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最弱獣の献身  作者: 白銀トオル
第二章 迷い子の噺
18/26

18 とある少年の、昔話(5)

2016.06.11 更新:1/1

 母が暮らした家で初めて取る朝食は、少し浮き足立ったような賑やかさがあった。

 朝方の澄んだ青空が見える大部屋には、祖父母だけでなく侍女や料理人といった数人の使用人たちも控え、その誰もがにこにこと微笑み、あるいは微かな哀愁を浮かべアシュベルを見つめている。


 母を亡くした場所でいわれのない不当な扱いを受け続け、あげく魔境と名高い“始源の大森林”に飛ばされた、過酷すぎるこれまでの境遇。


 この家で生まれ育った娘の忘れ形見を取り戻した喜びと、これまで送ってきただろう辛い日々に対する悲しみや憐憫などが、複雑に綯い交ぜになりアシュベルへ向けられている。けれどその眼差しに、不快感を催したりはしなかった。自身の事を親身に考えてくれていると、彼らの表情から多大なほどに感じ取れるからだ。

 それに、フルグスト家を出たばかりの時の辛さは、いくらか薄れていたのだ。あの森で出会ったナーヴァル――“お姉ちゃん”のおかげで。


「ゆっくり休めたかしら。今日は身体に優しいものを用意したの、気に入ってくれると嬉しいわ。でも、食べたいものがあったらいくらでも言ってね。私はおばあ様なんだから、遠慮しちゃ駄目よ。……ふふ、あらやだ、私ったらおばあ様なんて、ふふ」


 朝から楽しそうな祖母を、隣に座る祖父が宥める。が、祖父も同じように表情を緩めているので、居心地の良い温かな雰囲気がふわりと漂った。


 祖母といっても齢は四十代なので、若く溌剌としている。楽しそうにころころと笑う姿には、たおやかさの中に無邪気な明るさを宿している。

 隣に座る祖父も同様で、年を重ねた事で貫禄が増し、鋭気に満ち溢れた屈強な印象だ。祖母を含んで若い頃は冒険者という荒稼業にも身を置いたそうなので、納得のいく面持ちである。

 そんな二人は今、娘の忘れ形見である孫へ表情を緩めきっている。嬉しそうに、楽しそうに、安堵したように。


 アシュベルはにこりと笑みを浮かべると、自らの前に置かれた食事をそっと食べ始める。綺麗に磨かれたスプーンを握って、精密な意匠を施した食器を使って、口元へ運ぶ。料理人たちが丁寧に作り上げた朝食はどれも美味しく、口の中に柔らかく広がった。

 こんな時に思う事ではないかもしれないが、とても懐かしく感じた。


(お姉ちゃんが用意してくれたのは、どれも大振りだったからなあ)


 アシュベルの中に浮かぶ、あの人と肩を並べて取った食事の風景。笑みをこぼしながら食事を進めた。


「美味しいです、とっても」


 本心なのに、思い出すのはあの人ばかりだった。





 ――朝食を終え、少し休憩を挟んだ後。

 アシュベルはソファーに腰掛け、祖父母と向かい合っていた。そこにはグリフの姿もあり、二人の斜め後ろで静かに佇んでいる。


「昨日の今日ではあるが、早めに話をしておかなければならないからな」


 そう前置きして彼らが語ったのは、アシュベルが始源の大森林に飛ばされてから起きた、一連の出来事だった。





 フルグスト家を出発しユーグリス家に向かう道中、アシュベルたちは徒党を組んだ無法者に襲われた。アシュベルは男たちに捕らえられ、“転移”の魔術が刻まれた魔石によってその場から消え、何処ともしれない場所へ連れ去られてしまう。

 アシュベルはこの時、魔境である始源の大森林に飛ばされ、大陸最強の呼び声高いナーヴァルと対面してしまっていたわけだが――アシュベルが消えた後、祖父母とグリフ率いる護衛兵団はすぐさま無法者たちをふん捕まえ、ユーグリスの領地へ帰還した。


 無法者たちを尋問する必要はなかった。この急襲を引き起こした犯人は、考えるまでもなくフルグスト家の者たちである。


 あの子が、何をしたというのだ。

 小さくあどけなくて、遊びたい盛りのはずのあの子が、一体何を。


 可愛く聡明な娘を無碍に扱い、忘れ形見の孫にも惨い仕打ちをし、あげく最後にはこの暴挙。積もりゆく怒りは悲しみも取り込んでさらに膨れ上がり、これ以上はないほど全員に激情が迸った。

