表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

パラサイト 第二章

作者: 藤倉千秋

パ ラ サ イ ト

 第二章


   遺 物


 私がこれまで晃に私の家族のことを話さなかったのと同様に、私もこれまで晃の家庭環境のことは何も知らされていなかった。

 次の週、今度は私が晃の家に呼ばれて行った。

敷地はかなり広かった。石垣で造られた塀もそれなりに立派であり、母家(おもや)のほかに奥には土蔵のような別棟もあって驚いたが、それよりも何よりも一番吃驚(びっくり)したのは、その家の古さかげんであった。

 近隣の今流行(はや)りの近代的住宅街の中に納まって、ことさらきわだっているように見えた。それは、古風な趣があるとかないとか、わびとかさびとかの(みやび)の世界のレベルの話ではない。障子でいうなら(さん)が欠けていたり、黄ばんだ障子紙がところどころ破れていたり、立て付けが悪いのか素直に閉まらない。

 ガラス戸といえば、ヒビが入っている所にところどころビニールテープを貼って補強してある。

 部屋の隅に立つと根太(ねだ)(いた)んででもいるのか、畳がフワフワするような感じがする。

 まず玄関から入って茶の間を兼ねた客間に通されたけれど、薄暗いというのが第一の印象だった。漠然ときっと昔の家というのはみんなこんなんだったろうなと思った。

 片隅に、季節はずれのストーブと扇風機が並べて置いてあるのが奇妙なコントラストだった。それもそのストーブはたぶん自動点火はせず、マッチかチャッカマンでなければ火が()かないような代物だった。

 そして並んで納まっている扇風機はといえばケガ防止のためのカバーの網が(あら)く、うっかりすれば大人の指でも入ってしまいそうな造りで、強・中・弱のスイッチというのか、風の強さを調節するボタンは異様に大きく、濃い青、普通の青、薄い青の色で視覚に訴えた骨董品(こっとうひん)的代物だった。

 そしてその双方の機器には、テレビのコマーシャルのようにナショナルのロゴが並んでついていた。

 松下さんが聞いたら涙を流して感激するかも知れない。そもそも、この二つの機器が現役であるということさえ不思議に思えた。

 仏壇といえば、立派というか何というか、私が今まで見たこともないようなものが祭ってあった。その上の長押(なげし)の上には、戦死したという晃のお祖父(じい)さんの軍服姿の遺影が飾ってあった。

 そしてその隣には、お宮も祭ってあって、その下には「天照皇大神」と大書した古びた掛け軸がぶら下がっていた。

あとで聞いてみたところ、それは早い話が「あまてらすおおみかみ」のことで、伊勢神宮の分神のようなものなのだという。

 これは、ことさらにこの家が宗教心に厚いというわけではなく、昔からの家ならどこにでも当たり前のようにあるといわれた。単に、私がその当たり前のことを知らなかっただけのことに過ぎない。

 目が慣れてくるにつれて、きっとこの家は、晃が生まれてこのかたまったく手を加えていないであろうということが想像できた。

 ただ、この家の男の人たちは、そろって手先が器用なのに、何で自分たちの住まいに手を加えないのか、とても不思議に思えた。

 三十数年前の昭和の名残(なごり)そのままである。私は、奇妙な世界に入り込んでしまったかのような錯覚に陥り、気付かれないように、目だけをくるくる動かし、更に周囲の状況を観察した。

 テレビだか、雑誌だかで誰かが言っていた。

 中村草田男という変な名前の人の「降る雪や、明治は遠くなりにけり」という句をもじって、平成の時代を「デジタル化、昭和は遠くなりにけり」と評していたが、この家には正にその「昭和」がまったく無価値の文化財のように残っていた。

 お風呂といえば、昔話とかで聞いたことしかない、あの「五右衛門風呂」であった。十返舎一九の弥次さん喜多さんが苦戦したというあれである。 

 私はとうとうその貴重な体験をすることなく終わったけれど、別に釜ゆでになるのがこわかったからではない。照明(あかり)が数十年前さながらの白熱電球のみで薄暗かったのと、脱衣所にこれといった遮蔽物(しゃへいぶつ)がなかったために躊躇(ちゅうちょ)してしまっただけのことである。

 その日案内されて座らされた私の前には、今では死語というか、話には聞いていたけれど、今まで見たこともない「ちゃぶ台」というものも鎮座していた。

 これも昭和の遺物であろう。晃と私が並んで座った対面に、晃の両親が神妙な面持(おもも)ちで座った。

晃が言った。

「前にも言ったように、オレ、この人と結婚することにした。小嶋明子さん…。」

「あんたが、アキコさんだね。話は、せがれから聞いています。ぐうたらなせがれにしっかりもののお嫁さんが来てくれるということで、本当に感謝しています。よろしくお願いします。」

と、晃の父が言った。晃がいつもけなしている父親とはうらはらに思えるような立派な挨拶だった。

 母親は、座敷犬を抱え、休むことなくその頭をなでながら、終始むつかしい顔をして、

「あんたが、アキコさんかえ?」

と、ひとこと発しただけだった。

 抱えていた犬は一応座敷犬のようなものの、別に血統書があるでもなく、ただの雑種ということだった。

 子供たちが手元から巣立ってしまった淋しさから、母親がどこからか仔犬をもらって来て家の中で飼っているらしかった。

 それは、近代的な住宅に小型犬が家族同様に暮らしているアーバンな世界とは対極に位置している、まったく異次元の世界のように見えた。

 この家では、飼われている犬、飼っている人、住んでいるうちが寸分違(たが)うことなく相応していると私は思った。

 その日は、そのまま近くの中華料理店へ行って四人で昼食をとった。中華料理店とは言っても、早い話がラーメン屋さんにちょっと色を付けた程度のこじんまりとした店である。

 でも、かえってそんなんだからリラックスできた。父親はともかく、母親にもいくらか親近感が持てるようになった。

 両親ともお世辞をいうでも何でもなく、ややもすればぶっきらぼうに感じられる言葉づかいそのものも、要するに、その人柄にまったく裏がないということの証しだったのである。



