第五話 その一
ソ連軍二千機の反撃が始まります。その中で、ウランウデに住む一人のロシアの少女が、運命に立ち向かい、道を切り開いて行く姿を描きます。
1 ユリア
丸太小屋が両脇に立ち並ぶ道、所々雪解け水で出来た水溜りが乾くことなく、シベリアの春の雰囲気を醸しだしている。南シベリアの春は遅く短い。小屋の窓は皆小さく頑丈だ。長い冬の間の豪雪に耐えるように、窓枠はどの家も太い。嗜好を凝らした木彫りを窓枠に刻んでいる。どれも同じような小屋の中、飾り立てられる唯一の場所だ。
ユリアは水溜りを除けながら、街の中心部へ向かって歩いている。春とは言え、早朝の空気はまだ冷気を含んでいた。古着のコートの襟を立てた。雪が溶けて春と共にもたらされた噂は、ひそひそと街中で話題のチタに進攻して来たアジア民主連合の事だ。
かつてここ、ウランウデ(ベルフネウジンスク)は長い間ブリヤート共和国の首都だった。つい十年くらい前は極東共和国の首都として日本とロシアの間の中立国だったこともある。今はソ連という共産主義国の一部になってしまった。ソ連になってもっと暗い世の中になってしまった。農民は食べる物も無く飢えているし、町には物資も何も無くて、ガランとしている。人々も元気無くうろつくばかりだ。
ソ連と日本を中心としたアジア民主連合が戦争している。だから度々飛行機が街の上空を飛ぶ。ソ連の飛行機が全部負けて、飛んでいるのはアジア民主連合の飛行機ばかりだ。十六歳は、ソ連に負けてほしいと思っている。何か大きな変化が起こって、今の現実世界を壊してほしいと思っていたからだ。
噂では、隣の州都チタで信じられない事が起こっているらしい。アジア民主連合が進駐してきて、飢えが無くなり、病人が癒され、強制労働が消えたと言う。物資がどんどん日本や満州から運ばれて、物が溢れているそうだ。ソ連政府の人達はそんな噂の逆の事を言っている。昨日もチタでは人が沢山殺されていると触れ回った。ビラも配られた。皆兵士になって敵と戦おうと書いてあった。だが、ユリアは違うビラを隠し持っていた。アジア民主連合の飛行機がばら撒いたビラだ。
―― 共にロシア民主国を建国しよう。自由市民になろう! 搾取と差別の無い国を作ろう! 働いた分の報酬が得られる国、日曜日は休みの国、ブリヤートの金と毛皮はブリヤートのために! 暗殺と粛清の独裁者スターリンに従ってはならない!
極東ロシア民主建国委員会
どちらを信じるか? それはもう決まっている。ソ連はいつも嘘ばかりつくからだ。ユリアの歩みはいつの間にかゆっくりで、俯き加減になる。小さな水溜りが東の日を受けて、きらきらと小さく輝く。何時の間にか、父母の面影が浮かび、最後の団欒の晩が蘇えった。
あれはユリアの十五歳の誕生日。母が何処から手に入れたのか久しぶりのご馳走を作り、父母の友人達が集まった。愉快な話をしながら暖かい羊のボルチシを食べ終わると、父は暖炉の側でひそひそ友人達と話し始め、ユリアと女達は部屋の隅に集まって、楽しいおしゃべりをしていた。いつもの事だ。夜も更けて話し疲れたのか、ふと男達の会話も女達の会話も偶然同時に途切れた時、突然、ドアを激しく叩く音がした。母の顔色がさっと変わり、父は中腰になって構えた。
「開けないで!」
母が叫ぶように強く言った。
「皆には迷惑は掛けられない」
父の落ち着いた声が響き、父がゆっくりドアを開けた。赤軍の兵士数人を伴った政治局の人が虚ろな目で立っていた。役人は小声で何か父に言うと、
「ユリア、お父さんとお母さんは用事でちょっと外に出てくる」
父が言うと、母がゆっくり立ち上がり、父と共に出て行った。母の友人が泣き始め、隣のおじさんが机を拳でどんと叩いた。