 フルグスト家の使用人から内密の文書が届いた時から、もともと容赦をするつもりなどなかったが、この一件でその思いはさらに高められた。


 あらゆる人脈と方法を用いて無法者を隅々まで調べ上げ、あっという間に犯人を特定。案の定、件の首謀者はフルグスト家であったが、厳密にいえば――愛人たちによるものだった。

 自らの暮らしが脅かされると思い、無法者を雇って急襲させたという。たとえアシュベルの命が奪えなくとも、この地から消えてしまえばいいと転移の魔石まで用意し持たせた。

 妄執としか言いようのない愚行だ。


 愛人風情が伯爵家の縁者を手に掛け、ただで済む道理などない。


 十歳にも満たない幼子を狙った凶行の詳細と、フルグスト家の貴族としての怠慢さや不甲斐なさを全て叩き出し、国の上層にいる貴族どころか国王陛下のもとへ届けた。


 今でこそ長閑な地を治める伯爵家だが、若い頃は冒険者稼業に身を置き、仲間と共に鍛え、国のため働いた。表だった活躍こそなかったものの、果たしてきた貢献はユーグリス家の地盤を高めた。

 そしてその頃の仲間たちの一部が、何故か現在、魔術師長や将軍といった国の中枢にねじ込まれている。国王が血筋ではなく才能を尊ぶ傾向にあった事が大きく関わっているのだろう。

 冒険者を止め年を重ねた今も、彼らとは変わらず背中を叩き笑い合う仲で、何かあれば即座に協力し事に当たるくらいには非常に関係が深い。

 おかげで、大っぴらにはしていないが、国王陛下からの覚えもあったし信頼もあった。

 フルグスト家もそれを耳にし、様々な人脈の集うユーグリス家の娘を妻として欲しがったのだろう。

 結局、それを自ら棒に振った。それも、愛人たちの暴挙で。


 フルグスト家の荒廃ぶりを見抜けなかった恥を噛みしめ嘆願した言葉は、親交の深い仲間たち全てに通り、そして陛下の耳へ届けられた。


 それだけで、十分だった。

 愛人という立場に溺れ傲慢に振る舞ってきた女たちの行いと、それを制御せず放置した侯爵家の怠慢は、賜った領地だけでなく国を貶めるものとして漏れなく全て晒された。

 フルグスト家は、呆気ないほど容易く、凋落ちょうらくしていった。


 アシュベルを迎えにゆく前、二人がしていた諸々の準備のうちの一つがそれであるが、グリフなどユーグリス家に仕える兵たちが醜聞を流したのも効果を倍増させていた。

 貴族ではよくある話を、民衆が受け入れるとは限らないのだ。



 その後、ユーグリス家の総力をあげ、アシュベルの捜索がすぐさま開始された。

 だが、その足取りを探るのは、そう簡単な事ではなかった。

 魔術というものは、たとえ使い捨ての魔石だろうと、大がかりなものになればなるほど一度使用すれば必ずその残滓や痕跡が残る。けれど、無法者たちが使用した転移の術の魔石は、大前提である行き先の指定がされていない、とんでもない欠陥品だった。用意した愛人たちも、使用した無法者たちも、魔術の扱いや心得などまったくなかったのだろう。(そもそも魔術自体、簡単に手を出していい代物ではないのだが)

 残された僅かな痕跡は本当に稀薄で、アシュベルの行方を辿るには心許なかった。


 昔の仲間の一人である王国魔術師団長と、その彼が選んだ魔術師数名、当主夫妻も加わり、忘れ形見の行方を探す日々が続いた。

 そして、残された魔力と僅かに残る足跡をひたすら辿り続け、一ヶ月。

 ようやく、アシュベルが飛ばされたであろう場所が特定された。

 けれど、その喜びは、あまりにも無惨に引き裂かれる。アシュベルが居るだろう地は、未だ逃げおおせた者が僅か数人しか存在しない魔境、“始源の大森林”であったのだ。


 この一ヶ月、血眼になって探してきた。けれど、まさかそんな場所に飛ばされようとは思ってみなかったのが、全員の本音だ。

 太古の自然と、伝説の生物たちが闊歩する、未知の世界。アシュベルが好きな本の題材の多くは始源の大森林であったが、よりにもよってそんな偶然を引き寄せるとは。


 どれほどの腕利きの冒険者であっても、どれほどの精鋭を揃えた国の軍隊であっても、そのことごとくが屠られてきた場所。そんなところに、僅か七歳の少年が、一ヶ月も――。


 考えるだけで、絶望的な目眩がした。どうなっているのかはもはや考えるまでもない事であるけれど、首を横に振る事はなかった。特に、二人の為に身を捧げて仕える、グリフなどの私兵たちは。


