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最弱獣の献身  作者: 白銀トオル
第二章 迷い子の噺
17/26

17 とある少年の、昔話(4)

2016.05.03 更新:2/2


これからまた溜める作業に入ります。

アシュベル少年の話は、もう少しだけ続きますよ~。

 目覚めた時に目の前に広がった豪奢な天井を、アシュベルはしばし何なのか認識出来なかった。

 柔らかいリネンに包まれながらしばらくぼうっとし、それから小さな身体を起こして周囲を見渡す。きちんとした建築様式で造られ、落ち着いた調度品で彩られた部屋。窓枠にまで意匠が凝られた硝子窓から、薄っすらとした明かりが差し込んでいる。

 夜明けの兆しだろう。


 そうだ、僕は、あの森を出て、おじい様とおばあ様のところに――。


 アシュベルのぼうっとした思考は冴え、自らが置かれている状況を思い出す。

 ここはもう、様々な物語の舞台であり、人々が焦がれる地であり、数多の腕利きの冒険者たちが散った墓場の、《始源の大森林》ではない。母が過ごし、祖父母が居る、待ち望んでいたユーグリス伯爵家の館だ。

 そうと理解しながら、アシュベルは無意識の内に探していた。鮮やかな赤で染まった長髪を広げ、真っ白な身体を横たえる、あのしなやかな獣人姿のナーヴァルを。


 居るはずが、ないのに。


 アシュベルは小さな肩を下げ、一度溜め息をつく。

 眠る間も抱えていた鞄を引っ張ると、おもむろにベッドから這い出る。室内用の履物へ足を通して、寝巻の上から鞄を肩に掛け、部屋を出た。


 扉の向こうに続く廊下は、ひっそりと静まり返っていた。館の全体が、まだ寝静まっているからだろう。薄く明らんでいるとはいえ、まだ太陽が見えないのだから当然である。

 アシュベルは物音を立てないよう小さな足を動かし廊下を駆けた。




 アシュベルが辿り着いた場所は、館の中庭だった。

 丁寧に整えられた芝生が、絨毯のように大地へ敷かれている。彩る花壇も、慎ましい色合いの花弁で満たされ、明らむ空の下でも不思議と目を惹いた。

 館の中と同様に、静まり返った美しい中庭。そこにある風景も、やはり森の中とは違う。手を加えず在るがまま時を生きる大自然の力強さはここにもやはり無かったけれど、緑の匂いと風の音にアシュベルの小さな心が落ち着いたような心地がした。

 肩に掛けた鞄をぎゅっと握り、歩を進める。ふと目に付いたのは、中庭の向こうに佇む、一本の樹木。何十、何百もあろう巨大な木ではなく、至極一般的な背丈のそれに目がけて、アシュベルは駆けた。


