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最弱獣の献身  作者: 白銀トオル
第一章 獣の噺
11/26

11 いつまでも想う

2015.09.23 更新:1/1

 透き通った川縁には、岩を砕く鹿が喉を潤しにやって来て。

 隠れる気のない派手な外見の昆虫が、天敵の巨大な鳥と格闘して。

 全長何百メートルか定かでない大蛇が、草木の間をにょろにょろ動いて。

 森の肉食獣達が、そこかしこで戦って。


 そして赤いたてがみを持つ純白の巨獣――ナーヴァルは、全く変わらずおっかない。


 見た目だけは幻想的で美しい太古の森林は――――今日も規格外の生き物達が暮らし、大変危険かつ穏やかである。


(少年、君は元気でやっていますか)


 サァラは、そんな生物から逃げ回り足の速さを鍛えるという、ナーヴァルとしてはだめだめな日常を今日も送っている。





 凶悪な森にも等しく陽射しを注ぐ太陽は、天辺へ差し掛かろうとしていた。

 今日も元気に他種族から追い回されたサァラは、二日分の食べ物を集めてようやく自らの住処へ戻るところであった。以前に増して逃走に磨きの掛かった両足は、実に健康的な太さをしている。出来れば美脚になりたかった。

 住処といってもそれは、ナーヴァルの里で見られる木材を組み上げて造るものでも、里の外れにあった魔改造済みのものでもない。ナーヴァルの里の圏外、森を流れる川の側の岩壁をぶち抜いて造った、サァラの新居だ。

 造ってからそれなりに時間が経過しているはずなので、正確には新居でもないけれど。

 洞窟の住処は、獣人姿のサァラがゆとりをもって過ごせる広々空間。広さに関しては里の住居とさして変わらないだろう。きちんと補強したので崩壊の危険もない。無骨な外見はどうしても変えられないが、使い勝手は既にサァラの満足のゆくものになっている。最初は苦労も多かったこの洞窟、けれど今では慣れたものでなかなか快適な我が家だ。

 何よりこの洞窟での暮らしの良いところは、以前に里を歩くたび受けた視線や小言が全くないところである。この気楽さは本当にありがたく、あの時引っ越しを決意して良かったとサァラは常々思う。



 金髪碧眼の天使――もとい少年が森を去って、どれほどか。

 サァラを取り巻く環境は、もう数ヵ月、いや一年近くか前のあの夜の出来事をきっかけにし随分と変わった。けれど、少年が居た記憶だけが何も変わらず、今も残り続けていた。



◆◇◆



 魔法と呼ばれるものだろう光と共に少年が消えた、あの夜の後。

 結果から言えば、サァラはナーヴァルの里を抜けた。

 里を追い出されたのではなく、サァラの意思で抜けたのだ。ここを間違えてはならない。里の外れにあった住処は自らぶっ壊し、必要なものだけ携え、この第二の住処である洞窟に居るのだ。



 今も鮮明に思い出す、あの夜からの記憶――――。


 長に次いで一目置かれるあの・・ガァクに、しがみついて八つ当たりしたあげく泣き散らかすという蛮行を、サァラは一晩やって退けた。本当に、一晩だった。一生分の涙と悲しみは出し尽くしたと思う。落ち着く頃にはカラカラに渇き、夜も薄く明らんでいた。盛大な寝落ちをしなかった事が、唯一の救いだ。

 不幸だったのは、一晩泣き喚くサァラに捕まったガァクの方だろうけれど。

 適当に寝て過ごせば良いのに、ガァクは律儀に起きていて、あまつさえ最後にはすっかり動けなくなったサァラを担ぎ里へ戻った。一晩付き合わせ迷惑をかけてしまったので、申し訳ないとは心から思う。しかしながら、徹夜したせいなのか彼の目は尋常でなくギラギラした眼光を放っていて、それだけはとてつもなく恐ろしかった事だけは言わせて貰いたい。


 夜が完全に明けるまでサァラは少し眠って、直ぐに長へ伝えた。人間の子どもはきちんと帰した。もう里にも森にもいない、と。長は威圧を伴った重々しい空気を変えず、ただ「そうか」とだけ告げた。里のナーヴァル達からも、さして反応はなかった。あえて言えば、目の上のたんこぶが消えた安堵をこぼしていたかもしれない。