 もう一度、あの子を抱きたい。娘が残したあの子を、もう一度。


 毎夜そう呟く二人の願いをどうにかして叶えてやりたいと思う事は、至極当然だった。彼らのため、グリフ率いる護衛兵団――一線を退いたかつての冒険者たち――は、魔術師たちと共に転移術で始源の大森林へ赴いた。


 この捜索で、仲間の大半を失い、アシュベルに通じるものかあるいはその亡骸を目の当たりにする。いや、最悪、帰還すら出来ず魔境に骨を埋める事になるだろう。

 幾つもの重い覚悟を秘めた彼らの頭上には、憎らしいほどに美しく静謐な月夜が広がっていた。





 ――いつの間にか広々とした室内は静まりかえり、緊張を帯びた空気が重く被さっていた。

 アシュベルは身動ぎせず、目の前に座る祖父母をじっと見つめていた。語る二人の表情は、その時の心情を思い出しているのか、とても険しく痛ましい。


「……始源の大森林の手前まで到着して、夜営を整え侵入の準備をしていたそうだ。夜が明け、明朝になったら森へ入ろうと」


 そこまで語った祖父の声が一度止まり、力を抜くように息を吐き出される。重かった空気が、ふわりと軽くなった。


「まさか、アシュベル本人からやって来たとはな。聞かされた私も、さすがに驚いたぞ」


 厳かな声音が緩まり、優しい笑みを湛える。


 死ぬ覚悟で夜営していたグリフたちのもとに、探していたアシュベルが転がり込んできたのだ。グリフたちは驚くしかなかった。

 そして彼らはアシュベルを抱え、魔術師の転移術で即座にユーグリス家へ帰還した。月が昇りつめた真夜中、二人はアシュベルと再会を果たした。


「――本当に、無事で良かった」


 探している間、生きた心地がしなかったと、二人は呟いた。事実、二人の面持ちには苦悩の痕が見え隠れする。後ろに控えるグリフもまた、小さく頷いていた。

 本当に案じてくれていたのだと、アシュベルは改めて思う。


「私たちが現役の頃の、相当の昔から、あの場所の噂は耳にしてきた。森に挑んで命を落とした者や廃人となった者も……何度も目にしたものだ」


 大森林にあるだろう伝説の動植物を求めて、あるいはその真偽のほどを確かめるため、行ってはならないという言葉を軽んじて向かった冒険者たち。そのことごとくは二度と国に戻ってはこなかったし、辛うじて帰還した者もよほど恐ろしい目に遭ったらしく、その後廃人となって狂い死にした。


 普通に暮らす上では縁のない場所なので、多くの人々は物語のような存在として見るだろう。しかし、決して幻のものではなく、まして綺麗なだけの場所ではない。

 少なくとも、彼らの姿を見た者たちは、それを理解していた。

 アシュベルの件がなければ、向かう事はなかっただろう。


 それについては、一ヶ月暮らしたアシュベルも大いに頷く。あの森は、安易な気持ちで踏み入れてはならない世界だ。西の大陸最強と名高い猛獣を目の前で見たから、余計にそう思う。