   家 族


 私にも、次第に晃の家庭環境が少しずつ見えてきた。

 母親は一人っ子で、そこへ父親がお婿さんに入ったのだという。父親は、資産家の男四人、女四人の八人兄弟姉妹の下から三番目ということだった。

晃のきょうだいは、五歳違いの姉が一人いるだけで、車で小一時間ほどの隣の(まち)へ嫁いだというから、晃の身内といえば、ほとんどすべてが父方の親族であった。

 父親は、建具の仕立て職人として、定年まで片道約五キロの木工会社まで自転車で通い続けたというから今時、極めて貴重な存在と言える。

もっとも車を運転する利便さを知らない人にとっては、自転車通勤の数十年間は風雨さえもさほど苦痛ではなかったのだろう。インターネットやケータイ電話を知らない人が、そのことによって何ら不便を感じないのと似たりよったりのものである。

 私は、晃の家の第一印象として、そのボロ家をつくづくと見るにつけ、この家は我家に劣らず貧しいのではないかと錯覚した。

 しかし、酒もタバコもギャンブルもやらず、車さえ持たない父親は腕の良い建具職人として定年まで勤め上げた。長男である晃はまだ半人前ながら、腕の良い大工の親方のもとでまじめに働いている。この家にお金がない道理がない。仮にお金がなくとも、腕の良い職人が二人もいるのだから、自分たちの住む家を修繕することくらいわけもない話である。

 結論を言えば、世間体(てい)を一切気にかけない変わり者のこの一家は資金も腕もあるのに、ただそれをあえてしなかっただけことに過ぎない。

 この家では、不思議なことに一番の変わり者の母親が「旦那さま」ということになっている。

 たった一人の跡取り娘だから、親から土地・家屋をすべて相続した。だから、この家の流動資産はともかく不動産はとにもかくにも母親の名義なのである。

 若い頃は、目から鼻に抜けるように気の利いた美人で、この年齢(とし)ながら早々と車の免許を取ったというから、父親とは正反対の性分だったようだ。ただ若い頃から異常なほどのしまり屋さんで、その性格が時を経るにつれて正から負へと転化し、今では病的なほどの守銭奴に変貌してしまったらしい。

 晃が物心つくかつかない頃、当時いくら車が少なかった時代とはいえ、中古のトラックさえ購入せず、暮れには農耕用の耕耘機(こううんき)の荷台に晃と姉娘を乗せ、一時間半もかけて父親の実家の「もちつき」に行ったというから、そのエピソードからしてもその様子を垣間(かいま)見ることができる。

 かつて暮れになると、この一族は父親の実家に親戚中が集まって正月用のもちをついたのだという。

麒麟(きりん)も老いては駑馬(どば)に及ばず」というたとえがあるけれども、この母親は老いる前から早々と駑馬以下に陥ってしまったようで、今では若かりし頃の片鱗さえ見えない。

 いつも例の座敷犬を抱えて、積極的に炊事洗濯掃除をするでもなく、ただボーっとしていることの方が多いようだ。

 その上に異常ともいえるほどの吝嗇(りんしょく)家で、この母親は自分の家からお金が出て行くことを病的に嫌っており、家の修繕などいうものはこの上もない無駄づかいと思っているらしかった。

 ところで、恥ずかしながら私は晃の母親に会うことによって、初めてこのことわざの真の意味を知った。それまで私は耳学問で「キリンも老いてはロバに及ばず」だとひたすら信じ込んでいた。

 へー、キリンも年とったら、ロバにも劣るのかと、うまい比喩(たとえ)があるものだと感心していた。もっとも、それでもその意味するところは本意と大して違わない、と今でも思っているんだけれども。

 本題にもどると、この家の最高権力者がこうであるから、幾らかはまともな亭主や息子が、せめて台所くらいは今流行(はや)りのキッチンに直そうと提案をしても聞く耳を持たないのだった。この母親は、精神科で()てもらったなら、きっと現代医学では、れっきとした病名があるに違いない。

 しかし、本人も家族も医者嫌い、出費嫌いときているから、よっぽど身体に痛いところでもない限り、病院に行くようなことは絶対にない。

 この家族にとっては、限界に至らない限り医者にかかることさえも無駄な出費なのである。 これで晃の家のボロ家のからくりがわかった。この家の懐ぐあいを貸借対照表的にあらわせばこんなところだろう。



  資産の部

    流動資産

     現金預金      並み以上

    固定資産

     土地        並み以上

     建物        並み以下

     車両(軽トラック) 並み以下

   

  負債の部 

               なし


  資本の部

               並み以上



 要するに、いくらボロ家に住んでいようが、何ら経済的に困っているわけでは決してない。そして更に、家族そろって投機的なこととは無縁だから、絶対にこの家はつぶれることはないということである。

 なお、隣の市に嫁いでいるただ一人のお姉さんは、ご主人共々そろって地味なほどにまじめなご夫婦であるとを聞いた。

 姉としては跡取りのはずれ弟のことが、やはり気になっていたらしい。晃が私との結婚のことを電話で報告すると、良かった良かったと涙をこぼさんばかりに喜んでいる様子が、電話の向こうながら手に取るように感じられたという。

 ご主人は堅実なサラリーマン、嫁ぎ先のご両親も温和な方々でまだ第一線で農業に従事しておられ、子供は一男一女に恵まれ、お姉さんは主婦業に専念されているという。

 ただ、おっとり型のお姉さんは、若い頃に車の免許を取りそびれたまま今に至ってしまい、自由が()かず失敗したと言っているとのことであった。



   周囲の人々


 翌週、二人して、双方の会社の社長ご夫妻のところへ、今回の結婚について改めて報告のごあいさつに伺った。それぞれ単独には、世間話程度には報告してあったけれども、それでは失礼にあたると思い、改めて二人で伺ったのである。

 先に晃の社長(親方)のところに行き、ご夫妻に挨拶した。お二人は私たちのことを、我がこと、自分の子供たちのことのように喜んでくれた。

 かつて(アーム)相撲(レスリング)の全日本ライトヘビー級チャンピオンだったという社長は、無駄肉のない赤銅(しゃくどう)色の均整のとれたレスラーのようにたくましい体型の人で、その眼光は鋭く、威圧感さえ感じられた。いろいろなエピソードは噂で聞いていたけれど、会うのは初めてだった。

 しかし、格闘家のような感じの人から発せられた声は意外に優しく、実の親が子を思う以上に慈愛に満ちた言葉だった。

「こいつは見たとおり、生き方が不器用でこれだけの男だけど、裏表のない本当にまじめないい奴だよ。舵取りさえ誤らなければ、これからいくらでも輝きもする。この未完の石を宝石にするのも、ただの石ころにするのもあんた次第だ。そこを何とかよろしく頼む。」

