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闇色のLeopard

-コンラッドの憂鬱- 『闇色のLeopard』番外編

 ポーツマスの港を見下ろす高台への登り坂の途中で、コンラッド・アデスは被っていたキャップの鍔を上げて、夕陽で少し赤み掛かった色を煌かせている港を見下ろして、心を重くさせている澱を吐き出すようにフゥと小さく息をついた。

 暫く立ち止まって、その港の中心で鈍色に沈んで鎮座している自分の艦、『ブリストル』をじっと見ていたが、思い直したようにキャップを目深に被り直して、この丘の上にある自分の宿舎へ向かってまた歩き始めた。


 尉官である自分の宿舎は、この丘の上の上級士官用宿舎が連なる中の、入って直ぐ左にある平屋建てのログハウス風の建物で、家の前に停められている『クラシックレンジローバー2090』は既に妻ローラが帰宅している事の証であった。

 コンラッドは一瞬躊躇った後、玄関先の呼び鈴を鳴らした。無機質な機械音が家の中で鳴り響いているのが聞こえたが、シンとした家の中からは物音もせず、もう一度呼び鈴を鳴らそうかと手を伸ばし掛けたコンラッドは、逡巡した後にブザーから手を離し拳を握り締めて、代わりに呼び鈴の脇の壁を小さく叩いて「クソッ」と吐息のように漏らした。

 諦めてズボンのポケットから鍵を出してガチャガチャと開け、開け放った扉から一歩中に入ると、夕暮れの迫った室内は薄暗く、玄関にも居間にも明かりは灯っていなかった。

 玄関先に鍵を置き、カーテンの閉まった居間を覗いて誰も居ない事を確認すると、コンラッドは寝室へ向かい、また躊躇った末にゆっくりと扉を開けた。


 やはりカーテンが閉まったままの室内は僅かにほの明るい程度で、春の兆しが見えてきたとはいえまだ薄ら寒いこの時期にも関わらず、暖房も入っていない部屋の中は着ているジャケットを脱ぎたくない寒さで、そんな中こんもりと盛り上がったベッドに向かって小さくため息をついて、静かに掛け布団を捲ると体を丸めるようにして蹲っていたローラの赤い髪をそっと撫でた。

「ローラ」

 手が置かれた瞬間小さくビクッと震えたローラは、小刻みに肩を震わせていて、ずっと泣いていたようだった。

「……ごめん、ごめん、コンラッド」

 搾り出すような声で詫びるローラの脇に腰を下ろして、コンラッドは泣き続ける妻の頭を抱えるようにして抱き寄せた。

 



 昨年の夏、『発動』を迎えた世界には、その後次々と懐妊の報告が世界から沸き上がった。

 湖水の『アルカディア』でも、昨年の終わりには【鍵】であるハドリー・フェアフィールドの姉リンダの妊娠が発覚し、次いでサヴァイアー大佐の娘シスル、そして聖システィーナ地区の【守護者(パトロネス)】であるクリスの妻エミリーにも懐妊の兆候が現れ、コンラッドの同僚達の中にも喜びの報告が溢れていたが、妻ローラには懐妊の兆しが見えなかった。

「妊娠はしようとして出来る物でもないからな。焦るこたぁない」

 軍医は呆気らかんと言ったが、冬が終わろうとしても子を宿す気配の無かったローラには次第に焦りが浮かんできていた。

 今回も、もしかしたらと勤務を休んで病院へ行ったローラであったが、この様子を見る限りでは小さな期待は打ち砕かれたのであろうと、コンラッドは空を見上げて息をついた。


「……きっと、薬の所為よ」

 泣き過ぎて真っ赤になった瞳で、黒々とした隈を浮かべてローラは虚ろに呟いた。最近のローラは生理が来てしまう度に家に閉じ籠って、自分の過去を詰って自分を責め続けていた。

「それは関係ないって軍医殿がおっしゃってただろうが」

「でも! 他に考えられないわ。きっと私があれだけ薬漬けだったから。きっとそうよ」

 もう麻薬(ドラッグ)から離脱して九年近い歳月が流れていて、その影響下からは抜け出している筈だと何度言っても、ローラは力無く首を振るだけだった。

「……離婚して、コンラッド」

 俯いたまま顔を上げようとしないローラがポツリと呟いたが、コンラッドは眉を寄せてローラを叱った。

「何馬鹿な事言ってんだ」

「私じゃ赤ちゃんを産めない。家族を作ってあげられないの。私じゃ駄目なのよ」

「阿呆言うな。俺にはお前が居る。お前が俺の家族だ」

「だって!」

「それ以上言うな。言ったら殺すぞ」

 真顔で叱るコンラッドの顔を見上げて、ローラは光の無い瞳にまた涙を滲ませた。

「殺して、コンラッド。私を殺して」

 また泣き始めた妻を掻き抱いて、コンラッドはただ抱き締めてやる事しか出来なかった。

 