「赤軍め! ゲオルグとエスカテリーナを連れて行きやがった」
ユリアは意味が判らず呆然としていた。
「ユリア! お父さんもお母さんも捕まったんだ。もう帰ってこないぞ」
おじさんにそう言われて、おばさんがユリアを抱いてくれた時、体の力が抜けて涙が溢れた。
「一九三二年から赤軍は狂ったんだ」
隣のおじさんが話し始めると、ユリアは涙を流しながら皆と一緒に話を聞いた。共産主義国になって、全国の農場は集団農場化された。土地を持つ農家は富農だと酷評されて、粛清の対象となり処刑され、あるいはシベリア奥地の強制労働に連行されてしまう。だが、コルホーズでは生産が上がらない。頑張っても頑張らなくても報酬が皆同じで充分でない。農業の専門家も殆ど粛清されていなくなってしまっていた所へ、全国で飢饉が発生したのは当然の事だと言う。驚く事に、政府は翌年用の種までも没収してしまったのだ。当然、一九三二年から約一年間、餓死者が七百万人に達したそうだ。この街の牛や馬の頭数は半減、羊と山羊は三分の一になった。インテリだった父ゲオルグ・イワノフも、その当時富農の息子だったが、全財産を没収され、この地の集団農場へ送られて来たのだ。
隣近所も皆似たり寄ったりの境遇だった。父と母はモスクワ郊外の親戚と連絡を取り合って、この街で反政府地下組織の構成員だったのだ。
ユリアは政治局役所の小間使いに雇われた。父母を奪った政府は、その子に責任を感じたのか? いいや、人民への体面を気にしての事だ。本来なら学校へ行かせるくらいは政府の責任だろうと言う近所の人の話だ。掃除や水汲み、ゴミ棄てが主な仕事で、読み書きが出来て計算までできるユリアには物足らない仕事だったが、父母の行方を知りたくて、役人達から得る情報が欲しかったから一生懸命働いた。真実を知りたいという気持ちがユリアの勝気で明るい性格を、寡黙な少女に変身させた。
掃除道具が収められた物置部屋があり、その物置は元々会議室用に作られていた。今は廊下に出入りのドアが作られ、会議室からのドアは密閉されていた。そこで息を潜めれば、役人達の会話が鍵穴から聞き取れたのだ。会議のある日は決まっていて、毎週月曜日の午前十時からだ。その日は必ず一時間ほど早く役所に行って、仕事をなるべく早く終わらせて置く。会議が始まると、物置でじっと聞き耳を立てた。
そこで、ユリアは母エスカテリーナが処刑された事を知った。声を押し殺して泣いた。手足が痺れるほど体を硬くして耐えた。父は東シベリアの炭鉱で強制労働させられている事が分かった。正確な場所は分からない。震える怒りと悲しさを押さえるために、ユリアは暗記したプーシキンの詩を声を出さずに唱えた。
たとえ人生に欺かれても、悲しまないで、焦らないで
落ち込んだ日に寛いで、信じて、楽しい日はきっと来るから
心には果てが無くて、未来も永遠だけれど、今はいつも鬱
でも、すべては束の間、すべては過去になる。だから、
過ぎ去った日は、きっと懐かしい思い出になるから
ユリアは歩きながら、いつの間にか同じ詩を口ずさんでいた。今はいつも鬱! その鬱が時々血が煮えたぎるようにざわついているのだ。
2. バイカル湖上空前哨戦
大西と悦子の第一軍は途中、敵に出くわす事もなくナウシュキイに到達した。モンゴルとの国境の町は南北に流れるセレンゲ河にそって細長く、東岸に街が集中していた。春が来て、まず先に芽吹くのは背の低い草花だ。岸辺は緑に覆われているが、雑木は裸の枝を張り巡らせているだけで、それが少し荒涼とした雰囲気を作っている。近づいて枝を良く見ると、節々に小さな薄黄緑の芽が出ているのだが、木々が装うのはまだ先の事だ。
