12 再び巡る奇跡を喜ぶ
2015.10.20 更新1/1
来る恐怖の繁殖期(文字にすると余計に恐ろしい!)に備え、籠城作戦を決行すべくサァラは準備を進める日々だった。
結局、考えたところであの長身かつ屈強なガァクを物理的に退けるすべはないので、引き籠る事が一番の策であると至った。腕力ではかなわないので、中身が割れると激臭を放つ木の実をしこたま集め始め、いざとなったらこれを顔面にぶつけ脱走しようと策略を巡らす。
プライド? そんなものはとうの昔に捨てているが何か。
その間もガァクは変わらずまめに様子を見に来るが、その様子が刻々と変化している事はサァラも察知した。日を経るごとに、彼の赤い炯眼には捕食者のようにぎらぎらとした光が深まり、いつ背中を襲われるのかと気が気でない。
一体何処が、ガァクに気に入られたものか。
規格外の生物がうじゃうじゃ生息する森の、その頂点にあるナーヴァル。とすれば、夫婦になる基準も腕っ節の強さが最たるところにあるはずだ。そう思うから、「どーせ夫婦になりたい人はいないし!」と独身宣言をこれまでしてきたペラッペラのもやしっこサァラである。周囲も対象外であったから、これまで何事もなかったはずなのだが……いやはや、予想外な方面からの奇襲に困惑が止まらない。
どうして、とガァクに尋ねてしまったら最後、何か起きる気がするので決して尋ねた事はない。今サァラが出来るのは、堅牢な籠城作戦を成功させる事のみだ。
その一番に回避すべき存在が、半径一メートル以内にくっついている事は見ない。絶対に見ないぞ。
それとは別の話になるが、最近、サァラは特に考える。どうして私は人の記憶を持ったまま獣の種族に生まれたのか。あるいは、どうしてそのような事情を持って、この世界に居るのか、と。
それが些細な事であり、考えたところでどうにもならなかった事は、もう随分前に知っていたのだけれど。
もやもやとすっきりしないが、サァラは今日も森を駆ける。この場所ではない何処かで元気に過ごしているだろう金髪の少年に、想いを馳せながら。
いつものように森の外を眺めに出掛けたサァラは、普段は感じない違和感を真っ先に覚えた。
何十メートルもある大木の上から一望する風景は、今日も爽やかな風の吹く草原地帯であったのだけれど、何か。
「……? 音……?」
頭の天辺に生え揃う赤い獣の耳をそばだて、違和感の正体を探る。遠くから微かに、何かが聞こえた気がした。
と、その時、木の真下から投げかけられたサァラを呼ぶ声が意識を遮る。一時中断し、サァラは顔を下げた。見慣れてしまった獣人姿のガァクが佇んでいたのだけれど、その獣の頭部には険しい面持ちが浮かんでいた。何かあったのだろうかと、サァラは普段の危機感をあっさりと忘れ大木から伝い降りる。
どうしたの、と告げようとした瞬間、ガァクの低い声が被さった。
「サァラ、住処に戻っていろ」
「ガァク?」
「余所者の匂いがする」
ガァクは不愉快そうに吐き出した。すん、と音を鳴らす獣の鼻筋にしわが寄る。
「たまに自分の住処を越えてくるような奴がいる。たぶんそれだろう」
「森の外の、生き物って事? 争いか何か?」
「……」
「ガァク?」
普段と変わらない逞しい獣人の巨躯から、確かに感じる不自然な違和感。もとから彼はよく喋る方ではないが、ここまで極端に言葉が少ないわけではない。
遙か遠くから微かに届く空気のざわつきは、サァラの神経を落ち着きなく揺らす。
「森に近付いてるの? 危ない事?」
「……俺にとっては別に危険でもなんでもない。だが、お前は……関わるべきではない」
いつもの貧弱呼ばわりかと思ったが、そのようには感じ取れなかった。もっと何か、別のものを含んでいるような。小首を傾げたままのサァラへ、ガァクはそれ以上何かを告げたりはしなかった。馬鹿でかい手のひらでサァラの二の腕を掴み、森の外から遠ざかってゆく。
まるでそれは、サァラが関わる事を厭うような仕草ではないだろうか。
サァラはしばし考えた後、ぐっと足を止めた。頭二つ、いや三つ分は伸びた上背が、鈍く振り返る。
「もしかして、見てきたの?」
ガァクは何も言わなかった。けれど、頑強な上半身の上に乗っかった獣の頭部は、赤い瞳は、物言わぬ沈黙は、なによりも雄弁であった。
