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毎日1ユーロ分のカフェと旅

作者: tempp
掲載日:2026/09/17

「ボンジュール、ムッシュー。どうか私にカフェを一杯、奢って頂けませんか」

 たどたどしい声を不審に思って顔を上げれば、目の前には奇妙な格好のアジア人が佇んでいた。誰?

 ハンチングに野暮ったいポンチョ、刺繍入りのシャツにジーンズ、草臥れたスニーカー、それから山に登るんだろうかというような大きなリュック。全てにちぐはぐで迷子みたいだ。男か女かも、年齢もよくわからない。若そうな気はするけれど、アジア人はなぁ……。

 そんな風に見つめてれば目がふよふよと泳ぎだし、プルっと首を振ってまた俺に向き直り、ペコリと頭を下げた。

「ここで路銀がつきました。パリのカフェに憧れていましたので是非。代わりに私の話でもお慰みになりましたら!」

 路銀? お慰み? 古い映画みたいな妙な言い回しをする。

 ああ、ひょっとして自分探しの旅というやつか。アジアの人間は何かを探して旅に出ると前にテレビで言っていた。自分なんかここにあるのに外で何を探すんだろうと思ったものだ。そういえば俺はこのパリが好きだから、あんまり外に旅行に行くこともないな。

「あの、ムッシュー?」

「あ、ああ。カフェ?」

 おごるって言ったってなぁ。けどわざわざこのパリまで来たっていうなら、1杯くらいいいじゃないか。たった2ユーロだ。ここは俺のお気に入りのカフェで、もう20年ばかりこの時間は毎日この路面の席に座っている。夏になったら汗を拭き、冬になったらコートの襟を立てながら。それが俺の生活で、それがゆとりで、まあ人生だ。


 馴染みの店員におかわりのサインを送ってアジア人に座るように促せば、その前に俺と同じデミタスカップが運ばれる。そいつはわかりやすく目をキラキラ輝かせ、メルシー(ありがとう)と唱えて一口飲んで顔をしかめて舌を出した。

「結構苦いんですね」

「甘いのがいいなら砂糖を入れればいい」

 それで過剰なほど投げ込まれる砂糖に少々辟易する。あの苦いのが食後の口直しにいいのに。けれど俺に捕まったのが運のつきだ。フランス人はたいていお喋り好きだ。たった2ユーロで暇つぶしができるなら、願ったり。

 それに……最近、少々疲れていた。仕事が忙しすぎて仲のいい友達と飲む時間もなくて、このカフェで当てどなくぼんやりするくらいしか気分転換できる時間がなかったから。

「それで話って? 君はどこからきたの?」

 そう尋ねると、なんだか興味まで出てきてしまった。目の前で待ってましたとばかりニコリと微笑んだものだから。

「日本から来ました。3か月くらい前かな、唐突にドバイに行ってみたくて」

「ドバイ」

「そう、ブルジュハリファ! テレビで見て、行きたくなったんです!」

「へぇ」

 ブルジュハリファって砂漠の真ん中にある世界で一番高いビルなんだっけな。テレビでみたことがある。けど行こうと思ったことは……正直ない。だって高いだけだろう? なんとなく外からの映像が思い浮かんだけれど、そういえばあの中ってどうなってるんだ? オフィスとかがあるのかな。


 気が付けばそう声に出ていたらしい。

「展望台があるんです。結構チケットが高いんだけど154階の展望台はオープンデッキになっていて、すっごい遠くまで見えるんです。海の向こうなんてふわっと霞んでいて」

 アジア人はポンチョの内側からスマホを取り出す。そこに映るビューはなんだか確かに、とても広かった。海って地面に張り付いてるんだ、そう思えた。けどやっぱり、あんまり価値があるとは思えなかった。

「飛行機から見た景色みたいだ」

「まぁ、確かにそうですね。けど直に目で見えます。これとか」

 その写真に肝が冷える。真下を映した写真はまるで落っこちそうだ。これは……むしろ直に見たくない。高い建物かぁ。パリにはあんまりないな。モンパルナスタワーが一番高いのか。あれも確か59階だけれど、なんだか画角が違うと感じる。一度前の彼女と行ったことがあるけれど、飛行機に乗ってるみたいな感覚にはなれなかった。

「でも予約していかなかったせいで結構並んだんですよね」

「へぇ。入場料も高そうだ」

「入場料はえっと3万円くらいだから……160ユーロくらいかな。まあレートによるけど」

 日本人はスマホを計算機に切り替えた。

 ただ見るだけなのに、結構するなぁ。

「興味ありますか、ドバイ」

「いや、俺はいいかな。他にはどこに行ったの」

「ええと、そのあとはお隣のカタールに行って、ドーハでザ・パールっていうところに行きました。人工で作られた島で、湾をビルが丸くかこっているんです」

「へぇ」

 そのザ・パールというところは面白いようには思えなかった。観光HPの航空写真を見て、漸く納得する。これだとHPを見てるのとあんまり変わらなくてつまらない。

「ご飯も美味しかったんですよ、中東料理とかポルトガル料理とか」

 そこで見せられたどこか茶色い料理は、あんまり興味をそそられなかった。やっぱフレンチが一番だ。パリでもケバブ屋とか多いけれど、食べなれたものが一番だと思う。

 そこからトルコに飛行機で渡り、俺でも知ってるカッパドキアを観光した写真なんかを眺めながら東欧の古城を訪れたりして、次第にフランスに近づいてきて、だんだん見慣れた景色になってきてホッとすると同時に、なんだかイマイチつまらなくなってきた。ノイシュバンシュタイン城なんかだと半日弱くらいはかかるけど鉄道で行ける。


