24 最弱獣の献身
2017.10.11 更新:2/3
サァラが生まれてから、数え切れないほど季節が巡った。
新しい生命が芽吹く暖かな春を迎え、緑と恵みが豊かに育まれる夏になり。ゆっくりと色を変え種を残し消える花が秋を告げ、何処か冷たい風が吹く冬となり。そうしてまた、一年が過ぎると新しい一年が始まる。
四季の変化をあまり感じさせない大森林は、どれほどの時間が流れても、古い時代から続いてきたに違いない太古の情景を崩す事はなかった。非常に特殊な環境を有するために、訪れた人間たちを情け容赦なく屠り、飲み込んできた魔境という側面も。
生まれ育った大森林は、いつまでも変わらない。
――そこに暮らす鳥獣たちが、何もかも規格外であるという現実も。
「うわわわわ、むりむり、むりでしょこれぇ!」
純白の巨獣の姿のサァラは、情けない声をこぼし、森の中を疾走する。
ナーヴァルらしからぬ絶叫を上げて走るその背後からは、重く踏み鳴らす足音が猛追してくる。冬――冬らしい冬ではなかったが――を終え、暖かな季節に突入し、いわゆる恋の季節真っ只中な、森の生物である巨大な猪から。
繁殖の時期を迎え、普段以上に気が立っているのだろう。太く立派な牙を四本も蓄えた口元からは、凄まじい鳴き声だけでなく、白い蒸気まで立ち上っている始末だ。輪にかけて恐ろしい。
その情熱を意中の雌にぶつけたら良いんじゃないかと思うが、残念ながら通じるはずもなく、全速力で逃げる現状だ。
今日もサァラの足は、ナーヴァルらしからぬ大活躍をしている。
しかし、これまでと違うのは――。
「――サァラ!」
逃げ惑うサァラの正面から、別の白い巨獣が突進してくる。サァラと比べるべくもない、屈強そのものな本物のナーヴァルは、サァラの背後を睨みつけると力強く跳躍した。
「調子に乗るなよ、小物が!!」
「ピギィィッ!!」
白い巨体が宙を舞い、サァラを飛び越え、巨大な猪を踏みつける。
いきり立っていた猪の顔が一瞬で青ざめ、あっという間に逃げ帰ってしまった。
慣れたとはいえ、このあからさまな反応の違い……虚しさが過ぎ去る。
「はあ、ふう……助かったよ。いつまでもしつこく追いかけてくるからさ」
「――サァラ」
呼吸を整える間もなく、重い低音が落とされた。ぎくりと震えて見上げれば、睥睨する真紅の瞳とぶつかる。
あ、やばい、これは。
「お前は弱いのだから気を抜くなと、いつも言っているだろう!」
「イギャン!」
やばいと思った直後には、ガァクがのし掛かってきた。
「お、重い、重いよ、ガァク……!」
「俺を呼べと言い聞かせているのに、お前は! この……ッ!」
「い、痛い痛い、毛が抜けちゃうゥゥ!」
「抜けてしまえ!」
「ひ、ひど……!!」
仰向けに地面へ転がされたサァラの上に、ガァクの巨体がのし掛かり、首をガブガブと噛んでくる。本気噛みではないが、それなりに牙が当たり、毛皮を引っ張られた。地味に痛くてキュンキュンと鳴いたけれど、それで止めてくれるはずもなく、彼が満足するまでサァラはガブガブされまくった。
ようやく落ち着くと、ガァクはサァラの首を柔らかく甘噛みし、毛皮を整えるように舌を滑らせた。かつては未来の長とまで呼ばれた屈強な戦士、しかしそうとは思えないほど優しく丁寧な、慈愛を尽くす仕草だった。
むずむずして、くすぐったくて――なんとも言えない心地好さ。
絶妙な力加減に、サァラの瞼はゆるりと下がる。
「お前は弱い。あまり、手間をかけさせるな」
反論のしようがないナーヴァル最弱というレッテルは、相変わらずサァラに張り付いている。
