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最弱獣の献身  作者: 白銀トオル
第一章 獣の噺
10/26

10 幸福な一時であったと叫ぶ

2015.08.31 更新:1/1


書き溜めた分はこれで終わりです。またこれからためていきます~

 訪れた静寂が打ち破られたのは、その時だった。



 ――――ォォォ……ォォ



 何かが夜風の音色を退け、大気を唸らせた。

 緊張が再び過ぎり、誰もが周囲を警戒し逡巡する。今の音はなんだ、とでも言っているのだろう。



 ――――ォォォ……オオオ



 それは、風の音ではなかった。風を受けて唸る木々の音でもなかった。

 燃える炎が、ぶるりと震える。



 ――――オォォォ……オオオ……!!



 この音――――いや、この声は、まさか。

 サァラだけは、直ぐに分かった。素早く顔を上げると、背を捻り振り返る。暗闇の広がる草原の彼方から、とんでもない速度の巨影が地面を踏みつけ疾走している。向かう先は、間違いなくこの野営地だ。

 周囲の人間達も気付き狼狽したが、サァラは別の意味で滝のような汗が内心溢れていた。よくよく見なくとも、サァラには覚えのありすぎる影だったのだ。



 月明かりに晒される、鎧のごとき筋肉を全身に持つ強靱過ぎる白い体躯。

 地面を抉るように躍動する、鈍く光る鋭爪と大木に負けぬ四肢。

 静かな夜風を切り裂き染め上げる、獅子のように豊かな真紅のたてがみ。

 その身一つで竜を殺し、魔法を打ち破り、覇者とまで呼ばれるようになった巨獣。月下に咆哮を上げて突進してくるかの名は――――。



(ガ、ガァクーーーーーー!!!!)



 あれほど大きく逞しいナーヴァルを別のものと間違える事はさすがに出来ない。

 サァラのしなやかさからは対極的な位置にある、正に凶悪な森の覇者を体現する屈強な巨獣の勇猛さ。地響きのような振動を伝える足音は、鬼気迫るものを感じさせる。


 しかも、恐らくは、見間違えでないのだが。


(なんか……めちゃくちゃ怒っていらっしゃる!!)


 激しく散らす草原の野草や、静寂を引き裂く獣の声に、夜を焦がすような激怒のオーラが彼から放たれている。しかも、かつて見た事のない類の、最高値を叩き出す怒り。

 悪鬼の形相。飢餓に飢える猛獣。閻魔の憤怒。今のガァクは、誇り高い覇者ではなく、湧いて出でる死神と称した方が良いだろう。

 要するに何を言いたいのかと言えば――――物凄く、状況が悪いという事だ。


 引きつった喉から悲鳴は出なかったが、サァラは内心では大絶叫が木霊した。あんなおっかないガァクを見たら叫ぶしかない。顔にも白毛が生え揃っているのに、今なら真っ青になっている自信がある。

 サァラの動向に気付いて追ってきたという事は想像もつくけれど、一体何をあんな激怒しているのか。彼だって人間の子どもを帰す事は望んでいたはずなのに。

 野営地に居るのは、十人、いや二十人ほどの武装した人間と、小さな少年と、貧弱の代名詞サァラ。これっぽっち・・・・・・の人数ごときで、ガァクの相手になどなれるはずもない。伊達に未来の長と言われていないのだ、あの雄は。



 ――――グルゥォォォオオオオオ!!!!



 静かな藍色の世界に響き渡る、激昂する獣の咆哮。そこから、ガァクの本気の闘争心が窺えた。その声は大の大人でさえ真っ青に震え上がらせ、泣きじゃくる少年も涙を引っ込め恐怖を露わにした。

 分かる、分かるよ。その気持ち。

 ナーヴァルは戦いさえ絡まなければ平素はごく平凡な生活を送る種族だけれど、戦いのスイッチが入った途端、一気に変貌するのだ。あの顔面ならば竜を片手で殺すと言われたって納得がゆく。サァラも昔は、気絶しそうになったものだ。

 あれが森の中でも外でも恐れられるナーヴァルの本当の姿であるが、ともかく。

 大疾走してくるガァクとの距離は、この時点でもかなり縮まっている。これはさすがにまずいと、サァラはぎゅっとお腹に力を入れた。ガァクが腕を一度でも振ってしまえば、彼らがどうなるか――――。