 もうローラの精神力は限界だった。この日以降家に閉じ籠ったまま、夜の営みも拒絶するようになったローラには、暫く休養を与えてやるしかないかとコンラッドは思い始めていた。

 そのコンラッドも触れば刺さりそうなほどピリピリとして、部下の些細なミスにも鋭い眼光を飛ばすようになって、自身でも思い悩み始めていた。


 そんなある日、閉じ籠ったきりのローラを案じて、サヴァイアー大佐の妻ダリアが、二人の夕食用にとミートパイを焼いて届けに来た。

「済みません、奥方様」

 申し訳なさそうに頭を下げたコンラッドに、ダリアは寂しそうに微笑んだ。

「いいのよ。貴方がしっかりしてローラを支えてあげてちょうだい」

 ダリアの娘シスルはこの八月には出産する予定だった。女としてローラの気持ちが痛いほど分かるだけに、ダリアはローラには会わず、コンラッドの腕を叩いて慰めたが、もうコンラッドは密かに決意していた。


 切り分けたミートパイを寝室に運んでも、横になったままのローラは顔を向けようともしなかった。ため息をついたコンラッドはサイドテーブルに皿を置いて、ベッドに座り込んだ。

「俺、明日病院へ行ってくる」

 その言葉にようやく振り返ったローラの顔は憔悴していて、訝しげに眉を寄せた。

「もう手術を申し込んである」

「手術?」

「ああ。あれだ。パイプカットってやつだ」

 コンラッドはローラに優しく微笑み掛けた。


 コンラッドはローラに伝えたかった。自分は赤ん坊が欲しくて妻を娶ったのではない事を。唯一人の女性(ひと)、ローラを守りたいだけだという事を。彼女を悩ませる根幹を断ち切って、彼女をその呪縛から解放してやりたかった。

「何言ってんのよ! そんな事したら再婚しても子供が」

「俺は再婚なんかしない」

 慌てて半身を起こしたローラを睨んで、コンラッドは険しい顔で言った。

「俺の嫁はお前だけだ。お前以外の誰に務まると思ってんだ」

 

 それは嘘偽りの無い、本心からの言葉だった。

 荒んだ人生を歩んできた自分に、手に入るとも思っていなかった愛しい人との暮らしを守りたかった。その傍らに居るのは、ローラ以外には考えられなかった。今は目の前の、やつれ切った妻を守る事だけしか考えていなかった。

「駄目よ! そんな事やめて! コンラッド!」

 自分の胸倉を掴んで揺さぶりながら必死で懇願するローラをじっと見て、コンラッドは少しこけたその頬に手を当てた。

「俺はお前を守りたい。お前だけを守りたい。そのためにはどんな事もする。だからお前はもう悩まなくていい。悩まなくていいんだ」

 ボロボロと涙を溢し始めたローラを労るように抱き締めて、コンラッドは耳元で囁き続けた。

「ローラ、ローラ、愛してる。愛してるんだ」

 虚ろな瞳に光を与えたかった。渇いた唇に潤いを与えたかった。コンラッドは乱れたローラの赤い髪をゆっくりと、ゆっくりと撫でながら何度も口付けを繰り返した。


 白い肌に口付ける度にローラの顔には赤みが戻って、艶やかになった唇も紅色に光り、潤んだ眦に涙を一粒光らせているローラは、本当に美しいとコンラッドは思った。

 自分を深く受け入れて、切なげに背を逸らして縋りつくローラを抱き締め返しながら、コンラッドの心には躊躇いも戸惑いも浮かんで来なかった。

 ――これでいい。これでいいんだ。

 もう一度自分に言い聞かせたコンラッドは、より深く腰を沈めて、ローラの白い肌を抱き締めた。


 翌日、本当にロンドンの国立中央病院に出向いたコンラッドは、ビクついた顔のスティーブ・フェアフィールド医師から、おどおどした顔で覗き込まれて「本当にいいんですか?」と訊ねられても、平然とした顔で「ああ」と頷き返した。

