第二話 解放への道
上海を舞台に王仁と悦子は中国の民衆解放を合作する。 上海マフィアとの戦い、豆戦車、四式百ミリ噴進砲、百式短機関銃の登場。共産党、周恩行との戦いを描きます。
魔都上海、そこは列強が中国から吸い上げた富が、経済発展に取り残された多数の人々に、貧しさと苦しさを押し付けている。富める少数の外国人と大多数の貧困者達との間の軋轢は、上海が国際都市になるに従って、乗り越える事が出来ない絶望的な深淵を作り出し、中国人の希望と夢を打ち砕いていた。急速に発展する街の影に不協和音が響き、人を縛りつける闇の力が見えない縄となって、街を縦横無尽に被い尽くしているのだ。モダンで煌びやかな表通りが「陽」なら、ビルの裏路地は「陰」が極まる。阿片で始まり、阿片で栄える都市の裏路地。王仁は上海に到着すると、無防備にも悦子一人の伴を連れて、意図を持って裏路地を歩いた。
外国人のカップルが人気の無い暗い裏路地を歩いて無事ですむ訳が無い。魔都と呼ばれる由縁だ。外国管理の租界地は中国の法律が届かず、と言って、治外法権であるがゆえに外国の法律も届かない無法の場所。自国管理の租界地の中に在りながら、各国とも無法を黙認するしかない場所なのだ。
物乞いに見せかけた見張り役の子供達が纏わりつき、やがて掻き消えるようにいなくなる。代わりに、目付きの悪い男共が、煉瓦作りの路地の湿った壁に、一人二人黙して寄りかかり、王仁と悦子が通り過ぎるのを陰気な表情で見送る。三人も通り過ぎた頃、路地の影奥にヤクザな顔つきの男達が待ち構えていた。路地の前に七人、後ろに三人、王仁と悦子は挟まれたのだ。
「悦子さん、後ろの三人を牽制してくれるかな」
「ええ、王仁様、牽制だけでよろしいのですか? 風体と雰囲気から察すると、ただのチンピラやくざのようです。牽制より、地面に寝てもらうほうが簡単なのですが……」
「あなたのやり易いように」
王仁は正面の敵に向かって自然体だ。悦子が振り向いて男達の動きを冷めた目付きで観察する。王仁が数歩前に進む気配を感じた。チンピラのボスらしい大柄な男の声が路地に響いた。
「ここは俺らの縄張り、この奥に何の用がある?」
王仁から気迫が染み出て、眼光するどくチンピラたちを射抜く。
「路地も天下の往来! 誰がお前らの縄張りと決めたのか?」
「命が欲しくないらしい! 金めの物はここに置いて、引き返すことだ。もっとも金めの物が無いなら、命を代価としていただく」
悦子が日本語で囁いた。男達はこの先の青幇(チンパン:上海やくざ組織)の見張り役で、金を渡せば青幇の上部組織への仲立ちをする事になっていると言う。しかし、王仁はそのことには興味を示さない。
「道があれば誰でも歩ける。それを知らぬ阿呆は、相手にできぬ」
王仁は相手を平然と威嚇 (いかく)する。悦子は王仁の物言いに隠された意図があるのか、あるいはこれが王仁の素なのかも知れないと思った。前の男達が王仁の挑発と気迫に反応して、叫んで王仁に襲い掛かる。王仁の衣 が摺れる音がして、黒い物体が悦子の頭上を飛ぶ。チンピラの一人が悦子の前に鈍い音をさせて落ちた。他の男達は一瞬怯んだが、悦子を女と見くびった後ろの三人が先に動いた。二人同時に悦子に迫る。もう一人が隙をついて王仁の背中を襲うつもりなのだ。悦子の赤いチャイナドレスの裾が大きく割れて、白い太腿に筋肉の躍動が走る。悦子を女と見くびった男に、刹那の蹴りが撓った。男の股間を見事に蹴り上げて、悶絶させる。もう一人は、悦子の技に用心して蹴りを繰り出す。靴が摺れるきびきびとした音をさせて、悦子は横に横にと受け流す。男が間合いに入る。悦子は素早く回転、相手の片目を狙い、右手で鞭のように打った。片目の視界が奪われた男は、もう片方の目をかばおうと 顔の防御を固める。そこに悦子の蹴りがまた、股間を蹴り上げる。男は倒れて呻き転がる。後ろを三人目の男が王仁に向かって駆け抜けた。
王仁が振りむいて、三人目は王仁の体捌きだけで、頭からもんどり打って前に転がり倒れた。後ろの敵を片付けた悦子が王仁の側に動こうとしたとき、悦子は王仁の不思議な技を見た。前の男二人が同時に拳を繰り出したが、拳が王仁に僅かに当たるかと思う瞬間に、二人の男は中を舞っていた。まるで、王仁に弾かれたか、自分から飛び上がったかのか、刹那、途轍もない衝撃を受けて驚く虚ろな目が宙を泳い でいた。一人は王仁の前に、もう一人は悦子の前に落ちてきた。二人共、何故自分が弾かれるように飛ばされたのか判らずに、受身も取れずに地に落ちた。受身が取れない時、人体内の水分が音をたてる。鈍く嫌な音だが、敵の戦闘能力を確実に奪った証拠だ。
半数の仲間を一瞬にして失ったチンピラは、たじろぎながらも懐からナイフを取り出した。武器を持ったことで、失いそうになった戦闘意欲を取り戻す。だが、王仁は自然体でゆっくりと前に歩み寄って行く。狭い路地では四人同時に襲えない。それを見越して、路地の中央を気迫に満ちて穏やかに歩く。ナイフを持つ前の二人が後ずさりした。が、後ろのボスらしき男の短い言葉が飛ぶと、一人がナイフを王仁の胸に突き出す。王仁は左肩口を軽く後ろに引き、捌いてナイフをやり過ごす。伸びきる相手の手首を 左手で捕らえ、王仁の肩口が小さな円を描いた。悦子は王仁の体全体が刹那に小さく振動することを見抜いた。円を描く振動だ。相手の力は一瞬にして円に吸収され、そして王仁の力と重なって倍になって返される。恐ろしい技だ。王仁に触れると宙に弾き飛ばされてしまうのだ。
再び、人間の体が石畳の路地に落ちる音、重なって金属ナイフが甲高い音を立てた。王仁は立ち止まらずに進む。ゆっくりと、爛々(らんらん)とした眼光が暗い路地の影を振り払う。一人がまた、王仁の見切りの内に入った。怯えがナイフの先端にわずかな震えとして伝わり、躊躇しながら王仁の腹をねらって繰り出された。右へわずかに体を捌いて、王仁の左手がナイフを受け流し、相手の腕が伸びきる直前に手首をつかみ、再び小さく円を描いて刹那に震えた。男の肩が外れる鈍く嫌な音がした。今度は飛ばずにその場に崩れ落ちる。己の力と王仁の力の合計を、男の肩は支えられなかったのだ。
悦子の目にはそう見えたが、チンピラ達には触れるとやられるように見えたに違いない。残った男達の表情に驚愕と恐怖が同時に映ったからだ。ゆっくり前に進む王仁より早く 、後ろの影に後ずさりし始め、悲鳴が小さく一人から洩れると、一目散に散って行った。
王仁が笑顔でふり返り、悦子を見つめる。悦子は一瞬笑顔を返したが、その笑みをわざと冷たいものに徐々に変える。王仁の技を試したい。そう思いついたのだ。久しぶりの戦闘で、ほてった体をもてあましていたのかも知れない。
「王仁様、悦子に手ほどきを!」
ドレスをはためかせ、蹴りと突きを繰り出す。技が風を切り裂く。悦子の技量は並では無く鋭い。そして華麗だ。王仁は見切りの外で悦子を遊ばせる。顔が優しい。その顔がすこし憎らしい。 それは好きの裏返しかも知れない。足運びの速度と幅を変えて、一挙に王仁の間合いに入ると、拳を繰り出す。刹那、王仁の顔が目の前に現れ、悦子は右手首をつかまれ、逆手に緩く封じられてしまっていた。
