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最弱獣の献身  作者: 白銀トオル
第二章 迷い子の噺
19/26

19 とある少年の、昔話(6)

2016.06.12 更新:1/1


少年アシュベル編、ラストです

 フルグスト家の来訪を知らせにきたグリフや他の護衛兵たちは、隠し切れない嫌悪をその面持ちに宿していた。

 無理もない。かつては侯爵だろうと、今は七歳の子どもにまで手に掛けようとする極悪の元侯爵だ。烙印を押されて降格された身で、招待されているわけでもなく伯爵家にやって来るのは、あまりに筋違い。それだけでなく、ユーグリス家に顔を見せられる立場でもあるまいに。

 今さら何のつもりだというのが、全員の心だった。


「今は領内に留めていますが、どうしますか。排除するのは簡単ですよ」


 かつては冒険者だったという護衛兵たちは、腕っ節に自信もある上に、軒並み強面である。将軍に勝るとも劣らない迫力が滲んでいた。普段は、アシュベルにもよくしてくれる気の良い兄貴分たちなのだが、彼らにとってもフルグスト家は招かざる客らしい。

 控えている使用人たちも、表情こそ変えなかったが、冷え切った目をしていた。

 祖父母は溜め息をこぼしながら告げた。


「どうせろくな目的などないだろうが、捨て置いて領地に勝手をされるのは面倒だ」

「今さら会いたくはありませんが……放っておくよりかは良いでしょうね」


 渋々といった雰囲気は隠さなかったが、祖父母はこの一度のみ会う事を決めた。


 この家に、フルグスト家が。

 アシュベルはざわつく胸を抑えるように、祖父母の服の裾をぎゅっと握る。彼らはアシュベルの心中を察し、表情を緩めて力強く頷いた。


「大丈夫よ、ぱっと話してぱっと帰って貰うから」

「私達に任せておけ。なに、心配するほどの事ではないよ」


 微塵も恐れた様子のない二人にほっとし、アシュベルはこくりと頷いた。


 去って行ったグリフたちは、その少し後、件の人々を連れ戻ってきた。

 厳かな門をくぐり、ゆっくりと正面入り口へ向かってくる強面の兵の集団。その真ん中に、彼らの姿があった。母と己を蔑ろにしてきた一応の父に当たる男性とその愛人たち。そして、アシュベルが最も苦手としていた、あの腹違いの兄弟たち。

 久方ぶりに見た彼らは、豪奢な衣服や装飾品は身に着けておらず、飾り気のない質素な身なりをしている。表情にもくたびれた様子が窺え、現在の暮らしは容易く想像がついた。けれど、性根の歪みはあの頃から変わっていないらしい。ぎらついた瞳は記憶のものと変わらず、改心したとは到底言えなかった。


 あの家で体験してきた過酷な記憶が蘇り、ぶるりと肩が震える。彼らへの恐怖心は、まだ完全に消えていなかった。

 やって来る彼らの姿をほんの少しだけ見て、アシュベルは使用人に連れられ自室へ戻った。自分が居ては邪魔だろうし、何かしでかす可能性も否めない。心配するなと力強く笑った祖父母に任せ、アシュベルは背を向けた。

 けれど去る間際、礫を投げてきた兄弟たちの目と窓越しにぶつかった気がして、背中がぞくりとした。




 祖父母がフルグスト家とどういった話をしているかは分からないが、その内容がろくなものでない事は理解した。

 言葉にならない奇声がアシュベルの耳にも届いているので。

 二階の自室から一階にある応接間を覗き見ながら、アシュベル付きの使用人たちとしばし時を過ごす。いくらか奇声も静かになってきただろうかと思って再び窓辺を見ると、応接間ではなく別のところに目が向かった。