と、私に言い、晃には目配(めくば)せをした。

 晃は無言のまま照れたようにうなずいた。私は奥さんとは仕事の関係で、何度かお会いしたことがある。

「アッコちゃん、本当に、うちの(ひと)の言うとおり。これも何かのめぐり合わせ。この子のことをよろしくお願いね。」

と、更に念を押された。私は実のところ先日晃の両親と会ったときよりもこの日、親方夫妻にかけられた言葉の方に、はるかに大きなプレッシャーを感じた。

 そしてその思いと共に、これだけ雇用主夫妻に大事にされている晃を、心からうらやましいと思った。

 お昼は社長宅で、これでもかというほどのごちそうにあずかった。私の人生にはいまだかつてないような暖かな体験であった。 

そのまま午後は、私の会社の社長宅にご挨拶に行く予定だったけれど、晃が急に予定変更を言い出した。近くに、父親のすぐ上の伯母さんがいるから、先に報告に行きたいという。

 行ってみて驚いた。晃の自宅も街中(まちなか)では普通の家よりはかなり広い宅地だけれど、その伯母さんの家の広さはケタが違った。

 大きな長屋門があって、それを抜けると土蔵が脇に控え、広い庭の奥に大きな母家(おもや)があるという構えなのである。しかもその母家は江戸時代の造りだという。庭の芝生が目に心地良かった。多くの植木類はきれいに刈り込まれ、屋敷内には隣接してかなりの広さの畑が連なっていた。

 その伯母さんのことを、晃は「加茂川の伯母さん」と呼んでいる。別段、京都の加茂川などと何らの関係があるわけではない。近くに加茂川というたいそうな名前の小川が流れているので俗称として、そう呼んでいるだけのことである。

 この伯母さんは、発する言葉はどちらかといえばお百姓さんそのもので粗野な方だけれども、面倒見の良いということで知られている。

しかも面倒見の良いというのは伯母さんだけではなくこの家では、代々家族皆がそうらしいのである。

 晃の父親のすぐ下の妹は、家族運が悪く、連れ合いを病気で早くに亡くし、子供にも恵まれなかった。専業主婦しかやったことのないこの叔母さんの国民年金の掛け金を満期までの数年間、支払ってやったのはこの加茂川の伯母さん夫婦だったという。

 自分の年金の掛け金さえまともに支払わない人が珍しくない昨今、いかに妹を不憫に思ってのこととはいえ、口先だけでなく、まったく見返りの期待されない好意をこれまで尽くすというのは、このせちがらい今の世において、きわめて奇特なことだと私は思った。

 だから、晃も彼の父親も何かといえば、顔を会わせるたびにこの伯母さん夫婦に小言を言われながらながらも、それも弟や甥っ子を本当に心配してくれてのことと思って、この親戚が好きなのであろう。

 私たちが行ったとき、伯母さん夫婦はちょうど畑仕事をしているところで、庭先からすぐにその様子が見てとれた。晃は遠くから手を挙げて、近くまで行ってから言った。

「伯父さん、伯母さん、オレこの前来たとき、はっきり言ったかな?今度オレ、この人と結婚することにした。ほら、親方のところで取引のある建材屋さんで事務をしている小嶋明子さん…。」

 そして晃は私の方を振り返って、

「いつも話している、加茂川の伯父さんと伯母さん…。」

と言った。紹介され、私はあわてて

「小嶋明子です。」

と言ってペコリとお辞儀をした。

「晃もなかなかのもんだな。これで父ちゃんも安心しただろう。母ちゃんは何て言ってた?」

 伯母さんは聞いた。

「親父は大賛成してくれたけれど、お袋はいいのか悪いのかわけがわからない…。それは、いつものことだけどさ…。」

 晃がそう答えると、伯母さんは続けて今度は私に言った。

「明子さん、この(うち)は見てのとおりで、家中みんながそろってボーっとしてるから、何とかよろしくお願いしますよ…。」

「こちらこそ、よろしくお願いします。」

 私は緊張しながら、大急ぎで世間一般の常識的に答えた。

「晃、お茶でも飲んで行ぐか?」

「ウウン、今親方んとこで、お昼をごちそうになって来たからいい。それに、これから明子の社長んとこへ挨拶に行ぐとこだから…」

「そうか、じゃ、ちょっと待ってろ。」

と言って、伯母さんは何種類かの野菜を、手提(てさ)げ袋二袋に詰めてくれた。

「これ、持って行げ。かたっぽは、明子さんに持って行ってもらえ。」

「これは、アッコの分だってさ。」

 そう言って、晃がたくさんの野菜が入った袋を一つ私にくれた。私は初対面なのに驚いて、

「どうも、ありがとうございます。」

と答えた。晃は、当然のことのように、

「いつもありがとう。また報告に来るね。」

と言って、帰ろうとした。

 帰り際に伯父さんが、

「晃にしちゃ、大金星だな。」

と笑いながら言った。

 この伯父さんは口数は少ないけれども、肝心なところをグサッと突いて、意見や助言をしてくれるので、家族や地域の人たちから一目置かれ、頼られると共に一面では、お目付け役として恐れられているという。

 しかし、加茂川の伯父さん夫婦も、親戚一番のお荷物がとりあえずは、一人前にまとまるであろうことを心から喜んでくれているような安堵感がその表情に見てとれた。

 普通なら、結婚という画期は、個人にとってもまた家族にとっても生涯における最大の岐路と位置づけられ、この一族は田舎の名門であるがゆえに、暗に身元調査されるのが習わしだった。

 今の時代、いかに結婚は本人同士の問題とは言え、素性の知れぬ者にその領域を侵されることには少なからず抵抗があるのだろう。その点を突かれれば、私はまったくもってどこの馬の骨か分からぬ者の典型といえる。

 しかし、晃にはこれまで縷々(るる)と述べて来たようなハンデがあり、一方身元不詳であるはずの私は、単に親方(社長)の取引先の建材屋の社員ということで、株が上がっていた。

 私のここでのポイントは、親方の取引先の一員であるというたった一点だけであった。

 元をたどれば、親方もこの一族の身内だから、その取引先の社員というのであるならば、まずまちがいなかろうというのが、最低線ながら私の唯一の保険となった。晃と私は、双方の上げ下げで、ちょうどバランス良く釣り合ったのである。