「もう、あなた達ったら、今はそんな話はいいではありませんか」


 たおやかな物腰の祖母に言われ、祖父たちは頭を苦笑し掻いた。


「すまんな、つい。ともかく……あの場所から戻ってきてくれて、本当に良かった」


 アシュベルは笑みを返したが、その仕草はすぐに頼りなく陰る。


「……僕だけだったら、たぶん、飛ばされてすぐに死んでいました」


 でも、あの人が助けてくれたから。あの人が居てくれたから。僕は、こうしていられる。


「……グリフから聞いた。お前を森の外へ連れてきたのは、赤いたてがみを持つ巨大な白い獣だと」

「はい。たぶんきっと……あの人はナーヴァルです」


 人の世界では最強に属する竜を、牙と爪のみで倒すという巨獣。どういう存在であるかは、息を飲み込む祖父母の反応が語っている。


「お姉ちゃんが居てくれたから、僕、こうしていられる」


 でも、あの人は、どうなったのだろう。


 アシュベルが思い出すのは、最後に抱きしめられた時の光景だ。

 森の外へ連れ出し、グリフたちのもとへ返し、満足そうに微笑んだあの人は、追いかけてきたのだろう別のナーヴァルと取っ組み合いの争いをして、そして。

 喉に喰らい付かれ、無理矢理抑えつけられて――。


 アシュベルは、ぎゅっと小さな拳を握りしめる。


「……とても大切なものを、見てきたのね」


 祖母は優しく微笑んでいた。


「森でどんな風に過ごしていたの? おじい様とおばあ様たちに、お話してくれるかしら」


 尋ねられたアシュベルは、あるがままを語った。


 森に入り、ナーヴァルの群れに遭遇し、彼らの住処へ連れて行かれた事から、幻想的な森の中を探検して様々な動植物を見てきた事。


 息が切れるまで走って、土と葉っぱを頭につけて転がって、大きな木に登った事。


 朝陽や青空、森の風景、月明かりなど、目に見える全てが美しかった事。


 そしてその傍らには、手を繋いで守ってくれた、ナーヴァルの女性の姿があった事――。


 夢中になって話すアシュベルの語尾は、次第に小さくなってゆく。あの人を思い出すたびに宿る寂しさが、言葉にしたらますます強くなってしまった。

 耳を傾けていた祖母が、おもむろに立ち上がる。項垂れるアシュベルの隣へ腰を下ろすと、そっと小さな肩を抱く。


「そのナーヴァルのお姉ちゃんは、アシュベルを守ってくれたのね」


 こくりと頷いたアシュベルは、弱々しく口を開いた。


「……僕、どうしたらいいのか、分からないんです」


 恋しかった場所へようやく戻ってきたというのに。埋められない寂しさの中で、あの人の姿ばかりが過ぎる。


「……僕は、どうしたら」


 その疑問は、アシュベルの深いところに根付いてしまった、心のおりでもあるのだろう。

 フルグスト家に生まれてから送り続けた日々で思った事は、今も確かにアシュベルを捕らえている。


 解放されたはずなのに――まだ何処かで、重い鎖は繋がれているのだ。


「どうしたらいいのか。難しいわね……おばあ様たちに決められる事じゃないわ」


 でも、と祖母は続けた。


「おばあ様たちはみんな、アシュベルが戻ってきてくれてとても嬉しいし、居てくれるだけで幸せなの。アシュベルを守ってくれたっていう、そのナーヴァルのお姉ちゃんも、きっと……アシュベルの事を思ってくれたんだわ」


 祖母の手が、ふわりと頭を撫でた。


「だからね、アシュベル。誰かにとってのすべき事ではなくて、あなた自身にとってのしたい事と考えてみるのはどうかしら」

「僕の……?」

「ええ、そうよ」


 それが見つかった時、心にある重たいものから開放されるんだわ。

 そう告げた祖母や正面に居る祖父とグリフたちは、柔らかな面持ちを宿していた。


 僕の、したいこと。


 思ってもみない問いかけは、何度も繰り返される。

 耐え忍ぶ事の方が圧倒的に多かったアシュベルにとって、それは初めて考える事だった。



◆◇◆



 ――とは言え、すぐに出てくるようなものではなく。

 ユーグリス家で身体を休めながら、森で過ごした時間を幾度も想起する……そんな日々を送った。


 この日、アシュベルは中庭で、大きなスケッチブックを広げペンを走らせていた。

 “お姉ちゃん”に手を引かれながら見てきた、あの幻想的な森の風景と、そこに生きる何もかも巨大な動植物たち。鮮やかに刻まれた記憶を、丁寧に描き出す。

 長い間一人きりの世界に篭っていたアシュベルは、外に出る事は一切なかったけれど、その代わり本を読んだり文字や絵を描いたりする事は得意だった。

 腹違いの兄弟たちからは役に立たないと言われたけれど、そんな事はない。


(お姉ちゃんと一緒にいた記憶を、残しておけるもの)


 そしてアシュベルが描く絵は、祖父母や使用人たちの興味を大いに引いた。

 なにせ始源の大森林という場所は、名前や存在、逸話は数多く世にあれど、実際に生きて帰った者はいまだにわずか数人程度。そんな魔境の風景は、果たしていかなるものか。子どもや大人など問わず気になるだろう。

