第三話 人間宣言
捕虜となった周恩行が見た変わり行く日本。蒋介岩やドイツ首相ラインハルトとの出会い。ノモンハンでの戦闘とソ連イルクーツク上空での空戦を描く第三話です。
第三話 人間宣言
《日本は変わった!》
捕虜として日本に到着した周恩行は、刑務所の塀の向こうに霞む雨空を見つめ、若き頃の留学時代を回想していた。当時帰国直前、訪れた京都嵐山で雨中に詠んだ己の詩を思い出したのだ。濛々(もうもう)と降る雨の中、青々とした松に挟まれた桜が雨に打たれて、根元の苔むした石にうす桃色の桜の花びらが、流れいでる水に浮かんで石を巡る。その先を見ると水が落ちて消える先は、雨に霞む黒々とした山が鮮やかに見えた。やがて、雨足が弱まると、一縷の光りが雲を穿って地に降り注いだ。まるで濛濃と立ち込める霧を打ち払うように、あでやかに地を照らした。人の世は殊更、模糊として無明に感じていた周は、天地の間を繋ぐ光の柱にも感じて、森羅万象の真理のあでやかさを覚えたのだ。
十八で日本に留学、東京神田区高等予備校(法政大学付属学校)に通いつつ、孫文、辛亥革命の息吹を胸に抱き、さらに、京都大学経済学部にも聴講生として通った。河上肇教授からマルクス共産主義を学んだ。中国を救うのはこれしかないと思った。それからフランスにも留学した。理論を必死に学び、共産国家樹立のために武装闘争の道をまっしぐらに走り続けてきた。
だが今、己は捕虜となり、再び縁深い日本にいる。挫折! 敗北! 今、心に吹きすさぶ嵐は、若き頃の未知への苛立ちと余り変わらないと周は感じている。しかし、あの当時と比較して、この日本の変わりようは一体? 人々の表情が明るく、町も通りもかつての暗さが払拭されている。貧しい身なりの人さえ、なにか支えがあるように、元気に道を歩いている。あの、暗い閉塞感に満ちた日本は何処に行ったのだ? 我が敗北の惨めさがそう感じさせるのか……?
巣鴨刑務所に設けられた特設外国人用捕虜抑留施設で、周は日本国によって丁重に扱われた。抑留と言っても、質素なホテル並みの設備を持つ二部屋が周に与えられ、専属の保護官が二名随行するが、外出も基本的に自由だった。午前中の取調べが終わると、周は良く巣鴨周辺を歩き、時に懐かしい神田辺りまで足を伸ばし、日本の変わりように目を見張ったのだ。新聞を読み、ラジオに耳を傾け、本を読んだ。そして、周を驚愕させる事件に巡り合った。
一九三六年二月二五日、厳しい寒さの中、皇居周辺に近衛部隊が完全武装で集結する。戦車と装甲車が深夜の闇に紛れて蠢き、キャタピラの道路を転がる音が住民を驚かした。皇居内謁見大広間では、皇道派の青年将校が数十人、中央上座に向かって緊張した面持ちで整然と腰掛ける。近衛兵士が両壁に立ち並び、押し黙っている。皇道派に賛同する将軍達は右側に、政治家達は左に腰掛け、皆張り詰めた気持ちを隠せぬ表情で中央の御簾の向こうを見つめていた。
侍従長が御簾を厳かに上げると、陛下が一段高い御台の上に腰掛けていた。御簾が上がり、天皇の尊顔を拝す事態が晴天の霹靂。静まり返る場に、天皇の声が響いた。
「帝国の若き軍人達よ!」
そう天皇は語りかけた。
「君達の国を思う気持ちは聞き届けた。この国は力をつけ、世界に羽ばたいている。だが、このままで道を誤らないと誰が言えよう。否! このままでは、日本は大きな過失を必ず犯す」
天皇は言葉を切って、静かに皆を見回した。大広間は誰も居ないかのような静寂に包まれる。
「君達が憂慮する奸は、今夜の内に近衛師団によって縛されるであろう」
広間にざわめきが走る。
「軍人だけで無い! 政治家も活動家も財界人も然り! 奸妖は全て捕縛され、日本は世界の範となって今夜、生まれ変わるのだ」
天皇の重大な決意が徐々に伝わったのか、どよめきが広がった。
「だが、皆の者、忘れてはならないことが一つある。明日、私は人間宣言を行い、軍の統帥権を放棄する」
政治家と将軍が大きくさらにどよめいた。
「自由と民主の国を作るためだ。皇室と貴族制度を廃止して、国民が国民の意志を持って国を司るのだ。不平等と搾取を無くし、貧困を撲滅し、他国の搾取に完全と立ち向かう自立の国を作るのだ。人を神と崇めてはいけない。人は過ちを犯すように作られている。その過ちを小さくするためにこそ、民主の道があるのだ」
身じろぎ一つ無い静寂が訪れ、やがて青年将校達から嗚咽が漏れ始めた。
「何故泣くのか? 若き軍人達よ! 私もまた君達と同じ人。私の人生も君達兵士の人生も、人生には変わりが無いのだ」
嗚咽が激しい感涙に変わり、政治家も将軍達も涙ぐんだ。
「泣いてはいけない。皆が泣けば、我が心も切なくなる。今は喜こぼう! 新しい日本の誕生なのだ。今日から大日本帝国は日本自由民主国となるのだ。民のために我らが命を布施しよう。アジアのために、アジアの五族共栄のために、万難を排して戦ってほしい」
青年将校の一人が立ち上がり、天皇陛下万歳を叫んだ。皆が泣きながらそれに従った。
二月二十八日に天皇陛下自らのラジオ録音放送があった。人間宣言である。二月二十六日、天皇陛下勅命により近衛兵団と皇軍派青年将校が指揮する全国の陸海軍の師団は、軍閥と財閥の解体を目的として、双方に癒着した将軍や将校、および財界人を悉く逮捕抑留した。
同時に陸海二軍加えて空軍を創設し、三軍を統括する総司令部が設置された。また、貴族院は廃止され、代わりに智慧院が創設され、各界の知識人が民主主義および自由主義への貢献度から選ばれる事になっている。衆院はそのまま誰でもが投票できる国民院として機能するが、もう一つ新しい院が創設された。礎院と呼称し、十八歳以上のある一定額以下の所得者が参選件を持ち、貧困層の代議士を選出できることになる。陳のような乞食でも人々の支持を得て代議士になりえるのだ。
誰の顔にも爽やかな笑顔が映った。上に立つ者の英断と勇気に感動して、さらに、国民の皆が自由市民という言葉の意味を、嬉しさと開放感を持って、受け入れたのだ。政治の知識の無い者さえ、なにかとんでもなく良き事が訪れたと感じて、うきうきした。それが日本の力になる。底力になるのだ。
世界の人口の八割は貧困所得層だろう。五パーセントの富裕層が世界を牛耳っている時代だ。日本も改革が進行したとはいえ、七割の人口が今だ貧困に喘いでいた。そこから選出された代議士がどう政治に参加してゆくか? 世界が注目した。この三つの院がお互いを牽制、切磋琢磨して、民が国を司ることが始めて許されたのだ。一番驚いたのは日本の共産党員だったかもしれない。貧困層の代表と自負してきたからだ。そしてそこに扇動の余地・要があり、武力革命の下地があったのだが、今や貧困層が政治に参加するとなると、それは期待できない事になる。
その危険な匂いをソビエトも嗅ぎ付けた。ソビエトは周りの国々を共産化して、ソビエトの衛星国としつつ、列強に対する砦とする世界戦略。ソビエトは危機意識を確実に持ったのだ。さらに彼らを慌てさせたのは、翌日、台湾も韓国も満州も同じ政治組織を採用し、アジア民主同盟として共栄圏を高々に宣言した事だった。ドイツと中国国民党蒋介石も歓迎賛同の意を表し、列強、米・英・仏は驚愕し、世界戦略の建て直しを迫られていた。