 午後も三時近くになってやっと、私の社長夫妻宅に着いた。応接間に通され、お二人に挨拶とともにこれまでと同様の報告をした。

「あの親方のところの若い衆さんだから、もうそれだけで太鼓判だろう。なー。」

と、社長は満足そうに奥さんに同意を求めた。奥さんは、それだけでご主人の思うところを察したらしく、

「大工さんの若きエースと、建材屋の看板娘だもの、本当にお似合いのカップルよ。」

と満面の笑顔で目を細めながら言ってくれた。

 晃は、照れてしきりにモジモジしていたが、私と社長夫妻との関係は、晃と親方夫妻との関係と比べたら、はるかに日が浅く、他人行儀の、通り一遍のあいさつで終わった。

 晃の場合は、親方夫妻の時にも、伯母さん夫婦の時にも、心から祝福されながらも、こいつは本当に出来の悪い奴でと、必ず否定の修辞がついたあとに、「だからよろしくね」との外交辞令の言葉があった。私にはかえって、それがうらやましかった。

 社長夫妻と私との間には、いかに親代わりといえ、従業員の私を外に向けて卑下するだけの親近感はまだ醸成されていなかった。

社長夫妻に私のことが一言も否定されなかったというのが、晃の場合と比べて、少なからず淋しく感じられた。



   祝 言


 それからは、話がトントン拍子に進んだ。

 私にはまったくといっていいほど身内はいない。晃の方にしても、母親は一人っ子だし、身内と言えば父方の伯(叔)父さん、伯(叔)母さんだけのようなものである。

 子供のときから親しい友だちのいない私には、結婚式に呼びつ呼ばれつするような友人は一人もいない。晃とておおむね私と似たりよったりのところだろう。

 二人の勤めている会社にしても、おもて向きの商号はともかく規模的には、小企業だから関係者はごく限られる。

 だから、結婚式と言ったって、世間一般のように大金をかけて、仰々しい披露宴を行なうような必然性は全くなかった。結納もやらない。結婚式は、暦と晃の社長(親方)のなじみのおすし屋さんの都合で日取りを決めて、その二階を借り切ってささやかに行なうことにした。

 結婚式というよりも、「祝言(しゅうげん)」という古風な言葉の方がマッチしていたかも知れない。

 形だけ晃の社長ご夫妻に仲人になってもらい、ここに至るまでの経緯の報告とともにお祝いの言葉を戴くことになった。

 来賓は私の会社の社長夫妻だけで、社長にあいさつを兼ねた乾杯をお願いした。

 そして、近年まれにみるこの結婚式の意外性の極めつけは、親が健在(私には母親だけだけれど)であるにもかかわらず、双方の親が一人も出席しなかったということである。

 私の母親は、これまでの人生からして人前に出ることを好まず、ましてや新郎方の親族しか集まらない宴席には気が引けたようで、娘の晴れの席であるにもかかわらず、初めから出席は遠慮したいと言っていた。

 晃の母親は半ば病気という理由で、本人はいうに及ばず、周囲からも当初からカウントされていなかった。

 そして唯一の出席者は晃の父親ということになっていたのだけれど、この父親もやはりどこかネジがゆるんでいるようで、肝心な当日の朝、突如腹痛と発熱に襲われ、急遽欠席するハメになった。

(はた)から見たら、これ以上しまりのない結婚式はあり得ないことと映っただろう。

 これで当日の出席者は、本尊の私たち新郎新婦と、仲人役の晃の社長夫妻、来賓の私の社長夫妻、親族として晃の姉夫婦、晃の父方の親戚七軒と、晃の同僚である兄弟(きょうだい)弟子(でし)たちだけということになった。

 私の唯一の身内とも言える弟もやはり見知らぬ人たちの中へ入るのには気が引けたようで、母と同様欠席した。

 当日は大安。快晴。日だけは、申し分なかった。

 司会進行は、これまでも友人の結婚披露宴の司会を何度か務めたことがあるという、加茂川の従兄(にい)さんが請け負ってくれた。

形だけの仲人の挨拶は晃の社長(親方)がやって下さった。こちらもその方面にかけては超ベテランだから、質素な結婚式ながらその披露された中身は最高級だったろうと私は誇らしく思う。

 主賓の挨拶を兼ねた乾杯の発声は、私の社長が請けて下さった。小さいながらも経営者の度量と貫禄で、これも素晴らしいものに思えた。

 しかし、最も締まらなかったのは、両家を代表する親の挨拶で、本来なら晃の父親が当然のこととしてやるはずであった。

ところが、アクシデントから結局両家の親は一人も出席しなかったから急遽、晃の父親兄弟の末弟である叔父さんが担当してくれることになった。

 この叔父さんは、日本でも有数の企業に勤めていた人で、人前で話すことには場慣れしているから、突如大役を振られたにもかかわらず、そつなくかつ立派に勤めて下さった。

 私は改めて、この一族の結束に感心させられた。

 その日、お祝いに出席してくれた晃の親族は姉夫婦を除けば、義父の兄弟姉妹の年齢(とし)上の方は世代交代して従兄(いと)()たちで、下の方は実の叔父さん・叔母さんたち本人であり、家によっては夫婦二人で参列してくれていた。皆、晃の親代わりのようなものである。

 その人たち、特に叔母さん(実の血縁関係・義理の関係双方共)や従姉(いとこ)たち、主として女性の方々皆さんから、私は個別に声を掛けられた。そしてその言葉はいずれの場合もほとんどが同じだった。すべてが「晃をよろしくお願いね」という結語であった。

 要はそれだけ、一族の間で晃はお荷物だったということである。私は改めて、成り行きでとんでもない立場に置かれてしまったのではないかと、(いささ)かなからず不安に陥った。

 しかし、おしなべてほとんど初めてお目にかかる親戚の方々の視線と言葉は好意に満ちていた。私は、この日をもって晃の連れ合いとして、この一族に認知されたのだと思って、ホッとした。

 宴の「お開き」として、晃が型どおりとはいえ、一応主役の立場として、簡単に挨拶した。例によって、緊張からくるどもり調ではあったが、まずはそれなりに無事立派に済ませた。私は内心ではハラハラしていたけど、叔父さん・叔母さんたちも、晃がこれだけの挨拶ができるのかと、ホッとした様子が見てとれた。