 七歳だが大人顔負けの写実的な描写で描く絵に、祖父母たちは額を寄せて見つめていた。アシュベルも森を散策していた時は同じように興奮していたので、あの時の僕みたい、と本人はのんきなものだった。


 ……実際のところ、大人たちは出るわ出るわの伝説の生物や植物に、驚きを通り越してもはや呆然とするしかなかったのだが。


 アシュベルは、今日もペン先をせっせと走らせる。


「アシュベル、少し良いかしら――あら」


 中庭に現れた祖母が、アシュベルのもとへやって来た。


「今日は何を描いていたの?」

「お姉ちゃん、です!」


 大きなスケッチブックを両手で持ち、祖母へ広げて見せる。

 人と獣が合わさった顔に、ぱっちりと開く大きな双眸。三角の獣の耳を生やす頭からは、長い髪。アシュベルが見てきた、大きくて優しいあの人だ。

 祖母はたおやかに笑って、かっこいい人ね、と告げた。

 嬉しいけれど、少しだけ不満だ。

 かっこいいだけじゃなくて、走ると風みたいに速くて、でもとても優しいんだよ。特に、最後に初めて見た、あの人の獣の姿は本当に綺麗なんだよ。

 アシュベルが熱心に言うと、祖母は楽しそうに肩を揺らす。むう、本当なのに……。


「ああ、そうそう、アシュベル。今ね、おじい様とおばあ様の友達が遊びに来てくれたの。アシュベルもいらっしゃい」

「おともだち?」

「そうよ、私たちが冒険者なんてものをしていた時からの、大切な友達よ」


 アシュベルを探すのにとても力を貸してくれたの。そう告げた祖母に手を引かれ、中庭から大広間へと移動した。




 大広間に居たのは、祖父母と同年代の印象を受ける二人の男性だった。

 若い頃は同じ冒険者として活動し、互いに命を預けて荒波を超えてきた。今もその交流が続いて、もうほとんど腐れ縁だと祖父は言った。

 冗談を交えて笑い合う彼らの親しさや仲の深さをアシュベルも感じ取ったが、片方は将軍、もう片方は魔術師団長の役職に現在就いているというのだから驚きだ。確かに彼らの持つ、風格を感じさせる外見や雰囲気など、そこいらの凡夫とは訳が違う。

 長く閉じこもってそういった情報などにまったく疎いが、凄いという事がよく分かった。彼らだけでなく、それを友人に持つ祖父母の交流関係も含んで。


 二人はアシュベルを見ると、懐かしそうに目尻を緩め、そして哀憐の入り交じる微笑みをこぼした。お前の娘にそっくりだ、と。

 アシュベルのこれまでの経緯を知っているのだろう。母が身体を壊し、亡くなった事も含んで。

 アシュベルが森に飛ばされていたその間、彼らが様々な場面で手を尽くしてくれたという。その感謝を告げた時の、泣き出しそうに歪めた表情が印象的だった。




「フルグスト家は、今はどうなってるんですか」


 森で暮らした一ヶ月あまりの間で、既にフルグスト家は罰を受けているだろうが、聞かずにはいられない事だ。

 将軍と魔術師長は躊躇いを見せたが、祖父母の頷きを受け、語り始めた。


 果たすべき貴族の義務と矜持を汚し、助長した愛人たちを放置し、あげく僅か七歳の実の息子を手に掛けようとした数多くの暴挙は、国を貶めるものとして国王陛下が直々に罰を与えた。ほとんどの私物や私財は没収され、侯爵の位から降格。代々治めた領地も信頼のおける者たちに分配され、仕えていた使用人たちは軒並み解雇された。

 そして問題のフルグスト家の者たちは、与えられた小さな領地へ一家揃って送られ、そこで暮らすよう言いつけられたそうだ。


 命を奪わないだけ寛大な処置と思われるかもしれないが、散財と享楽の限りを尽くし他者を貶めてきた彼らにとって、真逆の暮らしと手のひらを返した人々の視線は、さぞ屈辱的だろう。

 せせら笑った将軍は、武骨な外見も相まって非常に迫力を帯びていた。魔術師長は将軍をたしなめたけれど、理知的な瞳には底冷えする光が確かに浮かんでいた。


 そうですか、とアシュベルは小さな呟きをこぼす。

 良い思い出と呼べるものなんて、母と共に過ごした時間くらいしかない場所。恨んでいなかったと言えば嘘になるし、胸がスッとしたのも事実だ。けれどそれ以上に――安堵の思いが強かった。ようやくあの日々が終わったのだと。