 少年が居なくなったその日も、森の生活は変わらず訪れる。ただサァラだけが、ぽつりと寂しく立っていた。



 さて、人間の少年を森から帰すという約束が果たされ、これで全ての厄介事が片づいた。ナーヴァル達はそう思っていたのだろうけれど、残念ながら全ては丸くおさまらなかった。

 今度はサァラが、里に騒動を起こす番となったのだ。恐らくはきっと、これの方がナーヴァル的には悲惨だったに違いない。


 一晩散々に泣いていたサァラも、一日二日経てばいくらか落ち着き「少年、家族と感動の再会をしているかなあ」と穏やかな想いを馳せるまでに復活した。あれが最善のお別れの仕方だったと、過ぎた後ならば思う事も出来る。

 けれど、少年と共に暮らした生活の余韻は妙に重く残り、そしてそれがサァラの心のバランスを変える事となった。

 ナーヴァルの輪の中での暮らしが、窮屈になったというか、関心がなくなってしまったのだ。

 もともと幼少期からナーヴァルとしての暮らし――狩りだとか争いだとかの肉弾戦など――に不得手なところが多くて、ほぼ底辺の地位にあるサァラである。この厳しい森の中で大人に成長し生きてゆけた事は、全て里の仲間達のおかげで感謝している。が、それとこれとはまた別の話だ。少年がいなくなってからも、サァラの心の重心は傾いたまま戻らなかった。人間の頃の記憶も、やはり影響しているのだろう。


 理由は、それだけでない。約束を果たしたとしても……サァラと他のナーヴァルの間に生じてしまった溝は、消えなかったのだ。

 子どもとはいえ嫌われている人間。一時とはいえ短くはない時間、人間を里へ置き、許しがなければ禁じられる群れの仲間同士の戦いが起きそうになった事は事実だ。これは溝の一つや二つ出来てしまっても仕方ない。実際、サァラに掴みかかってきた若い雄のナーヴァル達との仲は、少年がいなくなった後も改善されていなかった。

 ただこの事に関しては、サァラは絶対に謝りたくなかった。少年を助けたのは間違っていないという、その想いだけは意地でも覆してやらないと強く決めていたのだ。散々変な奴扱いをされてきたもやしっこの精神力、舐めないで貰いたい。


 そんな事で、サァラが里を抜けようと決めたのは、ごく自然な流れであった。

 ナーヴァルの里の空気を濁している原因が何なのか、知っていながら居座ろうとはさすがのサァラも思えなかったので。

 幸い、森を生き抜くサバイバル術は長年培われて身についているし、ナーヴァルという種族特有の身体能力の高さや頑丈さがあれば生きてゆける。その自信が、この時は不思議とあった。

 ただ、間違われては困るが、サァラはナーヴァルの仲間を嫌ってはいない。彼らは森の厳しさと生き方を教えてくれた家族や友人と思っている。仲違いして里を出るというより、一人立ちの心境に近い。

 そうと決めたサァラの行動は早く、新しい新居探し――のちの洞窟の住居である――と荷造りをさっさと済ませ、あっという間に残すは長と里の仲間達への報告だけとなった。この時既に、少年が帰ってからもう何十日も経過していた。


 ……いやはや、まさかこれが、少年以上の大騒動を起こす事になろうとは。


 里の者達が広場に集まる、いわゆるお昼頃。そこでサァラは早速とばかりに長へ声をかけ、里の仲間達にも聞いて貰った。

 少し前に人間の子どもは森の外に帰したけれど、里にたくさん迷惑をかけた。やはり人間と関わった私は群れにはいない方がいい。私のわがままを聞いてくれてありがとう。最後のわがままとして、この群れを抜ける事を許して欲しい。

 そのような事を穏便に告げて、サァラはさっさと去るつもりだった。つもりだったのだけれど……。

 まさかその次の瞬間、叫ばれるとは思ってもみなかった。

 驚愕、困惑、怒り。もう様々な感情が織り交ぜられた大音声は里の隅から隅まで駆けめぐり、森の全域にまで響いたのではなかろうかと思うほどだった。その中心にいたサァラは、びっくりして固まるしかなかった。


 里を抜ける半分以上の理由は、強くなるための武者修行を目的としているらしいが(ナーヴァルは既に規格外の頂点にいるのだからその必要ないと思う)、その多くは強者がやるのであってサァラではとてもじゃないが無理だという、心配による絶叫だったらしい。

 そして、多くのナーヴァルが止めた方が良いと引き留める中、誰よりも強い反応を示したのは――――何故かガァクだった。


 どうして里を抜ける、なに、いつだったか雄連中から襲われかけた事が原因か。ならこの場で打ち負かしてくれよう、おい貴様ら今すぐ出て来い!