そして、いくつ季節が過ぎ去っても、ガァクはサァラの傍らに居続けている。数年前――幼い人間の少年が森に迷い込んだ時から、ずっと。
故郷の森で生きていくと決めた時には、もう覚悟を決めていた。
熱心に獲物を贈り続けるガァクの求愛を受け入れよう、と。
里の長になる輝かしい未来を、迷わず捨ててしまうような雄だ。拒んだところでその直情ぶりが変わる事はないだろうし、側を離れたりもしないだろう。
つまるところ、ガァクの勢いに押し負け、絆されたのである。
これまでのサァラの繁殖期は、家に引きこもり徹底的に不参加の意思を押し出してきた。そもそも、自分なんかを選ぶ雄など居ないと思っていたし、そう公言して回っていた。
従って、あれが遅すぎる初体験の季節であった。
一体どうなるのか。マナーやルールはあるのか。徹底抗戦の意思が強すぎてろくに覚えようとしなかった過去を、さすがにその時はサァラも後悔したが……。わりとすぐに、諸々の緊張は吹き飛んだ。
ガァクの方が、あまりにも愉快だったので。
まず季節を迎えた直後、ガァクは数日間、サァラの前から姿を消した。再び現れた時、彼は携えてきた獲物をサァラへ差し出した。これまでとは比べものにならないくらいに立派な――色鮮やかな、巨大な猛禽を。
自らの力のみで勝ち取った獲物を差し出すのが、雄の求愛行動。どれほど力を持っているのか、雌に誇示する意味合いもあり、獲物の大きさも比例するのだろう。
そしてそれが、ガァクの本当の意味での求愛だと、すぐに理解した。
実際、彼の面持ちには、普段にない色濃い緊張がはっきりと見えた。あのガァクが、と思いもしたが、ヘラヘラしてはならないと真剣に応じ、その獲物を受け取った。食料ではなく、求愛の返事として。
――だというのに、ガァクときたら。
しばらくの間、不思議そうに首を傾げていた。今まではこのやり取りをすると、必ずああだこうだと言い合っていたから、それが急に無くなり意味が分からなかったのだろう。だからといって「何してんだこいつ」という顔で見られるのは納得出来ない。しまいにはサァラの方が痺れを切らし「求愛、うけとりました!」とやけっぱちに叫んだのだ。
その瞬間、ガァクもようやく理解したようで、飛び跳ねて驚愕した。
いや、比喩ではなく、本当にちょっと地面から浮いていた。
顔だけは平常心を装っていたが、太い四肢はぶるぶる震え、引きずるほどに長い尻尾はギュルンギュルン回転していた。
あんまりにも彼らしくない姿を見たら、サァラの中の緊張や恐怖は、あっさりと吹き飛んだ。
ひとしきりうろたえ、落ち着きを取り戻したガァクは、ゆっくりとサァラの側へ近付いて。
笑ってしまうくらいに優しく、サァラの首を食んで寄り添った。
――雄は雌の首を噛み、雌は雄の牙を受け入れ、つがいの成立を表す
未来の長と呼ばれた里一番の戦士と、歴代に名を残す貧弱なもやしっこは、こうして“夫婦”となった。
――そんな経緯を経た、現在。
夫から滲み出る威圧感に守られ辿り着いた場所は、現在の住居である洞窟だった。
数年前から移り住んだそこは、日当たりもよく、風通りもよく、水場からもほど近く、さらに周囲を見渡せる高台に位置している。その上、内部は巨大な獣の姿でも寛げる立派な広さだ。
申し分のない好物件なので、当然、他の生き物たちも目を付ける。彼らとの争奪戦は激しいものと想像出来たが、そこはガァクという最終兵器である。彼ご自慢の物理技で、難なく勝ち取ってしまった。おまけにガァクが睨みを利かせてくれているおかげで、今現在でも、この一角はサァラとガァクのテリトリーになっている。
大概がおかしいこの森だが、一番の規格外は――ガァクなのかもしれない。