特に米国は、日本が選択した道が米国の国是と根本のところで一致しているにも関わらず、ルーズベル大統領は苛立ちを募らせていた。このままでは中国とアジアが日本の属国になってしまうと疑心して、帝国主義の後発国米国の、アジア戦略が瓦解し始めたことを嗅ぎ取ったからだ。列強とソビエトが急速に手を握る環境が整ったのだ。この歴史の転換点で、もし列強の選択肢に共存共栄と言う思想があったならば、全体主義と共産主義、そして帝国主義あるいは資本主義は力を得ずに歴史から消え去ったかも知れない。アジア民主連合とドイツ民主連合が見抜いた列強の真実とは、資本主義の影に隠れた帝国主義の匂いであり、アジア、特に中国で現実に発生していた貧民の増大と利益の搾取だった。
日本から見れば、この時日本も列強と互角に対決するためには、全体主義へ傾いて全体主義の影に帝国主義を模倣する道もあったに違いない。だが、日本は違う道を選んだ。時を同じくしてドイツ民主連合も同時性が生じ、天佑に恵まれ、強力な友を西側に日本は持つことになった。
簾の君から王仁が天皇の人間宣言決意を伝えられてから三年が経過していた。皇室はこの三年間、人材を育成し、国の礎となるべき人々を育ててきた。それはアジア民主連合に所属する各国で同時に進行させてきたことだった。
周恩行は巣鴨刑務所の高い塀の内側に、雨に洗われた紫陽花の花を見ていた。花の輝きも瑞々しさも中国にあるものと変わらない。人の営みも変わらないが、政治は異なる。そう言う事か? 周は自分の知る日本人を幾人か思い浮かべてみる。
《日本人も中国人も、知る人は皆、神ではない。過ちを繰返しながら時に押されて、無明の中を手探りで進む。信じてきた事が、人生をかけて行ってきた事が空しいと感じるのは神で無い証拠。それこそが人である証明……、 日本の天皇の人間宣言か!》
中国の皇帝でそんなことをした人物はいない。皇帝も貴族も神に近いと思わせて、人々の間に権力を築き上げて来た。あるいは富みを力と思わせて、権力を積み上げる。だが、日本の天皇は……! 周は日本の変わりようの理由がすこし判ったような気がしたのだ。
日本軍部は上海での共産党との戦いから幾つかの戦訓を導き出していた。爆撃機による渡洋攻撃の効果、敵の砲兵を壊滅させ補給路を断ち切る事ができ、地上攻撃用戦闘機により常に敵を劣勢心理に追い込むことが可能と知った。周恩行の取調べが進むにつれ、周は元々電撃的に上海租界に侵入し、都市内の同志と共同で日本租界地の中に陣を敷き、日本人の居留民を人質として都市戦を行いながら、日本軍と国民党軍が市民保護のために砲撃出来ないようにする作戦だったことが判明した。だが、租界地入り口にはドイツ軍人指導による強固な建物陣地・塹壕が築かれ、それに難渋していると何処から飛んできたのか、空からの爆撃機の攻撃を受け、虎の子の軽野砲を失ったばかりか、日本軍の砲撃でその場所に釘付けになってしまった。さらに、戦車と噴進砲の大きな火力と、軽機関銃を備えたロシア突撃歩兵が伸びた前線に沿って急速に移動しながらの攻撃に、大きな損害を出してしまった。
共産軍の敗因は機械化部隊、戦車や重野砲が無く、単純に租界地に対して薄い包囲前線を作った事による。周はこの日本軍の作戦を見事であると供実し、作戦の士気を取った人物が誰であるか知りたがったが……。
日本軍は今後、ソビエトの機械化部隊と対決するために、豆戦車では無く、重戦車が多量に必要になることを想定するが、日本にはまだ重戦車が存在しなかった。満州での開発製造計画があっただけだ。ドイツへ軍事技術将校を引き連れた使節団が飛び立ったのはこの頃だ。噴進砲隊と軽機関銃歩兵隊を強化し、重戦車隊と組みで将来戦わせる戦略が不可欠で在り、陸軍大国ドイツの重戦車研究と軍事協力を加速させるためだった。
陸軍と海軍は協力して、台湾、韓国及び満州に戦略爆撃機隊を配備し始めたのだ。航続距離の長い一式陸攻爆撃機とそれを護衛する初期型海軍零戦改戦闘機、陸軍隼改戦闘機などが着々と整備されていた。
時間の余裕の出来た周恩行は、ゆっくり巣鴨刑務所で思う。戦いに敗れて自分の人生が変わった。脇目も振らずに突っ走ってきた間に、周の知らない世界が生まれて来ていたのだ。そんな微妙な流れを感じとる余裕と受容性が周に生まれつつあった。己の運命を変えたあの上海の戦い。日本軍の戦いは賢者の戦いだと感じた。あれは一体誰が指揮していたのだろう? 周は雨中、あでやかなうす紫の花に語りかけた。
「悦子さんは、機械なら何でも操縦できるんだね!」
伝声管から王仁の声が響いた。高度二千メートル、上海の虹口港を飛び立った水上偵察機零観は南京に向けて右手に揚子江が緩く蛇行する中国大陸を見下ろしていた。前方の輝く千切れ雲が近づいてきて、いつの間にか白い塊がぼやけてうすい霧になる。通り抜けると青い空と悠久な中国の大地が果てしなく続いている。
「戦車や飛行機の操縦は、特務機関員の必須習得項目ですわ。特に水上小型機は諜報作戦上、重要な道具ですもの。湖・河川があれば離着陸できますし。でも私、飛行機は大好き! 王仁様はいかがですか?」
悦子はそう言うと、機種を下げて急降下する。機速を充分得ると、機種を急激に上げて宙返りを打つ。地球が縦に回転したかのように風景が流れて、悦子は笑みが零れる自分を感じた。
「ち、地球は我々で動かす事が出来たんだね! 悦子さん」
伝声管から伝わる王仁の声は、悦子が好む素の王仁の声だった。
《王仁様、貴方の言うとおり、地球も歴史も我々で動かす事が出来るのです》
悦子はそう言うと、背面飛行に入れて、逆宙返りを素早く打った。水平に戻ると即座に背面飛行から右へ九十度傾けた小さな左水平旋回を描く。Gがずっと係り、体が遠心力で座席に吸い付く。大地が飛ぶように流れた。唸りを上げたエンジンが絞られて、機種が目指す草原の彼方に南京が見えてきた。
目の前に、中華民国主席、蒋介岩がいる。この男、王仁の幻視によると反共の闘士であり、今は日本と協力していて国作りを行っているが、一つ間違うと親米派に寝返り、日本の敵となる可能性も高いと言う。そしてこのままでは毛沢西共産党に勝てないとも言った。細長い顔にバランスの取れた鼻と細い目が愛嬌のある笑顔を作っている。角ばった顎先が頼もしくも見え、如何にも指導者の風格を漂わせている。杜日笙に言わせると、嘗ては青幇の構成員だったそうだ。つまりやくざ上がりと言う事か? 蒋介岩を王仁はその大きな目でしっかり見つめ、既知の友にあったかのような微笑を送っていた。
「我が義弟、杜日笙と親しい王仁殿は我が友! 良くぞおこし下された。そしてまずはお礼を申し上げたい。あなた方日本が周恩行を捕虜にしてくれたお陰で、中華民国は反共の第一段階を達成する事ができたようだ」
「いいえ! 蒋介岩主席、このままでは……、貴方は毛沢西の共産党に決して勝つ事はできません」
蒋の笑顔が曇る。王仁の槍のような真っ直ぐな言葉に、思い当たる事があるという表情をした。
「王仁殿、貴方がそう断定する根拠は何かね?」
強い断定に根拠が無ければ、それを言い放った王仁とは、生涯付き合わないという強い意志が込められた声だ。蒋介岩の細い目が強く暗くなった。