 と、大体そんな感じで激情を大爆発させていた。おかげで余計に事態をこじらせ大混乱に陥った。里のナーヴァル達が、ガァクの頭から爪先まで抑え込んでようやく静かになったけれど、なんだってあの雄はそこまで一挙一動に反応するか。その時はサァラはさっぱりわからなかったが、それはさておき。

 サァラは、きちんと長に説明した。里のみんなが嫌いになったわけではない事。里を抜けるのは武者修行ではなく、ただ心がもう里にはいられない事。必死に訴えるサァラの言葉を、長は静かに全て聞き、そして一つだけ尋ねた。


「一度里を、群れを抜けたものはそう簡単には戻れない。それでも、出るつもりか」


 言葉がずしりと重くのし掛かる。けれどサァラは、ためらわずしっかりと頷いた。長は僅かに、困ったような笑みをこぼした。何も言わなかったけれど、きっとこの長なりに貧弱なサァラを思ってくれたのかもしれない。


「ならば、里を抜ける覚悟を。戻らぬ証を、ここに示せ」


 サァラはしばし考え、そしておもむろに片手だけ獣化させると、自らの赤い長髪を掴み躊躇いなくばっさりと削ぎ落とした。背中を覆うほどの長髪が、一瞬の内に首筋を覆う程度の短髪に変わる。人間的に言えば、女子にはあるまじき男らしい潔さ。だってどうせ伸びるものだし、というあっけらかんとしたサァラの思い切り良すぎる行動は、結果として里のナーヴァル達を沈黙させた。数人がかりで抑えつけられるガァクにいたっては、獣の頭部であるのに分かりやすいほどの驚愕に染まっていたほどだ。

 どうだろう、これなら、覚悟の証明とやらにならないだろうか。

 そう思って差し出した長い髪を、長は受け取った。その瞬間をもって、サァラはナーヴァルの里の一員ではなくなった。

 貧弱軟弱のもやしっこが最後に見せた気概は、どうやらきちんと伝わったらしい。


 サァラは深々と礼をし、直ぐにまとめた荷物を持って里を出た。厳しいところだったけれど、今思えばそんなに悪くないところであったかもしれない。何より、十数年を過ごした場所だ。里の外れの住処を壊す時、里を去る時、さすがにちょっぴり泣けたけれど、サァラの足は不思議と軽やかであった。何か、長年心に刺さっていたものが抜けたような、清々しさを感じられた。



 そしてサァラは里を抜け、一人、いや一匹で、川縁の近くに洞窟の住居を造って暮らしている。

 ナーヴァルの里は森の奥深くにあるが、サァラの新居は森の浅い場所に位置している。この森は本当に広大で、この対極の位置だけで顔を合わせる事がもうなくなる。時折匂いは感じられたが、サァラはそれを追う事はしなかったし、きっと彼らもそうだろう。それが、里を抜けるという事だ。

 最初はしんみりとしたが、最初だけだった。そして以後、サァラはわりと気楽に一人暮らしを謳歌するのであった。



◆◇◆



 ――――あれから、もう一年は経過しているのか。

 森の世界では暦を詳しく知る事などないが、季節が幾つか変わった事は体感している。薄く残る人間の記憶のように春夏秋冬の明確な変化はない世界なので、里の中にいた時もそうだったように森の姿が劇的に変わる事はなかった。暖かな陽気からつんと響く寒さへ移り変わる、気温と匂いの変化だけを見ていた。

 住処の変化は生活の変化、なかなか慣れるまでにはやはり時間は掛かって、気付けば一年という感慨深さをサァラは感じた。あの時潔く切り落とした髪だって、すっかり元の長さにまで伸びている。そして相変わらず森の超生物達から逃げ回り健脚を鍛える日々だ。