「大切な悦子さんを飛ばすわけには行かないからね……。この技は、掴んだ刹那、あなたの力の方向に誘うように小さい円を描いて、その力をあなたにお返しする技、王道の力返しの技だよ」
王仁は優しく悦子の目を見つめて言う。そして徐々に手首の力を抜いて、手首をつかんだまま、王仁の前に持ってきた。手首から悦子の手のひらを優しく握り返した。
「この技を伝えるのはあなたが始めて。門外不出の王道の技だよ」
悦子は手を握られたまま、すこし照れて悔しそうな表情を向ける。 突然悦子に閃きが浮かんだ。内心、王道の力返し破れたりと思うと、思い切り微笑んだ。
「王仁様、では私のこの技はどのように返されますか?」
そう言うと悦子は、円を描く事の出来ない王仁の足を踏んだのだ。
「痛い!」
王仁は悦子の技を返すことなく受け止めた。
翌日から悦子は尼僧になっていた。これから上海で行動するためには、僧行で出歩いた方が動きやすい。当然、悦子も尼僧にならねばならなかった。長い黒髪をばっさり切る。阿蘇山で、風に靡かせ、王仁の顔を髪の毛で撫でた罰かもしれないと、妙な想いがかすめた。しかし、ホテルの一室の鏡が写した尼僧、高階悦子は、そんな不安を払拭するに充分な、全く別の人間に生まれ変わったようだ。法名、法悦と名乗る。
《男を手玉に取り、まるで娼婦のように女を武器に生きてきた高階悦子が、僧行となるなんて! 私の中のどろどろとした女が、綺麗にそられた坊主頭から滲みだしてこないかしら?》
悦子は急に不安になった。内側のものは外側に何時かは現れると思うからだ。しかし、鏡に映る悦子の裸体は若く美しい。
《大丈夫、私の中の女は遠い昔に捨て去ったのだから。私はここ十数年、尼僧よりも辛い修行をして来たはず。やってきたことは娼婦と同じようなもの! でも、心の中は尼僧と同じだったはず》
悦子は自分でも妙な事を考えていると思う。王仁に出会った後、自分の中の何かが変化しているのだ。悦子の脳裏には侘しい少女時代が浮かんだ。物心がついた時には、東京駅の浮浪者の群れに居たからだ。物貰いから靴磨き、かっぱらいやスリまで、何でもやった。罪悪感など一欠けらも無く。周りは父母も知らず、親戚にも見捨てられた子供達ばかり。その中で生きる術 (すべ)は幾つもなかった。浮浪者の子供同士で徒党を組んで悪さをして、いっぱしに数人の仲間に指図するようになった頃、警察に捕まった。連れて行かれたところは、若年層矯正教育施設、聞こえの良い名前だが、実際は 特務機関の諜報員養成所だった。最初は食べ物、寝る所が与えられ、衛生的な寄宿学校生活が嬉しかった。最初の教師も優しい人だった。だが、慣れるにしたがって教師が変わり、徐々に厳しく恐ろしい教育と訓練が待ち構えていた。全てが国家のためという洗脳が随所に刷り込まれて、『私』という個人は可能な限り消されて行った。
だが浮浪者の生活を、外からふり返る事ができる能力が与えられると、父母も知らず身寄りもない自分も仲間達も、そこだけが自分の存在が許される場所だと悟らないわけには行かなかった。遊びも恋も知らず、十八の時には、 多国語をマスターして、領事館員の娘と偽って渡航、上海の社交界に表向きのデビューをした。多くの男達、若者から老人までを狂わせ、国を売るような情報を引き出した。それは毎夜ひらかれる貴族達、資産家達の開く煌びやかな虚飾の宴、そこで悦子は美しい白い蛇のように泳いだのだ。悦子の素性を知らぬ男達は、遊ばれて袖にされ、悦子を魔性の女と詰 (なじ)るだけ。自分達が犯した大きな過ちには決して気づく事はない。それが、悦子を敵国の反撃から守る砦だった。
今、目の前の鏡には、そんな過去など全く知らないかのような、清楚な尼が立ち竦む。その尼は写った自分を怖がるように、目尻に怯えを漂わせていた。上海に夜の闇と静けさがやって来た。男と女の嬌声が遠くに響く。新鮮な空気がほしくて悦子が窓を開けると、街のネオン灯に紛 (まぎ)れて、河川を行く蛍のような船舶の明かりが灯り、湿気を帯びた風が部屋に舞い込んできた。風が喋ったような気がする。
《あなたは偽尼僧! 罰が当たらないようにね》
悦子は神も仏も信じない。想像しても浮かんでこないような存在を、誰が信じるのだろう。だが、運不運は信じる。それは身をもって経験して来たからだ。世の中の不公平と差別と人間の歪さはわかる。だから、内心、世界は怖いと思っている。その怖さは運が運んでくるから。罰とは悦子にとって、不運の事だったのだ。
《王仁様、私は宗教の事を何一つ知りません。私に尼僧役がこなせるでしょうか?》
昨日、王仁に少し甘えて訊ねてみた。しかし、何も知らないのは本当の事だ。常識的な事は詰め込まれているが、それはあくまでも誰もが知るような一般的な事。これから王仁の伴をして、ボロを出して王仁に迷惑を掛けるかも知れない不安が確かにあった。王仁の示唆 (しさ)はちょっと変わっていた。
「悦子さん、何も心配する事は無いよ。宗教の修行は非常に単純だ。君が教わった諜報術に比べれば、簡単なものさ」
「王仁様、それはどんな修行ですの?」
「いいかい、悦子さん、どんな時も自分がしている事に気づいている事だ。ただそれだけで良い。喋るときも、食べる時も、歩く時もだよ。四六時中、気づきをいつも灯している事だ。そうすれば、君は立派な尼僧だからね」
王仁は気づきを灯せという。善を為すときも、悪を為すときも、例え人殺しをする時もだと言った。いつもながら不思議な事を王仁は言う。でも、もしそれが本当なら、少しは気が楽だ。そう思って、自分に気づきを置いて見る。奥殿に眠っていた別の自分のような者が起き上がり、上海の美しい夜景を見つめる自分に気づく。不思議な感覚だった。何もかもが泡沫に感じられ、静かになったような気がした。しかし、気づきを保つ事はむずかしい。いつの間にか、些細な考えに気づきは奪われている。感情や気分も気づきを妨げる。悦子は初めて自覚した。自分の思考と気分が取りとめも無い事を。
今年、一九三五年、上海はさらに外国資本が流入し、国際貿易都市として経済、文化の面で大いに発展している。一九二三年には長崎ー上海定期航路(日華連絡船)が開設されて、上海在留の日本人は増加を続け、一九二六年には二万人を突破して今も急速に増え続けている。日本にとって、上海はすでに中国貿易の不可欠な窓口として、日本経済の要にもなっていた。
米国は一九三三年九月、ルーズベルが大統領に選ばれ、対日批判を強めていたところへ、第一次上海事件が勃発。蔡廷楷が指揮する第九路軍が上海の各国租界地へ三個師団、三万三千の兵で押し寄せた。