「根拠を論う前に、どうすれば勝てるかを考えましょうか」
王仁の応答は、相手の気を受け流す。負ける原因を分析するよりも、勝つ方法が判れば負けない。道理だ。蒋介岩は虚を付かれていた。虚を付かれると人の頭脳は一瞬、空白になる。そこに王仁の巧みさがある。それこそ、禅の真髄かも知れない。
「日本は今、飴玉二つのお金で買える鉱石ラジオを、上海と満州で無数に作らせています」
王仁はそう言うと、イヤホンコードがまきつけてられた小さな手のひらに乗る木箱を懐から取り出し、蒋介岩に手渡す。
「貴方に進呈するためです。貴方のお国の農民の殆どに無料で持たせたいと思います。このラジオは、ご存知のように無電源で動きます。飛び交う放送電波に同調して、その電波そのもの力を貰って音を鳴らします。電波の届くところなら何処でも放送を聞けるのです」
一九二五年に日本はラジオ放送を開始していた。真空管式ラジオは相当数普及していたが、何分消費電力が大きく、大型になりコストも張る。貧乏人には手の届かない物だった。しかし、基本的に四つの部品よりなる鉱石ラジオは、部品さえあれば子供でも組み立てられる。結晶板に電圧を掛けて振動させて音を出すクリスタルイヤホンとセレン検波器、バリコンとアンテナになるコイルを回路図に沿って繋ぐだけの非常に簡単なラジオだった。日本は電子技術に最大限の力を入れ始め、ドイツとの技術交流を強化して行く過程で、半導体の魁としてゲルマニウムダイオ―ドをセレン検波器の変わりに作り出し、真空管に変わるトランジスタを開発していた。昨年には製造工場を、埼玉県川口市内に建設して、極秘工場として稼働中だった。部品は満州と上海に送られていた。
怪訝そうな蒋介岩は小箱からイヤホンコードをほどいて、自分の耳につける。小箱の横に小さなダイアルがあり、中のバリコンに直結している。それを少しずつ回転させて同期を図る。蒋介岩は目を細め言った。
「南京放送の音楽が聞こえる」
「貴方のお国の農民が、貴方が何を考え、何をしようとしているのか、これで知る事ができます。アジア民主同盟は中華民国に必要な放送設備もどんどん提供致しましょう。未開地へ運搬可能なように、トラックに放送設備を積んだ放送車も準備しました。貴方の声を録音するレコード録音設備も整っています」
王仁の言葉を吟味して聞いていた蒋介岩の目が徐々に見開かれ、王仁の意図が明白に伝わった。
「これで、共産党の農民洗脳に対抗せよということか!」
「そればかりではありません。先手を打ち、共産党の頼みとする基盤を打ち壊すのです」
「どんな先手だね?」
「小作人開放です!」
王仁は真剣勝負に出ていた。その目は爛々とし、蒋介岩を気迫で包む。地主と小作農の関係こそ、因果応報、列強帝国主義と中国の関係の雛形となっているのだ。少数の地主が富み、小作農は生きるだけで精一杯。それが民衆の不満となっている。清朝の時代から数百年も続いてきた因習だ。毛沢西の路線は農民革命を目指し、地主から土地を奪い、農民に分配する。そこに目標があった。土地が持てるならと希望を吹き込まれた農民は必ず共産化されてしまうだろう。王仁の危惧はそこにあった。王仁が続けて言う。
「貴方が先にやるか? 毛沢西が先にやるか? それで中国は決まってしまいます!」
南京城の蒋介岩私室は北と東の角にあり、城壁の向こうに揚子江の流れがみえる。果てしなく広がる大地に、鍬を引く牛と農民の働く姿も見えた。日長一日、外で働き、疲れ切った体を休める小屋に帰る。粗末な食事、娯楽も無く、夢や希望は眠っている間にも現れない。病めば捨てられる事さえある。生活の苦しさは、家族の団欒さえ蝕む。絶望のちょっと手前まで追い込まれた人々が、自分の土地を持てると煽られたら、その力を止めることが出来るものは誰も居ない。
蒋介岩はこれまで、力で都市部の共産勢力と戦ってきた。そして列強や日本の手を借りて、勝ち続けて来た。だが、共産勢力は農村部でますます、勢力を増やしていたのだ。毛沢西は、地主や企業家、政治家に対して憎しみを募るだけで、小作人開放をまだ宣言はして居なかった。だから、チャンスは一度だけかも知れない。そして一度に中国全土に知らせる必要もあった。鉱石ラジオはそれを実現させ、その後の教育にも継続的に一役買うだろう。国の主席が何を思い、何をしているか民衆が知る手段ができるのだ。
「孫文先生が時期早々と仰ったことを今、私にやれというのだね」
「日本に五年も留学された貴方なら、かつて、日本の小作人が同じ状況で在った事はお分かりのはず。小作人が解放されて土地を持ち、天皇陛下が人間宣言をされて、自ら財閥と軍閥を解体されたのです。貴族制度もその貴族の長たる皇室が率先して、壊された。今、清朝が滅んで満州人が満州へ帰った後、孫文先生の大アジア主義を実現できるのは貴方しかおりません」
「王仁殿、時が満ちていると言うのか?」
「貴方の心が、民衆の心を理解できた時、時が満ちると呼ぶのです」
王仁は蒋介岩を躊躇させているものまで、見抜いていた。それは上海南部農村地帯の塩商人の息子として生まれた蒋介岩をここまで引っ張って来た原動力、財閥の力だ。
蒋介岩は十五歳の時、四つ年上の村の娘、桜福梅と結婚していた。二十九歳の時、子蒋経涯を設けたが、その後、桜福梅は離婚して出家してしまう。四十の時に今の妻、宋美麗と結婚する。この宋は上海を中心として活動する浙江財閥の娘、姉は孫文の妻だった。
「貴方を影で支えてきたものを壊すことが、貴方にできましょうか?」
王仁の瞳は冴えて澄みきっている。蒋介岩はたじろいだ。王仁が何を暗示したか感じ取ったからだ。力をつけるために選んできた道をふり返ると、子供の頃の貧しさを同時に思い出させた。父が早世した家族は母の頑張りで何とか食いつないだ。そして十五の時、姉さん女房、桜福梅を母が選んだ。若い蒋介岩は、家の事を顧みずに、孫文の後を追った。その間、家を支えていたのは、あの出家してしまった桜福梅なのだ。
今の妻、宋美麗は米国育ちも同然。米国との太いパイプと上海の財閥とのつながりを持つ。贅沢で可愛げの無い女だが、その力は利用できる。宋も同じ。主席となった蒋介岩とつながりを持つことこそ、浙江財閥の安泰を確かなものにしていたのだ。
《この日本の僧王仁は、私が財閥と縁を切り、且つ列強との縁を完全に切ることを望んでいる。そして、共産党に打ち勝ち、中国を日本と同じように民主の道を歩めと言っている。アジア民主連合に参加させたいのだ》
蒋介岩は一つの自分の道を見出しつつあった。そろそろ五十に手が届く年齢で、世界の虚飾が良く見える蒋は、己の我がままと癇癪の癖を見抜く眼力も育てた。それは後悔にはつながらず、子供の頃への懐かしさに化けていたかも知れない。蒋介岩はあの優しい微笑みを浮べて王仁をまじまじと見つめて言った。
「王仁殿、貴方の気持ちは良くわかった。まずは鉱石ラジオを下され! だが、小作人開放、財閥解体については即答を避けたい。 古く腐った木は切らねばならない。が、いつどのように切るか? それは我ら中華民国にとって、一大事! 日本の本当の実力を見ねば、そして、アジア民主連合の動向と成長を見させてもらいたい。しかし、これだけは約束しよう。今まで通り、中華民国は日本の友であること」