 あっという間の一年であったような気がするのは、そんな穏やかさと危険さが両極端な日を過ごしていたからか。


 ともかく、サァラ自身も満点をつけてあげたくなるほど、のんびりとした一人暮らしは安定していた。


 ……ただ、身軽になったサァラにも、悩みというものがある。




 住処へ食べ物を運び終えた後は自由時間だ。森の外を眺めにでもいこうかと、サァラは洞窟の入り口を岩で隠す。

 以前は拳一つで森に出るなんて、と思っていたけれど、一人暮らしで度胸も逃げ足も一段と増したらしく貧弱の汚名も少しは返上している。サァラがこうなれたのは、やっぱり少年と暮らしていた時に爆発した母性がなけなしの勇気を押したに違いない。

 外の草原地帯まではさほど時間は掛からない。さて行こうか、とサァラが身体を伸ばした――――その時である。


 慣れた同胞の匂いと足音が、サァラの五感に伝わった。


 川縁に構えた洞窟の上、小高く隆起した緑茂る大地を踏みしめる巨大な白獣がサァラの背面に佇んでいた。睥睨する威圧を浮かべる獣の頭部の後ろには、獅子のように豊かな紅いたてがみが揺れる。森の中に擬態し隠れる気のない、堂々と勇猛さを露わにするその獣に対し、サァラは何度目になるか定かでない困惑を覚える。

 段差を降りるような軽やかさをもって、獣は川縁にまで降りる。サァラを簡単に踏み潰せるだろう大きな四肢が地につくと同時に、その巨体は萎んでゆき、目の前には獣人が現れる。獣だろうと獣人だろうと、どちらもサァラより大きな大柄の雄の――――。


「ガァク……」


 一年経っても変わらず屈強な戦士であるガァクは、この日もサァラのもとへやって来た。以前は一週間に一度程度だったが、今では間を置かずにほぼ毎日やって来る。このおっかない外見に反して律儀な雄である。

 彼は挨拶をするように軽く瞬きをすると、口にくわえていたものを離し、それをサァラに差し出した。彼が自ら仕留めてきたらしい、森にいる草食獣――危機に瀕すと敵の目玉に歯を突き立て一矢報いる、見た目だけは可愛らしい野兎――だ。

 サァラはそれを見下ろし、声を詰まらせる。


「ガァク、あの、私は」

「良いから取っておけ。どうせお前ではろくに肉を獲れないだろう」


 そりゃあ狩り部隊と縄張りの防衛部隊に頻繁に駆り出される彼からしてみれば、危なっかしいだろうけど。

 渋るサァラへ、ガァクは頑強な肩をゆるりと下げて溜め息をつくと、半ば強引に持たせた。中型犬ほどもある立派な野兎の重みが、サァラの両腕にかかる。


「……今は別に何もしない。俺からの情けとでも思っていればいい」


 このやり取りも、今に始まった事ではない。もう随分前からやっているような気がする。けれどこの日も、サァラは困惑の眼差しをガァクに向けるしかなかった。彼の鋭い瞳は、サァラのみを見下ろしている。他に見向きもせず、真っ直ぐと。



 ……ナーヴァルの里で一目置かれる若き雄の戦士――ガァクが、目下サァラの悩みの種であった。

 サァラが里を自ら去った後も、彼はサァラの前に姿を現した。他のナーヴァル達とは擦れ違う事すらないのに、このガァクだけは変わらずに。


 洞窟で暮らすようになった頃は確か、暖かな季節が過ぎ、森に豊かな恵みが実る頃だっただろうか。人間的に言えば、いわゆる夏に相当する。この森はあまり季節の変化というものはないので、あくまでイメージである。

 これでいよいよ一人暮らしか、頑張れ私。負けるな私。そう張り切って身辺を整え暮らしてから、二、三ヶ月ほど経った後だ。サァラの前に前触れなくガァクが出てきた時には仰天したものだ。正直、もう里のみんなと顔を合わせる事はないだろうし、彼らも構う事はないだろうとサァラなりに覚悟していたので。

 しかも暮らす場所は誰にも言わないでいたのに、よくこの広大な森の中から探り当てたものだ。驚くサァラに対し、「お前の考える事は大体分かってきた」とガァクは言った。

 それにしたってまさか堂々とやって来るなんて、サァラは思ってもいなかった。理由が何であれ、里を一度でも抜けたものは無関係な存在になるはずだ。そう簡単に輪の中へ戻れないし、戻る際には確実に決闘は免れないような事を、サァラも耳にした。里に属するナーヴァルは違うのだろうか。ナーヴァルは同じ種族同士の繋がりが強いから、こういう事もあるのだろうか。よく分からないなあ、とその時はサァラも楽観的に考えていた。