「……見なくても分かる。だからお前は気にするべきじゃない」
「なにそれ、どういう意味」
教えてくれたって良いじゃない、とサァラは瞳に念を込める。何をそんなに渋っているのか、ガァクはそれでも決して言おうとしないので、サァラはその手を振りほどく……事は出来なかったので、引き剥がそうともがく。
「サァラ?」
「教えてくれないなら自分で見に行く」
「止めろ、何でそこまで気にする」
逆にサァラは反問してやりたくなる。だったらガァクは何をそんなに嫌がっているのか、と。
ガァクという雄がここまであからさまにサァラを遠ざけようとするなんて、あまり無い事だ。よほど知られたくないらしい。これを見て素直に従う方が、逆に難しいというものだろう。
サァラの中の微かな違和感は、次第に大きくなってゆく。やっぱり見に行った方がいいと、使命感に似たものへ変化していった。
「……やっぱり気になるから、見てくる!」
サァラは思いきり振りほどいて、赤い長髪と赤い獣の尾が翻し踵を返した。「サァラ!」吼えるようなガァクの呼び声が細い背に掛けられたけれど、サァラは立ち止まらなかった。再び森の入口にまで駆けると、いつかの時のように思いきって木々を越えて草原に飛び出す。森とは異なる爽やかな風が、力強く吹き抜けた。
と、思うのも束の間。サァラの背後からは、地鳴りのような足音が迫った。振り返れば、十メートルはあろう巨大な四足獣が猛然と走っていた。
「え?! ちょ、ちょっと、そっちの姿にならなくたって良いじゃない!」
いくら足に自信があっても、その姿では足の長さの関係でガァクに軍配が上がる。
獣化した彼に対抗すべく、サァラも同じ姿に転じる。走る速度は落とさずに軽やかな宙返りをすると、ナーヴァル本来の姿である赤いたてがみを持つ白い四足獣となった。外見の恐ろしさや貫禄はガァクが上であるけれど、逃走――もとい走る事にのみ特化したサァラは、筋肉の塊のガァクを楽々と引き離した。
足のみで生きてきた私を舐めんな、と声を大にして叫びたくなる清々しさ。この足さえあればもう怖いものなんて何もないのではないだろうか。
「サァラ、止まれ!」
「絶対いやー! 見に行くー!」
「おま、貧弱なナーヴァルのくせに何でそう……ッ分かった、止めやしないから、とにかく落ち着け!」
ちら、とサァラは後方を覗き見る。
「本当に?!」
「ああ、だから一度止まれ!」
サァラは速度を落として立ち止まった。ガァクはサァラへ追いつくと、心底仕方なさそうに息を吐き出した。獣の頭部であるのに、心情が読みとれるほどに感情を豊かに表している。
「何だってお前は弱いくせにそう意地が強いんだ……はあ」
「だってガァクが教えてくれないから」
サァラの頭上で、ガァクの赤い目がじとりと細められた。以前は苦手だったその眼差しも、今は怖くない。
「……言いたくもなくなる。お前は、たぶん、きっと」
全てを言わずに、そこでガァクはいったん口を閉ざす。
「……お前に先走られて怪我をされるよりかは、ましなんだろうがな」
ガァクは数歩踏み込むと、サァラのしなやかな身体に己の巨躯をすり寄せた。五メートル前後の体長を有するサァラであるけれど、それ以上の巨体を持つガァクと比べてしまえば、とても小さく頼りない。ちょっと力加減を間違えれば呆気なく吹っ飛ぶ存在であると、彼も知っているのだろう。胴体の側面ですり寄る仕草はとても繊細で、彼らしくなかった。
一瞬身構えたけれど、ガァクは直ぐさまその巨体を離してサァラを見下ろす。彼の獣の顔は、凶悪な森の覇者、ナーヴァルの威風を放っていた。
「……俺もついてゆく。それが条件だ」
走り出したガァクと並行して、サァラも緑の大地を蹴る。
清々しい風と陽の満ちる草原を、赤いたてがみを揺らす白獣が二頭、猛然と走り抜けた。
◆◇◆
サァラの視界を、草原の風景が流れてゆく。起伏の少ない大地は広大で、森の環境とはまるっきり異なる事を改めて感じ入る。思えば森の外にはどのような風景があるのかよく知らなかった。
これほど穏やかであるのに、何で森の中は未知の世界なのだろう……。
草原地帯の長閑さがあればいいのに、とサァラはこっそりと思った。