王仁は蒋介岩の言葉よりも、その目つき、肩の上がり下がり、息継ぎの深さ、そして手の動きを深く観察していた。王仁は一人納得して、肉体の微細な反応を見届けた上で、蒋介岩が嘘や謀略無しに本音を語った事を知り、笑顔を返す。
「蒋介岩主席! 貴方の本音が聞けて、我らも嬉しいです。貴方には我らを利用して、中華民国の力を蓄える道もあった。しかし、貴方は率直に思いを語ってくれました。我々は貴方の心の時が満ちることを待ちましょう」
「うむ、王仁殿、久しぶりに、まるで孫文先生とお話しているようで、この蒋介岩も楽しかった」
比較的に近代化が遅れがちだった東邦ヨーロッパ諸国は、ソビエトの南下政策と衛星国(植民地)への誘いに辟易しながらも、民衆は確実に共産化されて、ドイツは危惧意識を高めていた。王仁と悦子は来るべき次の大きな戦いのために、特務機関専用二式大艇改(晴空)に乗って、対流圏の頂点、ソビエト上空一万メートルを飛行していた。目指すはドイツ、約九千二百キロ彼方、約二十時間に及ぶ飛行だ。
二式大艇晴空は、飛行艇でありながら当時の列強大型爆撃機(B25,B17)を大きく凌駕した性能を誇り、四発千八百五十馬力の火星エンジンと縦横比九の細長い翼が長大な航続距離と爆弾搭載量二トンを誇った。且つ二十ミリ旋回機銃五門および七・七ミリ機銃四門を備えていた。完全武装で六千四百キロ、偵察目的では七千四百キロにも及ぶ。特務機関専用機は開発されたばかりの過給機を搭載した新火星エンジンで、上昇限度を八千八百メートルから一万二千メートルまで改善していた。また、また全ての武装が取り外されており、航続距離は九千五百キロにも及んだ。ドイツ―東京間は九千二百キロ。給油無しの二十時間の旅だ。日本空軍はこの過給機付きタイプで世界初の水上機戦略爆撃隊を創設しようとしていた。これも上海渡洋爆撃の戦訓が活かされたと言える。
高度一万メートルは別世界だ。大気の対流圏上限、その上は空気の対流が無い成層圏。氷点下数十度の極寒で、空気密度は地表の三分の一に薄くなり、気圧は四分の一だ。仮にソビエトの戦闘機に発見されて、彼らがここ一万メートルにやってきたとしても、彼らのエンジン出力は三分の一以下になり、浮いているのがやっとで攻撃は出来ないだろう。それに、我らが空飛ぶ船は、時速五百キロ以上で飛行している。過給機のお陰なのだ。空気が薄い高空では、エンジンに強制的に空気を濃くする必要があった。それには空気を圧縮するファンがどうしても必要だ。高速で回転させるファンの仕組みは、考えると単純だが、工作に非常な精密さを要求される部分だ。この技術はジェットエンジンの空気圧縮部分とほぼ同等の技術を要するからだ。ファンに使う材料にも工夫が必要で、日本は新たな合金を過給機用とジェットの圧縮ファン用を開発、実用化をほぼ達成していた。
高高度を飛ぶ飛行機のためのエンジン開発、これも王仁のかつての示唆にあった項目、それが今、発案者を乗せて敵国ソビエトの上空を悠々と飛行していた。
「王仁様、いかがですか? 空飛ぶ船の乗り心地?」
「いやあ、寒さとこの邪魔な酸素マスクを除けば、とても快適だね。ここまで高いと地球はほんとに丸くみえるね」
出来たばかりの二式大艇晴空にはまだ、与圧室が無く、二人はまるでエスキモーのように着膨れし、ホースにつながった酸素マスクを顔に掛けていた。二人の正面には同じように寒さにちじこまった二人の技術将校が各々黒いカバンを大事そうに抱えて座っている。ドイツで開かれる日独定期軍事技術交流会議に出席する黒田大尉と佐々木大尉の二人は、王仁と悦子が何者かは知らない。だが、この特別な空飛ぶ船に乗っていると言う事は、要人か特務機関の人間かどちらかと目星をつけているのだろう。口数少なく書類に目を通したり、酸素マスクのわきから二人で囁くように話合っていた。
悦子はこの二人の技術将校の仕事内容も全て把握していて、王仁にもその内容を概略報告していた。あの黒いカバンの中には、日本が開発した電子部品、ゲルマニウムダイオードやトランジスタの見本と、それを利用した誘導弾、レーダー、無線機と電子計算機の原理解説書や回路図が入っているのだ。この情報はドイツの現状の軍事開発技術と交換される。ドイツは工作機械分野では非常に優れていて、日独は今、全力で工作機械の自動化を推進していた。誘導弾、レーダー、無線機を初めとして、列強を凌駕する最新の兵器の開発が成功しても、それを量産する技術と生産設備こそ、死活問題なのだ。豊かな物量を活かした大量生産は、今でも米国の独壇場。これに対抗するためには、高度技術兵器の生産を労働者の熟練に頼る方法では太刀打ちできない。両国とも電算機の導入と自動化がどうしても必要だった。
また、仮想敵国ソ連も米国に次ぐ高い兵器生産能力を保つ。ソ連陸軍戦車隊との戦いを想定した重戦車に付いても技術交換が為されるだろう。ドイツは重戦車においても日本より先行していた。だが、あの帝政ロシア軍が上海で使用した四式百ミリ噴進砲の見本も機内のどこかに詰まれて入る筈。この携帯兵器にドイツ戦車は耐えられるのだろうか? 今日本で開発している新型高速戦車には射程距離を伸ばした五式百ミリ噴進砲が主砲として組み込まれている。そしてその砲弾には、やがて誘導装置が付けられるのだ。山や建物の影に隠れた敵をレーダーで捕捉、放たれる噴進弾は九十五パーセントの命中率で目標を破壊する。この新型五式中戦車は今年の年末までに満州前線に配置される予定なのだ。それだけでは無い。海軍の軍艦もこの噴進弾を放つ砲頭に順次改装している。海軍には五十ミリが対空用に、百ミリが対地用、三百ミリと四百ミリが対艦用、四種の噴進弾が配備される予定なのだ。
操縦室の副航法士がコーヒーを四つ、盆に載せて運んできた。悦子は素早く立ち上がると、礼を言って盆を受け取る。
「一万メートルの高空での、コーヒーの味は格別です。どうぞ召し上がれ」
そう言って、技術将校二人に進める。酸素マスクを外し羽毛のフードを被った悦子の可愛い顔が微笑むと、緊張がほぐれたのか黒田も佐々木も人懐っこい笑顔を向けた。佐々木大尉がおずおずと口を開いた。
「あの、多分聞いても答えてもらえないと思いますが、あなた方は一体どなたなのでしょう?」
隣の黒田が肘で突いた。悦子は答えなかった。だが、王仁が口を開いた。
「あなた方の任務を全て知っている者と答えておきましょう。お二人がドイツにもたらす技術は、今後の欧州の戦を全面的に変えてしまうほど、重要な技術の根幹です。おそらく数年内に起こる大戦の帰趨を制する技術となるのです。そしてドイツから得る工作技術および冶金技術はアジア民主連合の土台となる製造技術になるでしょう」
二人の目が大きく見開かれ、返す言葉を失った。黒田大尉が答えた。
「お名前はお尋ねいたしません。ですが、ここでお二人に出会えた事を光栄に思います」
黒田大尉は自分達の任務をそこまで把握している人物は、政府部内の極少数しか居ないことに気づいたのだ。
「さあ、コーヒーが冷めてしまいますよ。それでなくても低い沸点で沸いたのですから」