 驚いたものの、ほんのちょっぴり安堵もした。以前はとにかく苦手であったけれど、サァラが今現在もっとも信頼出来るナーヴァルは、このガァクである。これもきっと少年が残してくれたものに違いない。

 サァラは彼が訪れる事を、その時は特別に思っていたりはしなかった。そう、全く。


 だがそれから、ガァクは一週間に一度ほど定期的にやって来た。サァラの様子を見に来ては、何をするでもなく帰って。時には、サァラが移動するとその横について、近寄る獣達を威嚇で蹴散らしたりもした。


 さすがに、サァラも気付き始めた。これはちょっと、何かおかしいぞ、と。


 ナーヴァルの価値観では、ガァクはいわゆる目玉物件。将来も確約されていて、結婚するならこの人! という女性の熱望を一身にかっさらうモテ男だ。(基準が全て強さに向いているけれど)その雄が、ナーヴァルとしてはだめだめ過ぎるサァラを、どうしてここまで構おうとするのか。里に居た頃には全く気に留めなかった事をサァラが考え始めた頃、その疑問を解決させてしまう決定的な事をガァクは行った。

 群れの為ではなく、サァラ個人の為に、獲物を獲って差し出してきたのだ。

 あの時の衝撃と言ったらない。全身の毛皮が全部逆立って、耳と尻尾が跳びはねんばかりに立って、卒倒しそうになるほど驚いた。サァラは激しく狼狽しながらも、こればかりは受け取ってはならないと思って首を何度も振った。けれどガァクはそういう反応をされると既に知っていたように、「今は別に何も期待していない」あるいは「何もするつもりはない」という言葉を添えて、獲物を置いてゆくようになった。



 ――――自らの力で得た獲物を雌に差し出すのは、雄の求愛行動。



 嘘だろ、とサァラは愕然とした。けれど、ガァクの赤い炯眼に宿った炎に似た熱さは、真っ直ぐとサァラに注がれていた。つがい候補はたくさんいるはずなのに、よりもよって最弱の代名詞を持つサァラに――――。

 こういう場合にはどうすればよいのか、教えてくれなかった里の大人達を恨めしく思った。



 そして、現在まで。

 サァラはガァクから立派な獲物を差し出されるという――――求愛行動を変わらず受けている。

 いや全く、こんな事が起きるとは。一体いつからその対象にされていたのだろうか。自覚すると、これまでのガァクの行動も全てそう見えてくる。


 里で底辺の位置にあるサァラを何かと構ってきたのは。

 人間の少年を見逃すよう懇願した時、嫌そうにしながらも長に掛け合ったのは。

 少年と共に暮らしていた時、その間ずっと不機嫌だったのは。

 力の差も体格差も顕著な雄達とあわや喧嘩という時、全力で割り込んで庇ったのは。

 いつかの夜の草原で、サァラを囲んだ人間達に激怒していたのは。


 つまりはもう、全てが、そういう事だったらしい。


 自覚したら腑に落ちたところもあったけれど、かといってサァラが舞い上がる事はなかった。サァラは既に里を抜けた身、未来の長と認められ期待されるガァクの行動は、正直困惑しか感じさせない。

 ガァクもサァラの心情を知っているようで、今のところは一人で大変なサァラへの情けという名目で獲物を置いていっている。しかも、今は何もしないと言いながら。裏を返せば、後で必ず何か別の行動を取るというガァクの意思表示でもある。森の覇者のくせに、やり方がせこい。


「ガァク、あの、何度も言うけど、私は」

「里を抜けたナーヴァルだろう。知っている」


 困惑露わにするサァラに対して、極端なまでにガァクは潔い。こういうところも女子(雌のナーヴァル)にモテる理由だろう。


「だったら、私のところになんて来ない方が良い。里のみんなも、面白くないだろうし……」

「俺がお前のところに来ている事は、長も含んで皆が知っている」

「そうでしょ、面白くな……って、知ってるのォ?!」


 え、じゃあ、一年近く里の公認で来ていたのか?! それはそれで恥ずかしい!