 ただ、救われて欲しい人達も、あの家には存在していた。


 アシュベルに手を伸ばしてくれた、数少ない心優しい使用人たち。彼らが居たからこそ、ないものとして扱われたアシュベルはあの家で生きてゆけたのだ。

 彼らはどうなったのだろう。フルグスト家よりも立派な主人と出会えるようにと祈ったけれど、届いたのだろうか。


 その時、アシュベルを囲む祖父母たちが、顔を見合わせ不意に微笑んだ。


「……ああ、そうだ、まだお話していない大切な事があったわね」


 意味深に微笑んだ祖母が何かを合図すると、控えていた使用人たちが動き始めた。

 見れば祖母だけでなく、祖父たちも楽しそうに笑っている。一体どうしたのだろう。小首を傾げるアシュベルは、祖父母に手を引かれ、ソファーから立ち上がった。


「“彼ら”も、まだかまだかとそわそわしていたところだ」

「ふふ、驚かないでちょうだいね、アシュベル」


 目の前の扉が、ゆっくりと開かれた。

 視線をやったアシュベルの前へといくつもの人影が進み出る。それぞれ給仕服や調理場の服を着た男女数名で、使用人だとはすぐに理解したが――彼らの顔を見た瞬間、アシュベルは青い瞳を大きく見開いた。

 現れた彼らが誰なのか、すぐに分かった。

 驚いた表情が浮かび、次いで、笑顔とも泣き顔とも言えぬ表情が広がる。祖父母の側から駆け出した足は、真っ直ぐと彼らへ向かった。

 それは、向こうも同じだった。

 顔をくしゃくしゃに歪めてしゃがむと、両手を突き出して飛び込んだアシュベルを抱きしめた。


「ふふ、言ったでしょう? アシュベルの願いは届きますよ、と」


 アシュベルは押し付けていた頭をそっと離し、彼らを改めて見つめる。あの場所で唯一手を伸ばしてくれた人達の笑顔は、ただただ優しく、温かかった。



◆◇◆



 ――アシュベルに手を伸ばしてくれたフルグスト家の一部の使用人たちは、ユーグリス家に召抱えられ働くようになった。

 あんな場所であんな奴らに仕えず、アシュベルの側に居られて幸せだとは、彼らの言葉だ。


 満ち足りた微笑みを浮かべ、以前よりもずっと楽しそうに彼ら働く姿を見て、自分も何か、新しく変わりたいとアシュベルも思うようになった。

 あの人が持たせてくれた、今一番の宝物である鞄。森を離れてから何故だか中身をあんまり見ようとは思わなかったけれど、まずはここから始めようと意を決し、鞄を開く事にした。





「ひィィィ! “聖霊の緑草”がこんなに!」


「何ですかこの石ころ! 溜めてる魔力の純度と濃度が高すぎる、こんな事、普通は有り得ませんよ!」


「“天運の玉兎”の毛皮……? は、はは、嘘だろ、伝説の生き物だぞ……?」


「始源の大森林の食い物……美食家が血眼になって捜し求めてるやつが……何でこんなに」



 ――結果、ユーグリス家には、悲鳴に近い絶叫が響き渡ってしまった。



 祖父母やグリフなどの護衛兵、たまたま居合わせた将軍や魔術師長など、鞄の中から出てきたものを見た瞬間、恐慌状態に陥った。

 あげく、一体何事かと集まった使用人たちは彼らの乱心する姿を見て絶叫をあげ(普段とあまりにかけ離れていたせいか)、もはや何が何だか分からない事態にまで発展してしまった。

