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最弱獣の献身  作者: 白銀トオル
第三章 黎明の噺
23/26

23 ――そして共に在る事を願う

2017.10.11 更新:1/3


たいへん、たいへん、長らくお待たせいたしました!

一話の文字数がちょっと多めになってしまいましたが、ラストまで更新いたします。

よろしくお願いします。


 昇り詰めていた銀色の月は傾き、白んでゆく空の中に溶け、薄れてゆく。

 地平線を染める朝陽は果てにまで光を届け、目映く照らし出した。


 ――夜明けが、訪れた。


 ゆっくりと目覚める世界の姿を、サァラはじっと見つめていた。

 夜明けと共に活動を始める習慣がもともと身に着いているが、今日は普段よりもずっと目が冴えている。しかし、不快な感覚はなく、凪いだような心地だった。


 サァラは両腕を持ち上げ、上体を伸ばす。視線をやった野営地は、物音もなく静まり返っている。アシュベルたちが起床するまで、まだもうしばらくは時間があるだろう。

 何をするでもなく、サァラはぼんやりと空を仰ぐ。清々しい緑の香りを含んだ風が、草原の上をサアッと吹いてゆく。


 ――ふと、サァラの背後から、足音が響いた。

 近付いてくる気配に赤い獣の耳を揺らし、ゆっくりと振り返った。


「ガァク、おはよう」


 屈強な体格の獣人――ガァクは、ああ、とだけ返した。

 清々しい朝陽を迎えたのに、彼の周辺だけは相変わらず物々しい威圧感に満ち溢れている。


 ここに居るという事は、森へは戻らなかったようだ。昨晩はあれだけの事を言っていたのに、放っておかない辺りが彼らしくて、少し笑みがこぼれる。


「……あのね、ガァク」

「なんだ」

「私ね、一晩、きちんと考えたんだ」


 自分の立場と、アシュベルの立場。

 自分の気持ちと、アシュベルの気持ち。

 これまでの事、これからの事……――。


「ちゃんとね、決めたよ。私は、どうしたいのか」


 ガァクの気配が、微かに揺れ動いた。しかし彼は、ここで答えを聞き出そうとはせず「そうか」と一言だけ呟いた。


 誇り高い、大森林の覇者――ナーヴァル。

 “始源の大森林”という特異な環境と、そこに築かれた生態系の頂点に属し、人間界では伝説の扱いを受ける、大陸最強の猛獣。


 ガァクの側に居ると、痛いほどにそれを理解する。

 私は結局、彼のようには振る舞えない、落ちこぼれなのだ。

 本当の意味で、ナーヴァルになる事は、これからもけしてないだろう。

 ――しかし。

 不完全なナーヴァルなりにどうしたいのか、きちんと、決めた。


 もうしばらくすれば、アシュベルたちは起床し始める。身支度をし、朝食を食べ、それから出立の準備に入るだろう。その時、サァラはアシュベルへ伝えるつもりだった。もちろん、ガァクにも。


 夜明けを見つめるサァラは、心静かにその時を待った。



◆◇◆



 空が白く明ける頃には、野営地からグリフたちの声が聞こえるようになった。

 傍らにいたサァラが、爽やかな朝に相応しい微笑みで挨拶をすると、少々びくついたがおはようと返してくれた。一晩も経てば、彼らも慣れてくれたらしい。


 寝ぼけ眼で起きてきたアシュベルは、グリフたちへの挨拶はそこそこに、真っ先にサァラのもとへやって来た。今朝から可愛らしさが爆発しているアシュベルだが、綺麗な金髪も見事に爆発している。

 近場に流れるせせらぎのもとげへ彼を連れだし、顔を洗い、髪を整えてあげた。するとアシュベルは、自前のブラシを握りしめて「今度は僕がお手伝いします」と笑った。


 そういえば、森に居た頃は、私の髪を梳かしてくれていたっけ。


 あの頃を思い出しながら、サァラはアシュベルへ背を向ける。アシュベルは嬉しそうに近付くと、せっせと赤い髪を梳いた。


「本当は、女のひとの髪に、男のひとが触ったら駄目らしいんです」


 女性の髪に男性がおいそれと触れるのは憚れる行為だと、アシュベルは言った。

 心を許した相手以外には触れられたくないという、女性ならではの心情は、どの世界でも共通らしい。


「でも私は、人間じゃないしねえ。女っていうより雌って感じだし……気にする事ないよ」

「うん。でも、僕あの頃、途中まではお姉ちゃんの事をお兄ちゃんだと思ってました」


 お、お兄ちゃん?!