「少年」


 サァラは怯える少年の丸い額に一度擦り寄る。そして少年の小さな肩を掴み――――呆然とする大人のもとへ、放り投げた。宙に投げ飛ばされた瞳が、大きく見開いたのがサァラにも見えた。何か叫んだ音が聞こえたけれど、ガァクに身を翻して駆け出す。精神も肉体も本物なナーヴァルとの距離は、もうほとんどない。


「――――サァラ!!」


 サァラのものとは比べ物にならないほど、凶器じみた太い牙を擁する顎が開かれる。地鳴りのような足音と共に、名を紡ぐ低音が届く。ほっと安堵したような獣の瞳、けれど直ぐさま、ギロリと人間達に定められた。

 サァラは獣人から四足の獣の姿に素早く転じると、ガァクに向って突撃した。


「駄目! ガァク止まって!」


 獣に転変しても、ガァクの大きさをまざまざと感じさせられる。全体的に細いところがないのだ、この雄は。サァラは、彼の身体の半分と少ししかない。

 ガァクは燃え盛るような瞳を、一瞬ギョッと歪ませた。


「は?! おい、サァラ!」

「少年とあの人達には手を出させないんだからー!」

「何の話をッあぶな」

「もやしっこの底力舐めないでー!」


 ガァク、全力で走っている。

 サァラ、全力で立ち向かう。

 そうなると、次はどうなるか。


 足にブレーキをかけたところで直ぐに効果はないので。



 ――――ゴッチィィィン!!



 素晴らしい音を立てて、頭から正面衝突である。


「いだ!」

「ンガッ!」


 互いに鈍く悲鳴を漏らし体勢を崩す。しなやかな五メートルと屈強な十メートルという体格差が影響してか、サァラはそのまま仰向けに引っくり返り、その上にガァクが覆い被さり、もみくちゃになりながら転がる。どうも勢いがありすぎたらしい、そのまま止まる事もなく、派手に野営地へ突っ込み、天幕などの諸々の設備を破壊し尽くした末にようやくぱたりと止まった。


 ……こ、これ、人間の人達に怒られるかな……。目を回しながらも惨状を見たサァラが思ったのは、そんな事であった。


 別の意味での冷や汗と焦燥を感じたけれど、自らの真下から恨めしげな呻き声がし勢いよく見下ろす。胡乱げに歪められたガァクの顔が、すぐそこにあった。なるほど、どおりで妙にふかふかしていると。見事な仰向けを披露するガァクの屈強な胸部へ、サァラは腹這いに乗り上げていた。


「ええっと、ごめん……」


 とりあえずは激昂した空気が引っ込んだようなので良しとする。ご機嫌な様子でもないけれど。


 サァラはガァクから視線を外し、少年達を見やる。一様に青ざめた顔をしているのは、せっかく作った野営地が荒らされたからだろうか。わざとではないので許して頂きたいが、派手に壊した天幕がガァクの下敷きになっているので恐らく恰好はつかない。


「……逃げて、早く! 逃げてったら!」


 野営地の惨状は頭の中から追い出して、サァラは声を上げた。ひと塊りになった人間達が、サァラとガァクを見比べながら動き出す。その中心には、羽交い締めにされながら小さい手を伸ばす少年が見えた。


 そんな怖い顔しないで、大丈夫、すぐにおうちに帰れるよ。



 一カ所に集まった彼らの中から、他とは異なる厚手のコートを身に着けた人物が二人ほど前へ出る。彼らは何かを叫ぶと、高く手を掲げた。その次の瞬間、彼らの足元と周囲には目映い黄白色の光がこぼれ、闇夜を目映く染めてゆく。その光を正面から受け、サァラは目を丸く見開かせた。

 え、何あれ、まさか。


「魔法……?」


 光の中、少年がゆっくりと霞んでゆく。伸ばした小さな指先も、光に包まれて薄らいでゆく。

 サァラは無意識の内に身を乗り出した。けれど、仰向けに転がったガァクが再び深紅の炯眼を瞬かせ、横たえた首を勢いよく起こした。


「――――行くな、サァラ!」


 え、と声を漏らすよりも早く、ガァクの開かれた顎がサァラの首を噛んで抑えた。

 闇夜を照らし出す光が、氾濫するように溢れる。その中から甲高い悲鳴が聞こえたけれど、最後には弾け夜天へ消えた。残滓のようにこぼれ落ちた光の粒は瞬く間に消え、そして――――サァラの前から、そこにあったものが文字通りに消えた。