この第九路軍は表向き、蒋介岩率いる国民党軍と銘打たれていたが、実際は蔡廷楷の私設軍隊、軍閥だった。蔡延楷は蒋介岩からの補給が無いので、上海の列強租界地を脅迫して軍資金を得る事を目的としていた のだ。当時、日本も列強も第九路軍の真の意図を知らず、国民党正規軍の租界地解放が目的であると考え、租界地の各列強は軍隊を組織して厳戒令を敷き、結局、日本側は在留民二万七千人を守るために、日本から戦力を逐次投入し、第九路軍を敗走させた。だが、その間に満州国の独立があり、且つ上海に海軍艦隊(空母二隻を含む十五隻艦隊)を集結させた日本の動向に、米・英を中心に列強諸国は日本の真意に対して疑心を募らせていた。
この頃中国は、国民党が保有する中国政府正規軍の他に、軍閥と呼ばれる蔡延楷などの私設軍隊などが割拠しており、日本は中国と戦うというよりは、各地の軍閥(満州国境を含めて)と戦っていたのが実情だ。だが、列強諸国、米・英・仏・蘭はそう見ておらず、日本が勝利するほどに、自分たちの中国内での覇権が脅かされると感じていた。
この上海事変の経験を通じて、日本は中国の実情を学び、軍閥と協調あるいは反目する事を極力避けるようになる。代わりに中華民国の蒋介岩国民党政府と強調して行く路線を決定した。国民党の目指すものは列強が中国を支配しようとする帝国主義からの解放であり、それまで、ドイツが蒋介岩国民党を影で支えていたのだ。日本はドイツとも協議して、中国を民主国家とするために、動き出した。ドイツと日本に支えられた蒋介岩中国国民党は、中国の各地軍閥を吸収し、次第に力を付け始めていた。
日本租界(上海内の日本人街)は虹口地域にあり、人口の半分以上は移民組みと言って良い。紡績・綿・軽工業を主力として、中小企業主や商店主らが上海に骨を埋める覚悟でやって来ていた。虹口南部周辺に固まる彼らは 、中国人労働者を直に雇用し、彼らと毎日顔を合わせて生活していた。労賃の安さや税制の特典に魅せられて上海に来た日本人を驚かせたのは、列強によって奴隷のようにこき使われる中国人労働者の劣悪な待遇だった。同じ人間を何故そこまで見下しえるのか? そう誰もが感じた。フランス租界の公園にある立て札、
『犬と中国人入るべからず!』
同じアジア人として義憤を感じた日本人は、祖国にもやっと出来あがったばかりの、基本労働法の上海版を上海居留民団の総意で取り決めた。列強の中国人に対する給与が、殆ど無いに等しいので、それでも日本の労賃より安くできると自信があったのだ。経営側が質素な生活に甘んじ、贅沢と虚飾を取り払えれば、皆が幸せになると考えた。会社組みと言われる日本の商社や銀行は猛烈に反対した。特に商社は実際に生産に携わるわけではなく、資本力を活かした仲介業者と同じ立場、上海製品のコストのアップを心配したわけだ。そこへ、日本領事館から日本政府の通達が入った。
-- 海外で活動する日本国民は、その地の民族を同族として扱い、いかなる差別、待遇の不平等を行ってはならない。特に中国では、その点に留意して活動すべき事、甚重なり。それが出来ない企業は撤退すべし。かつて一八九八年、伊藤博文公は戊戌変法改革時の中国に 渡り西太后、光緒帝に面会した。その時改革派大臣に、
「貴方の国が法律を変えようと望むなら、貴方の国の自尊自大の因習を取り除く事が先決である。この世界にあって、いかなる人種であろうとも、皆、天地の間に生を受けているもので、他人を賤しみ、自らを尊び、自らを中華と称して、他を夷狄と見なして排斥するような道理はない」
海外居留民は、この伊藤博文公の言葉を持って、日本人の戒めとすべし。
これを機に、日本租界は変わり始めた。列強諸国の租界地運営とは全く違う市政を開始したのだ。際たるものが中国人労働者の待遇改善だった。台湾、韓国、満州で行われている労働者の最低賃金の保証と医療保険への強制加入を基本とした。また、人種により給与に差をつけないことも租界地令として実行された。もちろん、仕事の内容によって給与額の高低はあるが、港湾の肉体労働であろうと、租界地の清掃業務であろうと中国人労働者の最低賃金は、列強の租界地の十倍になっていた。日本租界地では飢える者は誰も居らず、路上で行き倒れる病人もいなくなったのだ。 情報はあっという間に列強の租界地の中国人へ伝わり、情報に尾ひれが付き、日本租界への人口流入が起き始めた。狭い租界へのこれ以上の流入は物理的に無理がある。日本政府が対策として採用したのが、満州への集団移民の窓口を 、日本租界に置くことだった。満州では人手がいくらあっても足らない。
王仁と法悦(悦子)は再び各国租界の貧民窟を歩く。美しく豪華なビルが立ち並ぶフランス租界も、飾り立てられたビルの裏側に回ると、人がやっとすれ違えれる細い路地が迷宮のように広がり、日差しも届かぬ暗さと陰気な湿気が路地に沿ってずっと付きまとう。
ぼろを纏ったやせ細った乞食達が、孤独に耐えるような目で路地の角に屯する。日本国、王道楽土宗、僧侶王仁、日本国が与えた王仁の肩書き。他者救済を実践する禅宗の一派という触れ込みだった。乞食達が王仁に手を差し出す。
「何が欲しいのかな?」
王仁の静かな声が路地に響いた。
乞食達の中の一人の大男が、眉間に過去の痛みを刻む皺を寄せ、ほほ肉が削がれ、鈍く虚ろな目を向け言い放つ。
「食い物をくれ! 食い物が無かったら金をくれ! 金が無かったらお前の命をくれ! 俺達は飢えている」
「坊主に物をねだっても無駄。我らも自分の体とこの袈裟しか持っておらずだから。本来ならお前たちが我らに布施をせねばならないだろう」
「乞食に布施を求めるとは、酔狂な坊主よ!我らも飢えた体とボロしかもって居ないのに、我らに何を布施せよと言うのか!」
王仁はしゃがみこんで話す数人の乞食達の前に、同じようにしゃがみこんだ。深い目の色を乞食達に注ぎ、真剣に強く言った。
「布施は物ではない」
「物でなければ、一体何を布施しろと言うのか?」
「お前たちの命だ!」
王仁の表情は明るいが、気迫を込めた表情と声音が強くはっきり響いた。乞食達の表情が一瞬、こわばった。
「ははは、お前たちが我らの命をくれと言ったので、お返しに言ったまで。我らが欲しいものはお前たちの命を活かすということだ」
「流石は坊主、口が達者だな。だが、どうやって、我ら乞食、社会の鼻つまみ者の命を活かすのだ。我らは人が捨てた残飯を漁り、路上に臥して働かず、人の作った仕来りと決まりごとから自由の身。活かしようがあるまい」
乞食の一人が、負けずに答える。その物言いが王仁の心に響いたのか、王仁はその男をじっと見つめ続ける。男は何かに打たれたように、見返している。
「だが、お前は飢えを満たせと言った!」
「乞食に物を恵む人間は大体決まっているからな。余り物を哀れみでくれるか、我らの臭いを避けたくて不浄を追い払うためか、我らの脅しに怯えてだ。それらが重なる場合もある。どんな場合でも、貰った後に我らが感謝する事はない」
貧民窟のよどんだ空気を払うように、上海の海風が路地を吹きぬけた。路地の屋根に張り巡らされた、洗濯物がはためく。上空は強い風が吹いているのだ。白い雲が流れた。悦子は乞食達の物言いにどこか共感を感じていた。乞食に恵みを与える時、普通は見下して邪魔者として恵む事が多い。その乞食の人生や境遇を、深く同情して恵む事は稀だろう。そう思ってしまう。そして、子供の頃の駅前をうろついた自分の記憶を呼び起こした。