 さらっと横切った新事実に、サァラは軽く衝撃を受ける。自分ではそれほどでもないと思っていたが、身体の小さなアシュベルからすれば、太く逞しい獣人以外には見えないだろう。仕方のない事だが、少々、複雑な気分である。


「僕、ずっと閉じこもっていて、獣人なんて初めて見たから。あ、でも、途中からはちゃんとお姉ちゃんって気付きました!」

「そ、そっかあ。良かった。何処ら辺で気付いたの?」


 尋ねると、アシュベルは急に声を小さくし「その、えっと」と言葉を濁した。


「ひ、ひみつ、です」


 何故か恥ずかしがって言おうとしないアシュベルに、サァラは首を傾げた。




 その後、朝食の準備が出来たようで、アシュベルたちは輪になって集まり食事を始めた。

 今朝の食事は、昨晩の夕食と同じく、パンとスープのごく簡単なものだった。危険な生き物が闊歩する界隈なので、手の込んだものは出来ないだろうが、少しだけ寂しいような気もする。


(昨日はお夕飯を食べさせてもらったし、お礼ってことでいいよね)


 彼らが食事をしているその間、過ごし慣れた森へ飛び込み、食用の木の実を集めて回った。アシュベルが森に居た頃、彼もよく好んで口にしたリンゴに近い味のするものや甘い果実水をたっぷりと蓄えたものなどを選んだので、グリフたちにも害はないはずだ。

 気に入ってくれると嬉しいな。

 両手に抱えたサァラは、意気揚々と野営地へ持ち帰った。





「わあ、これ、僕が食べてたものだ!」


 真っ先に反応し、明るい声をこぼしたのはアシュベルだった。木の実を両手で持ち上げ、懐かしそうに笑っている。

 対して、グリフなどの大人たちはというと――両目を見開き、硬直していた。


「始源の大森林の、食い物か……」

「国中が、大金を叩いてでも手に入れようとするぞ……」

「これ一つで、豪邸がいくつ建つかな……」


 彼らの世界では、どうやら故郷の森は結構な場所らしいので、森の至るところで生えまくっているこの木の実も相当なレア物らしい。激しく狼狽ろうばいし、両手を宙にさまよわせている。


「ここで食べていくのは、問題はないですよね。皆さんの胃袋に消えるわけですから」

「う……そ、そうだが、しかし……」


 屈強な男たちが、揃いも揃ってぶるぶると震えている。しかし、森で過ごしたアシュベルはそれに気付かず「これはこうして、こうやって食べるんだよ」と得意げに説明し、グリフたちへ無邪気に勧めた。

 やがて、グリフたちは意を決したようにナイフを握った。小さな子どもに励まされ、どうやら覚悟を決めたらしい。壊れ物を扱うような仕草で、慎重に皮を剥き、丁寧に切り分ける。そして、各々が指で摘まみ、一息に口へ放り込んだ。


 ――その瞬間、彼らに張り巡らされた緊張は、全て吹き飛んだ。


 どうやら、口に合ったらしい。もしくは、ごく普通に美味しくて、驚いたのかもしれない。なんにせよ、気に入ってもらえたようだ。


「おいひい!」


 そしてアシュベルは、怖々と口に含むグリフたちとは対照的に、ご機嫌な様子で頬張っている。ハムスターのようにぷくっと膨らんだ頬に小さく吹き出し、顎を伝う果汁を指で拭い取る。