住居に戻り、洞穴の奥へと進む。天井の一部分が抜け、陽差しが降り注ぐそこは、緑も生して爽やかな匂いが仄かに香っていた。明るい夜になれば月明かりも差すので、昼夜で幻想的に姿を変える場所だ。ガァクもここは気に入っているようで、洞窟にいる間はよく寝転がっている。
ガァクは、四つ足の獣の姿から獣人の姿へと変わり、陽だまりの側に腰を下ろした。そして、じいっとサァラを見上げると、無言で呼びかける。この訴えにも慣れたなあと思いながら、サァラも獣人の姿へ変身し、彼の側に座った。
ガァクはおもむろにサァラの赤いたてがみを除けると、首を下げて項を舐める。それが終わると、今度はサァラの番で、同じようにガァクの項を舐める。あんまり得意ではないが、ガァクは心地好さそうに目を細めていた。
ナーヴァルは、外敵には容赦ないが、身内に対しては情が深い。つがいになると、こうして互いを慈しむらしいのだが……ガァクからそういう扱いを受けると、ものすごく痒くなる。何年と経っているが、未だ慣れなかった。
「お前は相変わらず下手だな」
「わるうござんした~」
そう言いながらも、ガァクは上機嫌に口角を緩め、豊かな赤い尻尾をバサバサと揺らしている。こういうところが、彼の憎めない可愛い部分だと思う。
「今日は、もう里には行かなくて良いの?」
「ああ、役目はもう終わらせてきた」
「そっか」
サァラもガァクも住居はこの場所にあるが、ガァクは里の出入りを認められているので、日中は向こうに居る事が多い。長の座につく事は許されないが、一等級の戦士である事には変わりないので、ガァクの存在を拒む理由はないのだ。
……サァラも、里へ戻る機会は、あるにはあった。
ガァクとつがいになった後、戻って来いと言われた事があるのだ。
なんと、わざわざ足を運んできた、長本人から。
驚きはしたものの、その提案を受け入れる事はなかった。里や仲間たちを嫌いになったわけではないし、もちろんその言葉は嬉しかったが、自ら望んで離れた現在の生活に不満などはなかったからだ。
なにより、里へ戻ってしまったら――アシュベルとお話したり、森の外で会ったり、出来なくなるではないか!
かたくなに首を振らないサァラを見て、長は呆れたように息を吐き出したが「お前にはその方が良いのかもしれない」と笑い、たまには顔を見せに来いと言って去った。
少々風変わりなナーヴァルのつがいを、長が認めてくれたのだと、前向きに受け止めている。
そして今も、サァラとガァクは、日々二人で過ごしている。
ガァクは相変わらずサァラの軟弱ぶりを鼻で笑うが、きちんと守り、大切に扱ってくれた。現在の日常は、意外にも快適で、穏やかなものだった。
しかし……どうしても、不思議に思う事がある。
数年経った今も、ガァクが変わらずつがいの立場にある事だ。
どうなる事かと思ったガァクとの生活は、それほど悪くなく、むしろ過ごしやすいもので、不安などは単なる杞憂に終わった。
生肉を食べられないサァラに呆れ果てていたが、果物を集めるのを手伝ってくれるし、護衛の役目を買って出てくれるし、それほど大変な苦労もなく平穏な日々だった。
いや、まあ、繁殖の季節なわけで、つがいになるという事はそういう事で――巣籠もりの際のあれこれは、ちょっと死ぬかと思ったけれど。
ナーヴァルという頑丈な獣の身体であった事を、あれほど強く感謝したのは初めてであったが、それはともかくとして。
愛情表現の一つである、首筋の甘噛みや舐めるといった仕草を常にするくらいには、つがいの仲はとても良好で、人間の感覚で見れば“良い夫婦”と呼べるだろう。