それはさておき、サァラが感じていた微かな違和感は、進むにつれて確信に変わっていた。爽やかな風景に相応しくない、音が聞こえるのだ。金属がぶつかるような甲高い音や、吠え立てる獣の鳴き声といった騒音が、不躾なほどに静かな空気を壊している。
「何だろう、この音」
独り言を呟いて、サァラは緩やかな傾斜の丘を駆けた。その隣のガァクはここまでほぼ無言で、ピリピリとした雰囲気を醸している。これぞナーヴァルといった獰猛な外見を煽っているけれど、それを気にしている場合ではなくサァラの四肢は前へ踏み出した。
この丘の向こうから聞こえる。
サァラの胸は、ざわついていた。そして丘の上に立ち、見下ろした先には――――騒音の正体があった。
まず目に付いたのは、大きなトカゲであった。本来の獣の姿で五、六メートルほど(実際はもう少し大きいかもしれないけれど)のナーヴァルと比べれば少々小さいが、立派な体格の個体であるように思う。全身を深緑色の鱗で覆い、草原に生える草を薙ぎ払う長大な尻尾は脅威を表す。
が、正直可愛くすら感じたのは、最弱のサァラも物事の基準があの森に設定されているからだろう。
森の外の生物はまだ許せる大きさと外見ね。何であの森ばっかり……。
思わずため息をつきたくなったが、そのトカゲは眼下で何かと戦っていた。激しく鳴きながら前足の鋭い爪を振り上げ尻尾を払う先に、トカゲの体躯よりも小さく細い影が動く。それを見て、サァラはドキリとした。
鎧と武器を身につけた、二足歩行の生物。それは森の中では滅多に見られない人間であった。
「やっぱり、か」
「気付いてたの」
「何となくな。音でそんな気はした」
ガァクはサァラを見下ろすと、「これで気が済んだだろう」と冷たく言い放った。
「戻るぞ、ナーヴァルの領分はあの森だ」
「で、でも、襲われて……」
「あの人間がこれで帰るならそれで良い。ここで死ぬようならそれまで。森に来るなら、どのみち他の連中が許さない」
「そうだけど、でも」
「あれはあいつらの争いだ、俺たちが手を出す事はそもそも許されない」
森で生きる獣の理。もちろんサァラも知っているけれど、頷く事は出来なかった。帰ろうとするガァクに首根っこを噛まれ引きずられるが、サァラはそれに抗って踏ん張る。
なだらかな丘の下で戦う人間は、数も多くはなく四、五人ほどだろう。少し遠目だが、成人男性に違いない。思いがけず強敵なのか、だいぶ手間取っている印象を受ける。
と、その時、トカゲの振り上げた前足が、不意に光によって弾かれた。
陽の下でもはっきりと浮かぶ青白い閃光に、サァラの目が止まる。成人男性と思しき彼らの間に……小さな人影があった。大人の腰の高さほどの背丈で、細く小さな子どもである。綺麗なマントを翻し、倍以上も体格差のあるトカゲ相手に堂々と戦っている――――。
(……? あれ……?)
サァラは目を凝らした。
陽の下で光る、見事な金髪。きっと魔法か何かなのだろう、青白い光を携えた色白な手。小さな人影の、横顔は。
サァラの胸が大きく飛び跳ねる。ざわつきが高鳴りに変わり、獣の身体に熱いものが駆け巡った。
だって、でも、嘘、どうして。
ガァクにくわえられている首を無理矢理に彼らへ向ける。背後でガァクが何か言っているが、今は全て通り抜けていった。
「――――サァラ!」
ガァクの顎から抜け出したのは、ほとんど無意識だった。跳躍するように丘の下へ駆け下り、彼らのもとへ――――“彼”のもとへ急ぐ。
猛スピードで駆け寄ってくる巨大な獣に、戦っていた双方が気付き一瞬動きを止めた。僅かに生まれた隙へ目がけて、サァラは真横から突っ込んだ。近付いてみると、トカゲは獣の姿のサァラと大した差はなくほぼ同等の体格を有していた。怖くないわけではないが、今現在サァラの頭からは恐怖心が全て吹き飛んでやる気に満ち溢れている。疾走する速度をそのままに突撃して全身でぶつかると、トカゲはわりとあっさり吹き飛んでくれた。
トカゲは何が起きたのか分からないといった風に、しばし倒れた。が、サァラを見ると新たな敵と認識したようで、その爬虫類特有の冷血な眼に再び闘争心が戻る。
うん、戦いを止めるっていう選択肢は、ないんだね!