乞食は続けて言う。
「この間も、共産党の人間が来て、働けば食えると言う。働いて食って元気になり、伴に帝国主義者を打ち倒し、金持ちの金を自分達の物にしようと誘った。数人の仲間がついて行った。だが、我らは人を倒すために仕事をする事など望まない。人の金を無理に掠めることも無い。かつて、我らも社会の中に身を置いて、身を粉にして働いた。そして奴隷のような境遇とその代価に怒りを覚えた。正当な代価がもらえないなら、自由を奪われて働く事に意味など無い。乞食でいたほうがましだ」
王仁が乞食の手を取った。王仁はきっと乞食の物言いに感動したのかも知れない。乞食は驚いて手を引こうとするが、王仁の真剣な眼差しに怯む。
「新しい国作りと自由のために、働いて正当な代価を得たらどうだ! 相場の十倍の代価だ。自由が生かされる国を作る仕事がある」
「その条件は高嶺の花、日本租界地の中国人労働者のもの。日本租界地に来いというのか?」
「いや、もう少し遠いところだ。満州国、新しい五族共栄の国だ。日本租界地が全てを保障し、手配する。どうだ、この坊主に布施してくれないか?」
王仁は微笑んだ。乞食達に動揺が走る。
「貴方の名前は?」
「王仁! 日本の王道楽土宗の僧侶だ。貴方の名は?」
「私は陳だ……。やはり、日本の方なのか。我ら皆、今の乞食の道が正しいとは思っていない。ただ、今まで、そんな運が回ってこなかっただけだ。日本人は我らを人として扱うと聞いた。日本租界にはクーリー(苦力)が居ないと聞く。苦しい仕事も汚い仕事もあるが、皆、人として扱われると聞いた。満州国も日本の国なのか?」
「満州国は満州人の国だ。日本人は国づくりを手伝っている。そして、日本人も多く満州へ移民しているのだ。中国もやがて満州と同じように、自由な国にしたいのだ。そのために日本租界地が拠点としてある。陳さん! あなた方は満州へ行き、国づくりを学ぶのだ。そして、時が満ちたとき、再び中国へ戻り、中国の国づくりを行う。それが 中国への布施だ」
陳は皆を見回し、仲間一人一人の顔色をゆっくり見た。堂々とした所作だった。
「王仁さん、貴方は何人必要なのだ?」
王仁が爽やかな笑顔を陳に向ける。
「租界に住む全ての乞食とクーリー(苦力)達だ」
乞食達は言葉を失った。陳がやっと落ち着いて言う。
「私はかつて、人相学を学んだ。貴方が何者か知らぬが、貴方のその顔は敬されるべきと判じる。よろしい。この陳の命の使い方を貴方に布施しよう。私が仲間を募ってあげよう。一晩時間をいただきたい」
「陳さん、貴方は心でこの王仁を受け入れてくれたようだ。出会いに感謝しよう。貴方はこの王仁の良き友となってもらいたい。一つだけ注意してほしい事がある。誘うのはこの租界内に住む乞食と貧しい人々、その家族だけにして欲しい。租界の外の人々は次の段階が必要だ」
陳は両手を前で組み、中国式に深く頭を下げた。仲間の皆が陳に倣った。
「乞食の魂を理解する僧、王仁に我らは帰依する。我らの命が中国のために生かされるように我らの命を布施しよう」
僧王仁と乞食陳の二人を見守っていた悦子は、不思議な感慨に捕らわれていた。もし、悦子が浮浪者だった頃、王仁と出会っていたら、悦子の人生は一体どんな色に輝いていたのだろう。その日の空腹を満たすために、ぎらぎらとした眼差しを周囲に配って一日を過ごした。それは修羅と同じ。食い物に憑かれた餓鬼だった。だが、この陳達は違う。自らの考えで乞食を選択していたのだと言う。乞食を長年続けた悟りだろうか。陳の眉間に刻まれた縦皺は消え、美しい愁眉が開かれて、鈍くて虚ろな瞳に命の息吹が宿ったように王仁と微笑み会っている。
乞食達を蘇らせた僧王仁、この男は一体何者なのだろう? そう悦子は思い、じっと王仁を見つめた。
陳は乞食とクーリーの横の繋がりを最大限に使い、翌日には千人にも及ぶ乞食とクーリーが密やかに集まってきた。日本租界は衣服と食糧を学校や公会堂に用意して、グループ分けにして収容。海軍の輸送船が虹口港湾に接岸し、直ぐに収容を開始した。日本租界側の受け入れ体制を確認した陳はそのまま、王仁の弟子になったかのように、引きつづき列強各国の租界に赴き、小グループづつ、目立たぬようにとの指示を王仁から受けて、人集めに奔走していた。
駆逐艦一隻の建造費用で、中国人の平均年間所得から考えると十万人が一年間生活できる計算になる。租界に住む中国人人口は約百五十万人、その内、貧苦にあえぐ人口は百万人前後だった。王仁はこの百万人の内の三分の一の三十万人を満州へ移民させるため、第一段階としての予算を日本政府から得ていた。租界で集め、支度をさせて満州に送り込み、満州での受け入れ住居と自活できるまでの保証期間を三ヶ月程と見込んだ。満州三十万人移民第一次計画はこれで駆逐艦建造費一隻分に相当した。
最初に王仁達の行動に反応したのは、上海マフィアの青幇だった。青幇のボス杜日笙は最も勢力が強く、一九二五年に大公司を設立して町 の阿片市場の独占を図り、列強諸国とも太い繋がりを持っている。且つ蒋介岩とも義兄弟の契りを結んで、上海の裏社会を実質上支配していた。裏社会の非合法営利活動の基本は、阿片、売春、誘拐、暗殺、賭博だ。杜日笙は一九二七年、蒋介岩に協力して四月の上海クーデターで上海市内の共産党員を駆逐(暗殺)した功績により、上海市の阿片取締り部長に任命され、且つ国民党政府の将軍の地位を得ていた。一九二九年には銀行を設立してフランス租界内の莫大な資金を一手に吸い上げ、一九三○年代には事実上、中国全土の 阿片を支配していたのだ。租界に住む中国人の四人に一人は青幇の構成員だと言われていた。
悦子は事前に上海日本領事館内の特務機関に指示して、人集めに奔走する陳を用心のために追跡させていた。陳はできるだけ青幇の構成員以外に声を掛けていたが、狭い租界ではすぐに日本の王道楽土宗の僧侶が人を集めているとの噂になった。
陳と特務機関員二人共、忽然と姿を消してしまう。翌日、特務機関員は日本租界の川べりに死体として上がったが、陳の行方は知れなかった。
悦子の報告を聞いた王仁は、特務機関員の死を聞くと顔色を変えた。悦子が始めてみる王仁の憤怒の表情で、仏閣山門横にある不動明王の憤怒の顔に見えた。
「悦子さん、貴方と私だけで青幇のアジト、大世界に乗り込むとしよう!」
「王仁様、二人だけでは危険すぎます。特務機関員全員を徴集します」
「いいや、我々二人だけでよい。しかし、陸軍の豆戦車と四式百ミリ携帯噴進砲を借りて行こう。王道楽土宗宣伝車と言う幟も立てて、拡声器も一個手配してください」
王仁の憤怒の表情がにやりとした不気味な笑みに変わっていた。
豆戦車は陸軍の九七式軽装甲車の事で、二人乗りの小型偵察戦車だ。七・七ミリ機関銃か三七ミリ砲を搭載し、時速四十キロで走行する。四式百ミリ携帯噴進砲は昨年ロケット技術の転用で完成した、歩兵用携帯ロケット砲で、直径十センチの砲弾をロケット推進で噴進させる。ロケット弾の尾部に噴射穴が三つあり、角度がおのおの付いて、砲弾を回転させて直進性を持たせた新兵器だった。