「良かった。たくさん採ってきたから、いっぱい食べてね」

「ありがとうございます!」


 そして集めた木の実のほとんどは、アシュベルとグリフたちの腹の中へ収まった。余ったいくつかはユーグリス家……アシュベルの家に持って帰る事になり、丁寧に包まれた。


「とっても美味しいから、おじい様とおばあ様にも食べて欲しいんだ」


 にっこり笑うアシュベルは、間違いなく天使だった。



◆◇◆



 食事が終わりしばし寛いだ後、グリフの低い声が響いた。


「――坊ちゃん、そろそろ野営地の片付けをやり始めましょう」


 アシュベルの小さな肩が、大きく飛び跳ねる。

 和やかな空気が、しんと、音を失った。

 言葉の意味は、理解しているのだろう。アシュベルは長いことぐっと唇を噛んで俯いたが、最終的にはこくりと頷いた。


 そっか、そろそろか。


 サァラは、人知れずため息をつく。

 野営地の撤収作業をし、それが済んだら、彼らは帰還する。彼らが居るべき、本当の場所へ。


「俺たちで、片付けをしますから。坊ちゃんは待っていて下さい」

「うん……」


 アシュベルは素直に頷いたけれど、片付けなんてしなくていいという思いが、しょげた空気からはっきりと読み取れた。サァラは小さく苦笑し、彼の頭を撫でる。そうすると、アシュベルはテコテコと移動し、サァラの赤い尻尾の上へ倒れた。日頃、丁寧に毛繕いしているもふもふな尻尾に全身を埋め、両腕で抱きしめる少年に、ますます苦笑いが深まる。

 離れがたいと思ってくれるのは、嬉しいが……。


「――そうだ、アシュベル」


 サァラは少し考え込んだ後、尻尾をもふもふするアシュベルへ声を掛ける。埋もれていた彼の金色の頭が、のっそりと起き上がった。


「片付けが終わるまで、少し歩こっか」

「歩く……?」

「私の、背中に乗って」


 アシュベルの表情が、ぱっと明るくなった。


「どう?」

「乗るッ!」


 アシュベルは即答し、嬉しそうに立ち上がった。


「大丈夫ですよね、グリフさん」

「ああ、構わない」


 グリフだけでなく、他の護衛たちも同様に頷いていた。彼らの了承を得たところで、サァラは野営地から距離を取る。いつものようにその場で四つん這いになると、獣人の姿から、本来の姿へ変化した。鮮やかな真紅のたてがみと、混じり気のない純白の毛皮を持つ、四つ足の巨獣――ナーヴァルの姿へ。


「さ、アシュベル。どうぞ」


 四肢を折り巨体を伏せると、アシュベルは瞳を輝かせ駆け寄ってくる。なにぶん体長は五メートルを軽く超えているようなので、伏せたとしても体高もそれなりにあるが、アシュベルは毛皮をむんずと握りよじ登っていく。どうにか背中に辿り着くと、這うように移動し、首元へしがみついた。


「大丈夫? 立ち上がるからね」


 よいしょ、と身体を持ち上げると、首の後ろから楽しそうな声が上がる。高い高いと、両足をばたつかせて大はしゃぎしているようだ。


「じゃあ、少しだけ歩いてきます」

「ああ……頼む」


 歩き始めようとした時、不意に、片隅で寝転がるガァクと視線がぶつかった。獣人ではなく四つ足の獣の姿をした彼は、特に興味は無さそうだったが、その炯眼は鋭くサァラを見据えている。

 分かってるよ、心配しないで。

 サァラはガァクに背を向け、野営地から離れた。




 遮蔽物のない陽の注ぐ草原を、真っ直ぐと駆け抜ける。

 蹴り上げる地面の柔らかさと、涼しい風に運ばれる緑の香りが、普段よりもずっと心地よかく感じるのは、首にしがみついている存在のおかげだろう。

 「すごいすごい! 速いです!」とはしゃぐアシュベルにつられて、サァラの心も自然と弾む。ナーヴァルとしてはダメダメな存在だが、足には少々、自信があるのだ。あのガァクでさえ追いつけなかったのだから。

 とはいえ、それを披露するとアシュベルは吹き飛んでしまうので、今は駆け足を楽しむ事にする。


「ふふ、ナーヴァルの背中に乗ったのは、きっと君が初めてだね!」

「うんッ」


 アシュベルは楽しそうに笑って、毛皮にしがみつく。

 しばらくの間、彼の上機嫌な声が響いていたけれど、ふと気付くと、いつの間にかそれが途絶えていた。


「アシュベル?」

「……あのね、お姉ちゃん」


 アシュベルの小さな手が、毛皮をぎゅっと握りしめる。まるで意を決したように、彼が尋ねた。


「ずっと、聞きたかったんです。どうして、お姉ちゃんは僕を助けてくれたの?」


 助けるべき存在では、なかったはずなのに。


 言外から、そんな言葉が聞こえてきそうな響きだった。幼いけれど、子どもらしからぬ落ち着きのあるアシュベルだ。里に連れていって、命だけはどうか見逃してくれと懇願したあの光景を……彼なりに、理解しているのかもしれない。


