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最弱獣の献身  作者: 白銀トオル
第三章 黎明の噺
21/26

21 未来を想う(1)

2017.02.12 更新:1/2


とても久しぶりな更新で申し訳ないです。

待っていて下さった方々には最上級の感謝を。


うっかり間違って一話まるまる削除した悲劇があったなんて事は、誰にも言えない秘密です。ええ。

 本格的な夕暮れを迎える頃、広大な草原の一角には天幕や焚き火などが用意され、野営地が設営された。


 森の中ではけっして見る事のない光景を、サァラはうきうきと眺めた。

 記憶の中とは少々異なるが、それは間違いなくキャンプの風景なのだ。

 思わず尻尾もぶるんぶるんと旋回するように動いてしまう。


 しかし獣人の姿とはいえ、ナーヴァルが熱烈な視線を向けるのだ。準備をする護衛たちとしては、気が気でなかっただろう。

 サァラへ怯まず接してくれるのは、やはりアシュベルだけであった。

 小さな身体で天幕の準備を手伝った後、じっと見るサァラに何か思ったようで、野営地の案内をしてくれた。とても女子とは言えない、鋭い爪の生えた毛むくじゃらな手を握り、身振り手振りでこれはこうするんだよと一生懸命に説明をしていく。

 設備や道具などの用途は粗方の想像がついたけれど、無粋に口を挟んだりはしない。良いところを見せようとする彼に微笑んで、相づちを打った。


 アシュベルは、目映い笑顔を輝かせている。

 今晩限りの野宿の許しを貰い、サァラと過ごせる事が嬉しいのだと、その小さな身体の全てで表現している。お姉ちゃんと呼び慕う姿は、貴族の子息ではなく、無邪気な幼子そのものだ。


 ちなみにその間のガァクは、野営地の外で寝そべり、アシュベルたちの準備を眺めていた。森で暮らすナーヴァルには縁遠いものばかりなので、さすがの彼も興味を抱いたのかもしれない。


「……あんなものを用意しなければならないのか。人間は本当に脆弱だな……」


 ……興味の方向性は、相変わらずであったが。





 準備が整い、迎えた夕食の時間。

 焚き火を囲む彼らの輪に、何故かサァラも加わり、少しの間だけ肩を並べた。

 サァラはサァラで別の食事を取るつもりだったのだが、「お姉ちゃんもここどーぞ!」とアシュベルにばしばしと隣を叩かれては、それに否とは言えない。

 サァラはいそいそと移動し、初めて大勢の人間たちと食事を共にした。

 しかし護衛のグリフたちは、相変わらず色濃い緊張を張り巡らしており、終始嬉しそうなアシュベルとは実に対照的である。彼らの表情が、まるで最後の晩餐を迎えたようだったと、サァラは切なさと共に記憶した。


 隣にナーヴァルがいる彼らの胸中を思えば、心底憐憫を抱いたが、サァラはおかげで楽しくアシュベルと過ごせた。

 これがナーヴァルとして許されない行動であり、また人間からしても歓迎されない事であると知っても、彼らの輪に加わり、言葉を交わす事を、サァラは心から喜んだ。


 いつか、人間と一緒に――かつてそう抱いた夢は、今になって叶えられた。


 それだけで、サァラには十分であった。



◆◇◆



 深い藍色に包まれた森と、夜風が吹き抜ける草原の頭上に、白い月が昇り詰める。

 焚き火の灯りで照らされた野営地を除けば、辺り一帯は夜に包まれ、すっかりと静寂の中で寝静まっていた。


 食事を終えた護衛たちは、片付けや就寝の支度などを済ませ、ゆったりと寛いでいる。今は、焚き火の側で夜の見張り当番の相談もしているようだ。(ガァクが居るから襲われるような事もないとは思うが)


