14 とある少年の、昔話(1)
2015.11.27 更新:1/2
お待たせいたしました。
楽しんで頂ければ幸いです。
念願のアシュベル少年視点の話が始まります。
「――――ゆっくり休んでちょうだい。アシュベル」
リネンで整えられた大きなベッドから見上げた視界の中で、祖父母が微笑んだ。確か齢四十になったばかりのはずでまだまだ若い二人だが、涙を湛えてくしゃりと表情を歪めると年相応の仕草に見えた。
「はい……ご迷惑、おかけします」
「迷惑など、そんな事は言わないでくれ。私たちに心配させてくれないか、何にもしてあげられなかった私たちなのだから」
そう告げた言葉は、本当に心配してくれているのだと分かった。小さく頷いて見せると、二人は順番に額を撫でてゆき、部屋を静かに去っていった。
パタリ、と丁寧に扉が閉ざされる。
訪れた、しんと静まった空気。不思議な違和感を何故か覚える。一人きりの空気は慣れているはずなのに、おかしな事もあるものだ。アシュベルはベッドの中でもぞもぞと身動ぎを繰り返す。柔らかく寝心地のいいベッドだって久しぶりなのに、喜べない彼がそこにいた。
(これが、普通なのに)
アシュベルは潜り込んだ内側で、一緒に忍ばせていた鞄と毛皮のマントをぎゅっと抱きしめた。
(“あの人”が隣にいないベッドは、こんなに冷たい)
このベッドに比べたら、あのベッドは小さく粗末で寝心地もあまり良くはなかった。それでも、いつも温かかった。寒い事は決してなかった。背中を叩いてくれない事だって、なかった。
抱き込んだ毛皮のマントを、きつく胸に引き寄せる。“あの人”を見せてくれるのは、もうこんなものでしかないなんて。
忘れるべきかどうかと聞かれたら、きっと忘れるべきなのかもしれない。あの常識のない、別次元の、途方もない場所で過ごした日々なんて。
けれど、忘れようと、忘れたいと、決して思えなかった。
すらりとした身体に纏った、白い毛皮。風のように駆け背中を流れた、鮮烈な赤い髪。人とは異なる存在であるその最たる証明の、獣の耳と尻尾。
ずっと側にいて守ってくれた、優しい獣の人。
あの場所で生きていられたのは、全て、あの人のおかげだった。
(なのに、僕は)
あの人が同種族の獣に喉元を噛みつかれる光景を、転送陣から見るしか出来なかった。あんな風に争ってまで助けてくれたあの人を、置いてけぼりにして。
(僕が……強かったら。あの人と同じ、獣だったら)
アシュベルは、そんなどうしようもない事を考えてしまうのだ。
◆◇◆
アシュベル=ユーグリス。
西の大陸において大国として名高い国の、侯爵の地位を持つフルグスト家の第四子。
本来ならばフルグストを名乗るべきであるが、アシュベルの中ではユーグリスという姓だと強く願っている。その理由は後ほど分かるが、ともかく生まれながらにしてアシュベルが背負う事となった肩書きは、大変重いものであった。
しかも、生まれてから僅か七年、たった一桁の生を歩む幼子であるのに、生家に囲われた日々は苦痛の一言に尽きた。
フルグスト侯爵は、大規模な領地を経営する者として国の中では名の知れた貴族であった。しかしその全貌は、よくあるといえばよくあるが、裕福であるがゆえの屈折した倫理観と享楽が渦巻いていた。
長閑な土地を持つユーグリス伯爵家の娘であった母を、是非にと請い正妻として迎え入れた父に当たるその男は、何人もの愛人が存在している事をぶっちゃけた。
そして、アシュベルが第四子であるという通り、上には三人の腹違いの兄たちが存在してる。
よくある事といえど――――人として、この醜聞はあり得ない。しかも最初に明かすべき事だ。
アシュベルは物心ついた幼い頃からそれを知っていた。目と耳を塞いで遮られるものではなかったのだ。
そんな状況は、当然アシュベルたちにとって暮らしづらいものだった。既に君臨していた愛人たちは正妻としてやって来たはずの母を目の敵にし、随分と陰険な事もしたらしい。
温厚で争いには向かない、優しい母。それでも嫁いだ身として、家の行き先を案じ、この拗れた家の空気をどうにかしようと奮戦していた。そんな母であったからこそ、多くの使用人たちは感銘を受け母を慕っていた。その背の強かさを、アシュベルは今も覚えている。
けれど――――その心が報われる事は、残念ながらなかった。
心労が祟り、身体を弱らせた母はベッドで過ごす事が多くなった。義務として課せられる勉学の時間の合間を縫っては、アシュベルも母の傍らで過ごして励ましたが、その精一杯の願いは弱り切った身体を癒してはくれなかった。
「アシュベル、貴方は強い子よ。必ず、必ず貴方の世界は、この家から抜け出せるから――――」
その言葉が、母の最期の声となった。アシュベル、僅か六歳の時である。
