が告げている、可愛いは正義!

 それはさておき少年が眺め見ている本であるが、それはサァラが、ガラクタ置き場もとい宝の山より発掘してきたものである。森を侵しナーヴァルと戦って敗れた人間達の道具など、基本誰も使おうとはしないがサァラは別だ。おぼろげな記憶がそうさせているのか、宝の山を見て興味のそそるものは持ち帰る習慣がある(変な者扱いされる要因の一つ)。もっともいざ本を開いてみたら全く読めない何かの象形文字が走っていたので、わくわくした気分は一瞬で萎んだけれど。せめて挿し絵や何かの地図が描かれたもの等、サァラの目で楽しむ類の本が隅っこにある。

 それを、少年は熱心に読んでいるようだ。この世界の人間の識字率などは知らないが、中々聡明そうな後ろ姿である。


「面白いもの、あった?」


 サァラは優しく話しかけ、少年のもとへ近付く。途端、丸い肩がビクンッと大きく跳ね、弾けたように顔が振り返った。

 ああ、悲しいかな。聡明そうな横顔が、一瞬で恐怖に……。

 怖くないよー。これでも里の子達からは一番優しいと人気を勝ち取った超友好的な微笑みだよー、とそれ以上驚かせないよう慎重にゆっくりと進んで少年の側に座る。少年は震える声で何かを告げたけれど、当然だが分からない。ごめんね少年。

 けれど、うずくまって警戒するだけだった少年の興味を引くものが分かって、少しだけサァラの心が弾んだ。その本の内容は全く見当もつかないけれど、ずっとこの家(正確には巣)に居て何もしないのは退屈だろう。好きなだけ読んでくれたら良い。


「……言葉が分かるなら、私も知りたいな」


 この森の中で、この世界の人間の事を知っても、意味なんてないだろうけれど。

 誰が言い出したのかは分からない、古い祖先から口伝いに教わってきた森の覇者ナーヴァルの名は、例えもやしっ子であったとしてもサァラとてその姿形に宿しているのだ。

 森の中で人が忌避されるのであれば、森の外で忌避されるのはどちらか――――。


 サァラはいきなり影を落とさないよう、そっと少年へ手を伸ばす。隣の小さな頭を撫でると、柔らかい金髪が手のひらを押し返した。何かされるのではないかと身構えていた少年はかなり訝しげな面持ちをしたが、黙って甘受している。というよりは、動けない、と表現した方が正しいだろうか。



 そして私は、いつか君の素敵な笑顔が見たいです……。




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