戦車の運転と機銃は悦子が担当し、王仁はロケット砲を小脇に抱えて豆戦車に乗り込んだ。悦子も王仁もおもちゃを貰った子供のように、喜々とした表情でフランス租界地にある青幇の根城、大世界に向かった。大世界は魔都上海の象徴、非合法のあらゆる快楽が味わえる一大総合娯楽施設だ。豆戦車には『王道楽土宗、宣伝車』と中国語、フランス語で書かれた幟が立てられ、早朝道行くフランス人の興味を引いた。事は電撃戦を必要とし、悦子は最大速度で大世界前の広場に乗り付ける。王仁は拡声器を持って、戦車上部のハッチから上半身を出し、その僧行の姿をさらして怒鳴った。
「上海やくざのボス、杜日笙に告ぐ! 我は王道楽土宗僧侶、王仁。すぐに我が弟子、陳を開放しなさい! さもなければ青幇の砦、大世界は瓦礫の山と化すだろう」
魔都の象徴、大世界も朝っぱらは静かで客は殆ど居ない。昨晩の喧騒の疲れで皆寝ていたのだろう、返事は無かった。王仁は早速小脇に抱えた携帯ロケット砲を大世界の正面玄関の少し上の壁に照準を定め、躊躇すること無く引き金を引いた。しゅるしゅると白煙を吐いて矢のよう に砲弾が飛び、大きな音と地響きが響き、正面玄関が瓦礫に変わった。悦子は重ねて機銃を壁に向けて掃射する。ロケット弾が崩した壁の埃 (ほこり)が収まると、中にいた杜の手下共が拳銃を乱射しながら出てきた。悦子は機銃を的確に発射し、ばたばたと確実に青幇を倒してゆく。物陰に隠れた青幇へ、王仁のロケットが飛んだ。二人の攻撃は情け容赦が全く無い。大世界が静かになる。豆戦車の幟が風ではためいた。周り住民はすべて物陰に隠れて息を潜め、成り行きを見守っている。王仁の拡声器がどなる。
「杜日笙よ! 陳を帰さないなら我らの本気をさらに見せよう」
悦子が大世界の正面窓ガラス全てに機銃を掃射する。割られた窓から反撃があると、王仁がロケットを次々と打ち込んだ。大世界の幾つかの窓から黒煙が出始めた。娯楽の殿堂、大世界の正面は見るも無残な穴だらけの装飾に変わる。王仁はロケットをビルの屋上付近に向けて放った。上海の青い空にビルのコンクリートの欠片が舞う。人影を見ると悦子の機銃が火を噴いて沈黙させる。ビルの最上階の窓から、白旗が揚がった。
「杜日笙よ! お前一人で、陳を丁重に我らが戦車の目の前に連れてくるように! それ以外の人影は誰であろうと、即座に射殺するであろう」
王仁の拡声器から流れる声に抑揚は無かった。不退転の意思が滲み出ているのだ。
頭から埃を被り、豪華なフランス風パジャマのひょろ長い男に支えられ、裸同然の体に鞭の跡が痛々しい陳が現れた。戦車の前まで来た杜日笙は怒りと恐怖に顔を歪め、ぶるぶると震えている。
「派手なモーニングコールはいかがだったかな、中国の阿片王、杜日笙よ! 今日の午後、日本領事館、特務機関室に出頭するように申し渡す。特務機関員殺害の容疑がある。出頭しない場合は、国民政府蒋介岩総統の許可に基づき、租界地の青幇は数日の内に日本軍により殲滅されるであろう。お前が経営する銀行も同じ運命になると知れ!」
王仁はそう言うと、陳を戦車に引き上げて、杜日笙を残したまま最大戦速で大世界を離れたのだ。陳は傷ついていたが、王仁を見て微笑んだ。そして遠ざかる崩れそうな大世界ビルの前で、杜日笙が膝から力なく崩れたのを見て、なおさら笑顔を浮べた。
日本政府は海軍所属の偵察機からその日の午前中、ビラをまいた。日本租界と国民党蒋介岩総統は、上海の非合法組織撲滅を目指し、活動開始を知らせる内容だった。日本租界地内では、道路の要所に一式中戦車が配置され、青幇の反撃に備えたが、日本軍とまともに戦うような愚か者は居ない。杜日笙は午後一番に日本領事館に一人で出頭して来た。
「杜日笙よ、お前も貧しい果物売りから成り上がった者。王道楽土宗、王仁が求めているのは、貧困と弱者の撲滅なのだ」
鈍い顔付きで内心を覆い隠す杜日笙に、王仁はいつもの平静な表情と声で語りかけた。
「では、何故おれを暗殺しないのだ! お前の力ならいつでも殺せるはず! 俺を利用しようと言うのか? 蒋介岩がそうしたように……」
「非合法活動を行うおまえは許し難い。特に阿片を取り扱う事は、貧困の助長と弱者を際限なく作り出すことだ。だが、阿片に関する裏組織に最も通じ、阿片を撲滅させる効果的な方法を熟知する人間はおまえを他にいないだろう」
「……つまり、列強諸国と手を切れと言いたいのだな?」
杜日笙は、細い目を見開いて核心を突いたことを言った。王仁は逆に目を細め、微笑んだ。
「そうだ。さすがは青幇の首領! 判りが早いな」
阿片の生産国は主に英領インドだ。阿片貿易が口火となってかつての阿片戦争も起きた。杜が不敵な表情になり、吐くように言った。
「日本は列強と戦争する覚悟があるのだろうな?」
「日本だけではない。おまえと義兄弟の契りを結んだ蒋介岩もまた、覚悟を決めているのだ。満州国、韓国、台湾も同じだ。上海は列強と戦う拠点となるだろう」
「協力する見返りに、この杜日笙に何をくれるのだ?」
杜は不気味な笑みを浮べて強く王仁を見つめる。悦子はその表情をどこかで見たような気がした。
「おまえに与えられるものは何も無い! おまえが中国、おまえの祖国におまえの命を布施するのだ。もう充分だろう、杜日笙よ。この世の泡沫で流離う旅路は! 果物屋の杜日笙に帰るのだ」
杜は大きな声で笑い始めた。立ち上がり、領事館の窓に近づいて窓の外を見る。黄浦江に蘇州河が流れ入る角に日本領事館はある。黄浦江は長江(揚子江)につながる。悠久の広がりを持つ大陸中国の上海で生まれた杜は、梟雄と呼ばれるに相応しい人生を送ってきた。だが、作り上げた城は享楽の殿堂大世界と阿片王のもたらす莫大な利益。多くの夫人を持ち、金の力で出来無い事は無い頂点に達したのだ。そして、今日、その人生そのものを打ち壊す一人の僧に出会った。悦子は杜の顔に晴れやかな笑顔が浮かぶのを見た。
「僧、王仁よ。人を利用する者は、その代価をちらつかせて利を持って誘うものだ。だが、おまえは我が命を祖国に布施しろと言う。それは誘いと言うのだ。青幇の男は死を恐れない。おれはそうやって、己の命を賭けて成り上がってきたのだ。手段を選ばずにな。人を落とし入れ利用し、殺して、弱い者からは搾り取り、人の人生を踏み台にしてな……。そう言う男を誘うというのか?」
「人は目覚めなければ、おまえと似たり寄ったりの人生を歩むもの……。過去のおまえにしがみ付きたければ、無理にとは言わない。おまえがおまえの道を決めるだけのこと」
「誰が過去にしがみ付きたいと言った!?」
激した杜が王仁を睨みつけ吐くように言った。杜の気迫が部屋に響く。王仁がその気を柔らかく受け止めた。
「柵を切り捨て、自由な杜日笙になりたいということだな?」
「くそっ! おまえと話していると、自分が赤子になるような気がするわ」
王仁が笑う。親しみのある笑顔だ。杜が苦々しい顔を返すが、棘棘しい気は消えていた。
