第三話 魯達、まだ名なき暴
その男はまだ、魯智深ではなかった。
ただの魯達である。
軍に属し、力だけで道を切り開いてきた男。
「渭州経略府の提轄」、現在の軍隊における中隊長や小隊長、あるいは地域の治安維持を担当する下級武官にあたる役職についていた。
理屈よりも拳が先に動く、そういう種類の人間だった。
ある町で、ひとつの事件が起きる。
一人の娘が泣いていた。
名を金翠蓮という。
事情は単純だった。
肉屋の富豪・鄭屠に目をつけられ、
父は騙されて借金に追われる状態となり、娘は権力者に売られようとしていた。
魯達は話を聞き終えると
「二人を逃がしてやってくれ」
「今日は手持ちがない。今度返すから貸してくれ」
と友人の史進と李忠に頼んで金を出させ、親子を逃がす。
宿の使用人が鄭屠の命令を受けていて、親子が出発するのを邪魔しようとしたが宿屋の者は、言葉を発する前に魯達の鉄拳により地面に沈んだ。
そして、肉屋へ入る。
空気が変わる。
魯達は店先で言った。
「赤身を三斤切ってくれ。脂身は一切混ぜるな」
鄭屠は一瞬、意味がわからなかった。
「……は?」
だが商売人として従う。
包丁が動く。
肉が積まれる。
魯達はそれを見て、また言う。
「次は脂身を三斤だ。赤身は一切混ぜるな」
鄭屠は笑いかける。
「客人、何のつもりで……」
それでも手は動く。
そして三度目。
「次は軟骨を三斤だ。今度も赤身、脂身を一切混ぜるな」
空気が止まる。
鄭屠の顔から、笑みが消えた。
「……馬鹿にしているのか?」
その瞬間、包丁が抜かれる。
魯達は、静かに言った。
「やっと気づいたか」
次の瞬間、間合いが消える。
包丁が振られるより速く、拳が入った。
一撃。
二撃。
三撃。
鼻が潰れ、視界が崩れ、声が途切れる。
抵抗は成立しなかった。
やがて、肉屋・鄭屠は沈黙する。
鄭屠は動かない。
魯達は一度だけ見下ろし、短く言う。
「終わりだ」
その夜、町はざわつく。
肉屋殺し。
軍人の暴走。
制御不能の男。
逮捕状が出るのは早かった。
だが捕まえる者はいなかった。
魯達はすでに、その場にいない。
拳で秩序を壊した男は、
静かに“逃亡者”へと変わっていた。
そしてこの一件が、後にこう呼ばれる男へと続いていく。
花和尚・魯智深。
だがその前にあったのはただひとつ。
理不尽を見た瞬間、迷わず殴る男――魯達である。