「――そこに居るのは誰だ?」


 ふと響いた低い声が、アシュベルを止めた。

 きょろりと辺りを見渡すと、駆けてくる武装した男の姿が見えた。

 ユーグリス家お抱えの、護衛兵団。フルグスト家と大森林にアシュベルを迎えにきた時にも、その服を見ている。恐らく夜間の周辺の警護に当たっていたのだろう。

 アシュベルはその場に留まり、じっと待った。正面にやって来た男は、アシュベルを認識すると驚いたように口を開く。


「坊ちゃん。これは、ずいぶん早いですね」


 齢三十半ばか、あるいはもう少し上の年齢を感じさせる容貌の男を、アシュベルは知っていた。

 ユーグリス家お抱えの護衛兵団の長、元腕利き冒険者のグリフ。

 ユーグリス家の領地に向かう道中、たくさんの冒険の話を聞かせてくれた人物であり、大森林に兵団を率いて迎えに来て真っ先にアシュベルへ駆け寄った人物でもあった。


 彼はアシュベルを見下ろすと、何処か気まずそうに続けた。


「ここを、出るつもりだったのですか……?」


 寝巻姿のまま、鞄を掛けていたらそう思うのも無理はない。それを考えなかったわけではないが、アシュベルは金髪を揺らし首を振る。


「目が覚めてしまって。少し外を見たかっただけなんです」

「そう、ですか」


 安堵か、気遣いか。グリフの表情は芳しくない。


「……あ」


 アシュベルは、小さく声を漏らす。

 薄暗さが白い光で消えてゆく。夜明けを迎えたのだ。

 アシュベルはグリフの隣を横切って、再び樹木を目指して走る。


「坊ちゃん?」


 グリフの困惑する声が背後に続く。

 樹木の下に到着したアシュベルは、鞄の紐を肩に掛け直し、おもむろにその幹へ両手を押し付ける。そして、小さな足を引っ掛けて登り始めた。

 貴族の子息が木登りなんて、貴族社会では本来歓迎されない事ではあるが、アシュベルは全く気にしない。背面に佇んでいるグリフから感じる酷く驚いた気配も構わなかった。

 手頃な枝にまで登ると、アシュベルはそこに腰を下ろし、顔を前へ向けた。


 樹木の上から眺め見た風景は、とても綺麗だった。

 地平線を輝かせる一縷の光が、館や中庭、周囲の景観を全て等しく照らしてゆく。眠りについて静まり返っていた世界が、目映く動き出す。

 きっと、その光は全てに注ぐ。アシュベルにも、アシュベルの立つ大陸の、さらに西へ進んだその果てにも、きっと。


 アシュベルは鞄を膝に抱え、その中から子どもの手のひらには大きい丸い石を掴んで取り出した。

 見た目は、少し濃い灰色に染まった、道端に転がっているだけのありふれた石。けれど、そこから放たれているものは、清らかさを突き詰めた強力な魔力だ。


 野望を持つ者なら誰でも夢見る、始源の大森林にある代物。この石ころ一つで、一体どれほどの財が動くか分からない。けれどアシュベルにとっては、そんな事はどうでもいい。


 あの人が、僕のためにと持たせてくれたものだ――。


 見てくれこそは無骨な、けれど清廉な魔力を秘めた魔石。

 まるで、あの人のよう。


「……お姉ちゃん、こっちで見る朝陽も、森とおんなじくらいきれいだよ」


 朝陽が訪れるたびにすり減っていた心で、そう思えるのがどれほどの事なのか。この場所にはいないあの人へ、伝えられたら良いのに。

 アシュベルは鞄を大切に抱きしめ、飽きもせず朝陽を見つめていた。



◆◇◆



 西の大陸最大の魔境――《始源の大森林》に迷いこんだだけでも命の危機だというのに、そこで真っ先に遭遇したのは大森林の覇者であるナーヴァルだった。

 逃げ果せる事など出来るはずもなく、僅か七歳でありながら凄惨な最期を迎えると覚悟した。

 けれどアシュベルは、その命を散らす事はなかった。

 それどころか、ナーヴァルのもとで暮らすようになったのだ。

 一体どうしてそうなったのか。アシュベルの方が聞きたかったけれどもちろん教えてくれるものは居なかったし、助けられたのではなく捕らえられたという認識しか最初はなかった。


 いつかきっと、目の前のナーヴァルは僕を食べるだろう。

 赤い瞳を歪め、口の中に擁した牙を剥き出して、きっと。


 たとえ食べ物を与えてくれて、衣服や寝床を整えてくれても、巨獣に追い立てられたあの恐ろしさは決して消えない。目の前の彼がそうではないなんて、どうして思えよう。


 不安、恐怖、絶望――小さな身体には許容しきれない重さが、アシュベルを蝕んでゆく。そんな状態で希望を見出すなんて事、この時のアシュベルには無理な話であった。


 けれど、緊張の張りつめた関係に変化が訪れたのは、あの出来事のおかげなのだろう。





 獣人姿のナーヴァルのもとで暮らすようになってから、数日後。

 その日の朝方、アシュベルは体調を崩して寝込んだ。熱や吐き気、倦怠感といった一通りの不調に襲われ、起きあがる事も出来ない。唸る声すら出ず荒く呼吸を繰り返し、毛皮のベッドにうずくまって身体を丸める。