 廊下をこそこそと歩く、三人の兄弟たち。

 いつの間に抜け出したのだろう。使用人に伝えたところ彼らがすぐに向かってくれたが、とても嫌な予感がしてアシュベルもたまらず自室を飛び出した。


 誰も居ない廊下を走り、階段を駆け下りる。ざわつく応接間とは正反対の方角へ進んで姿を探しながら、建物の外にまで足を運んでいた。

 はたして彼らは中庭に居た。

 近付いたアシュベルは、息を飲んだ。彩り豊かな美しい花が咲く花壇を踏み荒らしていた。かつてアシュベルにもそうしたように、グシャグシャと無遠慮に。

 あの花壇は、庭師の優しいおじいさんが毎日手入れをしているものだ。無意識の内にアシュベルの足は動いた。


「や、やめて!」


 突然声を掛けられ、少年たちの肩が大きく飛び跳ねる。恐る恐ると振り返ったが、アシュベルを見た途端、その顔が醜悪に歪んだ。

 以前に増して鋭くなった眼差しを受け、対峙する小さな身体が震える。

 アシュベル、と呟いた兄弟の声は、同年代の少年のわりにとても不気味に響いた。


「なんだよ、本当に死んでなかったんだなあ」


 それを皮切りに帰還を恨む言葉がアシュベルへぶつけられたが、ぎゅっと手のひらを握って耐えると、彼らの声を遮った。


「なに、しているんですか。その花壇は、庭師のおじいさんが……」

「花ぐらいどうでもいいだろ!」


 再び足を振り上げ、ダンッと踏みつける。やめて、と叫んで駆け寄ったが、突き飛ばされて地面に転がった。


「いらない子のくせに、なんでお前ばっかり!」

「僕たちがこうなったのは、ぜんぶ、ぜんぶお前のせいだ!」


 僕の、せい? アシュベルは唖然として振り返って三人の兄弟を見上げる。


「……なあ、お前、始源の大森林に行ったんだろ。何か持ち帰ったんじゃないのか」

「……!」

「よこせよ、お前になんかいらないだろ!」


 そうやって笑いながら見下ろす兄弟は、以前にも見ている。あの家で、日常的にこんな風に取り囲まれ、下から見上げてきた。

 その時の恐怖は今も思い出せるし、心の隅に残り続けている。

 けれど、今アシュベルが抱いたのは、恐怖ではなく――。


「……僕と母上には、あんなにひどいことをしたのに」


 三人の表情がぴくりと揺れた。


「それなのに、自分がされるのはイヤなの?」

「なんだと――」

「僕からたくさんのものを取っていったのに、どうしてそんなことがいえるの?!」


 張り上げた声は中庭に響いた。

 小さな手のひらに憤りを握り締め、転んだ身体を立たせる。


「服も食事もおもちゃも、母上も全部持っていった! ひどい言葉も、石もぶつけてきた! 僕から色んなものを取っていったのに、それでもまだ足りないなんて、浅はかだ!」


 思わぬ反論に、面食らった三人の表情が見る見る赤く染まる。事実を言い当てられた羞恥と怒りだろうか。

 アシュベルはさらに続ける。


「わざわざおじい様とおばあ様のところに来て! 綺麗にしている中庭を荒らして! 僕からまだ持って行こうとして! ここは、君たちの家じゃない!」

「な、なんだと!」

「う、うるさい、いらないもののくせに!」


 踏み出した一人が、握り締めた手を振りかぶる。

 アシュベルは、それを思っていたよりもずっと冷静に見つめていた。

 あの頃は恐ろしくて何も言わず耐えるしかなかったし、相手も反撃しない事を知っていたので余計に勢いづいた。


 けれど、もうされるがままのアシュベルではない。


 一ヶ月あまり、本物の命の危機を味わう場所で過ごした。おまけに、西の大陸最強と言われる猛獣の群れに追い掛け回され、彼らの住処に突き出された経験だってある。あれを思い出せば、目の前の三人は大した存在ではなかった。彼らは、あの身も凍る危機を一度だって体験した事がないのだ。


 振り上げられた手を思い切り叩き落とし、身体をぶつけて引き倒す。不格好な体当たりになってしまったが、何をしてもやり返さなかったアシュベルの反撃は、彼らにとって予想以上に衝撃的だったらしい。地面に転がったまま呆然としていた。