軍はモンゴルとの国境付近に二個小隊を駐留させると、本隊は街を素通りして北上、河を渡りテイーダの手前で陣を構えた。上空偵察と斥候によると、敵の機甲師団がテイーダとバブスキンの間に横たわる北の山脈に潜んでいる事が分かった。敵の勢力は約五万、戦闘車両は新型戦車を含む千両と予想された。
もともと、バイカル湖の東一帯はモンゴル系ブリヤート人の居住地だったところだ。それが十六世紀に、金と毛皮を求めて東進してきたロシア帝国に組み入れられてしまった。ロシア革命後は一九二○年まで、ボルシェヴィキ政府に敵対した反革命政府、白軍の勢力下にあった。白軍の構成は旧ロシア帝国軍、白軍コサックからなっていた。そう言う人々が、ナウシュキイにも隠れ潜んでいて、軍に随伴してきた民主委員会による市民への呼びかけに応じて集まって来ていた。
ナウシュキイのソ連共産党員達は、アジア民主連合の進駐直前に、いつの間にか消えていた。通過してきたどの町もおなじだが、急に枷を外された市民は、最初は疑心暗鬼でうろたえながらも、笑顔を取り戻し始めるのに時間は掛からない。
ノモンハンでアジア民主連合が圧倒的な勝利を収めた後、国境の南、モンゴルは各地で内紛が勃発しているらしい。ソ連の傀儡政権は対応に追われている。アジア民主連合がブリヤートに進駐し、どんな戦いをするかが、モンゴルにとっても大きな意味を持っているのだ。
「大西司令官、空軍の大園司令から連絡書が入りました」
「悦子君、読んでくれないか」
「はい」
セレンゲ河を超えると、テイーダの平原に入った。隠れるような樹木も林も森も無い場所だった。大西はこの平原が終わり、山々が始まるあたりに敵が潜んでいると予想していた。制空権を奪ったアジア民主連合は、平原に布陣しても空から攻撃される事は殆ど無いはずだ。しかし、大園の連絡書には、ソ連の戦爆連合二千機が危険な夜間飛行を実施して、アジア民主連合の軍を空襲可能な所まで押し出してきているらしいとの報告だった。
大西は陣を河岸まで後退させ、戦闘車両と砲兵を河岸の雑木林の中に雑木でカモフラージュして、歩兵は草原に散開させて逆八の字を描くように両翼を突出させて、やはり緑のネットでカモフラージュ、蛸壺陣地を構築した。味方の偵察機が上空を飛び、陣地や車両が発見できるかどうか、念をいれて確認させた。逆八の字のほぼ中央部にはタイガー戦車十両、一式戦車二十両を威力偵察部隊として集結させ、九七式対空戦車二十両で取り囲んだ。地雷除去専用一式ブルドーザー五台が随伴する。
「悦子君、第二軍の王仁君らはウランウデに着陣しているね」
「はい、ウランウデには敵は居ないようです。主力百万の歩兵は未だにイルクーツク周辺に展開しているようです」
「うむ、制空権が無ければ無闇に出て来ないということだね」
「はい、大園空軍司令はバイカル湖で敵の航空戦力を叩くおつもりですが、全てとは行かず、必ず討ちもらしがこちらにやって来るから、用心してくれとの伝言です」
「防空体制は打ち合わせ済みの通り、万事抜かりは無いね」
「はい、新型自走砲レーダー照準高射砲五十門が配置済みです。例の特殊対空用砲弾も準備完了です」
「うむ。では威力偵察部隊で山岳裾野を走行させて、敵の正確な位置を掴むことにしよう」
大西が副官を強く見つめると、副官は無線マイクを取った。
「作戦イ発動!」
タイガー戦車十両を戦闘にして威力偵察部隊がテイーダの荒野を進撃している頃、上空一万メートルで高高度偵察を続ける晴空偵察部隊の最前線きから、チタの空軍司令部の大園へ、敵の大編隊がバイカル湖に向かっていると連絡が入った。間もなく、前線の山岳地帯に設置されたレーダー基地からも刻々と敵大編隊の接近を知らせる。