「闇の世界の王、杜日笙よ! いつ裏切っても良いぞ。おまえの心が望むままに暴れてみろ。但し、自分の欲のためではなく、祖国の貧しい人のために」
「くそっ! くそっ! くそっ! 坊主の説教は沢山だ! 三日後にまた来る。話はその後だ!」
杜日笙はそう言い捨てると肩を怒らせて出て行った。悦子はその後ろ姿を見て、はたと思い当たった。杜は乞食の陳と何か似たものを持っていたのだ。違うところは、人の施しで生きていたのではなく、人から奪ったもので生きてきたこと。だが、そのために、陳より多くの自分自身を縛り付ける枷を巻きつけた男、杜日笙。陳と同じく、自分で稼いで糧を得てきた訳では無いのだ。
「王仁様、あの男、命を布施するでしょうか?」
「ああ、悦子さん、間違いなく、あの男のやり方で布施するでしょう。しかし、それが杜日笙を上海で、生まれ故郷で命を全うすることを許すのです」
王仁は再び、杜日笙の運命を幻視したに違いない。
翌日の午後、杜の行動は早かった。杜の手下が密書を運んできた。早くも上海の阿片事業のカラクリと重要人物のリストが記されてあり、杜日笙が阿片から手を引いた後の列強、特に英・仏が押すであろう杜に変わる人物のリストまでが予想として書かれてあった。杜は裏社会の組織と全面戦争に突入する事を宣言し、裏社会の戦争は青幇が担当し、列強への対応は応仁がするように依頼されていた。
王仁は返信をしたため、戦争開始前にできるだけ貧しい人を日本租界へ移す事と、列強の動向を探るために特務機関員を派遣する事を伝えた。同時に、日本政府へ第二段階への移行を連絡、蒋介岩にも連絡させた。二日目になると青幇に誘われた多くの人々が日本租界へやって来て、満州行きの船舶に次々と収容されて行く。同時に杜は、それまで付き合いの在った阿片貿易商の黒幕に、阿片から手を引く事を通知した。その通知文がふるっていた。
―― 坊主に諭されて、果物売りの杜日笙に戻る事を決心。今までの罪滅ぼしに阿片撲滅のため、阿片を扱う全ての人間に宣戦布告する。今までの付き合いは一切考慮しない。敵か味方か? 阿片を取り扱うか? 扱わないか? 敵に対しては杜の命を掛けて殲滅するまで戦うだろう。青幇王、杜日笙 ――
租界に動揺が走り、列強がうろたえた。英・米・仏もこの時すでに、租界から貧乏人やクーリーが姿を消しつつあり、日常の貿易業務に支障を来たし始めていた。安い労働力があって初めて成り立つ上海経済なのだ。労働力は日本租界に流れ、そしてその先に満州があることにも気づいた。その上、阿片の元締め、杜日笙が列強阿片商社の中国側配下組織に宣戦布告状を送りつけて来た。暗号電波が上海を飛び交った。南京の蒋介岩が動いた。国民党軍は三個師団三万三千を持って上海に向かった。日本側と連動して、租界を大陸から封鎖するためだ。日本の陸軍と海軍も動いた。日本租界への一般人の流入は続けられたが、陸軍と海軍陸戦隊が要所を固め防衛線を引いた。
三日目、杜日笙は先手を打って、自分の意に従わない青幇内部の粛清を始めてあっと言う間に駆逐してしまった。四日目の朝、杜は一人で日本領事館の王仁を訪ねてきた。 日本租界の外側には蒋介岩の先発機械化師団三千名が到着、ドイツ式の塹壕陣地を要所に作り始め、租界を封鎖し始めた。米・英・仏の戦力は若干の陸戦隊と上海海上に数隻の軍艦が停泊していたが、日本海軍はその列強艦隊を囲むように停泊していた。上海港湾には列強の商船が数多く停泊中だった。クーリーが足りずに荷の積み下ろしが出来ないで往生している。列強の租界地総督は日本租界地に労働力の借用を打診してきた。日本領事館は日本企業と同じ条件なら、協力すると申し出ていた。列強諸国総督は、コストの増加を嫌って租界地外の労働力を引き込もうとするが、すでに国民党正規軍によって、各道路は封鎖されていた。
「王仁殿、役者は揃ったようだ。今日の夜からでも戦争開始となる」
「杜よ、この機を狙っている者がもう一人いる」
「共産党の連中だろう? 判っている。青幇の組織を甘く見るなよ。連中の規模も所在を全て把握ずみだ」
「租界内の共産党は君らに任す。だが、どうも大軍が上海に迫ってくるかも知れぬ。そちらは我らが料理しよう」
「租界内の共産分子退治は、帝政ロシアの移民に自治団を作らせて武装させた。あいつらがうまく料理するだろう。祖国ロシアをソビエト共産党に取られた連中だからな。共産主義者に容赦はしないだろう」
窮した列強諸国は青幇の代わりに紅幇の組織に目をつけ、且つ共産党に上海の権益をちらつかせながら協力を仰いでいるのだ。王仁は一つだけ危惧していた。共産党の周恩行が指揮する正規軍が南京を襲うかもしれないということだ。周恩行ならやりかねない。三個師団を上海に送った南京の守りは薄い。南京を攻略されたら、蒋介岩の力は弱まる。日本にとっては由々しき大事となる。だが、日本側にも戦力を割く余裕は無かった。できる事は、海軍の駆逐艦隊で揚子江を遡らせ、南京近郊で示威行動を起こし、海軍航空隊の偵察を強化する事だった。王仁はすでに指示を与えていた。
「ところで王仁殿! あんたが使ったあの豆戦車とロケット砲を俺に貸してくれ。あの幟も一緒に」
王仁が杜の依頼の理由を考えていると、
「いや、あんたがおれにしたあの強烈な目覚ましを紅幇の連中にやりたいだけよ」
杜はそういうとからからと笑った。
王仁は特務機関に指示して、豆戦車と操縦員に悦子をつけた。
「法悦さん、あなたは杜と一緒にいて、連絡係を務めてもらいたい。豆戦車を操縦できるのも、今のところ民間人としては貴方しかいない。私はおそらく外の敵と戦うようになるだろう。内と外の様子を詳しく把握する必要がある」
悦子は静かに頷いた。
「王仁殿、この杜日笙、尼さんと戦車に乗って戦う事になるとは……。あんたに出会えてよかった」
「杜よ、それはこの王仁も同じ事。貴方のお陰で、新しい歴史が始まったようだ。貴方の勇気に感謝する」
杜は大きく笑って、
「感謝は勝ってからしてもらいたいねえ。だが、久しぶりに血が騒ぎやがる」
杜はそう言って悦子を見つめた。その目は子供のように純な目だった。
「杜よ、日本女性の中で最も優秀な尼僧を貴方に貸すのだ。判ってくれような」
「わかっているよ。傷物にするなと言う事だろう! この生臭坊主!」
杜が答えて、悦子はその意味がやっと判った。悦子を守れと言っているのだ。
王仁は帝政ロシア移民の自治軍の規模を聞いた。人口三万人の移民から軍役経験者を中心に二千名程度が組織されていた。それを聞いた王仁は、紅幇と戦う前に共産分子の一掃を今晩中に行い、それが終わったら、帝政ロシア軍二千名を日本租界に越させるように指示した。周恩行が来襲した時の備えをさせるためだった。