「ごちそうさまでした」

 気が付けば30分ほどは話し込んでいて、目の前のアジア人のカップは既に空になっていた。2ユーロで随分時間を潰せたものだ。

「それにしてもよくこれだけ休暇がとれるね。バカンス?」

「いえ、仕事をやめて飛び出したんです」

「は?」

 日本人は相変わらずにこにこしている。アジア人は何を考えているかよくわからない。だから少し警戒した。バカンスじゃなく、仕事を辞めて? 突然? キャリアは? それともこれが、自分探しというやつ?

「無計画すぎる」

「あはは、そうなんですよね。実はお金ももうなくなってしまって。日本を出るときは結構持ってたんですけど」

 聞けばそれなりの金額だ。確かにこの日程を考えればそれくらいはかかるだろう。それで確かにこの日本人がカフェを奢ってくれといっていたのを思い出し愕然とした。

 何、じゃあこいつは一文無しなのか? その金があれば、なんでもできただろう? 将来のために資産を形成するとか投資をすべきじゃないか。俺にとってはこの旅程は無駄にしか思えない。確かに見たこともない景色を見たけれど、そんなもの今はVRがある。自分で行くほど、だろうか。

「そんなにお金を使って旅をして、何か得られたの?」

「何も」

「何も?」

「ええ。こんなにお金がかかるとは思いませんでした」

 酷くあっけらかんとしたその言葉に、あきれ果てる。

「私も最初は途方にくれたんです。今あるお金全部つかっちゃったらどうしようかなぁって」

「その結果の一文無しなんじゃないの」

 日本人は肩をすくめた。

「そうなんですよ。でもお金って結局、なくなっちゃうじゃないですか。何かに変わっていくもので、お金自体には意味がない、きっと」

「意味?」

「そう。私はお金を使って自分がしたいことをすることにしました」


 その言葉に、俺はいささか衝撃を受けた。

 俺は毎日働いて、金は通帳のなかにたまっている。けれど、したいこと?

 改めて考えると、よくわからない。俺の生活は毎日カフェに通って、夜には美味いワインを傾ける。けれどそれ以上に上等なことがあるだろうか。

 今の生活で稼ぐ金で十分賄えている。それを超える、したいことなど……特にないな。そう思うと目の前の日本人は何か自分より幸福そうにみえて少し癪になってきた。

「ムッシューには欲しい価値はありませんか?」

「……特にはないな。旅がしたいとは思わないが、そういう考え方もあるだろうとは思う。けれどそれはやっぱり、金があるからこそだろう」

 そう答えると、日本人はゴクリと喉を鳴らし、少しためらいがちに目を泳がせた。

「では……私とサブスクして頂けませんか?」

「なに? サブスク?」

「ええ。御存じの通り私は今お金がありません。泊るところは……そろそろ凍死しそうですが、一晩くらいはなんとかなります」

「安いホステルでもあるだろ」

 そのくらいの費用なら出してやってもいい。その程度には面白かったから。そう思えば日本人は胸の前で腕を組んだ。

「月に1回ほどカンパを頂ければ、これから回った場所を写真付きでメールします。配信もしていますから、様子をご覧いただけます」

「えぇ……?」

「次はスペインからアフリカにわたる予定です」

「アフリカ……? 興味ないな。スペインも行こうと思えばいけるし……」

 でも断れば、こいつは野垂れ死ぬのか? さすがにそれは寝覚めが悪いが、こいつのスポンサーになれるほどの金はない。金がなければはじまらん。そもそもしたいことなどできないのだ。つまり俺のささやかな日常を維持することも。

「ムッシューにはカフェを奢っていただけました。毎日1杯程度の金額を月に1度ほど頂ければ、旅を続けられます」

「そんな馬鹿なわけがあるか」

 そんな金額じゃせいぜい安いホステル1週間分にもならんだろう。

「他に支援して頂いている方がいらっしゃるので……あと3日したら他の方からサブスク頂けるはずなんですが……」

 日本人の目は相変わらず泳いでいる。1日2ユーロ、月に60ユーロ。安いホステルは10ユーロくらいからあるな……。

 確かにこの会話には2ユーロの価値はあった、とは思う。それにそのくらいなら、さして負担にはならない。2ユーロ、か。

「月30ユーロならいいよ。それで3日もつだろ」

「ありがとうございます!」

「けどあきたら辞めるから」

「もちろんです!」

 そんなわけで財布から30ユーロだして日本人に渡す代わりにDiscordの招待URLをもらった。確かに過去ログを見ると、旅行記が写真や動画付きでUPされていた。実際に行くよりはよほど安いし、観光料金付きでリクエストすれば期待に沿ってくれる、ようだ。

 それで、その日本人は今、スペインのタリファからモロッコに渡るフェリーの中にいて、俺はいつものカフェでぼんやりその実況を見ている。


了

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