大園は各地に分散した迎撃機すべてを、バイカル湖上空に集めるように発進させた。自らも再び晴空高高度指揮官機に搭乗し、上空から情報を集めるために離陸する。徐々に敵編隊の陣容がはっきりしてくる。SB爆撃機千機、米国B17爆撃機二百機、ソ連新型戦闘機Yak―1が六百機、米国P40戦闘機二百機が各々幾つかの編隊を組んでいる。それに対して味方の迎撃機は約八百機だ。
大西は事前に察知した敵の機種と編隊に応じて、機内テーブル一杯に広がる大きな固定地図の上に敵機数と予想高度を記入し、担当迎撃隊を隊長別に決めて行く。それを副官が無線で予め決められた記号を読み上げて決定して行く。
「敵戦闘集団、SB約千機。編隊は四組に分かれて東進中。随伴護衛戦闘機は約五百機のYak―1と思われます。進入高度は爆撃隊が五千メートル。護衛戦闘機は爆撃隊より五百から千メートル上空を飛行中。バイカル湖到着時間は約一時間後」
「零戦と隼は打ち合わせ通り、各護衛戦闘機に当れ! 高高度偵察隊は逐次戦況を報告せよ」
零戦の坂井隊長鶺鴒隊五十機と菅野隊長示現隊五十機は高度七千メートルでバイカル湖を越えて西進する。加藤隊長の隼隊百機も高度五千メートルを二つに分かれて少し先行していた。上空一万メートルにも晴空偵察部隊の一機が随伴して、刻々と敵の編隊の動向を無線で伝えてきていた。隼隊の役目は敵戦闘機をSB爆撃隊から引き離す事だ。敵戦闘機は新型のYak―1と予想されている。水冷千五十馬力、最大速度時速五百七十キロと高速を誇り、プロペラ軸線に二十ミリ機銃一丁、機首に七・六七ミリ機銃二丁を装備している。自重が二・四トンを超え翼長も短い事から、急降下特性の優れた機体であると想像された。航続距離が六百五十キロしかなく、増加タンクを追加したとしても、零戦の三千三百キロと比較すると、戦場での滞空時間はおそらく短いだろうと思われた。零戦も隼も速度は四十キロ以上早く、武装も強力だ。だが、今回の敵はスペイン内乱時のベテランパイロットが多く居るはず。ノモンハンのようには行かないかも知れないと、緻密で組織的な編隊戦術が前もって決められていた。
「こちら晴空偵察十番機、このまま西進するとイルクーツク西七十二キロのラズドイエ近郊上空で会敵予定。敵戦闘機隊は高度約六千メートル、敵爆撃機隊は約五千メートル、五つの編隊で各々約百機で飛行中」
「こちら隼隊、了解」
「こちら零戦隊、了解」
加藤隊長率いる隼隊が五十機ずつの二編隊に分かれて加速する。
「隼全隊に告ぐ。第一目標は敵SB爆撃機。敵は二百機単位の五編隊だ。進路上で正対攻撃できる編隊だけを狙え! 敵戦闘機が上から被さってくる頃が要点だ。各機、ばらばらに急降下で低空へ誘え。爆撃機はそのまま後の味方に任せろ」
加藤隊長は口髭を生やし、爛々とした武士のような鋭い目線で前方を凝視する。河に沿って広がる湿地帯が広がり、左手には緩い起伏が続き、遥か彼方の山脈まで少しずく標高を上げて行く。晴れていても、湿地から立ち昇る水分が空気に含まれ、視界は微かにぼやける。加藤は前方に空気をぶらすような気配を感じた。
「敵編隊発見! 編隊を崩すな! 機銃試斜! エンジン全開!」
SB爆撃機の編隊がゴマ粒のように見えてきた。その上空には敵戦闘機が居るが、まだ気づいていない。爆撃機との距離が二千メートルになった時、戦闘機群が動き始めた。
「遅い」
加藤はそう呟くと、前方の先頭集団百機の正面に隼隊五十機を導く。第二群五十機も右に平行して同じように飛ぶ。正対しているので相対速度は時速千キロにも及ぶ。加藤が前方固定機銃十二・七ミリ四丁を放つ。全機合計二百丁の曳航弾が光りの粒になってSBを取り巻く。敵の機銃も光り始めた。敵正面直前で、加藤は操縦棒を前に倒し、敵編隊の下にもぐり込む。刹那、風防上の二十ミリ斜銃照準器を見上げながら僅かなロールで捕らえて引き金を押す。編隊通過中、三機を斜銃が捕らえた。戦果を確認する間は無い。次の編隊が前方僅か左方に迫る。素早く左に旋回、軸線を捕らえて再び正対する。一瞬後ろを振り返る。最初の編隊から幾つもの黒煙が下に向かって伸びている。だが、爆撃機撃墜はおまけだ。本番はこれからだ。