 そして、アシュベルはというと――。



「――それでね、僕、色んな勉強してね!」



 サァラの側にぴたりとくっ付き、にこにこと笑っている。

 疲れた様子も眠たそうな様子も全くない金髪の少年。夜空の下、眠気ゼロでまだまだ元気一杯であった。



 焚き火の炎で照らされた野営地から、少し離れた草原の一角で肩を並べる、サァラとアシュベル。温かみを帯びた角灯の明かりが、一人と一匹を闇夜から切り出す。

 食事の後から、アシュベルはサァラへ楽しそうに語ってくれた。家族の事、生活の事、此処に来るまでの事――たくさんの話を、サァラへ聞かせた。おじい様とおばあ様が大好きで、使用人たちが大好きで、そこでの生活は毎日楽しくて仕方がないと。お母様と一緒でないのは残念だけれど、その人の分も頑張るのだと。そうして、森から帰ってから一年間たくさん学んだと。


 身振り手振りで、アシュベルはたくさんの事を話した。伝えたい事はまだまだあるのだと、全身で喜びを表しながら。

 アシュベルの気持ちを理解しているのだろう、護衛たちも今だけは遠くから見守っている。


 サァラは機嫌良く尻尾を振った。そういう風に懐いてくれる事はもちろん嬉しいが、何よりもサァラは、彼が利発な少年になった事を嬉しく思った。出会った当初はおどおどとし、何をするにも怯えて内向的な気質であったのに、すっかり立派な子になったものだ。




「――お姉ちゃんとお話出来て、良かったです」


 一通り語ったアシュベルは、満足そうに息を吐き出した。


「そうだね、本当。私も嬉しい」


 それもこれも、この首飾りのおかげだ。作りや原理などさっぱり分からないが……凄いという事だけはこのポンコツの頭でも理解出来る。


「僕が帰る時に、お姉ちゃんが持たせてくれたものだよ。綺麗な魔石から作ったんです!」

「ませき?」

「魔石は、えっと、魔法を使う源を閉じ込めた石の事です」


 世界には“魔力”と呼ばれる要素が存在している。

 それらは自然界で生まれ、至るところに漂っているが、中には魔力が湧き出て泉のように溜まる場所がある。そういったところでは、長い歳月を経て鉱石類に魔力が宿り、“魔石”と呼ばれる特別な鉱石へ変わる。


 この魔石は、様々な分野で有効活用され、人々の暮らしにも大きく関わる資源とされている。だが、いかんせん数には限りがある。その上、魔力溜まりとなる場所そのものにも、魔力の濃度や純度、量などにムラが存在し、その価値にも屑鉄レベルから国宝レベルまで非常に幅が存在している。

 当然、希少価値の高いものは滅多に現れないので、苛烈な争奪戦は必須だという。


「お姉ちゃんが譲ってくれた魔石は、とても綺麗な魔力をたくさん貯めていたから。この首飾りを作れたんです」


 これじゃなければ、あの膨大な魔法式を書き込む事は出来なかったです。

 楽しそうに笑うアシュベルの言葉は、正直ほとんど理解不能であったが、つまり自分が持たせたものが役に立ったという事なのだろう。それなら良かったと、サァラは尻尾を振ったが……。


「でも、私、そんな凄いのを持たせた覚えがないよ」


 その辺にわんさか生えている野草や、わんさか実っている木の実、河川の底の石ころといった――言葉にすると結構酷いラインナップだが、そんな物しか渡せていない。


「たぶん、その川の石だと思います。魔石を加工する専用の工具で外側を削ったら、ほらこんなに、宝石みたいに綺麗になったんだよ!」

「そ、そうだったんだ……」


 ああ、だから森にやって来た人間たちが持っていこうとする物にランクインしているのか。

 見た目は、道端に転がっている石ころそのものなのに。魔石とかいう大それた代物だったなんて、思わなかったよ。

 今世の私の故郷はとことんおかしいと、サァラは苦笑いをこぼす他なかった。


「……あ、そうだ! お姉ちゃんから貰ったのは、他にも色んなのに変わったんです」


 アシュベルはおもむろに立ち上がると、野営地に向かいテケテケと走り去り、そして鞄を抱え戻ってきた。

 角灯の側に腰を下ろし、子どもの手には少し大きなその鞄から、短剣を引っ張り出す。


「首飾りを作る時に出てきた魔石の破片は、僕の短剣と、ユーグリス家の武器に使われて。この鞄も、丈夫に作り直してもらったんです。薬草や毛皮も、全部別のものに変わりました」