(……でも私が知る限りは、つがいが成立しているのって、繁殖の季節だけのはずなんだけどなあ……)
その期間だけつがいとなり、子どもを生み、乳飲み子を卒業するまで育てると、つがいは解消され翌年の季節にまた新たなつがいを得る。
そういう風に記憶していたのだが――何故か訪れる繁殖の季節には、毎回毎回ガァクが立候補してくる。
それが迷惑というわけではないが、てっきり別の雌とつがいになるかと思っていたサァラとしては、不思議であった。里には自分なんかよりもずっと立派で勇ましい雌が、たくさん居るはずなのに。
それを訊ねるたび、ガァクは「馬鹿が、軟弱なお前を放っておけるわけないだろう」と言っていたのだが……なかなか彼も変わり者だと思う。
大丈夫だろうか。里で仲間はずれにされていないといいけど。
サァラの疑問など余所に、今日もガァクは護衛の任務に余念がない。
「――そういえば、お前、何故あの程度の小物に追いかけ回されていた」
「え?」
「笑えるほど腕っ節が弱いくせに、足だけは速いだろう」
真っ直ぐと向けられるガァクの眼差しに、サァラの目は泳ぐ。
「ええーっと……それは、その」
「何だ」
「実は、アシュベルから、首飾りを通して連絡があって」
もふっとした胸毛に埋もれる、赤い首飾り。これを通じて頻繁に言葉を交わしているのだが、ついつい話に夢中になってしまい、浮かれていたら、目と鼻の先に巨大な猪が居た。何の準備も整っていないところに現れてしまったので、慌てていたらつい、とこぼすと……ガァクは呆れ果て、大きな溜息をついた。
「お前は本当に……。という事は、来るのか。あの小僧が」
「うん」
「いつ」
「あ、明日……」
ガァクは鼻を鳴らすと、興味無さそうに「そうか」と呟いた。
サァラがアシュベル――人間と親しくする事を、ガァクは引き留めたりしない。もちろん、喜ぶ事もないが。
彼にとっては今も、大人だろうと子どもだろうと、人間という生き物は受け入れがたい存在に違いない。そんなものと率先して関わろうとする身内を、咎めたりせず好きなようにさせてくれるのだ。それだけでも、十分過ぎるほどにありがたい。理解力のある彼には、本当に感謝している。
――だからアシュベルがやって来ると聞いた後、必ずいじけてふて腐れ、甘えてるのか妬いてるのか分からないほど構い倒してくるガァクの嫉妬くらい、広い心で受け止めようと思う。
アシュベルに会う事への代価だと思えば、安いものだ。もうすでにぶすっとふて腐れている夫の頭を撫でながら、サァラは穏やかな微笑みを浮かべた。
そしてその予想は外れず、この後しばらく、ガァクから猛烈に首をガブガブされまくった。
◆◇◆
陽が昇っても鬱蒼とした影の宿る森林を、サァラは軽やかに四本の足で駆け抜けた。
やがて深い緑の匂いが薄れ、茂みから差す光が増えてゆく。森の中を横切る風とは、匂いの異なる爽やかな風が鼻を掠め、森の終わりを告げる。
サァラは飛び越えるように跳躍し、森の外へ到着した。
ここにやって来るのも、もうすっかり慣れた。
澄んだ青空が穏やかに広がり、風に揺れる草原へ注ぐ陽射しも暖かい。サァラは空を仰ぎ、ほっと息を吐き出す。四つ足の獣の姿から、獣人の姿へと変わり、森から離れ草原の真ん中に座ってくつろいだ。
住処を出る前、ガァクは落ち着きなくそわそわとしていた。アシュベルがやって来る時はいつもそうなのだが、サァラが行ったっきり帰って来ない事を、まだ頭の何処かで危惧しているのかもしれない。
目を掛けてきてくれたガァクに何も言わず勝手な事はしないと決めている。だから、そう心配しなくても、大丈夫だ。この草原を越えるのは、きっと、まだ当分先の事――。