高高度では、水の沸点は百度以下だ。それが丁度飲み頃の温度になって、体に沁みるような旨さだった。悦子が何気なく聞く。
「ロケット実験機、『秋水』の開発状況はご存知かしら?」
「秋水もご存知とは! はあ、伝聞ですが、補助ロケットを装着してすでに滞空時間二十分にまで伸ばす事に成功し、問題のソリ部は小さな車輪、車輪というよりベアリングボールですな。それを縦にやはりソリ状に並べて離着陸もほぼ安全に出来るようになったらしいです」
「そうですか。二十分なら実用的な空戦にも耐えられますね。大塚大尉もがんばったのですね」
「お、大塚をご存知なので?」
「ええ、一度お目にかかりました」
「あいつの働きで、今年中に秋水は迎撃ロケット戦隊として実戦配備されるようです。大塚は特進して、中佐となりまして、ロケット戦隊長に任命されました」
悦子と王仁は丸顔の大塚を懐かしく思い出した。
「大塚さんも苦労されたのですね。ところで、一式人型工作機、『力動』はどんな具合でしょうか?」
二人の顔色が変わった。それこそ、極秘中の極秘、彼らの所属する部署がもたらす新技術は殆どすべて『力道』の開発から派生して来ていた。二人共少し後悔するような微妙な表情になり、
「す、すいません。少し喋りすぎました。ただ、『力道』は赤ちゃん歩きから子供歩きになりましたとだけ、申し上げましょう」
「王仁様、貴方のお子様は成長されているようですね!」
悦子は晴れやかな笑顔を王仁に向けた。
「うむ、悦子さん、いつかきっと『力道』に出会えるだろう。それまでは二人の胸の内で育ててもらおう」
ベルリンの北東約七十キロにパルステイネル湖がある。縮尺の大きな地図には載らない田舎の湖。その東の端の湖畔に、二式大艇は着水した。ドイツの美しい田園に囲まれ鏡のように静かな湖面に、細長い胴体をもった四発の飛行艇晴空が大きく綺麗な波しぶきを立てた。九千二百キロ彼方の日本から無着陸で飛んできたとは、だれも想像しなかったろう。ドイツ陸軍三小隊が、湖畔を警備し、着岸地には首相ラインハルトが政府要人と共に直々に出迎えていた。黒田と佐々木とは湖畔で別れ、王仁と悦子はラインハルトと共に、近くの湖畔の別荘に案内された。小さな森が湖の岸辺にこんもりと茂り、街道から脇道が別れて続く。小さな古城を改造した別荘で、こざっぱりとして日本にある洋館のような感じがした。
ラインハルト首相は、政権を争ったナチス党のアドルフ・ヒットラーと、偶然にも双子のように良く似ていた。本人もそれを気にして、ヒゲを綺麗に剃ってウエーブの掛かった髪を出来るだけ長めにカットしていた。ヒットラーと違うところはゆったりとした雰囲気と微笑を湛えた眼差し、目の色は濃い青だが、その深さはなんとなく王仁に似ていなくも無い。
ラインハルト、王仁と悦子、三人だけのデイナーテーブル、蓄音機からクラシックの音楽が静かに柔らかく聞こえた。これから話される内容は三人だけが望ましい。悦子はブライトブルーの清楚なイブニングドレスに着替えて、通訳をこなす。四十そこそこのラインハルトは東洋の美女に目線が釘付けになりそうなのを、その聡明さで自然な眼差しを保ち、悦子と王仁に注いでいた。
「王仁殿は日本の特務機関の所属とお聞きしているが、同時に宗教家でもあり、霊能者でもあると伺った。あなたのこと少し知りたいのだが」
「我が宗派は元々、皇室の中だけに存在し、本来は隠された宗派です。皇室が道を誤らぬように時に応じて助言するために、霊性を磨く修行を子供の頃から致します」
「どんな修行ですか?」
「気づきの修行を主体とした普通の日常生活です。気づきとは肉体への気づきから始まり、感情、気分と進んで行き、人の思いに至り、時には日本人の総体想念や世界想念への気づきまでを含みます」
ラインハルトは王仁が『気づき』と言う単語を使ったときに、表情を変えた。何か既知の事柄がその言葉でより明瞭に映像化できたというような、はっとした表情を一瞬みせたのだ。王仁はその機微を見逃さずに言う。
「そうです。あなたもそれをお分かりのはず。出なければ、列強英・米・仏の次の手はなかなか読めないですからね! そして、日本とドイツの連合の深い意味が生きてくるというものです」
「なるほど、東ではあなたがその役をこなされている。それが判っただけでも、私は心から嬉しい」
「私もです。ラインハルト首相!」
悦子は通訳をしながら、言葉の意味を超えて、二人が共振しているような感じを持った。通訳が逐語訳した言葉を解釈できていないのに、当の二人はお互い快い微笑みを浮べているではないか。だが、役柄、妙な質問は挟めないのにちょっと苛立ったが、後で王仁に聞こうと気を取り直して仕事に集中した。
「王仁殿、中国の民主化が今後アジアでは鍵となると思うのだが、蒋介岩は本気で小作人解放をやるだろうか?」
「ドイツと日本の実力を眺めて決めると言っていますが、すでに準備を始めたようです。そんなに先のことではないと感じます。蒋介岩が列強側に協力しなければ、上海は中国の経済的要となり、列強は上海からの撤退を模索するでしょう」
日本租界地の開明的な市政とそれに追随する蒋介岩中華民国の圧力により、上海での列強の利権は急速に失われつつあり、すでに阿片がらみの商社は拠点を香港に移していた。この動きはどんどん加速して行くだろう。列強は艦隊を編成し、香港とフィリピンを拠点に活発に動き始めていたのだ。
「ソ連も軍団を満州国境に集結させつつあるね」
「それです! ラインハルト首相。ドイツと日本は独日防共協定を結んで、ソ連の南下を防ぎ、植民地と成り下がるかも知れないソ連衛星国を民主化して守らなければなりません」
ラインハルトも膝を打った。ドイツは来年早々、オーストリーと連合国家を創設する下準備をしていた。そしてその次はポーランド、デンマーク、ベルギー、オランダ、ノルウエイ、イタリアと計画されていた。日本が台湾、韓国、満州の独立を後押しして連合を組み、もっぱら民主的な通商によって、各国とも活気にみちた経済活動に裏打ちされて国力を蓄えている事例が、強い刺激になっていた。
「アジア民主連合の発展は、我々欧州民主連合創設への重要な指針となっている。おそらくソ連は満州をまず攻撃してくるだろうね。列強諸国にそそのかされて」
「そこです! ラインハルト首相。ソ連が満州に攻め込んできたときが、ポーランドや近隣諸国を民主化させる千載一遇のチャンスだと申し上げたい」
「満州でソ連軍を膠着させてくれるというのかね?」
「いいえ、もっとです。日本はおそらく、ある程度までソ連に侵入して行くでしょう。モンゴルのウランバートルとソ連のイルクーツク辺りまです。そしてその地域をソ連邦から外して、民主化してロシア民主共和国を建国し、ウラジオストックを行政・軍事拠点とし、ソ連から東の海への出口を奪うでしょう。さらにその時、日本はソ連の機械化師団を完全に撃破して、日本の陸軍と空軍の力を見せなければなりません。イルクーツクは弱体化したソ連への睨みとします」