 私は、規模は小さいながらも、密度の濃い立派な結婚式だったと思う。もっとも本音を言えば、私は友人や親戚とかの華やかな披露宴というものに呼ばれたことがないので、比較のしようがないのではあるけれども。



    異次元


 私と晃は「センチュリー21」という、いかにも明るい未来を約束してくれそうな新築アパートに居を構えた。

 たかだか3LDKの間取りでしかないけれど、近代的な作りのそれは、私にとって今まで夢にまでみてきたようなお城という感覚だった。

まさにテレビドラマの世界で展開されるような空間での新生活が始まった。


 ところで、私はそれまで家族とか親戚とかの縁戚に関する(じょう)というものには、ほとんど実感なく育ったから、晃の親族関係には面食らうことが多かった。

 しばらくしてから私にも、ようやく晃一族の位置づけが見えてきた。

 義父は八人兄弟(きょう)姉妹(だい)の下から三番目ということだけれど、この八人の中にもいろいろな人がいて、幹となっているのは三本プラスアルファということがわかった。

 その三本柱の第一は、義父の実家の伯父さんが兄弟(きょう)姉妹(だい)の長兄で、その存在感は随一のようである。そして晃とは従兄弟(いとこ)関係にあたるそこの長男(にい)さんは、大手の銀行員でやはり名士といえた。

 一族の間では、この家のことを通称「いへじょ」と呼ぶ。いへじょの伯父さんとか、いへじょの従兄(あん)ちゃんとか、従姉(ねえ)ちゃんとかいう。

 私はあるとき、そこの伯父さんに「いへじょ」とはどういう意味か尋ねたことがある。伯父さんも困った様子だったけれど、「いへじょ」とは、ご先祖様のお位牌が祭ってある「位牌所(いはいじょ)」というような意味合いで、その人が生まれた家=実家を意味するのだろうと言っていた。

 一族の最長老様がそういうのだから、たぶんそういうことなのだろう。

 そのうちに「いへじょ」というのは、この一族だけの言葉ではないことを知った。大方この近辺では、お嫁さんやお婿さんの実家のことをそのように言うのである。だから大なり小なり、それぞれの家庭においてそういう位置づけの家が存在するということらしい。

 次は義父の次兄で、この人も義父同様婿入りした人だということだけれど、先方の家が名門であることと、その伯父さん本人が人格者であることとが相乗して、その地域内でも一族間でも相当の存在感があるようだ。

 跡取り息子(晃の従兄(いとこ))は有名大学の教育学部を卒業後、高校の教員となり、周囲からはいろいろな意味で一目置かれている。

この家は通称「上村(うえのむら)」と呼ばれている。この呼称は行政上の住居表示とはまったく関係がない。

 そこは現在では開けた市街であり、村とのイメージはまったくないが、この地区は近代以前から小字として「上村(うえのむら)」「下村(しものむら)」と地理的に便宜上区分されて来たため、いまだに俗称としてそういい慣わされているのである。

 そしてもう一軒が、既に以前登場したことのある加茂川の伯母さん夫婦の家である。

 この伯母さんは次女ながら、嫁いだ先が旧家であること、連れ合いの重みと自分の器量とがマッチして独特の存在感を醸し出している。

 晃の従兄に当たる長男(にい)さんは市役所職員で、上村の従兄(にい)さんの一歳下ということだ。

 この三家は家系の古さも、資産家としてその有する財産も(はた)から見ればほぼ同じように見える。

 私のような者にはその内情を伺い知る(すべ)などないけれど、いずれも庭が広く、大きな母家の外に、土蔵や普通の家なら母家以上とも思えるような立派な物置などが建っている。

 そしてこの家々の姻戚関係は今に始まったものではなく、数代前から続いているらしい。だから、私が理解する普通の家の親戚関係とは、そもそもその根本が違うということを改めて知らされた。

 しかし、いくら名門の家系とはいえ、この三軒を除けばあとは私の嫁ぎ先も含め、世間一般の並前後といったところである。その中で唯一の例外が、義父の末弟(ばってい)にあたる叔父さんであった。

 八人兄弟の末っ子だから、いくら田舎の名門とはいえ、戦後の荒廃の余燼(よじん)がさめやらぬ頃には高校を出してもらうのがやっとのところだったのだろう。

 その叔父さんは高校卒業後、日本有数の造船会社に入社し、仕事をしながら自力で夜間の大学を卒業したという。その頃の日本の造船業というのは、そのまま世界の造船というのに等しいほどにすごい産業だったらしい。

 叔父さんはその不屈の闘志と勤勉さによって次第に頭角を顕わし、ついには一流大学出のエリートと肩を並べるまでに至り、最後は役員の一角を占めるまでになったというから、その才能と根性たるや非凡以外の何物でもないだろう。

 この叔父さんは会社勤めのおエライさんの常で、早期に現場を離れ、定年以前に関連会社に出向したという。

 それを機にそれ以上のことは望まずに田舎に戻って来たのだけれど、裸一貫からある程度の名声とともに一家をなしたものの、田舎での位置づけは世間一般のサラリーマンと何ら変わりがない。

 宅地だけは、本家から応分を分けてもらったということだけれど、実体はほぼ自力で今の所帯を築いたと聞いている。

 この叔父さんは、長い間仕事の関係で全国を飛んで回って、大方東京にいることが多かったから、通称として「東京の叔父さん」とか、「東京の兄ちゃん」とか呼ばれている。上の伯父さんや伯母さんたちは、弟のことを実名は呼ばずに単に「東京」と言うこともある。

 この叔父さんだけは、上の三人の伯父さん伯母さんたちとは全く異質の世界で半生を過ごし、世間の荒波にもまれた人生を送っているから、グローバルな意味で存在感がある。そして、この一族のご多分にもれず、この人も面倒見がいいのである。

 しかも、年齢(とし)が若い分だけ現役の遊撃隊として動くことが多い。上の伯父さん・伯母さんたちはそれぞれ、徐々に世代交代しているけれど、この叔父さん夫婦だけは、まだ最前線で活躍している。

 いへじょの伯父さん(義父の長兄)の長男は血縁的には、この人の甥っ子に当たるはずなのに、同年くらいということもあり、親族関係の問題では、最近ではこの二人が双輪で先頭に立って気を揉んでくれることが多いようだ。