『――姉さん? 聞こえる? 話しかけて大丈夫?』
ふかふかな胸毛の下から、アシュベルの声が聞こえた。ハッとなって自前の毛皮を掻き分け、すっかり隠れてしまっている赤い魔石の首飾りを摘まむ。点滅する光を放っているそれは、宝石のようにキラキラと輝いていた。
「あ、ごめんね、大丈夫だよ」
『そう、良かった。今は……森の外かな。準備が出来たから行こうと思うんだけど、いいかな』
アシュベルに会うたび、首飾りは点検と改良を施され、今ではサァラと会話をするどころか、大まかな居場所まで分かるようになった。相変わらずサァラにはその原理など理解できないけれど、アシュベルがどんどん立派になっているという証拠だと思う。
「大丈夫だよ、いつでも平気」
『分かった。すぐに行くね』
ふつりと彼の声が途絶え、赤い首飾りからも光が静かに消えた。
それから間もなく――サァラの目の前で、そよ風の音が鳴り響き、不思議な動きで横切った。
否、不可視の何かが、正面に集結していた。
サァラは立ち上がり、静かに見据える。自然と、赤い尾が横に揺れていった。
彼方から集まるそよ風の中心に、光の粒子が溢れる。一瞬のうちに目映く弾け、風のうねりが四散した。
――ふわり、と軽やかに降り立った両足が、草原を踏みしめる。
白い外套を羽織った身体は、少々小柄だがしなやかに伸び、真っ直ぐとした佇まいを見せている。大人へ至る成長の途中にあるので、ほんのりとしたあどけなさはまだ残っているが、そこに幼子の儚さはもうない。
けれど、陽に当たって輝く金髪と青い瞳は、何年経っても変わらない。キラキラして、とても綺麗で――サァラが大好きな、輝きのままだ。
「姉さん、こんにちは」
そう言って微笑んだ彼は、少年らしい明るさが――って、また身長伸びてる?!
「あれ?! アシュベル、前会った時よりも頭の位置が」
「うん、少し伸びたんだよ。ようやく、姉さんの腰の高さくらいかな、まだ全然足らない」
「わあ~ちょっと見ない間に、おとなになったね! 前はほら、このくらいだったんだよ」
「それは……小さすぎるよ姉さん……僕もう十二歳だよ」
笑う仕草はとても落ち着きを払い、十二歳にしては大人びた雰囲気があった。
そうか、十二歳なのか。森にやって来た時は確か七歳だから……最初に出会ってから、もう五年が経っているのか。大人っぽくなって当然だ。
(時間の流れは、早いんだなあ)
これからもっと大人になって、顔つきも身体つきも、ぐっと男性らしくなるのだろう。内気で頼りない子どもの記憶も、少しずつ消えてゆく。感慨深さと、ほんの少しの寂しさが、サァラの胸に宿った。
十二歳になったアシュベルの生活は、また目まぐるしく変化しているようだった。
作法、知識、魔法等といった勉学に加え、祖父母や伯爵家と懇意にしている貴族の家々の茶会に参加したりしているらしい。また同年代の友達も何人かできたようで、彼らを招いて遊んだり、あるいは逆に彼らのもとへ向かったりしているそうだ。素敵な友達だという事は、アシュベルの嬉しそうな横顔を見ればすぐに分かる。
亡き母のため、祖父母と優しくしてくれた人々のため、貴族子息としての道をしっかりと歩み始めたのだろう。
小さい頃から頑張り屋で、覚悟を決めていた彼だ。きっと立派な人物になると予感しているが、少し根をつめすぎているような気もする。貴族社会どころか人間社会すら縁はないが、せめて倒れるほどの無茶はしないで欲しいと願う。
そう告げれば、アシュベルはにっこりと笑って。
「大丈夫だよ、僕が好きでしている事だから。それに、姉さんと話したり、会ったりすれば、疲れなんてすぐに無くなるんだ」