杜は頷いて、豆戦車受領のために悦子を連れ立って出て行った。悦子は寡黙を保ちつつも、すでに杜をその術中にひきづり込む品を後姿に漂わせていた。実際、悦子の仕事は連絡係だが、実は、杜日笙を守るという密命を帯びていた。だが、本人には悦子を守れと言う指示を出す事によって、杜がいつも悦子の側にいなければならないと言う状況を、王仁は作り出してくれた。その深謀は、彼の霊感から出てくるのだろうか。悦子は陳と言い、杜と言い、王仁の周りに集まりだした人材に、自分もわくわくしているのに気づいた。目の前で見た王仁の人寄せは、前世と言うものがあるなら、まさしくその縁さえ感じさせる既知感を伴った人々が集まってくる。何のために? 悦子は一度、その質問を王仁にしたことがある。
《日本人の過ちを未然に防ぐために……》
王仁はただそれだけを言った。
その日の深夜、青幇に扇動された帝政ロシア自治軍は、租界地の共産党アジトを全て同時に急襲し、四百名に及ぶ党員を逮捕抑留した。翌日の朝、帝政ロシア自治軍の指導者達は日本領事館に集結し、状況の説明を王仁から受けていた。王仁は周恩行が指揮する共産党正規軍が揚子江のどこかで集結を始めているらしい事、その規模はおそらく一師団一万名前後だろう事、それは上海かあるいは南京を狙っていることを予測した。そして、帝政ロシア自治軍に対して、日本政府とアジア民主連合は最大の援助を惜しまない事を通達した。白ロシア人達は勇躍し、引き続き戦闘態勢を継続することを誓った。日本陸軍は七・七ミリ機関銃を装備した豆戦車二十五両、三十七ミリ機関砲を装備した豆戦車二十五両をそれぞれ操縦士と射手を付け、四式百ミリ噴進砲を百門、五百丁の百式短機関銃を供与した。これにより帝政ロシア自治軍は俄かに機動力と破壊力を兼ね備えた部隊と化したのだ。周恩行の共産党正規軍はソビエトから武器供与を受けているはずで、機械化部隊の存在も予想されたのだ。ゆえに日本陸軍は砲兵隊一大隊を帝政ロシア部隊の後方支援に当たらせる予定でいた。
日本海軍は揚子江の何処でも飛行場として使用できる複葉機、零式観測機(略称零観、複座あるいは三座)を多数河川に沿って配し、空からの索敵 (さくてき)を強化していた。この零観はその優れた運動性による積極的空戦もこなすほどの傑作機。海軍はこの零観部隊を駆逐艦とともに南京近辺に先に派遣し、共産党軍の動向を探ると同時に、共産軍を南京ではなく上海に導こうとしていた。この頃の共産党は都市内部での党員獲得、破壊活動をほぼ国民党に阻害され、政策転換を行い、農村部のアジテーションと農民洗脳を心がけていた。中国の農民は都市の労働者よりもさらに虐げられていたかも知れない。
その日の夜、杜日笙は法悦(悦子)と豆戦車で紅幇との戦闘を開始した。紅幇は青幇と違い、一拠点を持たずに、複数のボスが存在し、青幇と同じように闇の世界の非合法な仕事をしていたが、杜の阿片撲滅宣言を聞き慌て、列強に取り入り、杜日笙の代わりに後釜に入ろうとしていた。そのための集会を開いたところをすかさず杜は狙った。闇がいっそう濃くなるような小雨が降りだし、紅竜飯店に向けて杜と法悦は豆戦車をごろごろと走らせ、後ろに青幇の組員五百名が続いた。雨に濡れた豆戦車は、黒金を夜のネオンに写して鈍く光らせて、王道楽土宗の幟と国民党阿片撲滅運動実行車の幟が雨に濡れてしな垂れていた。
「法悦さん、王仁殿がおれにしたと全く同じに攻撃したい! おれが指示するまで後ろの組員は何もするなと指示してある」
「お任せあれ! 杜日笙様。 ロケット砲の準備はよろしいか?」
「ああ、ぶっ放してやるぜ。だが、法悦さん、あんたとどこかで会ったことはないかなあ?」
悦子は杜と話した事は無いが、実は挨拶程度で数度出会っていた。大世界は上海の列強要人も良く利用した。その頃、悦子は諜報員として大世界を情報徴収の一つの舞台にしていたからだ。
「私の素性をお知りになりたいのですか?」
悦子は飛びっきりの笑顔を杜に向けて、片目をつぶって見せた。美しく可愛らしいその表情を見た杜は怖気を感じたかもしれない。目線を外して遠い記憶を探るような目を戦車の覗き窓に向けた。杜が見た悦子の目は、断じて尼僧のものでは無い。王仁とは正反対の無機質な冷たい目の色、美しいが妖しい眼差し、可愛いが危険な色、引き込まれそうな魅力の後ろに罠が無数に仕掛けられ、華奢な体に隠された無数の匕首 (あいくち)を連想させた。
「どうもおれは、最も危険な美貌の尼僧と、一緒に仕事をする羽目になったようだ」
「杜様、私の素性はお忘れ下さい。私も王仁様と出会い、過去を失いつつある女なのです」
「そ、そうだな。とすれば、我らは同じ境遇と言うわけだ。ははは」
「杜様、ロケットの準備を!」
「おう!」
戦車は紅竜飯店の前に付くや、戦車砲頭のハッチを開けた杜は有無も言わせず、ロケットを三階の一室に向けて発射した。轟音が石造りの建物に響いた。法悦が七・七ミリ戦車機銃を同じ三階に乱射する。ばりばりと破片が飛び散った。杜は戦車の中で、機銃を乱射する尼僧、法悦の後姿に清廉可憐な影を見た。
《俺は本物の仲間を持ったかも知れない》
杜はそう呟いて、二発目のロケット砲を放った。
日本租界は虹口港をほぼ中心に東西に広がるように作られ、租界の北東を守るように租界外へ向いていた。租界外には国民党の先発機械化部隊と工兵がドイツ人軍事顧問と一緒に早くも到着して、塹壕やトーチカを建設中だったが、未明、突然、朝霧に紛れて共産軍の砲撃と歩兵突撃に見舞われた。霧が晴れて、日本の偵察機がもたらした情報は、周恩行率いる中国共産党がほぼ集結しつつある状況だった。どうやって? どこから湧いて出てきたのか。周の戦術の妙だ。王仁の推察によれば、おそらく揚子江を怪しまれないように小さな小船に分乗し、便衣(一般人の服装)を着て小グループに分かれて集結したのだろう。虚を付かれた国民党軍は守勢となり、かなりな損害を出していた。
日本軍は海軍から地上攻撃機を発信させ、敵陣地を空襲。九七式陸攻と一式陸攻を台湾基地から飛び立たせ、世界で始めての渡洋攻撃を実施した。前線の後ろに控えた敵の軽野砲陣地に大きな被害を与えた。日本軍は帝政ロシア軍二千名とともに海軍陸戦隊三千を援軍に差し向け、防衛を強化。その間、空からの攻撃を強化して、敵の後方兵站路には常に偵察機を飛ばした。
日本軍の爆撃により、敵の軽野砲は沈黙した。偵察によると、敵は重野砲を備えていないようだ。だが、歩兵はソビエト式の軽機関銃と重機関銃、迫撃砲(歩兵携帯式)を備えており、火力は盛んだった。陸軍の空爆は日に二回、午前と午後の一度ずつ。その間は海軍の九六式戦闘機と陸軍九七式戦闘機がカバーした。
日本軍の砲撃部隊は前線後方で満を持していた。日露戦争の戦訓で強化された野砲は百ミリと百五十ミリが主力であり、国民党や共産党のそれは第一次大戦時の標準七十五ミリだった。破壊力(炸薬量)は口径の三乗に比例する。
零観で空から戦場を視察した王仁は幕僚会議で新戦術を提案した。その戦術が始まろうとしていた。敵の野砲が沈黙し、共産軍は塹壕や建物の影に隠れて、時々突撃を仕掛けてくる。制空権を奪われた共産軍にはそれしか方法がなかったかも知れないが、敵の士気は高かった。それは日本軍が積極攻勢を一度も仕掛けていないからだ。日本機が空襲に来たら蛸壺に隠れ、去ると活動を開始する。敵の戦線は横に長く伸びて、日本租界を囲むように広がっていた。
