25 もうひとつの、献身
2017.10.11 更新:3/3
フルグスト家という檻を出て、初めて世界を見たあの日。
まっさらだったアシュベルの記憶は、人知及ばぬ伝承の大森林の風景で埋め尽くされた。
あの鮮烈な高揚は、今もはっきりと思い出せる。何も知らなかったアシュベルは、ナーヴァルの女性に手を引かれて、大森林がどういうものなのか全身で理解したのだ。
あの出来事から、五年の月日が流れている。
僕は今も、この場所と、助けてくれたそのひとから、心が離れない。
数ヶ月ぶりに会うナーヴァルを見て、それを改めて痛感するのだ。
人間の世界から隔絶された場所で生きるそのひとは、普段接する人々とは違う雰囲気を、変わらずに纏っていた。
獣らしいしなやかな四肢を覆う、僅か一点の曇りのない、純白の毛皮。地面を力強く蹴る両足の爪先と、成人した男よりも大きな手には、鋭い爪。背中を覆う長い髪と、腰から伸びる引きずるほどの尾は、鮮やかな真紅で染められている。
そして、その頭部は、獣のもの。髪とはまた違う、深い紅の色が宿る瞳が開かれている。
ユーグリス家の領地でも見かける、獣人族という獣と人の姿を持つ一族と、一線を画す凄み。人の世に生きる生物たちの、さらに上を行く存在であると、理解させられる。
しかし目の前のひとは、慈愛に満ちた、優しい微笑みを浮かべていた。
――竜を噛み殺す、西の大陸最強の猛獣
人の世界でそう呼ばれるナーヴァルの一頭だとしても、アシュベルの中では優しくて温かい、大好きな姉さんのままだった。
十二歳になり、ますます貴族子息として教養を学び、先々の事を考えるようになった。だからなおさら、彼女の雰囲気は張っていた気を緩ませる。人の世界と関わらない獣だからだろうが、彼女自身の気質もあるのかもしれない。
(なんていうか、姉さんて、けっこうおっとりしてるよね)
ナーヴァルらしからぬ性格に救われているが、たまに少し、不安になる。
森を出て、一年が経った後。
再びアシュベルは彼女へ会いに行き、魔石の首飾りを渡し、繋がりを得た。
その、少し後だ。
彼女は、ガァクというナーヴァルの雄と、つがい――夫婦になった。
彼女の側にずっと着いていた、倍以上の体格と、竜が可愛く見えるくらいに強面な、あのナーヴァルだ。
そのナーヴァルがガァクという名前であると、彼女がこっそり教えてくれた。
何を言っても離れないだろうからね、と彼女は少し呆れた風に言っていたが……幸福そうな笑い声が、彼女の本心のように思えたものだ。
そして、およそ半年後、無事に四頭の子どもを生んだ。
さすがに妊娠期間中は会う事は出来なかったが、その知らせが首飾りを通じてもたらされた時、飛び跳ねて大喜びした。アシュベルだけでなく、祖父母やその友人たち、さらには使用人や庭師まで、大喜びした。その日の夜は、遠い遠い大森林の方角に向かって、全員で祝杯を上げた。
他のナーヴァルたちが居ない時、アシュベルもこっそりと、彼女の生んだ子どもを見させてもらった事がある。目印のような赤いたてがみのない、真っ白で、ころころとした体型の子犬。その時すでに、アシュベルよりも巨大であったが、あのナーヴァルとは思えないほど可愛かった。
そして四頭の子どもたちを愛しむ彼女は――とても、綺麗だった。
彼女から聞いた話では、ナーヴァルはその強さゆえに、一度に生む子どもは一頭であるらしい。だから四頭も生まれるとは思っていなかったと、本人がいたく驚いていた。
「私はナーヴァルの中で最弱だからかなあ。いやあ、初心者には本当、大変だったね!」
あっけらかんとしているところに、女性の、いや母親の強さを感じた。
しかし、生んだ後も、なかなかに大変だったそうだ。
子どもを多く生む雌はこれまでなかったそうで、翌年、たくさんの雄から猛アピールを受けたらしい。
だが、その全てを、あのガァクという雄が蹴散らした。
ナーヴァルは、他の動物たちのように、繁殖の季節にのみ夫婦になって子育てをし、新しい季節には新しい伴侶を得るそうなのだが……今もガァクは、彼女の夫の立場を変わらず貫いている。
彼の感覚は、存外、人間のそれに近いのだろう。
獣とはいえ、その気持ちはよく分かった。肝心の彼女は、斜めの解釈をしているが。
(ガァクさんは、ただ姉さんの事、すっごい好きなだけなんだと思うのになあ!)