素直な心根で懐いてくれるアシュベルは、可愛い男の子だが……面持ちも大人びて、身長も少しずつ伸びて、美少年ぶりに拍車が掛かってしまっている。
これはこれで末恐ろしい成長をしてしまったと、サァラは複雑な気分になる。
「……女の子たちを誑かすような、危険な男の子にはならないでね」
「ええ? なにそれ」
「好きな子を大切にする、優しくて誠実なひとになってねって事だよ」
サァラはわりと真面目に告げたのだが、アシュベルは可笑しそうに吹き出した。
「変な心配はやめてよ姉さん。僕には当分、無縁な話だよ」
「そうかなあ。アシュベルは女の子からすごく人気を集めそうなんだけどなあ」
「そんな事はないよ。第一、僕の好きなひとは……」
アシュベルは途中まで言って、口を噤んでしまった。
「え、なあに?」
「何でもないよ。あ、そうそう」
アシュベルは思い出したように、傍らに置いた鞄――幼い頃から使い込んでいるので、なかなか貫禄が出ている――から、スケッチブックを取り出す。
「また、たくさん描いてきたんだ。友達の家に行った時のとか、そこで飼われてる魔獣とか」
開かれたページには、水彩画調の丁寧な絵が、いくつも描かれていた。
アシュベルは自分が見たものを描いては、こうやって見せてくれて、この時はこうだったこんな事があったと話してくれる。その語りはとても上手で、森の外にある人間の世界を、目の前に感じるようだった。
ちらりと盗み見たアシュベルの横顔は、生き生きとし、とても楽しそうだった。
ひとの世界で、充実した日々を送っている。きっとこれから、もっと楽しい記憶が増えていくのだろう。私の記憶も、いつか、塗り潰すほどの。
少し寂しいけれど、それがいいと、サァラは小さく微笑む。
「姉さんの方は、どう?」
「うん?」
「ガァクさんとか……あと、子どもとか。もうだいぶ、大きくなったよね」
「あはは、ガァクは変わんないよ。君の記憶の通り。でも子どもは、もうみんな、大きくなったね。今は狩りの練習とか頑張ってるよ」
サァラは笑みを深めた。
――そう、何を隠そう、こんなもやしっこも、母親になったのだ。
と言っても、ナーヴァルの子育て形態は、人間とは大きく異なる。サァラもそうだったように、乳飲み子を卒業した後は、子どもたちを一カ所に集め、群れの大人たちが全員で分け隔てなく育てるのが基本だ。
里全体が家族のようなものなので、肉親の情や繋がりはそれほど重大な項目ではないという事だ。
サァラが生んだ子どもたちは、もうお乳ではなく、肉を食べ大きくなろうとしている。すでにサァラとガァクの側を離れ、他の子どもたちと一緒に元気に暮らしている。
もちろん、我が子なので、愛おしい存在だ。時々里に出向いては、他の子どもたちの面倒も見つつ、我が子を可愛がっている。たまには顔を出せと長から常々言われているので、そこは問題なく受け入れられていた。
元気に育って、ガァクのように……はならなくてもいいが、立派なナーヴァルになってくれたら、それが嬉しい。
「僕がちらっと見た時は、生まれたばかりだったから。もうきっと、大きくなってるんだろうなあ。確か四頭だったよね、姉さんの子ども」
「うん、そう、四頭。あれは……大変だったねえ」
今思い返しても、大変だったという感想しか、出てこない。
つがいになってしばらくした後、ガァクの子どもを身籠もり、半年ほど経つとお腹もはっきりと膨れた。ナーヴァルの雌は妊娠すると本来の獣の姿にしかなれないようで、サァラもその間は四つ足の獣の身体で生活し、ほとんど動かず横になっていた。
そこまでは、問題なかったのだが。