「この作戦の要点は速度です。そして、一度攻撃して撃退した場所には駐屯しない事。風のように通りすぎて、跡をふり返らない事です。中国軍の思惑は、重火器も制空権も無く、日本軍と戦うなら、中国大陸の奥へ奥へと我々を誘う仕掛けを用意してあると考えられます。その際たるものが『便衣(農民服に着替える)』によるゲリラ戦だと断言できます。突破された前線で生き残った敵共産軍兵士は一般人に化けるでしょう。日本軍が勇気ある猪突猛進型の軍人であることを洞察した上での戦術です。勝利して過ぎ去った後方で、狙撃や破壊活動が行われ、それが軍服を着た兵士では無く、一般の中国人が起こしていると錯覚したとき、日本軍はパニックに陥るでしょう。中国の一般人をも虐殺するかもしれません。この戦術に乗ってはなりません」
「王仁殿、貴方のこれまでのご助言と英明な判断に敬意を表します。中国軍に関する専門家としての貴方の力量を信頼し、陸海軍は緻密な作戦を立てるでしょう。これは大本営の意向でもあります」
陸軍少将大西は軍を代表して王仁の策を取り入れることを了承した。
王仁は便衣戦術を回避する方法は一つしかないと説明した。戦線を拡大せずに、現在の共産軍を一箇所に纏めさせるように、砲撃を工夫する事。国民党軍の本隊三万がそろそろ戦線に到着するので、これと連絡を密にして、共産軍を囲み込み、兵站輸送路を遮断して局所的な機動攻撃を行う事だった。
「では、国民党軍本隊が前線到着を持って、この王仁が指揮する帝政ロシア移民軍による攻撃を許可いただきます」
王仁と悦子は豆戦車に再び搭乗、日本租界の東の端に、帝政ロシア移民軍が集結した。豆戦車五十両、携帯式四式噴進砲百門、百式軽機関銃五百丁を主軸とした選別七百名の機動突撃部隊だ。豆戦車には日本陸軍の兵士が乗り込んだ。その日の未明、国民党軍本隊が前線後方五キロに到着、戦闘準備を開始した時を見計らって、日本の野砲が火を噴いた。敵陣の東最端に集中して砲弾が打ち込まれる。弾着地点は上空の零観から逐次確認され、敵の移動を確実に捉えて誘導する。東の一点に集中された第一砲撃の次は少し東へ着弾を移動、敵を西へ誘う。後方北へも着弾させた。敵が西へ走り始めようとする刹那、豆戦車五十両が突撃を開始する。東へ突き進んで、西へ曲がって敵を追うような形になった。敵が潜む陣地と建物の影には容赦なく噴進弾と三十七ミリ戦車砲が打ち込まれた。そこを帝政ロシアの機銃装備兵が乱射しながら駆け抜けてゆく。誰も後ろをふり返らないスピードだった。約一時間の作戦行動後、部隊は租界へ急速に撤退した。日本の野砲が再び元の東の端から砲撃を開始、ゆっくり西へ着弾点を移動させて行く。これを午後一杯繰返すと、上空の零観から、第一次作戦終了の連絡が入る。共産軍が撤退した場所には国民党軍がすかさず入って来て、防御陣を作った。
翌日の未明は同じ攻撃を前線の反対側、西の端から開始、一時間の作戦行動で同様な効果を上げることに成功したのだ。数両の豆戦車が敵の迫撃砲と手榴弾により破壊され、十数名の帝政ロシア兵が戦死。だが、百門の噴進砲はその威力を遺憾なく発揮した。また、百式軽機関銃五百丁の弾雨は、共産兵の側面を付く各個撃破の火力を見せ付けた。ロシア兵の突進力は時折、敵の手榴弾に手をこまねた豆戦車隊を助け、幾度と無く危機を救った。
前後左右を囲む事に成功した日本軍は、もっぱら砲撃と空襲による攻撃に切り替えて、共産軍が消耗する戦術に切り替えた。一万の共産軍は、おそらく半数以下になっていると予想された。三日目の午後、便衣に着替えた敵兵がぽつりぽつりと前線から脱出を図り、すべて 捕らえられて行く。女子供以外は容赦するなと全軍に通達がされていた効果だ。囲んだ地域の住民はとっくに避難している。
四日目になると、破れかぶれの共産軍による突撃が一度づつ、租界の内側と外側に向かって行われたが、重機関銃の餌食になるだけだった。零観よりビラを撒き、降服の勧告が為された。軍服を着て降服する者は丁重に扱うが、便衣に着替えた者はスパイとしてその場で処刑するだろうと但し書きが書かれていた。
五日目、周恩行自ら白旗を掲げ、共産兵四千名が捕虜となる。武装解除された捕虜は、士官は拘留され、農民出身の一般兵士は満州へ旅立つか、上海で再教育を受け、自由人になる事のどちらかの選択が許された。殆どの兵士が満州行きを望んだ。故郷に帰っても、虐げられる過酷な環境が待っているだけだと考えたのだ。周恩行は日本へ捕虜として護送された。
輸送船が虹口港を出港してゆく。様々な人生をたっぷり船内に溜め込んだ船は喫水線が低くなっている。共産党を影で支えた周も、軍の艀で連れ去られて行った。王仁と悦子は埠頭に立ち、川風に吹かれて去り行く船の先を見つめる。百五十万人もの生活水がこの川に流れ込み、水は淀み、かすかな異臭も時折漂うが、それも川風が強く吹いて消し去って行く。黒い流れをじっと見つめていると、黒色がいつの間にか銀を帯びた輝きにも見えてくる。流れる事、それが穢れを浄化するのかも知れない。王仁は一つの大事な仕事を成し遂げた。しかし、その横顔は晴れやかではない。哀しみも漂う表情は、また遠くを幻視しているのだろうか。
「王仁様、ご苦労様でした。これで貴方の見た、日本軍による南京大虐殺は防がれたのですね」
悦子は出来るだけ優しく労りを込めて言った。年は明けて一九三六年にいつの間にかなっていた。
「悦子さん、貴方こそ、ご苦労様。貴方がいたからこそ、出来たことだね。心から感謝するよ。貴方の言う通り、日本の過失を未然に防ぐ事ができたようだ。それと周恩行を捕虜に出来たからね。中国の共産化を挫いたかも知れない。あるいはもっと大きな変化となって違う形で出てくるかもしれないが……」
「中国は共産化されるはずだったのですか?」
「私の幻視には赤い中国として現れていたからね。たぶんそうだろう」
悦子は不意に、王仁は自分の幻もかつて見たのだろうかと思い至った。口に出そうか迷ったが、王仁が先手を制するように言った。
「悦子さん! 仏教の縁という言葉の本当の意味はね。『共に相拠りて』という意味なんだよ。君が居なければ今の私も無いし、私が居なければ今の君も無いと言う意味だ。それは君と杜、君と陳、私と杜、私と陳も同じだ」
「では、あの周恩行はいかがでしょう?」
「もちろん、彼が居なければ、我も無し。それが縁だよ。そして、大事な事は、それは死んで逝った人々にも縁が当てはまるんだ。戦友や敵兵の死も、それが無ければ我も無し……」
悦子の心に王仁の気持ちが流れてきて、泣きそうになってしまった。氷の心を持つ高階悦子はいつの間にか、氷を融かされている自分に気づいた。
《そうか! そうだったのか!》
悦子は心のなかで繰返した。それが無ければ我も無し。我が無ければ彼も無し。
第二話 了
第二話はちょっと小難しい話でしたね。第三話以降、徐々に本格的な仮想戦記的になって行きます。