 どうして、か。それは、私が――。


 口を開きかけた。だが、柔らかく閉ざすと、それを飲み込んだ。


「……どうしてだろうね。その時は、助けなきゃって思ったの。だから」


 アシュベルは、そっか、と小さく呟いた。そうして、毛皮に顔を埋めると、全身で抱きしめてきた。


「――ありがとうございます、助けてくれて。僕は、お姉ちゃんのおかげでここにいる」

「アシュベル」

「僕、お姉ちゃんが好きです。これからも、ずっと、大好きです」


 予想外な言葉に、サァラは面食う。

 首にしがみつく腕が、ぎゅっと力を増した。恥ずかしそうに、ぐいぐいと顔を埋めてくるのが伝わる。


「……ありがとう。私も、アシュベルが大好きだよ」

「……うんッ」


 サァラはまなじりを緩め、笑みを浮かべる。

 姿形は大きく違えど、その時に通わせた想いは、嘘偽り無く真実だった。






 ――ひとしきり草原を駆け、野営地へ戻ると、撤収作業は終わっていた。

 設営された天幕などは全て片付けられ、静かに待っていたグリフたちの姿だけがそこにある。

 帰る準備が整ったのだと、彼らの佇まいが告げていた。

 サァラはアシュベルを地面へ下ろし、獣の姿から普段の獣人の姿へ変身する。

 アシュベルのもとにグリフたちがそっと歩み寄り、外套や鞄を持たせた。それを受け取るアシュベルの表情は、先ほどまではあんなに笑顔だったのに、もう暗く落ち込んでしまっている。


「楽しかったよ、とっても。ありがとう」


 明るく声を掛けてみたが、こくりと頷く仕草は弱々しい。それに、大きな青い瞳には涙が滲んでいる。口では立派な事を言っても、やはりまだ八歳の幼い少年なのだ。


「アシュベル、あのね。私は、君を助けた事や、森の恵みを分けた事、悪かったなんて思ってないよ。今もね」


 あの日、様々な偶然が重なって、彼はあの森に――始源の大森林にやって来た。

 同胞に追われていた彼を庇い、見逃すよう懇願し、仲間から不信感を買い、喧嘩に発展しそうになったけれど、それを悔いた事は一度もない。

 例え、あの森が人間にとってどれほどの価値があったとしても。分け与えたものが、いづれ戦禍を招くものであったとしても。

 彼を助けた事だけは、この先もきっと後悔はしないだろう。


 ――そして。


「もしも、大変な事が起きたりしたら――その時も、私が、アシュベルの味方になるから」


 人の世で、ナーヴァルや故郷の大森林が、どのような扱いを受けていようと。

 私だけは、彼と、彼の家族の味方になろう。


 それは、昨晩グリフたちに言われたからではない。サァラ自身の、心からの決意である。


「私はこれからも、君の味方で、君の友達。だからいつでも、ここに遊びに来て、私を呼んでね」


 サァラの胸元では赤い首飾りが揺れ、アシュベルの胸元では青い首飾りが揺れる。

 魔石という代物から作られた、このつがいの首飾りのおかげで、せっかく言葉が通じるようになったのだ。これっきりというのも、もったいないし、とても寂しい。


「君は、君の暮らす場所で頑張る。私も、私の暮らす場所で頑張る」


 そして、この地で待つのだ。彼がやって来るのを、ずっと、いつでも。


「だからね――これからも、よろしくね」


 サァラが微笑むと、沈んでいたアシュベルの面持ちが明るく華やぎ、目映い笑顔が咲いた。


「う、うん! これからも、ずっと、ずっと、よろしくお願いします!」


 アシュベルは嬉しそうに何度も頷き、サァラの身体にしがみつく。

 彼の頭を撫でながら、ふと顔を上げると、グリフたちの笑みに気付いた。彼らの無骨な面持ちに広がるのは、アシュベルを見守る穏やかさと――サァラへの、感謝の念だろう。言葉は無かったが、その眼差しはありがとうと告げているような気がした。


 森の中で暮らし、そこに存在するだけで波乱を呼ぶ獣の私では、どう頑張ってもグリフたちのようにはなれないけれど。ほんの少しくらいは、アシュベルに寄り添える存在になりたい。