 熱い。気持ち悪い。頭が痛い。身体が動かない。


 その絶不調は、アシュベルが初めて味わうものだった。フルグストの腹違いの兄弟たちから礫や暴言を投げつけられてきたが、そんなものの比ではない。どうなってしまうのかと、思わず恐怖するほどだった。


 アシュベルの不調を、住居の主であるナーヴァルも目覚めると同時に気づいたようだった。土間に敷いた毛皮を蹴っ飛ばして近づいてくる。


「――――! ――――?」


 ベッドの横にひざまずき、大きな身体を寄せた獣人が、何かを告げる。いつも通りに分からなかったけれど、熱でぼんやりとする頭ではそれ以上に考えが働かない。肌に張り付いた髪を払う獣の指先を、アシュベルはぼんやりと受け止めた。

 その指先に伸びる爪は、額を貫くかもしれないのに。

 額の撫でる指先の動きに、何故か不思議な優しさを見出していた。


 体調が悪いあまり、何かきっと見当違いな事を思っているのだろう。

 だってここは、始源の大森林という魔境で、目の前にいるのは西の大陸最強とまで言われる猛獣なのだから。


 けれど、その日の獣人は、普段にも増して甲斐甲斐しくアシュベルに張り付き世話をした。傷だらけの身体を殊更に大切に扱い、汗をまめに拭って、食事も喉に通りやすいものばかり。飲み物も、蜂蜜と柑橘類の果汁を混ぜたものだった。

 どれも、いつもとは違う。病人と認識して、まるで気遣っているような――。

 そこまで考え、まさかとアシュベルはぼんやりとする頭で思う。けれど、しかし、それはどう見ても……。


「……あなたは、僕を……」


 僕を、助けてくれるんですか。


 いつ食べるのか、どうして食べないのか、そんな事ばかりを呟いてきたアシュベルの、初めての問いかけだった。

 獣人はアシュベルに水分を取らせ、アシュベルをベッドに寝かせる。白い体毛が覆う面持ちと、その中で光る真っ赤な双眸は、人間が持つものではない。牙を擁した口からこぼれる言葉も、もちろん理解出来ない。けれど、熱でぼんやりとし恐怖心が薄くなっていた頭で彼を見た時、心配してくれているような気がした。


 ふと、アシュベルの額に重なった手のひらが、ふわりと撫でた。爪を持つその手は、決してアシュベルを傷つけなかった。





 その日の夜も、夢を見た。

 母が居て、祖父母が居て、優しくしてくれたフルグスト家の使用人たちと護衛兵たちが居て、暖かい陽だまりでアシュベルを呼んでいる。

 いつもと同じ、優しくて残酷な夢だ。この場所からはもう見れない、もう届かないものばかりを集めた、本当に残酷な夢。心身が弱りきった今、夢と知っているから余計に泣きたくなった。


 怖いよ。寂しいよ。


 ぼろぼろと泣きながら、母に手を伸ばす。その手を取ってくれるはずがないのに、小さな手をしきりに差し出した。


(僕を、おそばに連れて行ってください。お母様)


 その時、伸ばす腕ごと、何かがアシュベルの身体を抱きすくめる。それは、鋭い爪が生え揃う、真っ白な大きな手だった。




 アシュベルが瞼を押し開くと、微かな月光の漏れる暗闇が広がっていた。まだ真夜中だろう、朝の気配は僅かともない。

 薄く開いた瞼を、幾度か瞬かせる。そしてふと隣を見ると、大きな影が寄り添っていた。小さなアシュベルを潰さないよう、壁に背をくっつけて横向きに寝転がっているそれは、ささやかな声で歌っている。それが誰なのか、考えるまでもなかった。