    右顧左眄


 そして、「いへじょ」と「上村」と「加茂川」には、別の面での共通項があった。

この三家には昔から、年に二回親族が集まることになっている。それはお正月と、それぞれのその地域で催される年中行事のお祭である。

 お正月は、「年頭(ねんとう)」といって、年初めの儀式として親戚中が呼ばれることになっている。

 それは決して三が日に限らない。「小正月」といわれるかつての成人の日である十五日までに、お互いの家の了解の元に、それぞれの日を定めて、バッティングしないようにして行なわれるのだそうだ。

 この「成人の日」については、「いへじょ」の伯父さんと「上村」の伯父さんと「加茂川」の伯父さんが、そろって同じことを言っていた。

「小正月」としての意味のあった成人の日を、能天気な国会議員たちがハッピーマンデーとやらで動かしてしまい、訳の分からない休日としてしまった。

 祝日には、それぞれに制定された意味がある。ただの休日というだけでは何のありがたみもなく、文化の継承にもならないという。

 そもそもは、その昔「元服の義」とかいう子供から大人になるための儀式が、この小正月に行なわれていたために、その日が成人の日に定められたんだとか。

 それに、連休だからといって国民すべてが骨休みをできるわけでもない。サービス業に従事する人たちは、かえってその連休中に過重な労働を強いられることになる。極端な話、病院では、先生方は元より看護師さんやヘルパーさんたちにも、そのしわ寄せがかぶさり、その当番に当たった人はたいへんな重労働で、挙句にそのとばっちりを受けるのは最も立場の弱い患者さんたちということになる。

 日本の国会議員は、外交では「右顧左眄(うこさべん)」しながら、国内でのコップの中の嵐には大騒ぎするくせに、こんなつまらぬ休日の制定などとなると与野党がこぞって仲良しクラブになってしまい、定見と節操がまったくないと嘆いていた。


 ところでまた、伯父さんが何やらまたわけのわからないむつかしい言葉を言い出した…。ウコサベン?何なの?そのサプリメントみたい言葉。

思わず私は聞いてみた。

 そしたら何かにつけ、あっちの顔色、こっちの顔色を伺いながら、いつもびくびく、おどおどしながら行動するような自分の考えを持たない宙ぶらりんな人のことを言うんだって。

 私はふーんと思った。

 なーんだ、それならちょうど靖国神社じゃん。

 私には政治だの国会だのなんてむつかしいことはよくわからないけど、それなら少しわかる。晃のお祖父さんは戦死したんだって。仏壇に軍服姿の若いままのお祖父さんの遺影が飾ってあるので、そのことには強い印象がある。当然、晃は生のお祖父さんのことは知らない。

 お祖父さんが亡くなったのは、晃の母親が小学校二年生の時のことなんだって。このことは義母から直接聞いた。平生(ふだん)何かとボーっとしていることの多い義母がこの話になると、人が変わったようにシャンとするので不思議な気がした。

 わずか八歳あまりで父親を戦争で亡くしたのだからそのショックは非常なものだったのだろう。

 それでも八歳ともなればある程度のことはわきまえているはずだけれど、義母は半ば承知の上で、

「父ちゃんはいつ帰って来るの?」

と何度も聞いて母親(晃の祖母)を困らせたらしい。

 八歳の遺児のショックも察するにあまりあるけど、三十歳あまりでその戦争寡婦となってしまった晃のお祖母さんのその時の立場はどんなだったんだろう。

 ただ、打ちひしがれてばかりもいられない。幼子と年老いたお(しゅうとめ)さんを抱えて、これからは自分が大黒柱として、家を切り盛りしていかなければならない。その時すでに、義母の祖父は亡くなっていたというから、この家に男手はまったくなくなってしまった。

 とりあえずは、生きることが先決だ。涙だって流す暇さえ無かったかも知れない。

 義母の母親は気丈に言ったという。

「父ちゃんはとうとう生きて帰って来ることはできなくなってしまったけど、いつまでもお前の胸の中にちゃんと生きているんだよ。ほら、仏壇を見てごらんな、父ちゃんはこんな立派な姿で、いつも優しい顔をして、いつだって、おまえや母ちゃんのことを見守ってくれているよ。それに、父ちゃんはな、東京の靖国神社という大きな神社にも神様として、お祀りされているんだ。父ちゃんは、お国のために尽くした立派な人だから、日本中の人みんなが、日本の国を守ってくれてありがとうって言って、お参りしてくれるんだよ。

 天皇陛下様だってきっと来てくださる。お前の父ちゃんは本当に立派な人だったんだよ。淋しくなんかないさ。」

って、義母は母親に何度も何度もそう教えられたんだって。そして、義母はそのことを大人になってからも、当時の純真なままにずっと信じ続けて来たのだという。

「それが何ということ。近頃では、総理大臣までが靖国神社を粗末にして。靖国神社を粗末にするってことは、私にとって一番大事な父ちゃんを粗末にするってことだからね。日本中の私のような父ちゃんたちみんなをだよ。」

 義母は、今でもこの話になると少女のような澄んだ目をして涙を浮かべる。

「戦後だって、つい最近までは総理大臣を初めとして良識のある国会議員はみんな靖国神社に参拝してくれていたんだ。それは、日本人として当然のことだし、子供だった私たちにも当時のエライ人たちがかわしてくれた一番大事な約束なんだよ。それがいつからか、中国に怒られるから、韓国に怒られるからって、政治家は靖国神社にお参りすることがとても悪いことのように言いふらして、あっちの顔色、こっちの顔色を伺いながら、参拝しないことをいちいち弁解するようになってしまった。

 何も中国や韓国が口を出したっていいじゃないの。日本は良識ある国なんだから、毅然とご先祖様を大切にしますって言えば。そう言って、今までどおりお参りしてくれたら、私たちだって、父ちゃんたちだって、どんなに気が休まることか。今の日本は、何でこんなに情けない国になっちまったんだろうかね。どこの国の総理大臣なのさ。私の父ちゃんは、日本の国のために命を捧げたのに、これじゃ浮かばれないじゃないのよ。

 日本の政治家はみんなうそつきだし、いくじなしだ。政治家が子供だった私たちへの約束を破るってことは、その約束を言い続けた私の母ちゃんも、私にうそを言い続けたことになるんだよ。母ちゃんは絶対にうそつきなんかじゃない。小さな私を悲しませまいと、自分でもその約束をひたすら信じて、(さと)し続けてくれた母ちゃんがそれじゃ、あんまりかわいそうだ…。」