不幸は連鎖する。幼いアシュベルにとって、それは更なる苦痛をもたらす始まりでもあった。
正妻の座が空いた途端、愛人たちの熾烈な争いがまず予想した通りに開始された。それだけでなく、元からあった跡目争いまでも表面化し、フルグスト家の内情は口にもしたくないほど浅ましいものになった。
それにアシュベルが巻き込まれる事は、望んでもいないのに必然だった。
上の兄たちは揃いも揃って愛人たちを鏡で映し出したような人格で、僅か六歳のアシュベルを敵のように扱った。侯爵家を継ぐための教育の辛さや母たちの争いの鬱憤を、アシュベルにぶつけるようになったのだ。
お前はフルグスト家の跡取りなんかじゃない。俺が跡取りになってやる。そうしたらお前をすぐに追い出してやる――――そんな事を言われるのはしょっちゅうで、幾度も思ったものだ。だったらそうすればいい、誰がこんな家を望むものか、と。けれどそれを口にして兄たちに抗う事は、小さな彼では出来なかった。
挫けそうになる彼を奮い立たせてくれたのは、母の姓であるユーグリスの名である。お母様の子どもなのだからと、アシュベルはそれをより所にして耐え抜いていたのだ。いつしか心は本当に、フルグストではなくユーグリスだと思うようになっていた。
温厚で優しいのに、一人でこの家に立ち向かった母。アシュベルが引き継いだ、輝かしい金髪と鮮やかな碧眼は、全て母のものだ。父に当たるあの男ではなく母と同じものを授かって生まれた事は、アシュベルにとって何よりも幸福な事だった。
どうやったら、あの人のようになれるのだろう。
幼いアシュベルが考えた結果、辿り着いた先にあったのは――――本だった。
腐っても侯爵家、書庫に保管された本の数々は圧倒的なものだった。恐らくは趣味などではなく、貴族の象徴の一つである財産的な意味だったに違いない。けれど、図鑑、物語、歴史書など、何一つとして思惑の存在しない文字によって形作られた世界は、幼いアシュベルが生きられる唯一の場所となった。
特に、この西の大陸の果てに存在するという“とある大森林”は、忘れかけた憧れのような、母の葬儀の際に一緒に手放した幼心を思い出させてくれた。何度も母に強請って読み聞かせて貰った絵本の題材も、その大森林だった。
窮屈で屈折した日々から逃れるための、心を安寧に保つための手段であった事は否定出来ない。それによってますます篭もりがちになってゆくアシュベルは、フルグスト家の中で次第に“居ないもの”として扱われるようになってしまった。
亡き母を慕ってくれた多くの使用人たちの力がなければ、アシュベルはどうなっていたか分からない。
僕はここから、本当に抜け出せるのだろうか。
誰も教えてはくれない疑問は、いつの間にかアシュベルの中に生まれて根付く。実話を元にしたという物語や大陸の有名な各所を綴った図鑑など、お気に入りの本を何度も読み返し、歪みきった家の外へ想いを馳せるようになるのも当然の事だったのかもしれない。
そんな屈折した日常と、息がつまる理不尽な生活は、母が世を去って一年も続いた。ようやく一筋の光が見えたのは、アシュベルが七歳になった時だ。
母の両親、つまりはアシュベルにとって祖父母に当たるユーグリス伯爵家の夫妻が動き出したのである。
アシュベルを儚んだ一部の使用人たちが、首が飛ぶのを覚悟し影で伯爵家に手紙を出し続けていたらしい。母はやはり気丈な人だったようで、死の間際までその辛さを身内へ明かす事はなかったようだが、娘が身を滅ぼすに至って両親は大いに嘆き悲しみ、また大激怒して諸々の準備を整え、アシュベルをようやく伯爵家へ迎え入れる事になったらしい。
その諸々の準備というのもいずれ分かる事であるが、ともかく。
一年、本当に長く辛い一年であった。幼いながら耐えきったアシュベルは、亡き母と共にフルグスト家を出て、祖父母のもとへ引き取られる事となった。使用人たちもこっそりと喜んでくれたけれど、他ならぬ歓喜を抱いたのはアシュベルである。
心の中で持ち続けたユーグリスの姓も、いずれは正式なものになるだろう。祖父母に引き取られる事が、アシュベルは本当に嬉しかったのだ。
そして、護衛の兵たちを伴って現れたユーグリス伯爵家の当主夫妻は、アシュベルを抱きしめフルグスト家からすくい上げてくれたのだ。
初めて対面した祖父母なのに、懐かしく安らぐ温もり。今はもういない母を思い出させて――――幾久しく、頬に涙が伝った。
――――あの時は、屈折した日々から抜けられる瞬間がその時だったと思っていたけれど。
本当の意味でアシュベルの《運命の日》が訪れるのは、それから数日後の事。フルグスト家からユーグリス家へ向かう道中にあった。
◆◇◆
アシュベルはその後、祖父母と共に直ぐ様、フルグスト家のもとから発った。