列強とソ連は共同して、地勢的に北からソ連がドイツを睨み、南は英・仏が押さえて挟撃されかねない場所にある。ソ連が南下しないようにするためには東のイルクーツクからいつでも進撃できる態勢を作るだけでよかった。モンゴルとイルクーツクが民主化されれば、中国の毛沢西共産党も孤立化を深めるだろう。イルクーツクへ進撃する兵は基本的に満州国の分担だ。それに帝政ロシア時代の移民軍が加わる。満州にはすでに数万の白ロシア移民が流れ込んでいた。満州国の民主化と発展を見た白ロシア人はソ連を追い出し、民主国ロシアの建設に燃えていたのだ。そしてそれが満州国の独立を確保し、生き延びる道でもあった。そうしておいて、日本はフィリピン・香港を拠点とする列強と、海空軍力で対峙できるのだ。ドイツは日本がソ連をけん制している間、英・仏に集中できる。
「日本国、いや王仁殿の聡明な予測に敬意を表し、且つソ連に対する牽制のお申し出に対して、心から感謝したい……。もし、アドルフ(ヒットラー)が政権を担っていたら、ドイツは大きな惨禍を世界にもたらしただろう。それが判る以上、私の責任は重く辛く孤独だった。だが、王仁殿にめぐり合う事が出来て……、そしてアジア民主連合が道を示唆してくれて……」
ラインハルトは僅かに頭を下げた。二人の間に透明な震えがゆっくり刻まれているような気がして、悦子の通訳の声が僅かに揺らいだ。
「それは私も同じです。我ら二人の魂は元々一つが分かれ、西と東に生まれた。そうも感じます」
「うむ。我らは我らの祖国が犯すかもしれない過失を未然に防ぐ。民主主義という仮面を被った帝国主義を駆逐し、さらに! 人民のためと偽り、独裁政治を作り上げている共産主義を倒すことにある」
二・二六事件で、天皇は人間宣言を行い、財閥を解体して傘下の子会社を全て別会社とした。人事はもちろん実力主義。陸海軍の軍閥も大将、中将、少将級の将軍と呼ばれている殆どを退役させ、若手の実力者を登用、かつ軍の中の学閥さえも解体させる民主的で実力本意の昇進制度を敷いた。最も重要な点は、作戦指導部たる大本営が実戦経験者と現地代表者によって、机上の空論の戦術戦略が執行されることを防ぐように構成されたことだ。現地代表とは戦地の実践に参加する参謀が交代で務め、常に現地の最新の状況と情報が作戦に生かされることになった。その中で、急速に頭角を現してきたのが、日本では、海軍航空隊副司令から異例の抜擢を受けて、日本空軍の初代司令となった大園安名大佐、その男が今ドイツに来ていると言う。もともと五・一五事件を起こした海軍皇道派青年将校とも繋がりがあり、国体論に心酔していた人物だが、天皇の人間宣言に最も胸を打たれ、愛国心と人道主義に溢れた人物だった。
「いや、あなたのお国の空軍司令、あのミスター大園という人物は誠に面白い人だね」
ラインハルトが微笑みを浮べて言った。大園は日独で定期的に開かれる空戦技術研究会に参加するために、王仁達より少し早くやって来ていた。各々の国で実戦配備された最新鋭の戦闘機、爆撃機を日独双方で実際に模擬空中戦を行い、それをお互い分析研究するのだ。大園は自分で考案した斜銃を装着した単座戦闘機、零戦改(発動機を千八百馬力の誉に改装し、防御武装を改装した新型)を空軍指令である小園自らが操縦して、ドイツの最新Fw190(フォッケウルフ社)もBf109(メッサーシュミット社)も写真銃判定でばたばたとなぎ倒したというのだ。さらに、大園の愛弟子の遠藤大尉は、双発複座全天候迎撃機、月光改に乗り、ドイツの爆撃機をあっという間に平らげてしまい、ドイツ空軍幹部は顔面蒼白になったと言う。
その勝因がすべて、大園が考案した斜銃だった。斜銃は前方斜め上方に三十度の角度で固定された機銃で、零戦改には二十ミリ二門が操縦者の後ろに装着されていた。旋回性能の優れた零戦で、相手の後方につくと、機体をダイブさせてさらに機体速度を得て相手の下に潜り込み、相手機の少し手前で発砲を開始して機銃の曳航射線を見ながら速度を増加させる。当然、その射線上にある敵機は被弾してしまうのだ。さらに格闘戦に入り、ぎりぎりの旋回中でも機銃がさらに三十度に向いているので、相手の真後ろに付く必要は無く、旋回中、敵機が風貌の前上方に見えたら見越し射撃できるのだ。正面対峙ですれ違う場合でも、相手の下を潜る刹那に発砲できるのだった。ドイツ空軍のパイロットは何処から打たれたのかが全くわからなかったらしい。この方法は、相手の真後ろについて接近してから狙いを定めて打つという高度な空戦技術を必要としない。軸線さえしっかり捉えれば、急降下して相手を追い越し離脱する一撃離脱戦法にも非常に有効であると実証された。高度の優位を持って、敵機を捕らえる。そこに狙いを定めて急降下し、相手の進行方向の見越し射点に通常の前方固定銃を発射、すれ違う時には相手の下を潜るので、その時に斜銃を発射しながら通りすぎるのだ。つまり、二度射点が生まれ、撃墜率は大きく向上し、経験の少ないパイロットでも出来る技量の範囲なのだ。
実は、日本国内では、斜銃という発想が余りに突飛だったので、実際の戦闘ではどうだろうという疑念が寄せられていた。大園はそれならばと、ドイツと日本の模擬戦に全てを掛けて、自ら出てきたという話しらしい。ドイツ空軍は翌日から技術将校を呼び集め、斜銃の研究に入った。これが後日、ドイツを救う事になる。
「大園指令の活躍で、ドイツ空軍指令部の頭の固い上層部は全て退役することになったのだよ。最もガンであったゲーリングを筆頭にね。今のドイツ空軍は日本機研究で大騒ぎさ」
ラインハルトは楽しくて仕方が無いと言った表情だった。日本の軍部上層部が二・二六事件後、大挙して退役させられた事件と呼応して、ドイツでも同時性が発生していた。王仁もまた、事件の意味する事を歓迎するように、笑顔だった。ラインハルトは少し興奮気味に続けた。
「そうそう、君達が乗ってきたあの大型飛行艇も凄いね。九千二百キロを無着陸で飛んできた!」
「ええ、あの機体もすでに別途お国に運ばれる途上にあると思います。欧州大陸には無数の湖がありますからね。あれを利用すると、簡単に重爆飛行場が出来てしまう。冬期はフロートをソリ化して使用も可能ですから。それ以外にもあなたを驚かす新軍需技術が二人の技術将校のカバンに詰まっていますよ」
「うむ。楽しみだね。お返しにといってはなんだが、ドイツの最新鋭戦車をお送りしたいと思うが……」
「ええ、我々の目的はそれです。来るべき対ソ戦に備えて、ドイツ陸軍の最新鋭重戦車を二百両ほど満州へ供与していただきたいのです。それと満州での同型の製造技術と製造ライセンスも含めて」
「タイガー戦車の事だろう? 喜んで供与させていただくよ。ソ連を牽制してドイツを守るためだからね」
ラインハルトは手を差し伸べ、王仁と堅く握手した。
「ところで、大園指令から一つ頼まれていてね。君達が帰国する時に一緒にあの空飛ぶ船で帰りたいそうだ」
帰りの機内は楽しかった。大園指令は周恩行が上海に攻め寄せてきた時、日本海軍の航空部隊を率いて始めて渡洋攻撃を成功させた時の、当の飛行隊長だった事がわかったからだ。話がそこから花を咲かせた。