 私は、靖国神社って、行ったことも見たこともないけど、「右顧左眄」て言葉の説明には、義母から聞いたこの話が、何だかピッタリするような気がした。

 そんなことはともかく、私のような者にとっては、理由は何であれ、お休みが多いに越したことはないと、これまでのんきに考えてきたけれども、祝日にそんな深い意味があったなんて驚いた。

 ところで、この三家の祭は、それぞれの神社、氏神様に伝統があって、大きなお神輿(みこし)山車(だし)も出て大賑わいとなる。域内の小中学校は午前中早々に終業となるけど、最近では祭礼を休日に行なう地域も多くなった。この地域もその例外ではない。

 この点も、親戚の長老様方にはおもしろくないらしい。「小正月」の理屈と同じ理論構成である。伝統といわれがあってこその祭典なのだから、その日を外したなら単なる地域の運動会と何ら違わなくなってしまうという。

私たちのように外野で、そんなお祭のおこぼれにあずかって、意味もわからず何となくわいわい、にぎやかで楽しい雰囲気にひたっている者にとっては、それは平日よりも休日の方がはるかにありがたい。

 そもそも休日でもなけりゃ、日中にお神輿や山車だって見ることもできやしない。大方の人はたいていそう考えるだろう。

 しかし、この親戚の伯父さんたちは、それを伝統と文化の破壊だと嘆く。私のような者にはとうてい理解のできない理屈だけれども、それこそがこの親族に限らず日本全国各地の文化をはぐくみ、引き継いで来た伝統というものなのかも知れない。

 この親族におけるこの年二大行事には、以前は先代や先々代の親戚までも呼びつ呼ばれつしていたということだけれども、最近では簡略化して、特別の例外を除いて当代の親戚関係だけが呼ばれることになったという。

 私も結婚を機にこの一族の末端に連なることになった都合上、晃の連れ合いとしてその場にデビューすることと相なった。

息子が身を固めたことから、義父も世代交代させるために、親心として私たち夫婦を代参させることが多くなった。

 晃は当然のこととしてそのような場には慣れているから、それらの親戚に行ってもあたかも自分の家のように振舞っていたけど、私は少なからず緊張した。義父の兄弟姉妹間における位置や家格として、私たちの席は当然暗黙のうちに末端で、しかも代参だから、位置付けは東京の叔父さんよりも更に下になった。

 それでも私はこんな親戚に連なることに少なからず誇りを感じた。それぞれの伯父さんや伯母さん、従兄弟(にいさん)姉妹(ねえさん)からも、「よく来てくれたね。うまくやっているかい?晃をよろしく頼むよ。」と歓迎された。

 そして、私が今更ながらに驚いたのは、その場を(いとま)する時だった。

 さんざんごちそうになったあとに、どこの家でもタッパーなどに入れた別枠のご馳走を当たり前のように持たせてくれるのである。しかも、所帯を持ったいい大人であるはずの晃は、いまだ子供扱いで、お正月には当然のような雰囲気で、伯父さんや伯母さんからお年玉をもらうのだった。

 私にとって、お年玉というのは、子供のときに母親からもらっただけのかすかな思い出しかない。他人様から戴いたという記憶はまったくなかったから、これは正にカルチャーショックであった。



    新生活


 私はとりあえず、新たな生活に満足した。

 ごく普通の人たちにはとうてい理解しえないことだろうけれども、私は子供時代の貧困のトラウマから「貧しさ」とか「貧乏」とかいう言葉を病的に嫌った。

 だから、晃と歩み始めた新婚生活は、私にとっては過去との決別であり、新たな人生のスタートであるといえた。

私には、これといって親しい友だちはいなかったから、特に気にするほどのことでもなかったけれど、私の過去を知っている人と出会うことは極力避けるように気を配った。

 この結婚を天秤にかければ、一見不可解ながらも財力のある晃よりも無一物の私の方がはるかに優位に立っていた。

 晃にすれば、いわば高嶺の花がオレのような者のところに来てくれたという負い目があったし、家族や親戚にしても半ばあきらめかけていたやっかい者に並以上の嫁さんが来てくれたという安堵感が見てとれた。

 一方私にすれば、生真面目(きまじめ)という一事を除けば、何の取柄もないこの男に、これといって特に人間的魅力を感じている訳でもなかった。

けれど、かといって私のような者を世間一般の尺度でいう並以上の男性(ひと)が拾ってくれるはずもなく、ここが落としどころと割り切って、心と身体をこの場に納めた。晃にぶら下がってさえいれば、かつての貧しさを味わうことは絶対にないと自分に言い聞かせた。それは、これからの私の人生における保険といっても良かった。

 約束どおり、料理の苦手な私は、夕飯でさえスーパーで出来合いのものを買って来て、食卓に並べるだけで、朝食はその残りで済ますという手抜きぶりだったけれど、決して晃は不満を言うことはなかった。私もまだ会社勤めをしており、お弁当を作ってやれるだけの余裕も能力もなかったから、結婚後も晃は、相変わらず例のコンビニおにぎりを持って職場に出かけた。

 それでもきっと、あのつりの日のように、明るい笑顔で毎日何種類ものそれをほおばっていたに違いない。

 もっとも、社長(親方)の奥さんが出来た方で、従業員に対しても自分の子供に対するような気の配りようで、昼食には味噌汁と漬物は、いつも欠かさず用意してくれていたらしいから、「お袋の味」には代替満足が得られているようだった。

 新婚でありながらそのような生活状態なら、いくらかでも外聞が悪いとか、気恥ずかしいとか思うのが普通だろうと思えるのに、晃にはその方面の意識とか感覚が欠落しているのか、悪びれる様子はまったく見えなかった。

その分、その反動というのか夜の生活はハードだった。

 三十歳を過ぎて、晃にとっては私が初めての女だったらしく、荒々しかった。結婚するまでは坊や然として、手を握ることさえはばかるような男が、毎晩のように求めてきた。

 しかし若葉マークのそれは、猛スピードの無謀運転で、アクセルの踏み込みとともにすぐにガス欠してしまい、一般的に表現するなら淡白であった。終わってしまえば、それ自身と同じように、晃自身も本来の彼に戻ってしまい、()えてしまうのが妙で、こっけいに思えた。

 晃には、ある種の低脳(マイクロブレイン)な男たちのような傲慢さはなく、そのことによってこの女をオレが支配したというような素振りはみじんも見せなかったし、感じてもいないようだった。