 川底の石――と思っていた上質な魔石は、装飾品、武器や部品などの補強材料に。

 その辺に生えている雑草――と思っていた薬草は、もしもの時の常備薬に。

 至るところに実っている木の実――と思っていた幸運の食べ物は、美味しいお菓子に。

 そして、野兎の毛皮――と思っていた伝説レベルで希少な兎の毛皮は、素敵な外套に。


 サァラから渡された代物は全て、余す事なく大切に使われていると、アシュベルは言った。


 そして、彼は抱えた鞄から、さらに別の物を引っ張り出す。子どもの手には少し大きく感じる、無地の表紙の本だった。それを地面に置くと、中を開き、サァラへと見せる。角灯の明かりに照らされたのは、ペン画のイラストであった。

 本ではなく、スケッチブックだったらしい。


「これね、僕が書いたんです」

「へえ! アシュベルが? すごい、上手だね」


 お世辞でも何でもなく、本当に上手だと思った。八歳にしてこのペン画は凄すぎると、サァラは賞賛する。

 よく見えるように腹ばいに寝転がると、アシュベルも同じように寝そべった。彼は小さな手でスケッチブックを、ぺらり、ぺらり、とゆっくりめくる。大きな木々や草花の風景、角を持つ兎、大きな昆虫に大きな鳥――描かれているものには、とても見覚えがある。これは、きっと――。


「帰ってから、ずっと書いてたんです。あの森の事、いつでも思い出せるように」


 ページをめくりながら呟いたアシュベルの声は、先ほどまでとは違い、とても静かだった。


「最初は怖かったけど……楽しかったんです、森で過ごしてた時。緑の匂いとか、土の温かさとか、初めて分かって。見た事のない植物や動物がたくさん暮らす場所を、息が切れるまで走って。一日が、ずっと、キラキラして」


 本という箱庭の中に閉じこもっていた自身がどれほどちっぽけであったのか、教えてくれた未知の世界は――毎日を特別なものに変えてくれた。そしてそれは、あの時いつも隣にいてくれた、ナーヴァルのおかげだったと、彼は言う。

 「お姉ちゃん、僕ね」アシュベルは不意にスケッチブックから顔を上げ、サァラを見つめた。


「本当は、ずっとあの森で暮らしても良いって、思ってたんです」


 サァラは、思わぬ言葉を聞き、赤い瞳を見開かせた。

 あ、みんなには内緒だよ。アシュベルは悪戯っぽく、小さくはにかんだ。


「僕はずっと、いらない子だったから、それならお姉ちゃんとずっと一緒の方が良いって思ってた。なのにグリフたちは迎えに来て、どうしてってちょっと考えてました。でも、戻ったら、おじい様やおばあ様たち、みんな喜んでくれて……」


 アシュベルが人間の生活に戻る理由にはなったが、それでも、しばらくの間は大森林の事ばかり考え過ごしていた。

 それが変わったのは、サァラが鞄に詰めて持たせてくれたものを祖父母たちと共に改めた、あの時だ。





 鞄の中から出てきたものは、後日、祖父母と友人たちの力を借り、調べる事になった。

 古の時代の生態系が今なお育まれる、未踏の魔境――始源の大森林。そこがどれほど人智の及ばぬ環境であるのか理解した祖父母たちは、興奮を通り越し、戦慄したという。


 人の手で栽培する事は不可能な、数多くの希少な植物。

 一頭だけで人の世を如何様にも変えられる、伝説の生物。

 どの国もこぞって欲しがる、最高峰の魔石。

 そして、そんなものが至るところに存在する、大森林の土地の異常性――いや、神秘性。


 単純に求めて良い代物でも、場所でもないと、祖父母たちは青褪めた面で呟いていた。


「……大森林の広がる大地で生きている動植物は、その恩恵をただ得るだけでなく、余す事なく自らの力へ変えた。今はもう失われた古い時代から、絶え間なく、連綿と。その結果が、何もかもが巨大な風景なのかもしれない」