「いやあ、あの日の初出撃の日は、実話、麗しき悦子嬢の前で恐縮ですが、前の晩、どんちゃん騒ぎをやってまして、うとうとしていたら緊急出撃のサイレンがなりましてね。慌てて飛び出したら、右足は軍靴、左足には芸子の下駄をつっかけて、そのまま渡洋攻撃に出陣でした。ははは。敵も味方も飛行隊長がそんな格好で戦ってるとは、ははは、思わんばい」
王仁と悦子が杜日笙の根城、大世界攻撃の話や豆戦車とロシア兵団による共産軍前線横断突撃の話をすると、大園は目を輝かせて聞き入った。話が一段落すると、大園は機内をあちらこちら歩き回り、操縦室に入り込んでパイロットに根掘り葉掘り飛行艇晴空の性能や操縦の癖を聞き出しているのだ。王仁も興味があるのか小園の後をくっついて歩いた。
悦子はラインハルトとの通訳で少し疲れを感じたので、硬い椅子に寄りかかりながら気の合う二人の話を小耳に挟んでいた。
「大園司令、あなたの勝負運は強い。並み居るドイツのパイロットを模擬空戦で打ち負かせたとか!」
「王仁殿、すべて零戦改と斜銃の組み合わせの妙が為せる技です。操縦しやすく速度と防御を向上させた零戦改に、格闘戦で相手の意表と付く事ができる斜銃があったから勝てたのです」
大園は細長い顔にどかっと乗った大きな型のよい鼻を擦りながら、斜銃の話に熱を入れた。
「言って見れば、宮本武蔵の二刀流ですな。前方固定銃に角度を変えた斜銃の二刀流。敵は想像もしないところから狙われ、太刀筋を読めないのです。ドイツのエースパイロットは皆今頃、残してきた零戦改と月光改を使って、戦術研究をしてますからねえ、次回は苦戦しますよ」
「いや、列強諸国とソ連戦に有効であれば良いのです」
「米国のF4F、P−38あるいは最新のF6Fやコルセア、英軍のスピットファイアーには現状の零戦改と古参パイロットの技量を持ってすれば、劣勢に回る事は無いでしょう。しかし、戦力と言うものは少しずつでも消耗して行きます。補充された経験の少ない新米パイロットが充分に戦える戦術をもたらすのが斜銃なのです」
「米国の人口は日本の十倍、工業力も底知れないし、物資も十倍はあると考えたほうが良いですね」
「そうなのです。日本が一人前のパイロットを育て上げると、米国は十人育て上げることができる。戦闘機も十倍、日本より早く出来上がってくる。いくら古参のエースでも、十対一の戦いを常に課せられたら、やがて負けてしまう道理です」
大園はさらに目を見開いて続けた。
「さらに、米国一国では無い。仏領インドシナは大した抵抗にはなりませんが、南方資源の向こう側にはオーストラリア軍がおり、英国もインドに鎮座しています。それに北にはソ連ですからね。圧倒的な兵器の優勢が無い限り、戦争はしてはいけません」
「斜銃の運用をあなたにお任せしたら、どのくらいの期間、優勢で入られるでしょうか?」
「そうですね。緒戦の半年くらいは絶対的有利を保てるでしょう。あと後半は十五パーセントの損失率、二年目は三十パーセント、三年目は互角になると考えなければなりません。ですから緒戦の半年で、圧倒的な戦果を上げて有利な講和に持ってゆくべきでしょう。出なければ、さらに有利な兵器の優勢を作り続けなければなりません」
「半年に一度、画期的な軍需技術の革新をもたらさなければならないのですね」
「ええ、もともと、国力から言うと、図式で例えると、小さな島国の台湾が日本と戦うようなものです。無謀な事を仕出かすには、絶対の必勝をささえる根拠が必要です」
王仁は、書類カバンから今年から来年に配備されるであろう新兵器のリストを取り出して、大園に見せた。大園は見る見る内に顔色を変え、目を見開いてリストを見る。数ある分類中、航空兵器リストには第一段階として、斜銃の有効性が大と明記されている。一万メートル上空での航空戦を予測し、過給機にも赤丸が記されていた。第二段回にはジェットエンジンとロケットエンジンが主流の優勢を保ち、第三段階は誘導ロケットによる優位性を確保するとある。
歩兵分野では、携帯式の軽機関銃と噴進砲の発展過程がやはり三段階に別れ、誘導弾とレーダーによる第一撃による敵の戦力の無力化を目指していた。戦車・重火器も同じ過程だ。海軍艦艇も戦艦は建造中の巨大戦艦大和も武蔵も信濃もキャンセルされ、レーダーと誘導弾装備の大型高速空母と同じく駆逐艦に建造に変更されていたのだ。言葉を失った大園に、王仁は言った。
「帰国後の司令のお仕事は、対満州国におけるソ連戦と、台湾以南の列強基地、フィリピンと香港の攻略を前提とした戦略です。この飛行艇晴空を爆撃機に改造した天空がそろそろ出来上がる頃です。湖を利用した晴空戦略爆撃隊と台湾・上海を基地とする天空の戦略爆撃隊、満州のソ連国境からソ連内イククーツクまでを想定した満州戦略爆撃隊とそれを護衛する高高度戦闘機隊の創設をお願いしたいのです」
「王仁殿、あなたはなんと言う戦略眼をお持ちなのだろう。それこそ我が意を得たり! 一つだけお願いがあります。この晴空を改造した爆撃機天空を地上攻撃機に仕立てたい。斜銃を下向きに付けまして、満州の蛸壺に隠れ潜む敵を誘きだす役をやらせましょう」
大園のアイデアでは、建物に隠れた敵には有効ではないが、蛸壺を陣地とせざるおえない満州の草原では、上向きの防御は無いに斉しく、そこへ十三ミリ機関銃百門を爆弾槽に下向き三十度から六十度に調整可能なように設置した天空が編隊を組み、敵の陣地を横断掃射してゆくのだ。これでは、蛸壺陣地の意味が無くなってしまうほどの弾雨が空から降ってくる事になる。味方の護衛戦闘機が制空権を確保できれば、壊滅的なダメージを敵に与えられるというのだ。王仁は深く頷いてリストに記入した。
「日露戦争の時、日本軍の歩兵はロシアの機関銃に苦戦しましたからね。お返しは百倍返しと言うわけですよ。それも空から」
この下向き斜銃百門の天空は後日、爆撃機同士の空中戦でも大きな効果を上げる事になる。
王仁は大園の実践的な智慧に舌を巻いた。高度な技術を要する兵器を苦労して作るよりも総意と工夫で有利な態勢を作ろうという勝負に生きる武人を見た気がした。こう言う人に軍を指揮させないといけないと痛切に思った。軍閥解体後も山本五十七長官と大西大将は残っていたが、二人の大園に対する信頼も厚い。空母を母艦とする海上攻撃隊は玄田大佐が隊長を勤めていたが、大園は陸上を基地とする陸軍と海軍の航空隊を総括する司令だった。二人はライバル同士だが、新軍令部は大園を高く評価した。これで歴史が変わると王仁は思った。
一九三八年早々、日本は満州国と合同で、満州ソ連国境に兵を集めた。合同演習と称して、韓国及び台湾からもアジア民主連合の各国軍隊が集結し、五十万人による共同軍事訓練を開始、約一ヶ月に渡って、有事の際の役割分担、連絡網、補給体制が陸海空三軍それぞれによって確認された。
ソ連は合同演習が終わると、即座に大軍を国境に移動させて来た。
日本、台湾、韓国、満州と続々と極東連盟が構成され、民主制度が確立され、それぞれの国威が増すにつれ、ソ連はモンゴルを属国化して対抗、満州の都市、ノモンハンの近くのハイバル川周辺国境線を巡って、威嚇衝突、小競り合いが続いていた。このハイバル川が満州とモンゴルの国境線として定められていたが、この川は毎年流れを変え、国境線が移動してしまうのだ。