「僕がいらない子だったとしても、この家を荒らしていい理由になんてならない! もう、僕からなにもとらないで!」


 いよいよ取っ組み合いにまで発展した時、中庭に慌ただしい足音が近づいた。祖父母などがやって来たのだ。

 その後ろからフルグスト家の人々も続き、明らかに人為的に荒らされた中庭の光景と、小柄なアシュベルを取り囲む実子の姿に、揃って顔を青くした。

 さすがに三人の少年たちも続行する勇気などなく、手を止めて硬直していた。


「……親の姿を見て子は育つとは、よく言うものだ。恥知らずにも我が家へ押しかけてきたその厚顔ぶりは、立派に子へ受け継がれているらしい」

「ち、義父上ちちうえ、これは」

「黙れ、この件は我が友人たちにきっちりと報告させて貰う。覚悟しておけ。それとその呼び名は二度と口にするなと言ったはずだ」


 底冷えする祖父の声を聞きながら、祖母に抱き起こされて立ち上がったアシュベルは、手を引かれよろよろと中庭を後にした。取っ組み合いをした今の自分の姿は酷いものだろうが、それは相手も同じなのだろう。そう思うと、不思議と嫌な気分はしなかった。


「ごめんなさい、アシュベル。おばあ様たち、すぐに気付けなくて」

「ううん、いいんです。僕か勝手にとびだしたんです。あの、お花が……庭師のおじいさんが悲しんじゃう……」

「アシュベルは守ろうとしてくれたのよね。大丈夫、誰も怒らないわ」


 祖母はたおやかに微笑むと、アシュベルの身体から土を払い、汚れた手を布で拭った。


「……おばあ様、あのね」


 ぽつりと、アシュベルは呟く。


「僕ね、今まで、あの三人にはさからったことなかったんです」


 祖母の手が、不意に止まった。


「石をぶつけられても、どれだけひどいことを言われても……やり返さなかったんです。でも、今日、初めて言い返した」

「アシュベル……」

「僕、やっとあの三人に、勝てました」


 にこりと笑うと、祖母はきつく抱きしめてきた。偉いわ、と呟く祖母の声は何故か震えていた。




 やって来たフルグスト家は、すぐさま強制帰還となった。

 結局、彼らが何をしに来たのかは分からないが、理由などは知らなくても良いだろう。


「今後は二度と領地から出られないようになるだろう、覚悟しておけ」


 厳格な祖父に言い返せる者はなく、一様に青い顔を伏せていた。けれどその中で、父に当たる男だけはアシュベルをじっと見つめていた。その眼差しを受けても、特別、アシュベルから彼に言う言葉はない。そのくたびれた面持ちに何かを言ったところで、変わるものはないだろう。

 それは、三人の腹違いの兄弟も同様だ。アシュベルが着替えている間に絞られたようで、目の周りは赤く染まり瞼は腫れていた。


(お姉ちゃんが僕にくれたものを、よこせなんて言うからだ)


 やたらと自信満々で不遜な態度の多かった彼らの、初めて見る泣き顔。最後にそれが見れて、少しは胸がスッとした。


 兵たちに連れられて、彼らはアシュベルたちの前から去ってゆく。その姿を見るのはこれが最後なのだろうと、アシュベルは何処かで思っていた。


 そして未来ではその通りとなり、フルグスト家とユーグリス家はこれより以後、二度と顔を合わせる事はなかった。



 ――必ず、必ず貴方の世界は、この家から抜け出せるから



 最期まで微笑んだ母のあの言葉が、ようやく、アシュベルの中で受け入れられた気がした。

 アシュベルの心に残っていた重い鎖は、この瞬間に全て取り除かれたのだ。



◆◇◆



「――母上、僕、ようやく軽くなりました」


 見上げる先には、母の姿絵。嫁ぐ前に描いたという額縁の中にいる母は、少女のように少しあどけないが、あの優しい微笑みを浮かべている。


「これからは、大切な人たちがいるこの場所で、がんばっていこうと思います」


 と、その時、背後から名を呼ばれ、アシュベルは返事を返す。


「それと、僕、初めてやりたいこともできたんです。今日、これからみんなに言うつもりです」


 ――だから、まだ当分は、そちらには行けません。


 アシュベルは小さな背を誇らしく伸ばし、踵を返す。呼びに来たメイドと共に中庭へ向かった。

 これから、祖父母や使用人、護衛兵たちと共に、内々のお茶会があるのだ。




 陽の当たるユーグリス家自慢の中庭に、談笑する声が響く。身内だけのお茶会なので、堅苦しい雰囲気は何処にもない。普段は裏方にいる護衛兵や使用人は、少し恥ずかしそうにしながらも笑みをこぼしている。