二番目の編隊を通り抜けて、加藤は上空を見上げる。敵戦闘機が上空千メートルの所を急降下して来ていた。
「全機二機一組で散開、急降下!」
加藤は叫ぶとエンジン全開のまま急降下に入れる。後ろを振り返ると、敵戦闘機が追って来るが、隼の急降下速度にはついてこれない。こちらがばらけたので、敵も編隊を崩している。高度が三千を切った。頃合だ、扇状に散開急降下した隼全機が、左へ大きな円を描きながら旋回し機首を上げ始める。急降下の速度を利用しての巴戦への誘いだ。その軌跡を追うようにばらばらと敵機が食いついて来た。隼は旋回の半径をじわじわと詰めて行く。速度も速く、旋回半径も小さく切れ込んでゆく。敵の後ろを捉えるのに時間は掛からない。
最初の一機が火を噴いた。そこを横切るように、もう一機が飛び込んでくる。追跡すると旋回を始めた。水平旋回で必死になって逃れようとしている。僚機の山田機から斜銃が放たれ、機体が飛び散った。下を別の敵機が腹を向けて通り過ぎる。味方機の誰かがそれを追う。
巴戦に巻き込まれたと悟った敵機は、半数以上が急降下で逃げようとした。それを隼が更なる急降下速度で追う。地表近くで幾つもの煙と火が見えた。逃げた敵も多い。半分は逃げたかもしれない。
「こちら晴空偵察十番機、敵戦闘機約半数二百五十機が隼隊を追跡。その内百機は西に逃走中。SB爆撃機は四編隊が編隊を崩すも、爆撃機撃墜数は約二百機。また、護衛戦闘機二百五十機が爆撃機上空五千五百メートルにあり」
「隼隊もやるな」
零戦の鶺鴒隊五十機を率いている坂井が呟いた。
「零戦隊、只今敵編隊上空七千メートルに到達。これより直上方攻撃開始」
坂井はそう言うと、機体をくるりと背面飛行にいれて、風防の真上の敵編隊を睨みながら操縦棒を引いた。敵戦闘機が上昇機動に入るのが見えた。
「零戦隊全機に告ぐ。二機で一機の敵戦闘機に集中しろ! 爆撃機には目もくれるな! 軸線合わせを忘れるな! 二刀流だ」
零戦の急降下速度は七百キロにも達する。機体の振動も無く、操縦の利きも良い。敵はイワシのようなYak―1だ。操縦が難しいと噂されている。坂井は距離千メートルで七・七ミリ二丁を放つ。射程距離が長く弾道も安定しているからだ。これで相手の動向を知る。その動きから予想して距離三百で二十ミリ二門を放つ。先頭機が火を吹いた。刹那、敵編隊の下に潜りこみ、軸線を合わせてロールで風防前上の照準器を敵機が通過するように、二十ミリ斜銃二門の引き金を数秒ずつ引く。編隊を抜けると即座に左旋回、反転して敵機を探す。後に続く僚機が次々と敵機を撃墜する光景が飛び込んでくる。己の撃墜を確認する暇は無い。だが、対抗戦ですでに半数は撃墜したと思った。目の前にふらふらと敵機が飛び込んでくる。二機一組の坂井の僚機が背面飛行で坂井の風防の上に見える。距離は三百だ。 そのまま二機で一機を追う。僚機の曳航弾が光った。敵機は翼が折れてきり揉みに入る。
急降下で逃げても零戦が追う。低空に到達する前に大半が追いつかれて火を噴いた。逃れたYak―1を低空で待っていたのは隼隊だった。
「零戦隊、敵戦闘機二百機を撃墜。残り五十機は低空で隼隊が撃墜した模様」
「良し、こちら大園、零戦・隼は全機基地へ帰還せよ。燃料と弾薬を補給後、上空で次の指令を待て」
敵のSB爆撃機は八百機が無傷でバイカル湖上空に達していた。だが、護衛戦闘機Yak−1はほぼ壊滅した。