 ならなければと、彼らを見てサァラは改めて思った。




「――さ、そろそろ出発しよう」


 誰かが、静かに呟いた。いよいよ、帰る時間のようだ。

 サァラはアシュベルの肩を優しく掴み、そっとグリフたちの方へ押す。アシュベルはトコトコと足を進めたが、急に立ち止まると、ぐるりとサァラへ振り返る。

 否、その瞳は、サァラを通り越して――背後で寝そべっている、ガァクを見つめていた。

 そして、何を思ったのか、アシュベルはガァクへと駆け寄っていった。サァラは驚き、その小さな背中を目で追いかける。グリフたちからも、一斉に息を飲み込む音が聞こえた。

 無理もない、小柄の部類に入るサァラでさえ獣になると体長五メートル以上はあろう巨体なのに、未来の長とまで言われたガァクは十メートルにまで及んでいるのだ。僅か八歳のアシュベルの身体は、あまりにも小さく頼りない。

 しかし、周囲の不安など気にも留めず、アシュベルは果敢にもガァクを真っ直ぐと見上げている。竜を噛み殺すとまで言われる“本物”のナーヴァルの雄を。

 ガァクは赤い炯眼を僅かに動かし、アシュベルを見下ろす。グルル、と重厚な音がこぼれた。威嚇ではないのだが、和やかだった空気が一気に緊張を帯びる。万が一という嫌な光景も過ぎり、サァラも少し心配して動向を見守った。


「あ、あの!」


 少し声を震わせながら、アシュベルはあのガァクへ話しかけた。


「ぼ、僕は、たぶん、あなたにとって邪魔な存在でしか、な、ないと思います」


 ガァクの目が、鋭く細められる。その仕草にアシュベルは小さな肩を揺らしたけれど、息を吸い込み、声を大きく響かせた。


「で、でもいつか、み、み、認めてくれるように、がんばるから!」


 アシュベルはそう言い切ると、サァラのもとへ慌てて逃げてきて、背中にビタッと貼り付いた。


 会話というより一方的な宣誓であるが、サァラよりも遙かに巨大で、かつ強面のガァクへ真っ向から言い放ったのだ。大したものだと、純粋に感動する。今は背中に隠れているけれど、もしかしたら彼は将来、大物になるかもしれない。


「……だってさ?」


 サァラは笑みを浮かべ、ガァクを見やる。彼はふんっと鼻を鳴らし、興味なさそうに顔を背けた。しかし、まさか自分がそう言われるとは思ってはいなかっただろう。彼の瞳に一瞬驚きが走ったのを、サァラは見逃していない。


 再び、グリフたちがアシュベルを呼ぶ。彼はサァラの側を離れ、グリフの足下へ駆けていった。そしてサァラへと向き直ると、満面の笑みを咲かせ、両手を振った。


「それじゃあ、また! 絶対に、またね!」


 青い草原に魔方陣が浮かび、白く輝く。太陽の光よりも目映く、鮮烈な光は瞬く間にアシュベルたちを包み込んだ。

 いつか見たものと、同じ風景。しかし違うのは、その場にある感情が困惑ではない事だろう。


「またね――!」


 サァラが手を振り返した時、光が弾け飛び、目映く天へ昇った。





 ――草原に、静寂が訪れた。

 先ほどまで目の前に居たアシュベルたちは、もう何処にも居ない。宙に描かれた淡い光の軌跡も、やがてうっすらと溶けるように消えた。

 転移の術といっただろうか。魔法というのは、本当に不思議だ。

 サァラは大きく肩を下ろし、息を吐き出す。すると、背後に寝そべっていたガァクが立ち上がり、四つ足の獣から獣頭の獣人へと姿を変え、サァラの側へ歩み寄る。


「……お前なら、あの子どもに着いていくと思っていたが」


 困惑を帯びたガァクの声が聞こえ、そうだねとサァラは頷く。


「私も、ずっと、そうしたかったはずなんだけど」


 彼の側に居られたら、彼に着いていけたら、どれほど良いだろうか。これまで、そう思っていたのに。


「あんなに小さな子が、頑張るって言ったんだよ」


 大森林やナーヴァルがどういった存在であり、またそんなものに関わってしまった事でいずれ大変なものを背負うと分かっていながら、彼は言ったのだ。自分の暮らす世界で頑張る、と。