ナーヴァルはほかの生物から恐れられるが、そこは外見からも軟弱なサァラである。森の中で草食獣から舐められていたように、森の外でも同じであった。本当どうしてくれようか、このレッテル。
トカゲは身体を起こして体勢を整えると、シュルシュルと二股に分かれた青い舌を出し、猛然とサァラに駆けた。それを迎え撃つべく、サァラは身を伏せて待ち構えた――――。
しかし。
巨大な影が、サァラの頭上を通り過ぎる。直後、ずん、と重い衝撃が走り、大地や大気を震わせた。
深緑色の鱗を纏うトカゲの真上から着地した影は、白く太い前肢でそれを押さえつける。特に力んだ様子もなく、まるで小動物を押さえるようなごく自然な佇まいだった。強いて言えば制止を振り切ったサァラへの呆れがあるくらいだ。
「……はあ、だから、弱いくせに前に出るなとあれほど」
ガァクは溜め息をついて、トカゲをぐりぐり踏みつける。サァラと大差のない大きさという事は、当然十メートルはあるだろう巨体のガァクよりも小さい事になる。あっという間に立場は逆転していた。
ガァクの分厚い前肢の下、トカゲがギィギィと鳴いて暴れる。ガァクはそれをたった一度の睥睨で黙らせ、牙を擁する口を開いた。
「さてどうする? あれは最弱のナーヴァルだ、代わりに俺が相手をしてやって良いが」
別段、威圧的というわけではない。慣れた今なら分かるが、あれはガァクの平素の口調である。激怒した彼の声はもっと恐ろしいものであると、サァラは知っているのだ。しかしトカゲはそうではないようで一瞬にして敵意を失い――言葉が通じているかは不明だが――ばたばたと慌てて逃げ去っていった。
そうだろうな、この期待されている雄とやり合うなんて、老練な戦士以外ではまず無理だろう。
サァラは遠ざかるトカゲの背を憐れんで見送った。
その姿が遠くへ消えた後、サァラはゆっくりと振り返った。トカゲと戦っていた人々は、警戒と困惑を露わにし握った剣の切っ先をサァラに向けていた。
割って入ったのは、トカゲよりも恐ろしいナーヴァル。それも、二頭。サァラは完全に名前負けしているが、彼らからすればそうではない。剣を下げるわけにもいかないのだろう。
敵意はないから、あんまり警戒しないで欲しいなあ。
サァラはそう思ってじっと彼らを見つめていたが、背後にやって来たガァクは彼らを見るや「やるつもりか」と目を険呑に細める。恐らく、一度でも剣が振るわれたらガァクは飛びかかるだろう。弱い者には手を出さないが、売られた喧嘩はきっちりと買う。それがナーヴァルの流儀だ。そんなやる気漲るガァクがそびえ立つものだから、人々の顔色は非常に悪い。今にも卒倒しそうだ。
もっとみんな友好的にいけば良いのに……。
と、その時、彼らを押しのけ小さな姿が飛び出してきた。慌てたように張り上げられる複数の言葉は、やはりサァラには理解出来ない。しかしその必死な形相から、察するのは容易である。止めようとしているのだろう人々の声は、草原に響いた。けれどそれを構う事はなく、飛び出してきた“彼”はサァラの足元へ進み出た。
陽の下で輝く、見事な金髪と碧眼。細い身体やあどけなさの残る面持ちは変わらないが、ちょっぴり大人びた雰囲気を漂わせているだろうか。見覚えのあったマント――――いつだったかに手渡したサァラの自作品を、より丁寧に作り直して今も使ってくれているらしい。白色と瑠璃色の二色が彩る綺麗なマントが、よく彼に似合う。
不安と期待の入り混じる大きな瞳が、じっと、サァラを見つめる。
「――――? ――――?」
小さな唇が開かれ、紡がれたその声。成人男性よりもずっと幼いそれは、静けさを取り戻した草原の風にふわりと響いた。
ああ、と。サァラは吐きだした息を震わせた。
ナーヴァル本来の姿である巨大な獣に転じていた自らの身体を、過ごし慣れた獣人の姿へ戻す。すらりと伸びた四肢や胴体が縮まり、頭部から背筋にかけて生え揃った赤いたてがみが赤い長髪へ変わる。
ほんの数秒の間で、巨大な白獣から獣耳と尻尾を持つ白い獣人へと移り変わり、剣を下ろせないでいる人々は一様に表情を驚きに変える。ただ唯一、サァラの目の前の彼だけは――――その瞳に、溢れんばかりの喜びを爆発させた。
それを見て、サァラの胸にも同じ感情が満ちていった。
覚えてる、覚えてるよ。忘れた事なんて、無かったよ。
サァラは笑みを浮かべ、両腕を差し出す。人間の腕と造形はほぼ同じでも、そこに見えるのは素肌ではなく白い毛皮で、長い指の先端には鋭い爪。形こそ人間に近い、けれど人間とはほど遠い、獣の腕だ。
しかし、彼は迷ったり怯えたりする素振りを欠片も見せず、勢いよく駆け出して飛び込んだ。
ねえ君も、覚えていてくれたの。
そう尋ねる必要は、サァラと彼――――少年の間には必要なかった。
マントも一緒に掻き抱いたサァラの胸に、いつかの時のように小さな少年がしがみついた。