 不思議な言葉で紡がれる歌は、初めて聞く音調で静けさを伝い響き、アシュベルの耳を撫でる。その声は獣性をまったく感じさず、優しく、穏やかで、ただただ包み込むように暖かい。

 アシュベルの腫れぼったい瞼が次第に重くなる。いつの間にか歌声も止み、再び静寂が訪れていた。うつらうつらと眠りに閉ざされながら、無意識にアシュベルは手を伸ばす。獣人の胸元を覆うふっくらとした胸毛を握り込むと、ふわりと腕が掛けられた。獣人姿のナーヴァルの腕。それがまた温かくて、アシュベルのまなじりにじわりと雫が滲んだ。


 来る者を阻み、去る者を許さない、魔境――始源の大森林の覇者。その身一つで竜を倒す、西の大陸最強の猛獣。

 様々な異称を冠し逸話がついて回るナーヴァルという生き物は、理性のないけだものではない。


 温かく包まれながら、アシュベルはようやく悟った。彼は自分を食べようと、傷つけようと、これっぽっちも思っていない、と。


 身体を洗って、衣服と食事を用意して、体調を崩せば看病して、添い寝をして。食べようと思えばすぐに食べられるアシュベルに、そんな風にしてくれる。最初から、彼にそんな気はなかったのだろう。


 それなのに、僕は。

 どうしてあんな風に思えたのだろう。これではあの大嫌いなフルグスト家と、なんにも変わらない――――!


 恥じ入るアシュベルの身体を、大きな手がぽんと撫でる。葛藤なんて知らないように、彼は眠りながらも優しく宥めてくる。本当に、どうして彼を疑えたのか。

 瞼の重みが増し、アシュベルは瞳を閉じる。真っ暗闇に包まれても、もう恐ろしくはなかった。


 ……そういえば、誰かと眠るなんて、いつぶりだろう。


 今よりも、もっと前。母が生きていた時ぶりかもしれない。

 そんな事を何気なく思い浮かべながら、アシュベルはナーヴァルの胸に擦り寄った。少し緊張したけれど、彼の胸はとても暖かくて、柔らかくて、再び眠りへ落ちた。


 その日、あの残酷な夢は見なかった。





 アシュベルの心は、それを境に、大きく変化していった。

 獣人姿のナーヴァルに害する気持ちがない事を知ると、子ども特有の好奇心さで観察出来るようになり、その一挙一動を純粋な興味でじっと見つめたりした。そうすると、目の前のナーヴァルがとても穏やかな気質である事が分かり、その手を触ったり指を握ってみたりと思い切った行動まで出来るようになった。

 よくよく考えれば、以前追いかけ回された巨大な白獣姿のナーヴァルの方が、何十倍、何百倍も恐ろしかった。あんなのと比べたら、目の前のナーヴァルは恐れる存在ではない。ちっぽけなアシュベルへ、こんなに良くしてくれるのだから。その慈愛は亡き母を彷彿とさせるが、アシュベルが初めて受けて味わうものだった。


 もう、この人を疑うのは止めよう。

 もう二度と、この人を怖いと思うのは止めよう。


 だって、今もこの人は、僕の小さな手を優しく握ってくれてる。


 アシュベルは、西の大陸最強の猛獣、ナーヴァルへ笑顔を見せた。それはこの森に迷い込んでから、いや、母が居なくなってより過酷になったフルグスト家の監獄生活から、久しく浮かべた微笑みだった。


 ナーヴァルは一瞬驚いたように、赤い瞳を大きく見開かせた。頭の天辺に生えた三角の耳がついでにびくりと跳ね上がる。けれど、アシュベルの手をぎゅっと包み込むと、口角を上げ牙を見せた。それが目の前のナーヴァルの笑うという仕草だと、アシュベルはようやく知った。