 途絶える事のない大人たちの絶叫に包まれたアシュベルはというと、そんなに悲鳴をあげるものなのかと驚き、そして何だか申し訳ない事をした気分になっていた。


 本の世界しか知らないアシュベル、御年七歳。

 “お姉ちゃん”が持たせてくれたものがどれほどとんでもない代物か、あまり正しく理解していなかった。




 驚きと興奮の坩堝にあった大広間は、打って変わり、しんとした静寂が舞い降りた。

 不気味なほどに静まり返ったそこには、回り巡って無の境地に至った大人たちの顔がずらりと並ぶ。その表情は一様に強張り、じっと視線を落とした。


 大きなテーブルの上は、緑草や木の実、石ころや毛皮といった、名前だけ見れば単なるゴミが並ぶ。

 しかし、ゴミなどとは畏れ多い。そのどれもが、およそ人の世界では滅多に見る事は叶わない代物ばかりだった。


 小さなブーケほどの束になった野草は、万病を癒すという緑草。

 木の実は、口にした者へ何らかの力を授けるという奇跡の実。

 毛皮は、幸運を呼ぶという伝説の美しい有角兎のもの。

 そして、見てくれこそは石ころだが、不純物の一切ない高濃度かつ高純度の魔石が、幾つも。


 富と財云々の話ではない。たった一つで国が傾き、あるいは奪い合いにまで発展する。

 凄いといえば凄いが、此処まで揃うと逆に怖い。


「坊、これ全部、本当に始源の大森林のものなのか」

「はい。だって、僕も見てたし、食べてましたから」


 とどめとばかりに、アシュベルは「ほら、これです」とスケッチブックを広げて指さす。力作の有角兎の絵を見て、将軍は「そうだよなあ……」と脱力しきって呟いた。


「まったく、アシュベルにとんでもないものを持たせてくれたものです。特に、この見た目だけは石ころな魔石」


 魔術師長は怖々としながら、魔石を摘んだ。彼の長い指は、微かに震えていた。


「魔力というものは、自然界で生成され、そして空気中にも微量にですが漂っています。それに働きかけるのが魔術であり、長い歳月をかけて貯蔵されたものが魔石です」


 魔石の多くは、魔力量の多い土地でしか産出されないし、大量に獲得出来るわけではない。従って、保持する量と純度の高さに比例し、その価値は高まる。簡単に獲得しやすい、魔石としてまだ育まれている最中にある不純物だらけの粗悪品が出回ってしまう問題もここから生まれるのだが……。


 これほどの魔石、おそらく国の王家でさえも保持していない。いや、それどころか、人の杓子定規に収まるようなものではない。


「魔力や魔術に携わり、研究する者としては非常に興味深いところですね」

「お、おい」

「……が、おいそれと人の世に流出してはならない代物です。悪用されては目も当てられない」


 アシュベルは重く溜め息をついた魔術師長から視線を外し、机の上の石ころを眺める。難しい事は分からないが、この魔石が凄いという事は理解出来た。

 こんなに清廉で綺麗な魔力が溢れてるのだ、凄くないわけがない。


「とんでもない場所だな、始源の大森林とやらは……。そんなものがゴロゴロあるのか」

「古の時代にのみ生きた、伝説の生き物が存在するのも頷ける」

「それだけでなく、そんな環境にもなれば生態系や地形など大いに影響して当然でしょう。本当に恐ろしく思うべきは、生き物たちではなく、それらを育ててしまう森の環境なのかもしれませんね」


 そして、脳裏を掠めるのは。

 そんな場所に君臨するという、西の大陸最強の猛獣。


 ちらりと、彼らは視線を下げる。


 小さなアシュベルが無事だったのは、本当に奇跡だったのだろう。


 そんな思いには気付かず、アシュベルは怖がる様子もなく魔石をつついたり、毛皮を広げたり、木の実を転がしたりして遊ぶ。大人たちがどう言おうとも、アシュベルにとってはこれは“お姉ちゃん”が持たせてくれた唯一の宝物なのだ。


「もう、あなた達ったら難しい話ばっかりして」


 祖母はたしなめるように告げ、アシュベルの隣へ並んだ。


「お姉ちゃんが持たせてくれたものは、確かにどれも凄いもの。でも、これは全部……アシュベルの事を考えて集めてくれた。だからね、これをどうするかは貴方の心次第よ」

「僕の……」


 アシュベルは口を閉じると、そっと魔石を取った。

 あの人が助けてくれた理由も、たくさんのものを持たせてくれた理由も、分からない。ただ、あの人がこんな自分を想ってくれたというなら。


(……変わりたい)


 怯えて塞ぎ込み、逃げ出す事も踏み出す事も出来なかった自分から。


(変わるべきだ。助けてくれたあの人に胸を張れるように、僕は)


 あの人と同じ獣ではなく、あの人が助けてくれた人間として。

 アシュベルはこの時、確かにそう願った。




 ――そう決意してから、間もなくの事である。

 小さな領地で暮らしているはずのフルグスト家が、アシュベルたちの前に現れた。




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