 先日荒らされてしまった中庭だが、庭師の老人の働きによって新たに生まれ変わり、美しい景観を見せている。もちろん庭師の老人も、今回のお茶会には参加しており、椅子に腰掛けのんびりとしている。


 ……まさか、祖父母の友人である、将軍や魔術師長までやって来るとは思わなかったが。


「使用人が一緒でも、もともと気にはしないからな」

「この混ぜこぜにした賑やかな空間、冒険者時代を思い出しますよ。懐かしいですね」


 と言いながら、優雅にカップを傾ける二人。国の中枢に居る人物たちとは思えないほど、違和感なく自然に溶け込んでいた。

 グリフなどの兵たちが気兼ねしないのも、かつては同じ冒険者であったからだろう。先輩と後輩のような気さくな間柄が既に築かれている。



 しばらくし、設置されたテーブルに菓子が配膳される。香ばしく甘い匂いが、陽に染まる空気に漂う。全員が声を漏らして歩み寄った。

 今回開かれた内々の茶会の主な目的は、これだったりする。

 クッキーやマフィンといった片手で食べられる焼き菓子には、アシュベルが持ち帰った始源の大森林の木の実や果物が、全て余す事無く使われている。


 力を尽くし、助けてくれた大切な人たちへ、何かお礼をしよう――そう考え、アシュベルはたくさんの木の実を皆で分ける事にした。けれど数には限りがあり、誰か一人でもあぶれてしまうのは悲しいので、料理長などの力を借り焼き菓子へ変身を遂げたのだ。

 滅多に市場には出回らない、始源の大森林の食材。料理長たちは一様に感激し、人生の自慢話にするとまで言った。そのおかげなのか、情熱の限りに作った菓子はどれも素晴らしい仕上がりだった。


「どうぞ、自由に、た、食べてくださいッ」


 緊張しながら勧めると、まずは祖父母が手に取った。恐る恐るとした仕草で摘まむと、視線が集まる中、口の中へそっと入れた。しばしゆっくりと咀嚼すると、二人の面持ちがふわりと緩まった。驚きに見開いた瞳に、きらりとした輝きが宿る。

 それに続き、将軍と魔術師長、護衛兵や使用人たちなども口に運び、誰もが美味しいと笑ってくれた。

 実際に完成させてくれたのは料理人で、アシュベルは味見しかしていなかったけれど、自分が望んだ事を喜んで貰えるのはとても嬉しかった。少しの恥ずかしさと喜びでくすぐったく感じながら、アシュベルの頬にも笑顔が咲く。


 みんなが喜んでくれるなら、お姉ちゃんも、きっと喜んでくれるよね。


 始源の大森林に実る食べ物は、口にした者へ力を授ける――その真偽のほどは定かでないが、彼らを幸福にしてくれるのならとても嬉しく思う。

 アシュベルも焼き菓子を一つ取ると、ぱくりと頬張った。




 しばらくの間、お茶会は笑い声に包まれて続いた。そろそろ終わりかという頃、アシュベルは改めて彼らのまえ進み出た。


「――おじい様、おばあ様。この場にいる、みんなにも。僕、お願いしたいことがあるんです」


 たくさんの眼差しがアシュベルへ集まる。緊張が高まりながらも、アシュベルは続けた。


「ずっと、考えていました。あの家から自由になって、僕はどうしたいのか。それで、やっと、決まったんです」


 一呼吸を置いて、アシュベルは真っ直ぐとした声で言った。


「僕、べんきょうがしたいです。たくさんのことを、学びたいです」

「勉強、とな」


 驚きを湛えた声が方々からこぼれる。アシュベルは背を伸ばして頷く。


「僕、ずっと本ばかり見てきたけど、でも、本だけじゃ足らないって、知らないことがたくさんあるって、分かったんです」


 本の言葉でのみ形作られた世界が、色を帯びて本物のものとなった時の、あの感覚。鮮やかに塗り替えられるあの強烈な感覚は、今もはっきりと思い出せる。


 僕は、きっと何にも知らない、無知そのものだ。

 おまけに、簡単に潰れてしまうくらいに、弱い。


 だからこそ、今、知らなければならない。


 一人きりだと思っていた自分が、たくさんの人に助けられ、この場所に立っている。彼らのため、自分のため、たくさんを学び強くならなくてはならない。

 強迫観念ではなく、自らの願いとして、アシュベルはそう決意したのだ。


 もちろん、それだけではない。


 決意した心の奥に、そもそも居る存在は――。


「……知りたいと思う、人がいるんです」


 正確な理由なんてものは言えない。ただ漠然と、しかしどうしようもなく、想い続けている。

 何をしていても、何を食べていても、昼夜を問わずに過ぎる面影。あの鮮やかな赤い髪と純白の身体が、一向に色褪せる気配すらなく蘇る。


 あの人に、もう一度。

 もう一度、会いたくてたまらない――!