しかしそれを、彼女に伝える事はしない。ガァクであるからこそ、譲れない部分がアシュベルにもあった。
子どもを生んだからか、彼女の気質は以前よりも温かくなり、しっかりとした強かさが加わったように思う。今はもう居ない母が、少しだけ脳裏に浮かび上がる。
早く大人になりたいと呟くと、彼女は焦らないでと笑った。
「ゆっくり、大人になってね。君は絶対に、素敵なひとになるから」
口角を持ち上げ、緩やかに長い尾を振る仕草は、とても優しい。
だからこそ、大人になりたいと、願うのだ。
(僕は早く、貴女を守れるだけの“大人”になりたいんです)
古い神話時代の、伝承の動植物が今もなお生きる、太古の世界――始源の大森林。
その地に纏わる話は数多くありながら、未だに踏破した者の存在しない魔境。生き延びた者より、森から帰らず消え去った者の方が圧倒的に多い場所だ。
しかしそれは、過去の時代から現在まで、それを成し遂げるだけの技術がないだけだ。いずれは文明が発達し、もっと技術力も進化し、新たな時代へ変わってゆく。その時、魔境と名高いその大森林も、伝承のものではなくなるだろう。
もっと言えば、大森林を暴くための戦争が、何処かで必ず起きる。
それは、遠い、本当に遠い先の未来の話だ。
しかし、太古の木々が。伝承の、美しい鳥獣たちが。何もかもが巨大な、悠久の風景が。戦火によって踏み荒らされ、根こそぎ奪われるなんて、耐えられない。
――大森林に魅入られた者は、等しく凄惨な末路を迎える
守らなければならないという使命感が、凄惨な末路に繋がるのなら。
もうすでに、両足を突っ込んでいる。
あのまま食べられるはずだった僕を助けてくれた、この美しい獣の献身に、百年に満たない人生の全てを費やしてでも報いる――それが、僕にできる恩返しだ。
その決意だけは、彼女には、伝えていない。優しい彼女は、きっと、気にしないでと言うだろうから。
「私はこれからも、アシュベルの味方。いつか私を追い越して、大人になって、好きな人と結婚して、おじいちゃんになっても、ずっとね」
額を寄せ、柔らかく微笑む美しい獣人へ、笑みを返す。
「僕も、これからも、姉さんと一緒にいるよ。これから先、ずっと、会いに来るんだ」
まるで、呪いのような言葉だと思う。
何にも縛られない美しい獣を縛り付ける、実に人間らしい浅ましさ。
結局、心の根幹にあるのは、それなのだ。
幼少期に誘拐に遭い、あの“始源の大森林”に飛ばされ、西の大陸最強のナーヴァルと親密な関係にある。それを知るのは、祖父母と、祖父母の古くから信頼する友人たち、そしてユーグリス家に仕える使用人たちのみだ。
たとえ友人であっても、打ち明ける事は、当分は出来ない。
いつか彼らにも言えればいいと思うが、誰にも伝えず秘密にしていたいとも思う。幼稚な嫉妬だ、誰にも彼女の事を知られたくないのだ。
そんな事は意にも介さず、いや、気付いていないのか、彼女はいつだって朗らかに笑う。
「そうだ、また背中に乗せてあげるよ。一緒に走ろうか、難しい事も忘れちゃうから」
彼女はそう言うと、獣人の姿から、四つ足の巨獣の姿へ変身した。その背中によじ登り、毛皮をしっかりと掴む。彼女はくすぐったそうに身を震わせ、それからゆっくりと走り出した。草原の香りが爽やかな風と共に流れたけれど、それよりも至福だったのは、彼女の温もりが全身に伝わってくる事だった。
この場にあのナーヴァルの雄が居たとすれば、きっと恐ろしい形相で嫌がり、威嚇するだろう。彼が居ないのを良い事に、彼女の純白の毛皮に身体を埋め、瞼を下ろした。
――私はこれからも、アシュベルの味方。いつか私を追い越して、大人になって、好きな人と結婚して、おじいちゃんになっても、ずっとね
(……好きなひと、か)
優しい姉さん。
優しいサァラ。
本当は、まだ貴女に言っていない事があるんだ。
森で暮らしていた時、貴女の側に居たいと願った。人の世に戻らず、あの森の世界に居たいと。今も時々、ふとその考えが過ぎる事がある。
だけど貴女は、あの森で、同じ獣たちと共に駆けている方が、ずっと美しい。あのナーヴァル……ガァクと共に。
(そのうち、笑い話に出来るのかなあ。初恋は貴女だったんですよ、なんて)
小さく笑い、純白の毛皮にぎゅっと身体を寄せる。
笑うような獣の喉の音が、耳を優しく撫でていった。
Fin.
長らくお待たせしてしまいましたが、人外転生を斜め横くらいから楽しみたいという思いで始めました【最弱獣の献身】、これにて完結です。
色んな方向に創作意欲が飛んでいながら、お付き合い下さった皆様方には、本当に感謝です。(たぶん当方の小説を追いかけて下さる方におかれましては、何を書いていたのか分かるかと思われます)
ありがたき幸せ!! 思わず武士対応。
なろうの中の【人外転生】という激戦区では、たぶん珍しい部類の読み物と思いますが、楽しんで頂けたらとても嬉しく思います。
手にとって下さった方々の、心の本棚の一角に、この創作小説があれば本当に光栄です。
改めまして、お付き合い下さりまして、ありがとうございます!
これからこもサァラとアシュベル、そしてガァクが、皆様の記憶にありますように。
◆◇◆
話が逸れますが。
本編は「ガァク不憫(笑)」というのを合言葉にお送りしていましたが、最終話にて「良かったなガァク!!」という事になったかと思います。
大勝利とは、なんか言えないかもしれないですが(笑)、【ガァクの恋を応援し隊】の皆様が、喜んで下されば嬉しいです。
アシュベルとガァクは、これからも互いの事を威嚇し合いながら、仲良くサァラと過ごして欲しい。