大変な事態になったのは、いよいよ出産という時である。
長時間、痛みと格闘しどうにか一頭を生んだものの、未だギャンギャンと鳴き叫び続けるサァラは、尋常ではない様子であったという。さすがに若人最強のガァクも焦ったらしく、普段にない慌てっぷりで里のベテラン成獣たちと、何故か長まで呼び寄せた。
結果として、仲間たち総出の、大変な出産になった。
そして、生まれたのは――なんと、四頭もの子どもだった。
後から知った話だが、ナーヴァルは通常、一頭の子どもしか生まないという。自然界の頂点に属する生き物だからだろうか。
史上初の、子だくさんナーヴァルになったようだが、しかし残念な事に、サァラにその時の記憶はほぼない。ただひたすらに、出産という大試練と戦っていたのだ。従って、その時、あのガァクが酷く狼狽え「大丈夫か」「しっかりしろ」と何度も声を掛けてくれた事も、心配し身を寄せ舐めてくれた事も、全く覚えていない。
その上、そんな心優しいガァクを何度も殴打し、挙げ句の果てに蹴りつけていたという、自らの行動も。
だが、ふと意識が戻った時、お腹には一生懸命に吸い付いている四頭の子どもがいた。
赤いたてがみも揃っていない、全身真っ白な、コロコロした子犬のようなナーヴァル。
駆けつけてくれた長や仲間たち、寄り添っていたガァクに労われ、安堵と喜びでどっと涙が溢れた。
……そういえば。
その翌年の繁殖期からは、様々な雄たちが足を運んできてはアピールしてくるようになった気がする。
一頭しか生まないところを、四頭も生んだのだ。自らの血を残したいと願う、獣と、雄の本能からすれば、好物件だったのかもしれない。今まで見向きもされなかった、ナーヴァル史上最弱の私がだ。
……もしかして、ガァクが変わらずにつがいの座を貫いている理由は、少なからずそれもあるのだろうか。
なるほどな、とサァラはしきりに頷いたが、アシュベルから哀れみを浮かべた眼差しを向けられた。
「ええっと、たぶんガァクさんは、そういうのじゃないと思うよ……」
「え、そうかな」
まさか、あの幼かった少年から、諭されるようになるとは。
時間の経過は、本当に早いなあ……。
「……だって、僕は分かるよ。ガァクさんの気持ち」
小さな呟きが、確かに耳に届いた。サァラはアシュベルの顔を窺ったが、彼は首を振る。なんでもないよ、と淡く微笑みながら。
「あ、話は変わるんだけどね。最近、おじい様やおばあ様が、姉さんに会ってみたいって言ってるんだ」
「あら本当!」
「転移術で、ここに二人を連れて来てさ。それか、姉さんをユーグリス家に招待するとか。新しく加わった、僕の目標なんだ」
アシュベルの祖父母か。それは、願ってもない事だ。壮絶な過去があってもなお、アシュベルは真っ直ぐと前を向いて大人になろうとしている。そんな彼が尊敬する二人なのだ、きっと素晴らしい人柄に違いない。
いつか会ってみたいと、サァラも思っていた。しかし、獣の姿だけでなく獣人の姿でさえ、武人という言葉が相応しいグリフよりも巨大なので、驚かせてしまわないと良いのだが……。
「……あ、グリフさんで思い出した。今日は、アシュベル一人なんだね」
いつも傍らには、ユーグリス家に仕えるグリフの姿があるのだが、今日に限ってそれが見当たらない。すると、アシュベルはぱっと表情を明るく咲かせ、自慢するように胸を張った。
「そうだよ! いつか絶対に、一人で姉さんに会いに行くって決めてたんだ! 前々から言ってたんだけど、それをようやく勝ち取ったよ。まあ、今日だけなんだけど……」