 手術は短時間で終わり、入院する事も無く半日で帰ってきたコンラッドはすっきりとした顔をしていて、出迎えたローラにも明るく笑ってみせた。

 



 ようやく落ち着きを取り戻したローラとの二人の暮らしが戻ってきて、軍に復帰したローラにも何時もの忙しい日々が戻ってきたが、気まぐれな神様の使いがアデス家の扉をノックしたのは五月も半ばを過ぎた頃の事だった。

 勤務中に突然吐き気を催したローラは、軍医から思い掛けない言葉を掛けられた。

「ふむ、おめでとう。妊娠したようだな。大佐殿にはワシから進言しておくから、暫くデスクワークだけにしとけよ」

 嬉しい筈のその言葉をローラは呆然と聞いていた。


 一報を聞いたコンラッドは、海軍指令本部内に居るにも関わらず、ローラに飛びつこうとしてようやく思い留まって、妻を労るようにそっと抱いて喜びを露にした。

「やったな! ローラ」

 だがローラは困惑を浮かべた表情で、何処か虚ろだった。

「どうした?」

「だって……だって、そのために貴方は受けなくていい手術を」

 自分のために精管を結紮(けっさつ)してしまったコンラッドは、もう妊娠させる事が不可能になっていた筈であった。

「いいじゃないか、別に。この子を大事に育てていけばいい。もしかしたら神様がそれで哀れんで授けてくれたのかもしれないし」

 コンラッドは何も気にする風でも無くカラカラと笑った。


 だが、そのコンラッドも、検診で訪れた国立中央病院で、ボリボリと頭を掻いて済まなそうにしているスティーブから意外な台詞を言われて呆然とした。

「えっと、つまり、偽手術(プラセボ)だったんです」

 事態を案じていたサヴァイアー大佐が、コンラッドが精管結紮術を申し込んだと知って、スティーブに手術をしたように見せ掛ける事を命令したのだと言う。

「だから、第二子も望めますよ、アデス大尉殿」

 屈託無く笑ったスティーブの首根っこを捕まえて、コンラッドは「この野郎!」と怒鳴ったが、やがてクスクスと笑い出して、困惑仕切りのスティーブの背をバンバンと叩いて、心から愉快そうに、明るく笑い続けた。

 



 『ブリストル』の艦長室で、次回の出動についての打ち合わせを終えたコンラッドは、資料を手に退出しようとした時、ふと思い出してサヴァイアー大佐を振り返った。

「艦長殿、お伺いしてよろしいですか」


 もしローラの妊娠が後二~三ヶ月後で、自分がローラの不貞を疑って騒動になったらどうするつもりだったのかと、詰ったコンラッドの非難がましい視線にもサヴァイアー大佐は動じず、明るく笑い飛ばした。

「その時は俺が首を括ってコンラッドに詫びるからと、フェアフィールド医師にお願いしたんだ」

「それ、お願いじゃないでしょう。一般的には脅迫って言うと思いますが」

 自分の脅しには決して屈しなかったくせに、怯えた顔で「サヴァイアー大佐は怖すぎる」とぼやいていたスティーブの顔を思い出して、コンラッドは呆れたようにため息をついた。


 最初に手術を申し入れた時には、コンラッドはきっぱりと拒否されていた。脅しや暴言も交えて食い下がったコンラッドだったが、それでもスティーブは、

「認められない。どうしてもというなら配偶者の同意が必要だからローラを連れて来い」

 と、突っぱねたのだが、二度目に訪れた時にはあっさりと承諾されて拍子抜けした事も、全てサヴァイアー大佐の差し金だったのを知ったのは、ローラの妊娠発覚の後の事であった。

 コンラッドの決意が固いと知って、サヴァイアー大佐は偽手術も拒否したスティーブを脅して承諾させていたのだと知って、コンラッドは目の前の温厚そうな顔付きの大佐がそ知らぬ顔をしているのに呆れて首を竦めた。

 威嚇には自信を持っていたコンラッドであったが、自分はまだまだ大佐殿には敵わないなと、フッと自嘲的に笑った。


 そんなコンラッドをじっと見据えて、サヴァイアー大佐は口元に笑みを洩らした。

「家族が増えるんだ。お前もどんどん前へ行け」

了解しました(イエスサー)

 大佐の激励に敬礼を返して、明るく笑ったコンラッドの顔には、もうかつての『餓えた虎(ハングリータイガー)』の面影は残っていなかった。


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