「……何度も言うが、今は何も考えずに受け取れ。それでしっかり食え」


 ガァクの獣の頭が降りてくる。サァラの頭の天辺に落とす低い声は淡々としているけれど、その節々に浮かぶ熱は隠せていない。


「お前は弱い上に小さい。俺の目の届かないところで死なれては困る」


 視界を覆う影をちらりと見上げると、至近距離から覗き込むガァクの瞳とぶつかった。どう見ても人間ではないのに、奇妙な表情の豊かさが窺える。それを目の当たりにして、“何故”“どうして”なんて言うだけ無駄だろう。

 サァラは向けられる熱さに気付かないふりをし、立ち去るガァクを見送るしかなかった。そして、無下にも扱えない糧を腕に抱えて、重い溜め息をつくばかりである。

 困った、いや本当に、困った。

 結局この日もガァクからの贈り物を放り投げるわけにもいかず、サァラは野兎の肉を腹に収める。とても美味しかっただけに、ますますガァクへの複雑な思いは募るのであった。



 何とも言えぬ気分でお腹を満たした後、サァラは一人森の中を移動し、外の草原地帯を眺めに行った。

 何十メートルあるのか定かでない大木に登り、見晴らしの良い枝に腰掛ける。其処から見下ろすのは、風に吹かれる穏やかな草原の景色である。森から流れる川は、鮮やかな緑色の傾斜をなだらかに横切り、遠い果てに続いてゆく。風の吹く空は鮮やかな青で染まり、清々しく広がっている。危険な森と隣り合う場所とは思えない、とても長閑な風景だ。

 少年とお別れした場所は、今日も物静かな風が吹く。サァラの心は凪いでいた。

 外の草原地帯から比較的近い場所に居を構えたのは、こうして外の景色を眺めるためでもあった。別に何かするわけでもないけれど、こうしていると落ち着く。


 一年経っても消えない、あどけなくも聡明な少年が、思い出される。彼はどうしているだろう、森の中の一年と人間の暮らしの一年とでは訳が違うだろうが、成長して立派になっているのではないだろうか。頼りなく吹っ飛んでいきそうな天使も、森の厳しさに揉まれてちょっとワイルドになったかもしれない。あるいは、ますます美の天使になったか。

 そこまで考え、サァラは息を吸い込み――――。


「……少年~元気でやってるかなぁ~~~」


 どっと溜め息をつき、サァラは想いを馳せる。何だかんだ少年の記憶は、サァラの中では何よりも大切なものとなっているのだ。

 此処から想うしか出来ないが、願わくは立派に大人になって元気で暮らしていてくれると良い。きっとサァラは一年後も、二年後も、いつまでもずっとそう願い続けるのだろう。


 ……ただそのサァラが、こうして今後も平穏に想いを馳せていられるかどうかは、不明なところだ。


「……ナーヴァルとしての自覚は、もうきっちりあるけど」


 残念だが心の天秤はがっつりと少年に傾いている。例えガァクの求愛行動を重さに加えたとしても、今後もその秤は決して揺らぐ事はない。というか、そもそもガァクと番、夫婦になる事自体が考えられない。

 そこを、出来ればガァクに知って貰いたいが。


「……無理かなあ」


 再三言っても効いた試しがないので、時期が訪れれば必ず行動する予感がビシバシする。ガァクは、たぶんそういう雄だ。


 寒い季節がこないだ終わり、暖かな季節を迎えたばかり。森には至るところで新しく命の芽吹く気配がする。それは獣達も同じである。

 ちょうどこの辺りだっただろうか――――ナーヴァルの繁殖期は。

 その単語だけで、ぶるるっと身震いが止まらない。下手したら森の生物よりも恐ろしい響きを持つ、本能の営み。これまで毎回住処に引きこもって籠城作戦を決行していたが、果たして今回はどうだろう。

 ……駄目だ、突破される予感しかしない。


 ナーヴァルとしての自覚は出たけれど、やっぱり譲れないところはどうしてもあるもので。


 ガァクと夫婦なんて……そんな勇気はない!


「うう~……少年の笑顔が見たいよぅ~~」


 情けない声を漏らしても、残念ながらその季節はもう間もなくやって来る。記憶の中の少年の笑顔を励みにし、サァラはガァクの撃退方法を考えるのであった。



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