「あの森は、墓場でも、宝物庫でもない。踏み入れてはならない聖域、なのかもしれんな」


 聖域――その言葉に、アシュベルは深い納得を覚えた。

 ならば、その聖域に築かれた生態系の頂点に立つナーヴァルという獣たちは、恐れられる存在ではなく、森を守るものなのだろうか――。





「お姉ちゃんの事や、森の事、たくさん勉強しました」


 そして学べば学ぶほど、大森林に対する畏敬の念は増していった。

 会いたくて仕方なかったひとが、本来ならば出会う事すら許されない、遠い遠い存在である事も知った。


「全部、分かってたんです。僕なんかがあの森で暮らせない事くらい、最初から」


 そうだとしても、初めて知った監獄の外の世界が、あの森だったのだ。

 もう一度と願わずにいられなかった。

 その思いは、きっとこれからも変わる事はないのだろう。


 隣で寝そべるアシュベルは、とても八歳の少年とは思えないほど、深い静けさを纏っていた。サァラはすっかり掛ける言葉を見失った。


「――僕、やりたい事が出来たんです!」


 不意に、アシュベルは明るい声音で宣言した。


「森の事や、そこで暮らす生き物の事、たくさん勉強して、もっと色んな事を知りたいんです。いずれユーグリス家を継ぐから、そっちの勉強もおろそかには出来ないけど……学者さんになれたら良いなあって」

「アシュベル……」

「色んな人たちに助けてもらって、僕はここにいる。もちろん、お姉ちゃんにもいっぱい助けてもらいました」


 ――だから、僕は“ここ”で頑張ります。

 助けてくれた人たちに誇れる、大人になるんです。


 闇夜の中に浮かぶ少年の大きな瞳は、凛とした決意に満ちていた。



◆◇◆



 野営地を照らす焚き火の側には、ユーグリス家の護衛たちが腰を下ろしていた。話し合いは、既に終わったようだった。

 驚かせないよう彼らの輪にそっと近付くサァラへ、護衛たちが振り返って視線を向ける。


「すみません、アシュベルが眠ってしまって」


 胸に寄りかからせ抱え上げたアシュベルを、彼らに見せる。すうすうと可愛らしい寝息をこぼす少年は、夢の中に旅立ち起きる気配はない。

 ひとしきり話し込んだ後、彼は落ちるように原っぱへ突っ伏し、そのまま眠ってしまった。元気一杯な様子であったが、やはり疲れていたのだろう。


 護衛たちは表情を緩めると、サァラをアシュベル用の天幕へ案内してくれた。先頭に立ったのは、護衛たちのリーダーであるグリフだ。角灯を持ちながら天幕の入り口を上げてくれたので、それを潜り中へ踏み入れる。

 内装は特別なものは何もなく、野営らしく簡素だった。少年一人が眠るにはかなり広々とした空間だったが、成人男性より巨大な獣人には高さが足らない。頭をぶつけないよう首を傾けながら進み、簡易ベッドにアシュベルを寝かせた。頭の下にマントを置き、毛布をしっかりと掛ける。


「んん……おねえちゃ……」


 ふにゃふにゃとこぼれる寝言に小さく笑い、丸い頭を撫でる。最後に鞄を足元に置き、静かに天幕を出た。


 入り口を潜ると、持ち上げられていた幕がぱさりと下りる。サァラはグリフに向き直り、ありがとうございます、と軽く礼をした。怯えられるかと思ったが、意外にも彼は笑みを返してくれた。