 光も、人々も、少年も。




 喧騒に奪われていた静寂が舞い戻る。いつの間にか炎は消え、夜天の星屑と大きな月から淡く儚い光が注ぐ。

 何事も無かったように広がった夜の世界。それを理解するまで、サァラは動けなかった。


「……少年?」


 サァラの呟きをかき消すように、夜風が横切った。薄ぼんやりとしたまま、腹這いに伏せた身体を起こして立ち上がる。おい、と足下から聞こえたが、耳には入らず足を進める。

 五メートルと十メートルの巨獣が転がり回って破壊された野営地は、そのまま残されている。けれど、確かにここに居たはずの少年が居ない。匂いも温もりも、覚えているのに、それが全く無い。ここに、確かに居たのだ。


 サァラはしばらくその場で足踏みをして探し、そして野営地の外へと駆ける。サァラ、と呼ぶ低い声も、その背後に続いた。


「何で、さっきまで、そこに」

「サァラ」

「さっきまでそこに、居たのに。どうして、急に」

「――――サァラ!」


 月下の草原で迷子のように狼狽えるサァラへと、ガァクの吼えた低音が掛けられる。


「もうあの人間共は、人間の子どもは居ない!」


 しなやかな四本の獣の足が、動きを止める。居ないんだ、と言い聞かせるガァクの静かな言葉に、サァラの焦燥めいた心へ静寂が訪れる。

 サァラは崩折れると同時に、獣の姿から普段の獣人姿へと戻る。月下の冷たい草原にぺたりと座り込み、“居ない”という事実をようやく飲み込んだ。


「あ……」


 居ない。もう、此処には。


 ああ、そうか、きっと、帰ったのだ。あの光は、きっと何処か、彼の居るべき所へ導く、何かだったのだ。


 頭の片隅で理屈もなくそう思ったが、後に残された虚無感の重みがサァラの細い背中に絡みついた。先ほどまであった喧噪は、やりとりは、まるで一時の夢見であったように、其処にはもう何も無い。夜風すら既に無関心で、サァラだけを切り取って吹き抜けていた。


「そ、か……もう、帰った、んだね」


 浚われそうな呟きは、サァラの背後に佇むガァクにのみ届く。彼は雄々しく屈強な四つ足の獣から獣人の姿へと戻ると、座り込んだサァラの背を見下ろす。


「……森にやってくる人間達が、たまにあの光を使う」


 此処と、何処かを繋ぐものなのだと、ガァクは言った。そう、とサァラは呟いて、口を閉ざす。

 何故此処にガァクが居るのか、あの時首を噛んで止めたのか、尋ねようとも思ったけれどそんな気力は無かった。頭の天辺に生え揃う赤い獣の耳や尾は垂れ下がり、力が抜けきったサァラの心情を露わにしている。


「……お前も、願った事だろう。長の前で約束し、俺にも必ず帰すと言った。それを、果たしただけだ」


 それは、彼の励ましだろうか。それとも、事実の再確認だろうか。どちらにしても、サァラの心をつねり上げるには十分な言葉だ。


「サァラ――――」

「私は、ナーヴァルだもの」


 わざとガァクを遮り、サァラは口を開く。


「昔っから、狩りとか戦いとか本当駄目で、森の中の他の生き物達にも舐められて、大人達には変な奴扱いされてきた。今なんて半分以上から疎まれてる。そんなでも私はナーヴァルだって分かってる」


 ぎゅ、とサァラは奥歯を噛みしめた。草原に生い茂る野草を握りしめた手のひらが、音を立てた。


「――――分かってるけど、それでも少年と一緒に居るのは、楽しかったんだもの!!」


 張り上げたサァラの声が、草原の静けさを引っかいた。

 背面に佇んだガァクも驚き、僅かに炯眼を見開かせる。


「少年のためって、笑って見送るって、ちゃんと決めたの! だから間違ってないって、そんなのガァクに言われなくたって知ってる!」


 背後の気配が、困惑にたじろぐ。此処までサァラが声を荒げる事なんて、これまでもほとんど無かったからだろう。

 一目置かれる屈強な若き戦士を困らせるナーヴァルなど他にいない。もういっそ思い切り困らせてやろうと、サァラは腹の底から声を押し出す。振り切った感情はさらに高ぶって、隠してきた本心をもさらけ出させた。


「間違ってないけど、それでも、た、楽しかったんだもの!」


 ナーヴァルとして不完全な日々の中、初めて出会った人間の子どもとの生活は、本当に楽しかった。嫌いだった狩りも頑張り、お世話に精を出し、寝食を共にし暇な時間は遊んだ。