 たとえそれが、まだほんの八歳という幼い子どもの言葉であったとしても、サァラの胸には十分過ぎるほどに響いた。


 なら私も、頑張らないと。私が暮らすべき、この森で。


「ここで着いていったら、なんだか、格好悪いじゃない」


 それに、アシュベルは、一度も言わなかった。森を離れ人間の世界に来て欲しい、なんて事は。


「でも私は、これからもアシュベルの力になりたいから、これっきりなんてしない」


 ナーヴァルとしては不完全だが、このやり方を今後も貫く。

 生まれ育った森や種族が特別だろうと、それとは関係なく、これからも彼の力になるのだ。

 それが、サァラの決めた答えであった。


「……そうか、好きにすればいい。お前が変な奴なのは、今に始まった事ではない」


 ガァクは声色を変えず、相変わらずの仏頂面でそう言った。本当にこの雄はぶれないとサァラは思ったが、何となく視線を下げた時に、バサバサと激しく揺れる彼の尻尾を目撃してしまった。平常を装ったガァクの本心が、そこにはっきりと表れている。笑ってしまいそうになるのを、サァラはどうにか堪えた。


「あの、ガァク」

「なんだ」

「あ、ありがとう。色々と」


 様々な意味を含んで告げた言葉に、ガァクは尊大な態度でふんっと鼻を鳴らした。


「俺は自分のやりたいようにやっただけだ。お前に礼を言われる理由がない」


 サァラは、小さく笑う。

 本当に、この雄は潔い性格をしている。

 ナーヴァルという種族がどういうものなのか、そのまま体現したような強さと誇り高さを持ち。口調などは少々手厳しいが、それでいて驚くほど情が厚い。おまけに、未来の長と期待されていたのに、それを呆気なく放り投げてしまう直情ぶり。


 本当に、この雄は、どうしようもないほどに――。


 昨晩、アシュベルの事を考えながら、ガァクの事も考えていた。

 里にいた頃、ガァクという雄が苦手だった。けれど、アシュベルがやって来てきてから、彼の事も少しずつ理解し、今では最も信頼できる仲間になった。


 そんな彼から求愛行動を示された時、とてもそんな風に見る事は出来ず、どう断ってやろうかとそればかり考えていた。


 しかし、今は――。




 ――俺が族長になる事は、これから絶対にない



 ――長の立場などよりも、放っておけないものがあったから。それだけだ




 きっと彼は、この先、側を離れないだろう。あんなに雌として酷い応対を繰り返していたというのに、今もずっと、傍らに居るくらいなのだから。どう断ろうと、追い返そうとしても、きっと。


 ……本当に、どうしようもないなあ。ガァクは。


 サァラは小さく笑い、おもむろにその場でしゃがんだ。草の上に腰を下ろし、隣を叩くと、ガァクは不思議そうにしながらサァラに倣った。


「サァラ、一体な……ッ?!」


 サァラはガァクの前へ移動すると、彼が組んだ胡座の上に尻を置き、胸に寄りかかった。ふかふかな毛皮に覆われた胸は分厚く、安定感も抜群だ。体格からして違うので、細いサァラではそのまま埋もれてしまいそうである。


「サァラ……?」


 丸太のように太い腕が、そわそわと揺れる。こうもはっきりとした動揺が、彼から読み取れるというのも珍しい。悪戯が成功したような、少しだけ良い気分になった。


「なんでもない。ちょっと、ほっとして疲れただけ。休ませて」


 肩の力を抜き、全身を彼に凭れかける。毛皮越しにガァクの分厚い胸が震えたけれど、彼は突き飛ばさず、静かに椅子になってくれた。

 サァラは瞼を下ろし、そっと息を吐き出す。


 ……ナーヴァルたちの繁殖期――恋の季節は、もうすぐそこに迫っている。

 森に留まり、獣として生きるという事は、この季節を蔑ろにしないという事でもある。

 季節の本番を迎えた時、熱心に獲物を贈ってくるだろうガァクに、きちんとした返事をしようと心に決めていた。


「ガァクが居てくれて、良かったなあ」

「……なんだ、それは」


 サァラの頭上で、ガァクは呆れた溜め息を吐き出す。


「同じナーヴァルだろう。何を今さら」

「……うん、そうだね」


 迷わずに告げてくれるその言葉を、自然と受け入れていた。

 反発し合っていた人間の記憶とナーヴァルの記憶が、ようやく一つにまとまったのだ。




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