「いや、こちらこそ感謝します。坊ちゃん、随分と楽しそうだった」

「いえいえ、そんな」

「……ナーヴァル殿は、これからどうされますか」


 グリフに尋ねられ、サァラは思案する。するとグリフは、それなら、と提案した。


「それなら少しばかり、私達に時間を下さりませんか――」





 焚き火の側へ導かれたサァラは、グリフを中心に置いた護衛たちと向かい合った。

 見張り当番の数人を除いた全員が集まっているだろうか。肩を並べて座る十数人の屈強な男達は、サァラをじっと見つめている。最初に向けられた恐怖などの感情はなかったが、射抜くような強い眼差しには、別の緊張が走る。


「……改めて、礼を言わせて下さい。一年前、坊ちゃんを救って下さり、ありがとうございました」


 グリフは胡坐の上に両手を置き、大きく頭を下げた。それに続き、他の護衛たちも同様に頭を下げる。

 十数人分の、それも見るからに年上の人々の礼に、サァラは慌てて止めさせた。腕力で語り合う種族の暮らしに慣れてしまったので、そんな風に丁重にされるのはこそばゆい。


 しかも私、逃げ足に特化した落ちこぼれだもの!


 もっと気軽な態度で構わないと、グリフらに伝える。彼らはやや渋り顔になったが、最終的には根負けし、きっと本来の口調なのだろう砕けた言葉を使ってくれた。


「ナーヴァルというのは、もっとこう、おとぎ話の存在だと思っていたが……」

「機嫌を損ねたら終わり、みたいな」

「神聖な相手、というか」


 うん、知ってたけど、盛りに盛ってるね!

 森の外では一体どんな逸話が横行してしまっているのかと、不安が過ぎる。どうせ脳筋ナーヴァルの事だから「邪魔だボケエ!」ぐらいにしか考えていないと思われるのだが……。


「私達は、ただ暮らしてるだけなんですけどね。あの森と、そこで生きる動物たちと一緒に」

「そうか……」


 グリフは精悍な面持ちを、ふっと緩めた。


「話が逸れたな、ともかく礼を言うぞ、ナーヴァル殿。一年前、あんたが見つけてくれなければ、坊ちゃんはどうなっていたか本当に分からない」


 もしも会えたら伝えようと全員で話していたのだと、彼らは顔を見合わせ笑った。


「なあ、一つ、聞かせてくれ。どうしてあんたは、坊ちゃんを助けてくれたんだ」

「……さあ、どうして、でしょうね」


 サァラは軽やかに笑ってみせた。


「ただ、助けたかったんです。それだけですよ」


 グリフたちは表情を緩め、そうか、と呟いた。


「あんたも、坊ちゃんを想ってくれているのだな」

「それは、もちろん」


 気恥ずかしさを誤魔化すように、頭を掻く。すると、グリフたちは顔を見合わせ、小さく頷いた。彼らはおもむろに居住まいを正すと、改めて、サァラへ向き直る。射抜くような真摯な眼差しが、一斉にサァラへ注がれた。


「……ナーヴァル殿、あんたに一つだけ頼みがある」

「頼み、ですか」

「ああ。坊ちゃんの事を想ってくれるのなら――どうかこれからも、坊ちゃんの力になってくれないか」


 グリフの低い声には、それまでにない重みが含まれていた。


「……あんたが坊ちゃんに持たせたものは、どれも国の宝と同等か、それ以上の代物ばかりだ。あれがありゃどんな魔物に襲われようと、どんな疫病が流行ろうと、何の心配もなくやり過ごせるだろう。本当にすげえよ」