日本はモンゴルに使節団を送り、共に相拠りて立つ、連邦制への参加を呼びかけたが、当時の大統領はロシアの傀儡で拒絶された。ソ連は国境紛争という名目と、折角ソ連の衛星国になったモンゴルを守るために、大軍を極東に移動させ始めた。日本軍は晴空特別高高度偵察機により、ソ連BT戦車千両を中心とする十万人の兵力がハイバル川西岸後方に集結したことを確認、また、後方のイルクーツクソ連空軍基地には千機近い戦闘爆撃隊の集結を確認したのだ。
日本は天空重爆撃機百機と一式陸攻二百機を中心とした戦略爆撃隊を満州へ集結させ、護衛戦闘機隊として零戦改百機と武装を強化した隼改百機を配備した。さらに陸軍はドイツから供与された二百両のタイガー重戦車を中心として、九七式中戦車の砲塔を噴進弾発射用に改造してエンジンと装甲を強化した一式中戦車二百両、補給線保持用あるいは貨物牽引用として対空装備の九七式中戦車三百両を前線に投入。四式百ミリ噴進砲千門を保有する噴進部隊と、百式軽機関銃一万丁を配した歩兵二万名を配置。後方に砲撃部隊四個師団を配した。
三月、ドイツがオーストリーと欧州民主連合創設を発表し、ソ連の南下政策に大きな楔を打った。
五月十一日、満州国ハイバルでソ連の本格的砲撃が突然開始された。ソ連の戦爆編隊がハイバル川東岸の日本軍陣地を空爆した。日本軍はその攻撃に反撃せず、写真と映画が記録され、二日後には世界にニュースとして発信された。
『赤軍、満州を襲う!』
同時に、特別偵察機晴空から取られたソ連陣地の兵力集結写真も公開された。世界の目が満州ハイバル川に注がれた。日本軍はハイバル川東岸から夜間、あるいは砲撃の間隙をぬって、三キロ後方の自軍戦車陣地まで後退し、体制を整えた。ハイバル川西岸のソ連陣地は東の日本軍陣地より、三十メートルほど高地になり、敵軍を平地へおびき寄せる作戦が取られたのだ。ソ連軍は思惑に乗り、ハイバル川を渡河し、日本軍が使用していた蛸壺陣地に入り、前面にBT戦車五百両を配した。越境侵略の証拠写真が取られた。三日後、日本とアジア民主連合はこぞってソ連に対して宣戦布告を行った。
同日の午後遅く、大園高名司令率いる満州戦略爆撃隊が制空権を奪うためにハルビン基地を出撃、モンゴル領内のチョイバルサン近郊基地を空爆を開始、且つソ連領イルクーツク周辺およびモンゴル・ウランバートル周辺へも空爆を開始した。同時にハイバル川では日本軍の砲撃が開始された。
王仁と大園は再び晴空特別偵察機で高度一万メートル、重爆天空百機の戦略爆撃隊の指揮を取り、ソ連領イルクーツクに向けて飛行していた。護衛には零戦改百機が高度八千を飛び、その下高度四千には一式軽戦闘機(隼改)百機が飛んでいた。
晴空に搭載された新型レーダーにソ連機の機影が雲霞のごとく映り始めた。大園が三式航空無線機で各部隊に方向と機数を指示する。
「南東方面に向かっているのは敵の爆撃隊だ。おそらくSB(ソ連双発爆撃機)だ。そいつらは坂井の鶺鴒隊に任せろ。爆撃隊に向かってくるのは単葉戦闘機I−16だろう。これは菅野の示現隊がかかれ。南下しようとするのは敵の複葉戦闘機I−153だろう。それは加藤の隼隊の受け持ちとする。かかれ!」
大園はレーダーに写った影の塊から、即座に実践的勘を屈指して指示を与える。王仁は頼もしく思った。爆撃隊の下を飛んでいた坂井四郎少尉の指揮する鶺鴒隊五十機が敵の双発爆撃機の機影を見つけ、緩く左旋回して行く。敵は高度七千メートル。千メートルの高度優位がある。
坂井はSB双発爆撃機約二百機が左下方を日本機の進行方向から逃れるかのように緩く右に旋回しているところを捉えた。高度差を保ちながら、敵編隊を銀翼左に捉える。
「こちら坂井隊長機! 敵エスベー(SB2)約二百機発見。左下方八時、訓練通り、二機一組で一機に当たれ! 二刀流だ! 忘れるな!」
坂井は左にバンクを掛け、敵編隊の後方に狙いをつけ、降下してゆく。王仁の示唆した製造技術改善の指針は、精密加工技術と素材改良や工作精度向上に発展して、プロペラ加工精度、エンジン出力、航空機関砲強化に大きな貢献をもたらしていた。結果、エンジンの出力は二五パーセント向上し、その分を6.3ミリの防御板採用や武装強化と二十ミリ機関砲携帯弾数の増加を実現した。零戦改は初期型の零戦十二型と違い、十五パーセントの上昇率および速度増加と急降下による速度超過が招く翼のたわみが発生せず、急降下特性も改良されていた。
敵の最後尾のエスベーが視界にしっかりと納まる。敵も後部銃座から七・七ミリ機銃をばら撒いてきた。しかし、急降下で六百キロを超える速度を得た零戦に当たるはずも無い。照準機にエスベーが浮かぶ。操縦棒の引き金を引く。前方固定銃の二十ミリ二門の曳航弾がエスベーに吸い込まれ、胴体の破片が飛び散る。そのまま敵の真下を潜る軌道を保持し、通り過ぎる刹那、操縦席上後方の二十ミリ斜銃二門の引き金を引く。敵機との間隔が余りにも少く、高速であるために、斜銃の曳航弾は見えない。が、敵機を潜りぬけるとすぐさま機種を挙げる。急降下で速度を得た零戦は前方の編隊の下方後ろに突然沸きあがったように現れたに違いない。敵機編隊は驚いたように機銃を打ち始めるが、坂井の機はまだなお、急降下で得た勢いを保ち、斜銃を放ちながら敵機を二機ほど追い越し、そこで再度急降下に入れて離脱する。下を通られたエスベー二機の内、一機は翼の付け根を折られて失速墜落、もう一機は最初の一機と同様に炎に包まれて落ちて行く。敵機銃の射程から離れた坂井は、緩い上昇旋回に入れながら、続く部下の攻撃を見守った。まさに、二刀流、圧倒的な破壊力、無敵の戦術だと思った。
錬度の高い猛者は、前方固定銃で必ず倒し、その勢いで下に潜り込んで二機三機と屠っているのだ。速度が遅くなると、急降下で逃れた。錬度の低いものは、固定銃で倒せなくても、下にもぐった時に確実に撃墜していた。エスベー(SB)は最高速度四百五十キロ。零戦改は六百五十キロだ。二百キロの速度差があれば、燃料の続く限り、何度でも反復攻撃が可能だ。坂井は徐々に高度を上げ、今度は高度差五百から機速をつけて攻撃する。すでに半数に減った編隊はばらばらになり、それを二刀流で確固撃破する。十数分の空戦で、敵は壊滅した。味方の損傷は無い。
「こちら鶺鴒隊、敵エスベー約二百機を全機撃墜せり! 我が方の損害、無し!」
三式航空無線から坂井の声が流れ、大園は笑みを溢した。だが、大園の声は厳しい。
「鶺鴒隊へ、後続の編隊約二百機が北にあり。高度を八千まで上げ、イルクーツクへ向かえ」
「了解」
「こちら菅野示現隊、敵戦闘機I−16、百機と交戦。全機撃墜、我が方に損害無し」
「こちら加藤隼隊、敵複葉戦闘機I−153、百機と交戦、全機撃墜、我が方に損害無し」
この日の空戦で、イルクーツク周辺に集結していたソ連空軍の戦力の八割が殲滅した。また、別働でモンゴル・ウランバートル周辺飛行場を爆撃した一式陸攻と九七式戦闘機の戦爆編隊も、敵の複葉戦闘機I−153を主とする空軍勢力をほぼ駆逐してしまった。日本軍はたった一日で極東の制空権を確保したのだ。 王仁はまだなおレーダーをじっと見入る大園の後ろ姿に、大きな勝利への第一歩を実感した。
第三話 了