 ことが終われば、いつものはにかみ屋に戻った。時に私は、そんな彼を腹の中では、思わずクスリと笑ってしまうほどに、いとおしく思えるのだった。

 私の方にしてみれば、別に晃が初めての男というわけではない。

 それなりの場数は踏んでいたから、自動車教習所の教官とか、ダンス教室の指導者(インストラクター)のようにさりげなくリードをしながら、彼の自尊心は傷つけないように努めた。

 この点において私は、自分でも不思議なほどに自制心が働いた。



    出納係


 晃は、生真面目な性分で決して無駄使いをするようなことはなかったけれど、「家庭の経理」を切り盛りできるような大人ではなかった。

 今まで、一度として自宅を離れて自活したことがなく、仮にも両親が健在で、世間一般の主婦にはとうてい及ばぬものの、母親が食事の支度と洗濯はとりあえずやってくれていたから、ずっと子供でいられたのである。

 三十歳過ぎまで

「母ちゃん、腹減った。」

と言えばいつもごはんが食べられ、

「母ちゃん、これ洗っといて。」

と衣類は放り出しておくだけで、毎日が何事もなく回転していた。

 勉強が嫌いで、そもそもノートに字を書くこと自体が苦手な彼は、小学校時代の夏休みの宿題の小遣い帳さえまとまらず、二学期が始まる直前になって、大あわてで適当かつ簡単な不正帳簿を書き上げて済ましていたのだろう。

 もっとも、これについては私もエラそうなことは言えない。たぶん大方の人が子供時代には同様な不正経理をやっていたに違いないと思っている。ただ、一般の人は大人になれば、生活するため、生きるために、記録には残さずとも最低限、腹の中、頭の中にはアバウトながらも家計の帳簿を作る能力が育ってくるはずである。

 ところが、晃には大人としてその最低限の能力さえ芽生えていなかった。たぶん、貯金もすればしっぱなし、使い道を知らないから、たまる一方だったのである。それがいつしか二千万という巨額になってしまったのだろう。浪費癖に比べればはるかに好ましい欠陥だけれど、私のようなものにすれば、何を楽しみに生きているのか不思議でならない。


 案の定、晃の方から言い出した。

「オレ、金勘定がうまくできないから、アッコ、大蔵大臣よろしく頼むよ。会社の経理担当だろ?やりくり、うまいよな。」

「何言ってんの。アキちゃん、大人でしょ。今までどんな生活してきたの?もう一家の大黒柱なんだからさ。しっかりしてよ。」

 私が尻を叩こうとしても、晃はそれに対して耳を貸そうという素振りさえ見せなかった。

「でもさ、オレめんどうくさいこと苦手だから、全部アッコに預けて、毎日小遣いをもらうことに、もう決めたんだ。」

 これでは、まったく子供時代と何ら変わりがない。そして、丸投げしてしまえば余分なことを考える煩わしさもなく、ただ自分の小遣いの世界で済むだけ、はるかに楽なのだろう。

 しかし、世の中を見渡せば、役所関係であろうと、民間企業であろうと、お金を握っているセクションがいちばん強いことは、決まっている。

「しょうがないわねー。じゃー、私がこの家の出納係やるね。」

「ウン、頼むよ。」

 晃はこの交渉によって、面倒な銭勘定から開放されたことにホッとした様子が見てとれた。

 この合意によってこれからも相変わらず子供でいられるのである。おかげで私は、何の策を弄するでもなく、夫婦間の主導権を握ることができた。今後私は自分の裁量によって、欲しいものは何でも手に入れることができるのだと思い、満足した。

 国家でも、家庭でも組織の如何にかかわらず、金を握った者が優位に立つというのは、古今東西決まりきったことである。

 世間一般で見るなら、自分の家の実態をすべて把握した上で、家計の九割以上を女房に任せながらも、残りの肝心な場合の判断だけは自分で下すというのが大黒柱の理想とでもいうのだろうが、この男にその能力は皆無であった。

 晃は結婚にあたって、最大の懸案だった肩の荷を降ろすと共に、自ら進んで私にとって子供のように操縦される立場に成り下がった。以後は、給料も毎月そっくり私に渡し、通帳も印鑑もすべて私に預けた。

大きなたとえ話でいうなら、ちょうど戦国時代のバカ殿様と同類である。下剋上のさなか、かつての名門大名も、この手で家臣や近隣のハイエナたちに、母家(おもや)をのっとられ没落したに違いない。

 私は歴史は苦手だけど、学生時代、日本史の先生が余談で話してくれたこの話だけは妙に印象に残っている。そもそも先生の話というのは、本筋よりもわき道の方がはるかにおもしろい。

 晃は昼食代も含め、毎日千円を持たせればそれで満足した。同世代で比較すれば並以上といえる晃の給料は、完全に私の裁量下に入った。しかも、以後監査されることは一切なかった。私とて少ないながらも会社から給料を戴いていたから、二人分を合わせればかなりの収入になった。

 新居で新たな生活を始めるに当たり、家具調度を整えるためにはそれなりの出費はあったけれども、二馬力で稼ぐのだから、その程度はすぐに挽回した。預金もおもしろいように増えた。私は、にわかにお金持ちになったような錯覚に陥った。それは生まれて初めての快感であった。

 私は、その時から晃には黙って、母に毎月五万~十万程度を渡した。母には

「これは、アキちゃんがお母さんにって。」

と言っておいた。母はそれを純粋に信じていた。

 晃からは事後承諾も得なかった。夫婦間でのことでなかったならば、これは完全な横領に違いない。

 母は会うたびに、晃に

「本当にすまないねー。」

と言っていたが、晃は娘が世話になっているからという意味における外交辞令と解して、何の疑問も抱かず、しきりに照れていた。

 もっとも、母と晃が顔を合わせるのは年にほんの数回程度だから、二人が込み入った話をする恐れはまったくといって良いほどなかった。

 更にいえば、私の母が晃の両親に会ったのも、結婚直後に会食をしたのが唯一、最初で最後だった。私は故意に親同士の再会を避けていたのではないけれども、それを別段不思議とは感じていないようだった。

 私の母は世間一般の人づきあいが苦手な方だし、晃の両親とて、世間の常識からはかけ離れた変わり者といえる。かえって煩わしくなくて良いとでも思っているように見えた。

 私は、晃にさえ母に会わせることを極力避けるようにした。


(第三章へ続く)



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