 だからこそ。

 グリフの表情に、誤魔化しようのない苦悩が滲んだ。


「もしも他の人間たちに知られたら――ユーグリス家の領地で、戦争が起きる」


 ――戦争。

 全く予想もしていない単語が飛び出し、サァラは目を見開く。


「始源の大森林の代物が、人間の世界に出回った事はこれまでほんの数える程度しかない。だがその時、多くの人間が群がり、奪い合いを重ねたと聞いている」


 たった一粒の魔石のため。

 たった一枚の薬草のため。

 手に入れようとした人間たちは、激しい争奪戦を繰り返した。

 そして、手に入れた国はその恩寵を受け豊かになったが、一方で、自らの欲望に滅んだ国も存在している。

 大森林で命を散らした名も無き人々も含めれば――どれほどの国や人がこの地に取り込まれたのか、計り知れない。


 正直に言って、既に羨望は飛び越えた。今胸を占めているものは、恐怖以外に何もない。あれらはまだ人の世に出てはならない代物だと、学があるわけでもないのに直感した。

 グリフは重い声音で言った。


「……坊ちゃんはな、まだ八歳だが聡明な子だ。あの子なりにそれを理解しているから、ユーグリス家の後継者になる事を選んだ」


 俺達には絶対に言わないが――本音では、あんたの側で暮らしたいと思っているに違いない。人のしがらみなどには、もう関わらず。


「始源の大森林の学者になりたいという夢は、坊ちゃんの、最初で最後のわがままだ。それが叶う事ではないとしても」

「……」

「坊ちゃんは、そこだけは譲らなかった。生半可な覚悟じゃない事を、一年間猛勉強して証明した。だから、旦那様や奥様は、また森に向かう事をお許しになられた」


 だが、もしも始源の大森林と、大陸最強の獣であるナーヴァルと繋がっている事が周囲に知られたら――あの子の周囲で、間違いなく血が流れるだろう。

 今はよくても、いつまでも、身内が守ってあげる事は出来ない。あの子一人で、西の大陸全土の欲望に、立ち向かわなければならない。

 その時、一体誰があの子を、アシュベルを守るというのか。


「だから、これから先も、あの子を守ってくれ。厚かましい事は、百も承知だ。だが、もしも世界中の国が躍起になって欲しがるような事態が起きるなら、それはあんたじゃなければ立ち向かえない。どうか、どうか頼む、ナーヴァル殿」


 再び、グリフたちは、一斉に頭を下げた。大きな身体を折り曲げ、地面に手のひらをつき、深々と下げたのだ。まるで土下座をする勢いだった。


 頼み込む彼らの姿に、サァラは何も言えなかった。何か、言えるはずがない。


 だってそこまで、考えていなかった。

 ただ、良かれと思っただけだったのだから。


 何の変哲もなかった石ころや雑草が、戦争を引き起こす代物だと思ってもいなかった。珍しいものらしいから、アシュベルの役に立てばいいと考えていた。

 森の世界と外の世界の認識が、それほどまでに違うとは。

 真の意味でようやく理解したサァラは、頭を殴られたような気分だった。




「――黙って聞いていれば、随分と勝手だな」




 割って入った重厚な唸り声が、空気を引き裂いた。


 サァラがハッとなって振り返ると、いつの間にか背後には、巨大な白獣――ガァクが佇んでいた。


 いつでも振るえるよう構えた太く強靱な四肢と、鋼すら引き裂くだろう分厚く鋭い爪。野営地の全てに影を落とすように聳えた巨体の獣が、遙か高みから睥睨している。

 深紅のたてがみを逆立て、耳を後ろに倒した獣の顔には、誰が見ても明らかな憤怒が滲んでいた。


 戦う事を早々に諦め、最弱の代名詞を受け入れたサァラとは全く違い、ガァクは数多くの森の生物たちと戦い、勝ち残り、里でも一目置かれてきた。

 竜を噛み殺す大陸最強の猛獣、“本物”のナーヴァルの牙が今、頭上で剥き出されている。

 サァラとグリフたちの間に、緊張が迸った。


「人間ども、先に面倒を持ち込んだのはお前たちの方だという事を忘れたか。それが何だ、まるでサァラの行動が悪いとでも言うように」


 心底、不愉快そうにガァクは吐き捨てる。分厚い胸毛と、牙の向こうで、獰猛な唸り声が響いた。

 ガァクは、それまで変える事のなかった獣の姿から、サァラと同じ獣人の姿へ転じた。

 見る見る小さくなってゆくガァクの姿を、グリフたちは驚いたように見つめていたが、その面持ちには怯んだ様子がはっきりとあった。

 何せ彼は、ナーヴァルの中でも非常に際立った巨体の持ち主。四つ足の獣の姿から、二足歩行の獣人の姿へ変わっても、その外見から滲む威圧感などは全く衰えない。サァラが二メートルほどの身長だとしたら、ガァクはそれを軽々と越えているので、三メートルはあるだろうか。