「仕方ないよ。アシュベルったら前、誰にも何も言わずに一人でこっちに来ちゃった事あったじゃない。しばらく外出禁止令が出るくらいの大目玉食らったんだから、そりゃずっとなんて言えないよ」
「もう昔の話なのに!」
昔といっても、一、二年ほど前だから、けっこう記憶に新しい事件だと思う。
こりゃグリフさんたちも大変だなあ。
アシュベルと膝をつき合わせ話し込む、グリフと強面なその部下たちが容易に浮かんできた。サァラはクスクスと笑い、頬をむくれさせるアシュベルを見つめた。
「……早く、大人になりたいなあ。そうしたら、姉さんに会いに来るのだって自由なのに」
アシュベルは不満げに呟くと、サァラの身体に寄りかかった。
貴族子息として立派になろうと頑張っているが、そういうところはまだ少し幼い。サァラは小さく笑い、彼の頭に自らの顔を寄せる。
「早く大人になりたい君には、嫌かもしれないけど、私としてはゆっくり大人になって欲しいなあ」
「どうして?」
「きっと、あっという間だもの」
あっという間に、彼は大人になる。肩幅も広くなって、背丈も伸びて、足だってぐっと長くなる。
私の中では、まだ出会った時のままの、七歳の少年なのに。
気付いたら五年も経ち、十二歳なのだ。次に会う時、どんな風に大人っぽくなっているのだろう。
生きる世界と、流れる時間の速さの、違い。考えると少し寂しいが、しかし、楽しみでもある。
「ゆっくり、大人になってね。君は絶対に、素敵なひとになるから」
「そうかなあ」
「そうだよ」
そして、その時まで、私はここに居る。
いや、その先も、ずっと。
「私はこれからも、アシュベルの味方。いつか私を追い越して、大人になって、好きな人と結婚して、おじいちゃんになっても、ずっとね」
生まれた場所であり、彼と出会った場所でもある、この森で、私は彼の味方であり続ける。
そして、もしもアシュベルや、彼の大切な人たちに大変な事が起きたとしたら――私は迷わず森を出て、彼のもとへ向かおう。
ガァクとつがいになっても、その思いは、五年前から変わらずにサァラの心に根付いていた。
額を重ねるように、互いの顔を寄せ合う。アシュベルの青い瞳は、ゆっくりと瞬き、やがて微笑みを浮かべた。
「僕も、これからも、姉さんと一緒にいるよ。これから先、ずっと、会いに来るんだ」
そう言ってアシュベルは、毛皮に包まれたサァラの獣の手を、ぎゅっと握った。以前よりも少し大きくなった、けれどサァラの手の半分にも満たない、小さな人間の手。彼が成長しても、この違いを埋める事はないだろうけど、ナーヴァルという獣に触れてくれるアシュベルが、やはり愛おしい。
「ありがとう、嬉しいよ」
にっこりと笑うアシュベルに、サァラはまた救われた。
――かつて、サァラは人間であった。
その記憶があったばかりに、竜を噛み殺す最強の猛獣でありながら、不完全かつ最弱の獣として生まれ、その弱さを払拭する事なく成長してしまった。
人間に戻る事を何度も夢見ては、そのたびに現実に容赦なく打ちのめされ、嫉みと羨みで気が狂うような時もあった。
けれど――人間の子どもを助け、彼らと関わったおかげで、ナーヴァルとして生きてゆく覚悟は出来た。
これからは、不完全な最弱のナーヴァルという点を強みにし、人間たちと親しい関係を築いてゆくのだ。
それを認め、受け入れてくれる唯一の仲間が、傍らにいる。
人間とナーヴァル。本来なら相容れない存在だが、そのどちらの手も取って過ごしてゆけるのならば――。
(うん、悪くない。悪くないよね)
草原を横切る風が、故郷の森の香りを運ぶ。
それを吸い込んで仰ぎ見た空は、いつになく輝いていて。
世界の眩しさに、笑みがこぼれた。