侯爵の地位に見合うだけの、大きく立派で、そして虚ろな監獄のごとき屋敷。この屋敷に良い思い出なんて、欠片ほどもない。けれど、唯一ともいえる存在だった母の記憶があるのもこの屋敷だ。いざ離れる時になると、アシュベルの胸にはいくばくかの不安が感じられた。
そして気がかりだったのは、アシュベルを気にかけてくれた使用人たち。
存在しないものとして扱ってきた者も居たけれど、真剣に考えてくれた者も多かった。彼らはアシュベルが引き取られてゆく事を、文字通りに泣いて喜んでくれた。だからせめて、アシュベルも願った。彼らがこんな屋敷ではなく、もっとずっと尽くしがいのある素敵な主人のもとへ行けるようにと。
そう祖父母に呟いたら、二人は。
「大丈夫、貴方の想いは、必ず届きますよ」
と、にっこりと微笑んだ。
本当にそうだろうか、毎晩捧げたお祈りは決して母に届かなかったのに。
アシュベルの拙い願いが叶うかどうかは、まだこの時は分からない事であった。
かくして、アシュベルは祖父母と共に、母の生まれ育った場所を目指して外の世界へ踏み出した。
母が生まれ育った場所は、フルグストの領地から離れているらしい。馬車を用いて街道を進んでも何日も掛かるので、祖父母がやって来た時と同じように転移の術を刻んだ魔石でひとっ飛びする予定だったそうなのだが……。
一日だけ馬車の旅をしてみようかと、祖父母から提案が出された。
馬車の窓に張り付いて、飽きもせずに眺めている姿に、思うところがあったのだろう。
帰還用の転移の魔石はある。日中だけ馬車の旅をし、夜を迎える前に魔石で帰れば良い。
そう笑った祖父母に、アシュベルは喜んで大きく頷いた。こもりがちだったアシュベルにとって、これがまさに初めての外の世界だったのだ。
休憩を取る時間、祖父母や護衛の兵たちともたくさん話をした。
あの環境で長く過ごしたせいか、上手く言葉を出せなかったアシュベルを彼らは笑わなかった。アシュベルの声に耳を傾け、そして様々な事を聞かせてくれた。
祖父母は昔、貴族でありながら冒険者稼業に身を置いた事があったとか、ユーグリス家の私兵団であるらしい護衛もほとんどはそういった荒行をしていたとか。母も大人になって落ち着いたが、昔は相当なお転婆でこうと決めたら頑として動かなかったとか。
そういう母だからか、多くの人々から慕われていたとか。
「あの子は小さい頃、本が苦手だったの。アシュベルは好きかしら」
「分からない、です……でも、大森林を題材にした、本が好きです」
「大森林……ああ、大陸の果ての、あの森かな? 俺たちも小さい頃よく読んだよ坊ちゃん」
アシュベルは、戸惑った。フルグスト家とはまるで違うその接し方に、礫を投げられ暴言を吐かれてきた彼にとって、天と地ほどの差がそこにあった。こんな風にたくさんの人に囲まれて話をする事すらなく、どうすれば良いのかと困惑したけれど……嫌な気分ではなかった。
アシュベルからも緊張が薄れていて、祖父母とも、彼らを慕う護衛兵たちとも打ち解けた。その後の道中も、和やかなものになる。
そう、思っていたのに。
地平線に続く街道が、木々の多い場所へと景色を変えた時だった。
アシュベルたちの乗る馬車が、無法者から急襲を受けた。
盗賊か、山賊か、はたまたもっと別のものか。アシュベルには彼らが何なのか分からなかったけれど、幼い頭にもフルグストの文字が浮かび上がった。
兵たちは剣を取り、祖父母もそれに加わって応戦する。もとは荒行に身を置いていた彼らは、急襲をものともせずあっという間に苦境から持ち直して、逆に無法者たちを追い込んだ。
けれど、彼らは捨て鉢になって、アシュベルを奪うように捕らえた。そして、何事かを叫びながら、懐からあるものを取り出して放り投げた。
「このガキさえ居なくなれば良いと依頼主は仰せだ! 探せるものならば探してみればいい!」
無法者が取り出したのは、魔石だった。地面に叩きつけられて割れたその瞬間、捕らえられたままのアシュベル共々、光の奔流が包み込む。
「これは……転移?!」
「アシュベル!」
祖父母の声が、兵たちの声が、遠くで聞こえる。自分を捕らえる男の笑い声が、姦しく鳴り響いた。
せっかく、抜け出せると、思ったのに。
伸ばしたアシュベルの手は、何も掴まなかった。
無法者が取り出したのは、使い捨ての魔石。
術を一つだけ刻み、誰にでも扱える代わりに一度だけしか使用できない代物。
刻まれた術は、《転移》だった。
転移の術を刻むならば、場所も指定しなければならない。けれど無法者たちは、そこまで知らなかったのだろう。
放たれた転移の術は、アシュベルと無法者たちを、無作為に飛ばした。
アシュベルを大きく変える事になる、《あの場所》へと。