 本当は、ナーヴァルなんかではなく人間が良かったのだ。けれど、この中途半端な獣の身が、少年に寄り添える事は心から嬉しかった。それで仲間から疎まれただでさえ低い立場が危ぶまれたとしても、恐くも何ともなかった。未来の長と名高いガァクとぶつかった時も、恐れなんて感じていなかったのだから。


「あの子と一緒に、暮らせたらって、思ったって……」


 生粋のナーヴァルであるガァクに、サァラの心は分かるはずもない。だから今も背面から感じる狼狽ぶりは、普段のガァクが決して浮かべないほどのものであった。

 これが単なる八つ当たりであり酷い癇癪なのだとサァラも気付いているけれど、一度口にしてしまえば中々止まらない。しまいにはボロボロと涙がこぼれて、みっともないったらない。

 それでも、本当に、それくらい。


「でもあの子が、森から帰る事が一番大事だって、知ってるもの……ッ」


 鷲掴むように、両手のひらで顔を覆う。グズグスと音を立てて嗚咽をこぼすサァラを、ガァクはどう扱えば良いのか分からないという風に見下ろしている。狼狽えながら腰を落とし、サァラ、と呟く。あのガァクが出すとは思えない情けない声を、笑ってやる余裕もなかった。


「私は、間違った事はしてないし、思ってない!」

「あ、ああ、わ、分かった。分かったから」

「分かってない! ガァクにだって、他のみんなにだって、分かるわけない!」


 覆っていた手を外し、噛みつかんばかりに振り返る。びしゃびしゃの顔だろうサァラも大概であるが、その背面でしゃがみ膝をついているガァクも困惑しきって狼狽を張り付かせている。

 人間の記憶を言わなかったのはサァラ自身で、それをガァクや今の仲間であるナーヴァルに当たり散らすなどお門違いだと知っている。言いもしない事を理解して欲しいなど、甘えも良いところだ。けれど、そんな事こそ、言えるはずもないから、余計に。


「う……ッ」

「サ、サァラ?」


 ひくり、とガァクの声が震える。サァラの瞳が、ぐしゃりと歪んだ。


「うゥ、うゥゥあァァーーーーん!!」


 一拍置いて、せきを切ったように泣き声が飛び出した。

 屈強な体躯に乗っかった獣の頭部が、ぎょっと目を剥く。耳がびっくりして真っ直ぐに立ち、木々だってなぎ倒せる太い腕がおろおろと彷徨う。


「わ、わたッわたし、ひぐ、本当は、い、いっしょ、いっしょにッ」

「お、おい、なにも、そこまで泣く事は」

「泣ぎたいから泣いでんのよォ! ガァクのばかァ!」


 涙で濡れた手のひらを握りしめ、ガァクの胸にぶつける。思い切り殴ったつもりだったが、実際はポコポコと児戯のような力だろう。毛皮の下のガァクの胸は馬鹿みたいに硬いので、逆にサァラの拳の方が痛めそうである。実際、力の差など外見から容易に判断つくというもの。それでも、サァラはガァクの胸を殴るのを止めなかった。

 小さく弱いナーヴァルがポコポコと叩き、ガァクはさぞ鬱陶しいだろう。止める事だって簡単なのに、ガァクはサァラを転ばせたり突き飛ばしたりせず、ただ心底困り果て硬直するばかりだった。

 ガァクのびくともしない厚い胸をひとしきり叩いた後、胸と首に蓄えられた白い毛皮を引っ張りしがみつく。ぐりぐりと頭を擦らせるサァラの天辺から、グルグルと唸る音が落ちてきた。困ったように震える、獣の喉を鳴らす音。ガァクから奏でられるその音は、慰めはしないけれど、否定もしなかった。


 サァラは、いよいよ本格的に大声で泣き始めた。誰にも打ち明けず抱え続けた、人の記憶と現在の獣の生活の辛さ苦さも一緒になって流れ出てきて、余計にサァラの声は大きくなる。

 果てにまで届きそうな声を、サァラはわんわんと響かせる。時々八つ当たりに「ばか、ばか」と弱々しい手でガァクの胸の毛皮を引っ張ってやった。けれどガァクは無言のまま、小さくうずくまるサァラを見下ろしていた。


 ガァクは、決してサァラを慰めなかった。サァラの背を撫で、落ち着かせ、柔らかく宥める事は、決してしようとしなかった。

 けれど。

 サァラから流れる涙を、子どもじみた泣き声を、縋りつく癇癪を、止めようとしなかった。いつ静まるかも定かでない慟哭を、叱らず否定せず、ただじっと息を潜め黙って聞いていたのだ。



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