 胸に空いてしまった寂しさの正体や、思い出すたびに強烈に浮かぶ感情は、きっとそれなのだ。


「知って、少しでも学んで、そうしたら僕は胸を張れる。胸を張って、僕から会いに行ける」

「アシュベル、お前……」

「会いに、行きたいんです」


 それは間違いなく、母を失ってから手放した、何かを渇望する心だった。


「あの森へ、あの人のところへ、行きたいんです」



◆◇◆



 それからアシュベルは、一年という短くはない月日の全てを、学ぶために費やした。

 一般教養だけではなく、森に関わる蔵書も読みあさり、魔術の訓練も惜しまなかった。言うほど簡単なものではなく、当然べそをかいた日もあったが、それでもアシュベルは投げ出そうとしなかった。



 ――“始源の大森林”に踏み入れる事を許すはずがない



 ――だが、一年で多くを身につけようとする心が本物になるのなら、森の広がる土地に近づく事くらいは……許せるかもしれないな



 その言葉を勝ち取るため、アシュベルはべそをかきながらも必死に食いついた。

 助けてくれたひとに会うために。

 ただそれだけのために、彼は自ら魔境を望んだ。


 そして、一年間学び続けた末、ようやく――。





「坊ちゃん、本当に行くのか?」

「もちろんです!」


 そのために一年みっちりと学び、祖父母を納得させたのだ。せっかく許しを貰えたのだから、すぐに向かわないと。

 大喜びで出立の準備をするアシュベルとは対照的に、護衛の任務を命じられたグリフなどはすこぶる顔色が悪い。森の中に入らないとはいえ、間近にまで近づくのだから顔色も悪くなるというものだろう。

 この場合は、彼らの反応が正常なのであって、命の危機に遭遇しながらもう一度と願うアシュベルの方がおかしい。


「森の中には入れないから、今回会えるとも限らない。仮に会えたとしても、その“お姉ちゃん”はもう忘れているかもしれないぞ」

「忘れていたとしても、です」


 “あの人”に再会できるかもしれない期待が消えない限り、アシュベルは次も、その次も、何度だって足を運ぶ。

 たとえ相手が、すでにアシュベルを忘れていたとしても――。


「僕は、覚えてる。だから、いいんです」


 記憶ではなく本物の、しなやかな躯体の美しい白獣と対面出来たなら、牙を剥かれても構わない。そう思えるほどに、アシュベルはまったく揺るがなかった。

 けれど叶うなら、覚えていてくれる事の方が嬉しい。

 伝説の兎の毛皮を加工した外套を羽織り、森の魔石の欠片を散りばめた短剣を装着する。そして、腰に巻いた小さな鞄の中には……とある魔術を掛けた、装飾品が二つ。お守り代わりに持って行く事にし、アシュベルは準備を終えた。



 ――“始源の大森林”に関わったものは、気がれる



 いつだったか祖父母からそんな話を聞いたが、あながち間違いではないのかもしれない。

 あの人と別れてから一年、きちんと魔術の基礎を学び、正しく発動する事も出来るようになった。のめり込んだ本の世界の知識は、学として身についた。ほんのちょっぴりであるが、身長も伸びた。まだまだ幼いが、弱く頼りないだけの少年ではなくなった。

 けれど、心にはまだ、あの人がいる。

 蘇る記憶を何度も絵に残し、あの人を想い続ける一年でもあった。



 気が狂れるというのがそれを指すなら、このままで良いかもしれない。


(どうか、もう一度、お姉ちゃんに)


 アシュベルのその純粋な祈りは、もう間もなく果たされる。



少年視点、これで終了です。

次話から、再びサァラ視点に戻ります。


そろそろ、ガァクも出張るチャンスかな……!


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