 身体の後ろに見える、引きずるほどに長い豊かな尻尾が、激しくぶんぶんと振られていたのだから。


 アシュベルはますます笑みを深めた。



◆◇◆



 ――目映く照らす朝陽が、空へ馴染み、光が行き渡る。

 寝静まっていた風景がすっかりと明らむまで眺めた後、アシュベルは手に持った丸い石を鞄にしっかりとしまい込み、再び肩に掛ける。んしょ、と小さく声を漏らし、木から降りた。

 その下にはグリフが佇んでいた。彼はやや驚いたように表情を緩め、膝をついた。


「……驚きました。坊ちゃん、ずいぶんと木登りが上手だ」


 貴族の子息なのに、ではなく、フルグスト家を出たばかりの時の弱さがない、という点で彼はきっと驚いたのだろう。まさか木登りが得意になるとはアシュベル自身も思っていなかった。小さく笑うと、肩に掛けた鞄をそっと胸に抱きしめる。


「教えてもらったんです。お姉ちゃんに」


 森の歩き方や、木の登り方。草まみれになって転がり、走り回り、寝そべって空を仰ぐ事。土と緑の豊かな匂い、自然の音色。果ては、太陽の暖かさや、月の美しさまで。


 本だけで形作られた世界が、どれほど狭く空虚なものであったのかも。


 ことごとく塗り替えて“本物”を教えてくれたのは、全て、あの人だった。


「……森の中を、お姉ちゃんといっしょに歩きました」


 あの人が怖いものではないと知り、怯える事を止めてから、アシュベルは外へ踏み出す事を決意した。彼女が暮らす家の中から、あるいは、閉じこもっていたアシュベル自身の心の中から。

 彼女は渋ったようだったが、外に出たい、一緒に行くと訴え粘るアシュベルに折れ、その手を引いて連れ出した。

 その時に感じた驚愕と興奮は、今もはっきりと思い出せる。



 天を貫かんばかりに聳える巨大な樹木は、豊かな葉を力強く茂らせ広げていた。そこから漏れる幾つもの光の筋を受け、朝露を纏った草花や穏やかな流れの河川は輝く。様々な動植物が、何にも捕らわれず自由に過ごしていた。

 ほとんどが見たことのない未知の生き物であったけれど、中には図鑑に載っていたものもいた。万病を癒す野草をはじめとして、どんな菓子にも負けぬ甘く爽やかな蜜を蓄えるという果実。幾重に枝分かれた角を持つ鹿の聖獣に、幸運を運ぶという美しい有角うさぎ。光のような鱗粉をこぼす妖艶な羽の蝶に、王の名を冠した昆虫。

 数種類しか覚えはないが、どれもこれも頭に“伝説”がつく存在ばかりだ。

 そしてそのほとんどは、“巨大”という言葉も付属していた。


 そんな生き物たちが、目の前で、呼吸をして動いている。

 ただそれだけなのに、鮮烈な衝撃に声も出ず、圧倒され見惚れるばかりだった。


 太古の営みが今もなお連綿と続き、美しい動植物が育まれる大森林。

 踏み入れる事を阻み、去るものを許さない、未開拓の魔境。

 人よりも遙かに巨大な強者ばかりが生きる、過酷な世界。

 どの国の軍隊も、腕利きの冒険者も、その土地に挑んでは散ってゆき、生き延びたものたちは未だ数人しかいないという。そしてその残されたものは皆、富と名声を得た。

 どの本でもそう綴られ、人々の間で浸透している。確かに、そうなのかもしれない。あまりに美しく、あまりに幻想的。何人も侵してはならない神秘性が、確かにそこにあった。


 アシュベルはその時、己の世界の狭さと色の無さ、いかに無知であるのかをはっきりと自覚した。

 隣に並ぶあの人は、尾を横に揺らして微笑んでいた。差し込む光を受け、白い毛衣がさらに輝き、髪や耳などを染める赤が鮮やかに浮び上がる。そんなあの人の向こうに見た朝陽は眩しくて――――あんまりにも、綺麗だった。