 なんにしても、グリフたちからしてみれば巨人の領域だ。


 ガァクはサァラの背面に近づくと、抱きすくめるように腕を回した。丸太のような太すぎる腕に包まれたサァラは、ガァクの胸毛に半ば埋もれた。


「本来だったら、あの人間の子どもは殺していたところだ。だが、群れの総意に従わず、森の外へ帰そうとしていたのはサァラだけだった。こいつの物好きは今に始まった事じゃないから良いとして……思い上がるなよ、人間ども」


 今にも八つ裂きにしてしまいそうな声色で、ガァクが吠えた。


「それ以上言えば、俺への侮辱とみなし、噛み砕いてやる」

「ガァク、いいの」


 彼の牙が届かないよう、サァラは腕を伸ばした。ぎゅっと胸毛を引くと、ガァクは渋々といったように押し黙ったが、重厚な唸り声は止まず空気を震わせている。


「ありがとう、大丈夫」


 ガァクは何も言わなかったが、剥き出した牙は引っ込めてくれた。それにほっと安堵しつつ、サァラはガァクの腕から抜け出す。改めてグリフたちに向き合い、静かに口を開いた。


「……私は、自分がした事は、ナーヴァルとしては間違っていたとしても、アシュベルにとっては間違っていなかったと思っています」


 それは、今もサァラの中に強く根付いている。彼らがアシュベルの事を深く案じているという事は、サァラだからこそよく分かった。

 にこりと微笑むと、凍り付いていたグリフたちは、いくらか緊張を解く。背面に聳えるガァクには酷く怯えているが、サァラを見上げた眼差しは真っ直ぐとしている。


「……俺たちが、こんな事を言えた義理ではない事は、分かってる。分かっているが、人間はあんた達みたいに、全て高潔ではないんだ」

「……はい」

「……さっきのは、俺達が、勝手に言い出した事だ。坊ちゃんは何も知らない」


 どうかあの子は責めないでくれと、言外で言っているような気がした。サァラは、分かっていますよと頷くしかなかった。


 静まりかえった野営地に、夜風が吹く。張りつめた沈黙が、サァラとグリフたちの間を流れる。


「……坊ちゃんはな、聡明で物静かな子だ」


 不意に口を開いたグリフへ、サァラは視線をやる。


「生まれ育った環境のせいなんだろうな。良くも悪くも、子どもらしくない子どもだ。坊ちゃんなりに、森と関わる事がどういう意味を指してるのか、もう理解している。なにせ俺たちに言ったんだ。あんたから貰ったものは、自分が死ぬ時に全て手放すと。誰にも渡さず、誰にも取られず、森に必ず返す、てな」


 サァラは、一瞬、言葉を失う。無邪気に笑っていた少年が、そんな決意も宿していたとは、露とも気付かなかった。


「――だが、そんな坊ちゃんが、あんたの前ではいきいきしてる。普通の子どものように、嫉妬して、独占欲を持っている」

「……え?」

「はは、なにせ坊ちゃんは俺たちに言ったんだ。お姉ちゃんの名前は絶対に呼ばないで、僕だけが呼ぶんだからって。可愛いだろ?」


 サァラは思わず瞠目する。グリフたちは、その強面を緩め、微かに笑った。


「俺たちの事は、どう思っても構わない。だが、坊ちゃんのあの気持ちだけは、疑いなく、信じてくれないか――」




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