 朝陽だけでなく、あの人自身も。



 身一つで自由に歩いた始源の大森林は、アシュベルの狭い世界を刺激し、視野を大きく広げさせた。外の世界に、初めて興味を持てたのだ。

 だからこそ、思う。あの人の存在は、自分にとってどれほど大きかったのかと。

 アシュベルは、胸に抱いた鞄へぎゅっと力を込める。


「……さあ、中に入りましょう。今日は、たぶんたくさんの事をお話するだろうから」

「……うん」


 グリフの手が、そっと背中に添えられる。成人男性の手はとても大きく逞しかったけれど、それ以上に、あの人の手は立派だった。そこは、人と獣の違いなのだろう。


「ところで、坊ちゃん。お姉ちゃん、とは……あのナーヴァルですか」


 恐る恐るとグリフが尋ねる。その表情がひきつっているのは、彼が兵団を引き連れ助けに来た時、ほぼおとぎ話の存在であった本物のナーヴァルを目の当たりにしたからだろう。それも、二頭。当初はグリフと同じような反応をしていたアシュベルなので、ひきつる気持ちがよく分かった。

 しかし、大恩人の彼女にそんな反応をされるのは、少しばかり、面白くない。


「お姉ちゃんは怖くないよ。優しいひとです」


 アシュベルはむっと頬を丸く膨らませる。グリフは少し苦笑いし、申し訳ないと謝ってくれた。


「ただ、どっちが……そのお姉ちゃん、とやらですかね」

「え?」

「最初に、籠をくわえて坊ちゃんを連れだした方ですか。それとも、敵意を剥き出して吼えながら突進してきた方ですか」


 ああ、そういえば。グリフたちと再会を果たした時、彼女の背後から別のナーヴァルが現れた。

 彼女より二周り以上も立派な躯体を持つ、ひどく恐ろしい獰猛な咆哮を上げた巨獣。あれこそ誰もが思い浮かべる大森林の覇者の姿だろうが、彼女はあんなおっかないものではない。あれよりも、細くしなやかで、ずっと上品な佇まいをしている。美しい獣の女神を、あれと比べては駄目だ。


「違います、僕のお姉ちゃんは、そっちじゃないです」


 ふんふんと鼻息荒く否定するアシュベルに、グリフはやや目を丸くする。強い声音が返ってきて驚いたのかもしれない。けれど彼は精悍な面持ちに小さく笑みを浮かべると、何処か微笑ましそうに視線を落とした。


「お姉ちゃん、という事は……えーと雌? 女性? なんですね。よく分かりましたね、性別が」


 尋ねられた途端、アシュベルは少し照れたようにはにかむ。



 最初はアシュベルも、あの獣人姿のナーヴァルを雄と認識していた。なにせ長らくフルグスト家に閉じこもっていた身、初めて見る獣人のうえ、しかもそれが初めて対面する西の大陸最強の猛獣ときた。冷静に分析する暇もなかったし、しばらくは混乱していたので、自らよりも大きいからという安直さで無意識にそう思ったのだろう。

 しかし、同じベッドで身を寄せ合って眠るようになって、ようやくアシュベルは気付いた。喉と胸元をふわりと覆う胸毛のその下の――――柔らかな二つの小山の存在に。


 そして、毎朝共に外へ出かけるようになった時、アシュベルは確信した。

 長い赤髪を撫で、とかす仕草。全身を丁寧に身繕いする動き。そして、まじまじと眺めて認識する、ほっそりとした落ち着いた後ろ姿。


 “彼”ではなく“彼女”だと知った時、アシュベルは別の意味でこっそりと衝撃を受けていた。



※その頃サァラは、ガァクの胸にしがみつき、わめき散らしたあげく八つ当たりして大号泣し、おうちに帰って絶賛轟沈中

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